全部自分のせい・自分が悪いと思ってしまう人

 本当は自分は悪くないのに、何かあると全部自分が悪いと思えて仕方がない人。対象は問わず、「悪いこと」は全部自分が原因だ、とするケースが多い。

全部自分が悪いと思う人

 ヤフー知恵袋での相談ではこのようなものがある。

誰かが怒っていたり、機嫌が悪いと、自分のせいなんじゃないかと怖かったり、不安になります。 こう思ってしまうのが昔から強いです。 真相は分かりませんが、とてもその人に気を使ってしまい、または恐る恐るになってしまいます。

https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q14157682579

この「不機嫌な人間に異様に気を使ってしまう」というのは、アダルトチルドレンに多い。
端的に「八つ当たりを危惧している人」の行動としてみれば辻褄が合うだろう。
また、「他人に気を使わせるために不機嫌を表現するという方法を使う者」も結構な数いる。八つ当たりする者もね。



自分の未熟さ故起きてしまった事が何度も何度もあるから・・・・ もう自分が信じられません。 こうやって知恵袋に逃げていて甘えて、本当に自分未熟です。甘えてちゃダメなんだという事はわかっています。この事も本当は自分で考えなきゃいけないのもわかっています。

https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1052030720

「未熟」そして「甘え」というキーワードが目立つ。これは責任感が強い人や、完璧主義者に多い。
この相談者は問題を、「自分でなんとかしなくてはならないこと」だと認識している。恐らくはここで言う「自分」は、「自分ひとりで」ということだろう。つまり自力に拘っている。


 以下2つは同じ相談者。

姉が私にWi-Fi良いよね、と話を振ってきたので私も良いと思うと父に簡潔にルーターの説明をしましたが、父は機械は分からんと言って気乗りしていない様子でした。

そこで私は、 交渉がうまくいかなくなった→自分がもっと良い説明が出来ていれば姉の願いが叶ったのに。姉の交渉がうまくいかなかったのは全部自分のせいだ、と思いました。(注・姉を喜ばせなくてはいけないという脅迫概念はない)

https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q13174880093

これも「自力に拘っている」ように見える。「自分に能力があったなら、この案件はうまく行ったはずだ」と。

ご丁寧に注意書きがあるが、その通り姉への接待ではないとした場合。これは全く想像だが、話を振られた時点で、「頼りにされた」と感じたのではないだろうか。あるいは期待されていると。そしてそれに応えられなかった。
喜ばせようではなくて、「失望されたかもしれない」という恥の感情や見捨てられ不安に近いかもしれない。

(私を含む)近所で共有して使っているゴミ箱をカラスが荒らしていました。(近場の他のごみ箱も荒らされていた)それ以降?カラスが多くなってゴミ箱を狙っているように見えます。

そこで私は、 「そういえば、チューブ型の(容器を洗えない)ゼリーの入れ物を多めに捨てた、お菓子の袋を捨てたが、もしかしたらお菓子がまだ残っていたのではないか
→その匂いにつられてカラスが集まったのではないか
→きっと自分のせいだ、近所の皆さんごめんなさい…
→カラスが更に増えたりしたらきっかけを作った自分のせいだ…と罪悪感にかられずっと頭から離れない

https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q13174880093

その後ゴミを捨てる時には対策をするようになったそうな。
これ、客観的に、他人事として描写すると、「自分の改善点に気づいて改善した」ってだけで話が終わっている。

ゴミ捨て場にカラスがたかっていた、自分が原因だったかもしれない、結果としてより丁寧にゴミを捨てるようになった、結構なことだ。要するに、客観的に見て問題が発生していない。

 問題は内面、自責の念だけだ。 ここで一つおかしな所がある。事実はゴミ捨て場にカラスがたかっていたということなのは異論の余地はないだろう。いつの間に「自分のせい」になったのか。

自分が悪いというのは「推論」だったはずだ。それがいつの間にか「近所の皆さんごめんなさい」と確定事項になっている。おかしいのはこの点だ。

仮にこれが、自分のせい「かもしれないから」、次からはごみ捨てをもっと丁寧にやろう、だったとしたら。全く何も不自然な点はない。というか、自分のせいだと思ったあとで、こう思い直すだけでいいのではないだろうか。

と、思うのだが、そんなこと当人もわかっているようで。自分のせいだと思う反面、流石に大げさすぎると自分でもおかしいと思っていたりはしている。


 全体として内容が、アダルトチルドレンと完璧主義が浮かんでくる。
また共通して、昔から自分のせいだと思う傾向はあったとしている(二人目は不明)。

また、「お前のせいだよ」と言う者が話に出てこない。問題が起こり、自分で自分のせいだと思い、それが続く。

何が原因なのかを決める心理的メカニズム


自分が悪い、自分のせい、というのは、より中立的には「自分が原因」と言い換えることができる。

物事の結末に対して、何が「原因」だったのかを後から推察する心理的メカニズムとして、心理学者フリッツ・ハイダー提唱の帰属理論がある。

大まかに内的帰属(自分が原因)と外的帰属(自分以外が原因)にわかれる。今回で言えば、「都合の悪いことを全て内的帰属する」状態。

すべての物事が内的・外的にきれいに分かれるわけではないのだが、ハイダーによれば、人はこの2つに無理矢理に分類する傾向がある。

日本人の自己責任論について

まずこれを言っておきたいが、どうも日本人は事が起こると「当人が悪い」と思う傾向が、海外より多いようだ。

新型コロナウイルスにかかった人を見て、「自業自得」と思う確率は、日本は海外の10倍近い11.5%となっている。
参照:https://www.yomiuri.co.jp/national/20200629-OYT1T50107/

責任感があるとも言えるが、裏を返せば「事が起きるといちいち責任問題にする」というウザい傾向があるとも言える。

反対に、新型コロナに感染したことを自業自得だと「全く思わない」と考える率も、他の国が60-70%のところを、日本は29.25%。
「許容するのがヘタ」とも取れる。許す気がないとも取れる。

「責任感」と言えば聞こえは良いが、殆どの場合その実態は「心の狭さ」だ。許容できない、心の狭さ。だから「責任」として、その「置き場所」を求める。

他人にそれを持たせようとするのも多いが、今回のように自分で抱えようとすることもある。だがどの道、許容できていないから、「責任」という重りが生まれていることには違いはない。彼ら自身が些細なことだと自覚しているのに、自分を許すつもりが毛ほどもないことから見ても。

三浦教授は「日本ではコロナに限らず、本来なら『被害者』のはずの人が過剰に責められる傾向が強い。通り魔被害に遭った女性が、『深夜に出歩くほうが悪い』などと責められることもある。こうした意識が、感染は本人の責任とみなす考えにつながっている可能性がある」としている。

https://www.yomiuri.co.jp/national/20200629-OYT1T50107/

こういった心理が他人に向けば自己責任論、自分に向けば、今回のように「自分が悪い」となる余地はある。

吊り橋効果

吊り橋効果は知ってる人も多いと思うが、吊り橋を渡る緊張と異性を見た緊張を混同し、自分が相手に好意を抱いていると勘違いする現象だ。

このような現象を心理学者ベムは、自分の心理的状態が、自分の行動などを手がかりに帰属されることが多いとした。これを「情動の錯誤帰属」と呼ぶ。

今回に当てはめれば、

  1. 何か起こる→
  2. 不安になる→
  3. 自分のやったことなどと不安感を結びつける→
  4. 「心当たり」が出来上がる→
  5. =自分のせいだ

このようなことはあり得るということ。事実として、吊り橋効果や遊園地でデートすると好感度上がりやすいと証明されているわけで。


これにもう一つ原理を加えると、「何かあった時に、すぐに自分が悪いと思いこむ」という状態は成立する。

帰属繋がりで、ハロルド・ケリーは「割引原理」を提唱している。
これは「もっともらしい理由があると、他の原因の責任度合いは割り引かれる」というものだ。

今回で言えば、「自分に心当たりがある」ことにより「他の原因の要素が過小評価される」=「自分のせいだと思いこむ」状態の説明になる。

交流分析のドライバー

文面から想像できる彼らの信念は、

  • 悪い結果になったのは自分が弱い/無能だからだ
  • 弱い/無能な自分が嫌い
  • 自分は強く/有能でなくてはならない

このあたりは感じる。

これは割とある信念で、交流分析という心理学の「拮抗禁止令」に当てはまる。親などから与えられた役割に対しての、ではそうしようとする「決断」とされる。全部で5つ。

  1. 完全であれ
  2. 他人を喜ばせろ
  3. 努力せよ
  4. 強く有れ
  5. 急げ

なお番号は便宜上こちらで振った。

ドライバー(駆り立てるもの)とも呼ばれる。何らかの悪い結果になったというのは、これらドライバーを「果たせなかった」とも取れる。=自分が悪い。

かなり色濃く出ているようにもみえる。2は一見するとなさそうだが、「他人を喜ばせろ」が「人に迷惑を掛けるな」という形で出ていると解釈するなら結構該当している。

一人目の不機嫌な人間が気になるというのは2に該当する。
二人目の未熟、自力という焦点は1,3,4に該当すると言える。
三人目は2はないと自らしているが、ゴミの例から考えるに「人に迷惑をかけてはならない」という形での他者貢献への強い意識は考えられるか。それを抜いても1,4は考えられる。

他の相談なんかを見ていると、人間関係での些細な不和に対して「自分のせいだ」と特に思いやすい傾向はあるように思える。2が強ければ、これに対して敏感にはなる。

アダルトチルドレン的な思考

 アダルトチルドレンは「自分が悪い」という罪悪感を持ちやすい。

根底に親は子を愛するというイメージが有ったとする。しかし自分の親は自分を愛してくれない。この時点で矛盾があり、その「理由」を探す。

この考察のよくある結論として「自分が悪いから愛されない」という形になる。そうか、じゃあ「いい子」でいよう、となる。なので完璧主義にもなりやすい。

更に他者評価を過剰に気にする点がある。これは「問題」だと捉える物事が多いことにもなるだろう。当然「自分が悪い」と罪悪感を感じる場面も多くなる。

後は恋愛関係に顕著だとされているが、相手が離れていかないことを確認するために「自分を悪く語る」傾向もあるとされる。これは試し行動と呼ばれ、愛着障害と関連付けられて語られることが多い。

他にもスプリッティング(白黒思考/二極化思考)も多いとされる。つまり、良いか悪いかを決めるつもりで物事を見やすい。


 まぁ日本でのアダルトチルドレンの第一人者が「アダルトチルドレンじゃない人なんていません」みたいなことを言ってるので、該当しててもそれほど深刻に考えなくていいだろう。

ただ、罪悪感が思い浮かぶ思考パターンやその動機としては参考になる。

関連:
_アダルトチルドレンの6つのタイプ
_完璧主義について
_愛着理論と愛着障害について

自他境界

 自他境界は自分と他人の境界のこと。ここが怪しいというのは自分と他人の区別をつけていない/つけられないということ。
自分の領域を他者にまで広げるタイプ(支配的、馴れ馴れしい)と、他者の領域を自分にまで広げるタイプがある。

後者は他人の考えをそのまま受け入れてしまったり、嫌だと言って断ることができないなどになる。
中でも「他人の問題や責任と自分のそれとの区別がつかない」、という特徴は、今回と類似する。

利用されたり、傷つけられたりしやすく、そういった経験から他人が怖い、ともなりやすい。


関連:
_自他境界

インターナルと「自分のせい」

 物事の統制の所在、簡単に言えば原因や責任がどこにあると捉えるかには個人差がある。
統制の所在をローカスオブコントロールと呼ぶが、これはインターナル(内的・自分に帰属させる)とエクスターナル(外的・自分以外に帰属させる)の2つの傾向に分かれる。

例えば何かが上手くできた時、練習したからだと思うなら内的、偶然とか何かのおかげとか思うなら外的。

これはそのまま「誰のせいにするか」に出る。今回の「自分のせい」はインターナルだと思われる。

  • 結果を「実力」と捉える傾向がある
  • 頭が固い
  • 基本的に自力でなんとかしようとする
  • 不幸な出来事なども自分のせいとする傾向がある

平たく言えば、自己責任論の視点で自分を評価する人。だから何か好ましくない結果や出来事に対しては、自分を責める。

インターナルは自信を育てやすい、やり遂げる力が高いなどメリットも多く、ローカスオブコントロールの中で言うならむしろ好ましいとされる。しかしこのようなデメリットの面も存在する。
エクスターナルの視点を育てることも課題となるだろう。

状況によってはエクスターナルに考えるほうが、自分のためになります。

たとえば、リサイクルするゴミを出したのに、ゴミの収集が行われないとき、それは自分のせいではありません。

このとき、インターナルすぎると、自分を責めてしまいます。

https://minimalist-fudeko.com/can-you-change-your-perception-in-four-minutes/

特に「考えればわかったはずだ」「もっと慎重になれたはずだ」みたいな考えは際限がなく、しかも万能に当てはまるのでたちが悪い。

>>やり遂げる力と自信にまつわる心理:ローカスオブコントロール

フロイトの超自我

フロイトは精神構造を本能的なもの、自我、そして「規律的なもの」=超自我の3つに分けた。

超自我は洗練されることで理性的になるが、基本的には○○するべき、○○するべからず、と規律・道徳に基づいた権威的な支配的態度を取る。

この規律・道徳の大本の素体は親の躾とかから。後に外界から取り組み強化、あるいは洗練される。
義務的に何かを「させる」側面。

そしてそれが叶わない場合、自らに対して懲罰的な態度を取る。つまり「自分を責める」。罰なので、自ら破滅的な行動に走ることも有る。

極端な例を挙げれば、万引をしてわざと捕まるなど。こうして「罰せられるべき自分」という「願い」を叶える。

つまり症候性窃盗者は容易に捕まる。捕まって屈辱的な立場に身を置くことは自らの無意識的欲望の一部でもあるからである。

https://ameblo.jp/satorusaito/entry-12039957721.html

懲罰的な側面=懲罰的超自我は、自分を責めるという今回の面と一致する。

超自我は内容的には理性に似ているが、無意識に属する。

ここから考えると「自分を許さない自分」は「想像上の世間様」であるため、自分の認知や感情の問題だとはとても思えなくなるだろう。

認知の歪みで見てみると

 現実を不正確に見せ、ネガティブな思考や感情を強化し、精神病的症状を永続化させるかもしれないとされる「認知の歪み」たる概念がある。それにこの状態を当てはめてみると……

「自分が」

 「自分が」という言葉は個人化。

個人化は自分がコントロールできない結果が起こった際、「これは自分の責任だ」と思い込むこと。

ポイントは思い通りにならなかったら自分の責任だとする点。つまり結果が出る前には何らかの「期待」あるいは「義務感」があった可能性がある。

単純にみんなと仲良くしなきゃならないと思ってたとか、しっかりやらなきゃならないと思ってたとか。あるいはそうなると予測していたのに結果は違ったとか。

これらが自分には出来るはずだ、出来なくてはならない、という考えが元からなかったか。


「悪い」

 「悪い」という言葉は、スプリッティングとマイナス化思考に当たる。

スプリッティングは白黒思考、100点か0点か、ゼロイチ思考、色々な呼ばれ方をしている。身近な考え方だろう。

2つに分けるということ。二極化。中間は存在しない。この思考・価値観は完璧主義者に多い。そして「良いか悪いか」という概念そのものが二極化しているものだ。
物事には多面的な要素がある。スプリッティングはそれを認められない、「統合することの失敗(=一面でしか見れない)」とも呼ばれる。

マイナス化思考は、マイナスな結果・状況が「当然」とする。プラスのものだけを、偶然や間違いだとして取るに足らない物とする思考。


その他にも

 そして十分な検証をせずに自分が悪いとするのなら「結論の飛躍」であるかもしれないし、本来大したことがないことを問題視している場合には「拡大解釈」に当たる。

悪いところにしか目が行かず、自分が悪いと思う材料しか見えないのなら「心のフィルター」。

自分が悪いと思っているその出来事に何か後味の悪さを感じていて、その理由として自分が悪いとしたのならば「感情の理由付け」だ。

いつだって自分が悪いとするのなら、自分に「レッテル貼り」をしているかもしれない。

自分はいつもこうなんだ、と考えるなら「過度の一般化」。

だから自分はこうしなきゃいけない、とまで考えが続くのならそれは「すべき思考」。これも完璧主義者に多い。

べき論、コアビリーフなどとも呼ばれるが、これらは簡単に強迫的な義務を頭の中に作る。絶対に、いつでも、自分はこうしなくてはならないと脅し続け、自分を見張り続ける。


 少々強引ではあるが、「自分が悪い」という短いフレーズに3つ、可能性として追加すれば7つの認知の歪みが含まれている。

重要なのは、提唱されている認知の歪みって10個しかないことだ。全部入ったぞ。


「良い」「悪い」という言葉

 根本的な話、「良い」とか「悪い」って言葉が相当に大雑把である。主語ではなく述語がでかい。

言葉が指し示す範囲が広すぎる。簡単に言えば大げさ。「悪い」という言葉の意味自体は何らかに付随するものだ。この場合は「自分」になってしまうが、ここからもうおかしい。

「自分」が「悪い」。存在を全否定している。

今回で言えば「自分が悪い」という思考が毒であるのももちろんそうだが、「言葉」が毒な部分もあるだろう。

外言(自分が口にする言葉)も内言(心の中で思う言葉)も、無意識は「聴いている」。自分で自分の言葉を「再解釈」する時がある。時には「言葉通り」に。そしてその通りの「歪んだ現実」をあなたに見せるだろう。

例えば「ムカつく」という言葉でしか怒り・不快を表現ができないから、一部の子供は些細なことでもキレやすいという指摘がある。言葉の表現の最低値がそれだから、行動表現の最低値もそれになる。

「自分が悪い」という言葉の分析

 「自分が悪い」という言葉。「悪い」と思うのは結構だとしても、「何が」悪いのかが含まれていない。

認知の歪みが過剰に働いている状態だと仮定すると、「自分が」という言葉に該当するのだという意見は許容できない。

自分の存在全否定するようなこと言ってる割には、具体性が一切含まれていない。「何が」悪いのかが。逆に具体性を含まないから拡大して「自分が悪い」にまで広がったのではないか。

もっと具体的に

 「自分が悪い」という言葉がそもそも悪い。極端であり、終着点のように見え、つまりそれ以上は考えない=疑われない位置で毒を垂れ流す。

認知の歪みは恐らく本能由来のものだし、なきゃないでトラブルに棒立ちになるようなことになるだろう。必要ではある。だが認知は知覚と混同され、なかなか気付けないものだ。ここをなんとかするのはすぐには難しい。今すぐ改善できるとしたら「言い方」だろう。

 最悪から始めてみる。「何もかも全部」「自分が」「悪い」から。まず何もかもとか全部ってのは、何も考えてない奴が使う言葉だ。カット。
「自分が」「悪い」になった。


今度は足りないな。「何について」自分の「何が」悪いのかが入ってない。「○○について」「自分の」「○○が」「悪かった」になった。

悪いってのも二極化っぽいね。だがここをカットしたら文章にならないから何かに差し替えよう。問題視しているのは事実だから「問題だった」にしようか。「○○について」「自分の」「○○が」「問題だった」になった。

はて、問題視しているのはわかったが、これだけでは感想に過ぎない。問題だと思う理由は?
「○○について」「自分の」「○○が」「問題だった」「なぜなら○○だからだ」になった。

(一見蛇足に見えるかもしれないが、これは必要だ。なぜなら「AはBでないといけない」「AはBしないといけない」という根拠のない思い込みという形で認知の歪みはあり得るからだ。
本当に問題であるという「説明能力」は求められる。これが存在せず、ただ自分を責めるのなら、何か違うものが本質的な原因だろう。)

だいぶ形になった。テンプレとしては十分だろう。まぁなんというか。見比べてみれば「何もかも全部自分が悪い」ってフレーズが「空っぽ」な上に「毒性がある」のがわかるだろう。むしろ毒しかないのが。

ここまで形にできれば本当に問題だった場合、方針を立てることは楽になる。軽視されがちだが、「質問をしっかり形にする」こと自体が問題解決に大きく貢献する。

(もしあなたがが死にそうな状況になって、助かる方法を考えるのに1時間あるとしたら、どんな事をしますか?という質問に対して)

「最初の55分は適切な質問を探すのに費やすだろう」

―アルベルト・アインシュタイン

どこに問題があるか

 さてここからが本題だ。「○○」に当てはまる単語を、自分の悩みを参考にそれぞれ入れることを試みてもらいたい。試みるだけでいい。多分無理な人もいる。

恐らくいくつかのパターンに分かれるだろう。

  1. 全部違和感なく埋めることが出来た
  2. 何も当てはまらない箇所がある/埋めてはみたが文章がおかしい
  3. 入れたくない


全部違和感なく埋めることが出来た場合

 少なくとも「じゃあ次はこうしよう」と考えを進めることができる。おめでとう。

不明瞭な状況把握と分析が罪悪感となっていたということになる。問題解決に「良いか悪いか」の判定は必要ない。「問題だと思うから対処する」で十分だ。

ただそれは、問題なのではなくて「なりたい自分」なのかもしれないけれどね。


何も当てはまらない箇所がある/埋めてはみたが文章がおかしい

 いくつか判断が飛び、理由もなしに自分が悪いと思っている可能性が出てくる。

また、価値観自体が押し付けられたものだったりして「とにかくこれは悪いこと」みたいな認識を持ってる人も多い。
この場合も特に最後の部分が書けないか、あるいは「○○がそう言っていたから」のような見りゃわかるレベルのおかしさがあるかもしれない。

ともかく、その入れられなかった部分や文章をおかしくしている部分には「何か」がある。

入れたくない

 問題と対面することを避けるため、対面しなくて済む結論(=自分が全部悪い)を出した可能性。

問題から目をそらすことも怖いため、問題を内包し、なおかつ直視しなくて済むという点では「自分が悪い」は優秀な処置と言える。



今すぐそれを見直してみるというのも、早計かもしれない。それは爆発物が入った箱のようなものかもしれず、開けるにしたって準備が必要かもしれない。

あるいは解決しないことが当人にとって一番の解決である可能性もある。目的が「現状維持」だった場合には、全部自分が悪いとして全て終わらせようとする自己犠牲を行うケースはある。特にアダルトチルドレンがそういった感じか。

事体に対しての一種の「諦め」かもしれないが、諦めることは別に悪いとは限らない。諦めは受容に通じる。

さらに言えば、別に後で気が変わってやっぱ解決しようと思うかもしれないし、我慢の限界が来るかもしれない。ここで何を決めた所で、未来は何も確定はしちゃいない。

「今は(時間的な設定をつけないとまるで「一生の大きな決断」のようになりこれまた毒になり得る)」、「このままの方が良い」と思うのなら、とりあえず様子見でも良いかもしれない。


メモ

自分が至らないせいだ

 こんな話がある。



日本。1800年代後半、駅が出てくるから明治くらいか。
とある物書きが子供の頃、事情があって他所の家で住んでいた。里子のようなものだろう。そういうことにする(うろ覚え)。

ある冬の日に、駅前で手袋を売っているのを見かけた。なかなか良いものに見えた。自分の貯めていた小遣いでもなんとか買える値段だった。

世話になっているお礼にと、養母へのプレゼントとしてそれを買った。養母は喜んでくれた。


 程なくして養父の部屋に呼び出された。部屋に座り、腕を組んでいる。その前には、先程養母に贈ったはずの手袋がある。

「この手袋はどうした」

「買いました」

「これはとても子供が買えるものではない。正直に言いなさい」

「でも買ったんです、駅前で。値段は…」

その金額は養父からしてみれば、とてもその手袋が買える値段ではなかった。


 「嘘を付くな」「まさかどこかで盗んできたのか」と養父に怒鳴られる中、彼はこう思ったそうだ。

「これは自分が至らないせいだ。普段の行いがしっかりしていれば、養父も自分を疑うことはなかっただろう」と。そうして疑われることを甘んじて受けると決めた。

後に、彼を信じたその家の子供達が、駅でその商人を探した。手袋を売っていた商人がいた事、確かにその値段で売っていたことを突き止めてくれた。




多分夏目漱石だと思うんだが、確証がない。


 まぁ要するに、事が起こったことじゃなくて、「自分が疑われたこと」が自分のせいだ、と思ってるケース。

 この少年の態度は、この事態が己の不徳とするところであり、自分に「罰」または「報い」を与えているとも取れる。

もはや抗弁を諦めたのは、「自分を尊重しない」というノンアサーティブとも取れる。性格ではなく、状況的な自己評価だろう。「罰」だとするなら辻褄が合う。

同時に相手の反応は、妥当なものであるともしている。これらはやはり、「自分がしっかりしていれば、(我が身に)悪いことは起きないはずだ」という世界観の持ち主だと考えられる。


関連:
_ノンアサーティブタイプ

「自分が悪いと思うことは自惚れだ」という説について

 たまに見かける「自分が悪いと思うことは自惚れだ」という意見は、ある見方をすると条件付きで正しい。

自分が悪いというのは、自分に責任があるということになる。勝手に責任者になりきってるような状態になる。

その理由がなすべきことをやらなかったと思うのは、自分がそれをやればこの状況にならなかった、ということであり、自分に影響力があると思い込み、生殺与奪を握っていた気分になっている。

そもそも大前提として「本当なら自分になんとかできる事態だった」という考えがなければ出てこない言葉だ。

総じて「自分には責任や権利や力がある。ただし無能だった。ああ自分が悪い」とする態度になる。
状況次第では「バカなお前を止められなかった自分が悪い」とすら取られる態度だ。
こう聞こえるから、実際の当事者が割と怒ったりする。

加えて当人が全く部外者だった場合には、茶化してるようにしか思えない。自惚れているつもりもないのだろうが、まぁ文脈的にだいぶ調子こいてるように見えることは、ある。

 アダルトチルドレンにおそらく多いが、何かトラブルがあった時に、本当に自分とは関係ないのに「『自分は関係ない』という態度を取れない」という人がいる。

うろたえたフリ、焦ったフリ、驚いているフリなどをしてしまう。このような人が取る「当人なりの適応した態度」としても、これはあるだろう。
つまりは「安全を確保する/恐怖心を和らげる仕草」としてはかなり失敗している。他の手を考えたほうが良いだろう。



問題だと思うことが問題

  これが一番大きい。自分が悪いと思ってしまうことの解決法について、大抵の自己分析では、どうやら自信をつけるなどに至るようだ。相対的に現状の自分を、臆病だったり消極的だったりとの認識をしている。ただ、正反対かもしれない。

当事者たちが「問題意識が強い」という点。これは確実にある。他の者ならスルーすることを「拾い上げ」、問題とする。
今回の話、当事者が自責の念に駆られるその案件は、周囲の者はそれを問題だと捉えていないというケースが結構ある。「気にしているのは自分だけ」という状況。何故か当事者たちはこれを気にしない。

恐らくは自分を加害者だと思い、他の者は迷惑をかけられた被害者だと思っている。加害者である自分だけが自責の念を抱え、問題意識を持つのは自然なことだ、みたいな認知の修正があるのだろう。まぁそれでも辻褄はあってしまうのだが。

 問題意識が強いというのは、裏を返せば、べき論や信念などの「これはこうであるべき」「これはこうなるべき」という思い込み・決めつけがかなり強い。
そしてその通りにいかないことへの、「犯人探しへの情熱」だとも言える。

端的に言ってしまえば、「それが気に食わない」以外に問題意識が湧く理由はない。
さらに言えば、見方次第では「何もかも思い通りになるべきだ」と宣う人間と何も変わらない。この上で思い通りにならないから自分のせいだ、としてるのだから、本質的には「何もかも自分の思い通りになるべきだ」と思っているとも取れる。


 ここで彼らの責任感の強さを取り上げよう。責任は、取るものではなく果たすもの。つまりは「こうなるべき」「こうあるべき」というイメージがなければ責任感は持てない。何かあったら腹切ろうと考えているわけじゃあるまいよ。

それが叶わなかった時、原因を己に帰属し、自責の念が湧く。
「思い通り」にならなかったから、ということに間違いはない。だがそれはエゴではなく、想像上の社会的役割や「お約束」的なパターンだろう。例えば「交渉する→成功する」、などのひどく単純な。


無意識なのだろうが、事態に干渉するのは自分ひとりであることが前提の考えだ。他は風景。あるいはモブ。場に「責任を持てるのが自分しかいない」世界にいる。

これだと何かあったら自分のせいになる。「何か起こせるのが自分しかいない」から。

この場合は「自分のせいだというのは自惚れだ」というのは正しいと言える。
ここまで来ると、他者志向型の完璧主義に近い。対象が他者ではなく自分という一点を除いて。ここが最後の一線とも言える。

この点が「問題だと思うことが問題」ということであり、つまり「なぜ問題だと思うのか」は自分に問うべきだろう。


他罰願望が自分に向いている可能性


 もう1つ。今回は「自責の念」という形になっているが、これを「他罰願望」つまり他人を罰したい願望が「自分に向いている状態」だと仮定してみよう。

このような矛先だけがズレている例は他にもある。例えば「殺したい」という感情は、社会的にそうするわけには行かないという理由で自分に向き、自殺に通じる心理ともされる。

この場合、いつかその自責の念が、質量も熱量もそのままに他人に向くかもしれないという、周りにとって不発弾そのものとなる。

 今回の話は「自分のせいだと思うから問題」なのであって、これが他人のせいだと思ったら他人を責め、当人的にはそれで終わっているはずだ。何も気づかずに。だからまぁ、この可能性を考えるなら、対象が自分でまだ良かったなとは言える。

 「問題」というセッションは、「解決」することで終わる。我々はナチュラルにそう思っているのだが、このせいで「問題として取り上げたことが間違いだった」というケースにとことん弱い。大体は前に進んじゃうからな。後戻りしなきゃいけない場面には全面的に弱い。

アンチスキルとしては、推論のはしごが使えるだろう。頭に浮かんだことは既にいくらか「はしご」を登ってしまった状態であり、そこから降りて「現実と事実」に行く方法だ。

関連:
_推論のはしご



最短10分&少額で初められる暗号通貨への投資

気になることがある場合、サイト内検索をしてみてください。

タイトルとURLをコピーしました