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自分の意見が言えない人の性格・理由・対応について

投稿日:2019年4月13日 更新日:

NOと言えない日本人とか、NOと断ることの重要性とか持ち上げられて久しいが。それができない・苦手だという人もいる。

会社だと、会議などで意見を求められるのが苦手なんてのもあるし、プライベートでも、気が進まない用事を断れないなんて悩みもある。

自分の意見が言えない性格的要素

自分の意見を言うことはリスキーな面があることは否定できない。意見が言えない性格とは生き方、在り方、あるいは手段、生存戦略であり、「便利」「安全」な面がある。身につきやすい。要は振る舞いのクセとして定着しやすい。

結果、これらが通用しない場面では困ることになる。他を知らない、あるいは苦手ということで。
何よりも「自分」がないように感じられ、自己嫌悪の強い理由となる。

「子供のときには意見は言えたはずだ」というのは本当か

子供の時には意見は言えたはずだ、今言えないのは心理的なのが原因だ、との声もある。大筋では賛同するが、絶対じゃないだろう。

サイレントベビーってのがあるな。「泣かない子供」。医学用語ではなく俗称。
俗説としては、泣いても親に相手にしてもらえない赤ん坊がその内泣かなくなる(=自己主張しない子供になる)、という学習性無力感を匂わせる原因となっている。

ちょっと相手をしなかっただけですぐにそうなるというわけでもないが、実際にそのような子供がいることも確か。

実際にそのような子たちを診察したことはありますが、家でほとんど面倒を見てもらえていないケースが多かったです。子どもがおびえていたり、親に抱っこされると嫌がっていたりして、背景事情が深刻な例ばかりでした。

https://news.mynavi.jp/article/20180320-601175/


赤ん坊が泣くのも一種の自己主張だ。自分の意見の表現。まぁ腹が減ったとか下の世話をしろとかだが。

下の世話で思い出したが(思い出すな)、小学生くらいから授業中にトイレに行きたいのに教師に言い出せずに漏らす、という話はでてくるな。どうもあれは悪目立ちしたくないとかそういった「恥」を意識することからっぽいが。

これらから考えれば、少なくとも「子供の時から意見が言えなかった」、というのは普通にあるだろう。何より人間の幼体は出産後に急成長するタイプであり、学習率はその分高い。主張しないほうが良い、あるいは主張しても無駄だという「学習」をする余地はある。


一個人の発言や行動は、

  1. 社会的なもの(他人を意識している)
  2. 自分らしいもの(自分を意識している)

の2つに元から分けられる。「恥をかきたくない」というのは自己都合だが、意識しているのは他者なので1となる。自己犠牲的とは限らない。
両方必要ではあるが、1の頻度が日常的に高いなら当然そちらに傾く。少なくとも2の時間や空間を作る必要はあるだろう。


これらが真であるなら、「今まで自分の意見を持ったことがない」という人の存在も視野に入ってくる。

AC:従順な子供

非能動的。受動的。模範生。

心理学のPACモデルの中に、AC(adapted child)という心理状態が有る。「従順な子供」と訳される。

状態であり、運命論的な意味での「性格」ではない。ただ、その面が出やすいとかはある。

ACは「親の言うことを聞く子供」をイメージすればいい。
感情の抑圧、臆病、遠慮がち、依存的とされ、自己表現が苦手とされる。

反面それが順応性が有る、我慢強い、従順であるとも評価される。


この国は自己主張が歓迎されるお国柄でもないわけで、それに適応していると言える。
というかなんだろな、「他人の意見への姿勢」のレベルが著しく低いような気がしなくもない。外国の実態も知らんけどさ。

自分の意見より先に模範解答や「取るべき振る舞い」が思いついてしまうため、「自分の視点」で綺麗に見れないという状態だと思われる。

ビッグファイブという性格分析で見ると、日本人は全体的に協調性が高いとされる。一見良さげだが、協調性が高ければ高いほど「一人じゃ何も決められない」というACに近い感じになっていく。元から意思表示は苦手分野とする人は多い、ということ。

アダルトチルドレンの要素

自己犠牲的。空気読みすぎ。

自己を犠牲にすることで、所属するコミュニティの調和に貢献する性分。というかそのような幼少期の役割が人間関係のクセとなった形。自分を犠牲にして他人を優先する傾向。

人形、英雄、悪役、道化、世話焼きなど。

ロストワンすら、「自分がいないことで他者同士の調和の邪魔をしないという貢献」とも取れる。

機能不全家族が原因、平たく言えば「親のせい」とされることは多い。が、子供が汲み取りすぎたなどもあり得る。

無私なる態度なので言いたいことは当然言えない。人に好かれることも結構あるが、当人はそれ以外の振る舞い方がわからないとかだったりする。つまり自分の意見がない。思いつかない。自由や好意に対しても戸惑う傾向がある。

完璧主義であることが多い。「他者の期待に応える」という形の。

自分を犠牲にして他人に合わせすぎることを、別の言い方で過剰適応、度が過ぎれば自己破壊的同調とも呼ばれる状態になる。

ただ、これらは意識的にしてしまうと言うよりも「やってしまう」というレベルであることが多い。自動思考(スキーマ)レベルの。なので「そういうクセ」という認識のほうが近い。

アサーティブの「作為的」タイプ

自他を尊重した「伝え方」の技術であるアサーティブ(アサーション)という概念での分類。

「問題があるスタイル」とされる態度の内、作為的タイプは「渋々従う」という要素が多い。意見、特に不満自体は持つ。「言えない」あるいは「言わない」だけで。

言わないのだが、相手に察してもらいたがる傾向が強いともされる。「こちらの思いを他者は汲み取って然るべきだ」という念を持つ。
だが表面上はおとなしいので特に関心を持たれず(問題児よりはマシなのだが)、最終的にキレたりする可能性を持つ。

自分の意見が言えない心理的理由

空気の読みすぎ/人の目の気にしすぎ

緊張、萎縮。他者を意識すれば、その分思考や意思のリソースは減る。

「他者に合わせなくてはならない」と思っているのなら、当然周囲の人間を意識することになる。アダルトチルドレンが自覚する「自分のなさ」も、家庭が安心できる場所ではなかったせいで他人を気にするセンサーが発達しすぎたからだ。

意見が言えないと自覚する人の中には、幼い頃から親に意見を否定され、親の考えを押し付けられて育った、という話も多い。これも自分の意見より「周りに合わせること」を優先するよう仕込まれたと言える。繊細すぎて本人が自分からそうしなくてはならないと思ってしまった例もある。

 このように共感能力や「空気を読む」というのは他者を気にする分「自分がなくなる」というマイナスの面がある。

社交性や外向性は、有れば有るほど良いってものでもない。実際ビッグファイブの各項目も、極端な高低が各種の精神障害や人格障害に見られる。
例えば自己愛性人格障害や演技性人格障害は外向性が高い。スキゾイドは低い傾向がある。
協調性はコミュ力とは一切関係ない。高すぎると「一人じゃ何もできない・決められない」ともなる。

ユングが提唱したとおり、自分の外向性と内向性はどちらも育てるべきだと思われる。

気配りができるのは結構なことなのだが、それは受け身な態度であり、自分の意見を主張するという能動的・積極的な態度とは正反対の構え。ちゃんとした形で(つまりわがままとかじゃなく)自分の意見を主張するというのは、空気読んだ上での主張であり(受動→能動)、やはりユングの言う通り両方求められるのではないか。

自分の意見を言わないほうが良いと思っている

自己主張のデメリットというものはある。というより元から「言いたくない理由」が心理的にある。シャイネス(対人不安や他者を意識した不快感や我慢)とか、拒否回避欲求(否定・拒絶されたくない)など、「言わないほうが得」だと思わせる心理。

時には「言えない」ことを気にしすぎて、逆に何でもかんでも「言えればいい」と反転したがるのは結構いる。極端から極端へ。一番向いてないことを、一番無防備にやることになるのでなかなかリスキー。

実際に他者操作や他人を利用とするための自己主張が激しい者はおり、それらに感じる「醜さ」と共通することを自分はやりたくない、自分は反対側でいたいという美的感覚に通じる念もあるだろう。

本当に自己主張しないで正解な場面、内容の可能性もある。「言えない」ことを気にしすぎていると、これを見失い度胸のみで自分に発破をかけて発言し、失敗しやすい。

関心がない

興味ないんだから考えも浮かばない。言う必要もない。意見もないし必要性も感じない上で、意見を求められたという「不意打ちの無茶振り」をされた状況。例えば「世間話として聞いていたら、いきなり意見を求められた」など。

同様に当事者意識の欠如が理由で、必要な場面でも意見が出てこないことはある。関心を持つべきなのに関心を持っていない状態。あるいは自身の立場や役割への自覚がない。

ただこれらは、自ら見出すべきものであることも多いが、他人に決定権が有ったりもする。「関わる許可」をされていないから、というのも理由としてあり得る。

心の「構え」

 心理学用語で「構え」と呼ぶ概念がある。
その人が特定の状況に対して「予期」をして、認知や行動の「準備」をしたりなどの精神状態を指す。かなり方向が限定された準備状態。その分それ以外には弱くなる。

今回で言えば、最初から人の意見に合わせるつもりの場合、出てくる意見も出てこない。
あるいは「素晴らしい意見を」なんて思っているのなら、平凡な意見は自分の内側でカットされる。

>>アインシュテルング効果について

漠然としたイメージは有るが上手く言葉にできない・形にならない

考えを口にするというのは、まずイメージがあり次に言語化という流れだ。元から「漠然としたイメージは有るが上手く言葉にできない」ということは多く有る。

この上で頭の中で並べてから発言するタイプは、頭の中で台本かせめてもアウトラインが出来上がらないと口にしたくないって気持ちがある。

「全部」を「詳細に」説明しようとする傾向の人もいる。結果、「言おうとしていることがそもそも長い」となるため、自分でもまとまらんとかはある。


頭の中の独り言などを「内言」、人間同士の会話レベルの言語を「外言」と呼ぶ分け方がある。内言は文法的にはかなり残念であるとされる。要するに、他人にはそのままじゃ伝わらないレベル。

面白いことに幼少期に外言を習得してから内言が発達するなんて説もある。この場合、内言は外言を元にかなり省略・簡略化された、「自分用の言葉遣い」、要は「自分語」になる。方言みたいな。当然他人にはそのままだと伝わりづらい。

ついでに言うと、「その時だけ自分にわかる」という傾向がある。自分で書いたメモが自分でわからんとかはあり得るわけで。なので書くことは大事で、その時に意識するべきだとされるのは「他人にわかるように」と言われていることが多い。

「言葉にならない」というのは、内言としては意見があるが、外言にコンバート(変換)することに手間取っていると言える。自分専用の便利なものから、他人がわかるレベルにしなくてはならない。

しかしこれは元から容易でもない。特に内向型はこの表現のクオリティに拘るように見える。
説明は、「理解した気にさせる説明」と「理解させる説明」の2種類がある、なんて考え方もある。ここで言うと一部の人は、前者で十分な場面でも「理解させる説明」をしようとし、キャパオーバーになっていることがある。

この上で、意見を言うってのは要するに会話であり、テンポとかタイミングとか相手の意見やリアクションとか、集中力を奪う要素も多い。

朱に交われば赤くなる

 ノームという概念がある。日本語で「集団規範」と訳される事が多い。
そのグループのメンバー同士で共有されている、価値判断や行動様式のための規準をそう呼ぶ。
これのおかげで自然にある程度の適応ができる。特別なものではない。ローカルルールは自然発生するものだ。

朱に交われば赤くなる、と言うがまさにそれだろう。個人の自発的意見そのものが、集団に感化されていく。内面を重視する内向型が、「一人の時間」が必要なのも頷ける。

集団規範は、個性という意味での自分の意見、つまり「本音」とは対立すると言える。

ただ、集団からその個人を見れば、「わがままを言わなくなった」「周りに合わせられるようになった」という話だ。その集団に馴染んできたと呼ぶのが一番自然かな。その分オリジナリティはなくなる。「自分の」意見にこだわっている場合、ここに焦りを感じるだろう。

自分の意見かわからない

では、自分の意見がそのような順化された外的なものなのか、内側から湧いたものなのか。なんて哲学をやると、「自分の意見かわからない」なんてことになりかねない。内容ではなく出処が、世間からか自分からか。

 別の切り口やると、まぁ変化/順応したところで個人の意見と言えるっちゃ言える。「学習した」とか言いかえれば妥当っぽい。

 この上で自分の意見がないと思うのなら、それは「個性がない」との悩みにかなり近いものになる。正確に言えば、自分が個性があるとは思えないという感じか。

 こう言った自分の意見がわからないという悩みについてのベタなアドバイスとして「日記書け」ってのが有ることは挙げておく。何よりも「一人で、自分だけの価値観で、物事を振り返り評価する時間」を作れという話。

これは意見が湧かないのではなく、自分の意見かどうかの判別がつかないという話になるから。だから普段からして自分の意見に触れている必要は出てくる。


どうせ聞いてもらえない

元から人の話を人はロクに聞いてないので正解っちゃ正解だが。スポットライト効果を始めとして、自分で思っているよりも自分が注目されていない現象は多い。
自分は一大決心が必要で、他人は大して聞いちゃいない、という対比からの学習性無力感はあり得る。

一部は言おうとしていることがボトムアップであり、材料を並べてから結論に至る傾向がある。聞き手は長い話を最後まで聞かなくてはならない。

これを繰り返すと経験に基づき「自分の話は人を退屈にさせる」「どうせ意見を言っても最後まで聞いてもらえない」という観念も育つ。
結果、苦手意識となる。

学習性無力感

自分はもっと尊重されるべきだと思いつつも周りの目や評価が怖いみたいな心理がある。この場合、過度に人目を気にする。

>>2種類の自己愛 誇大型と過敏型

過敏型自己愛の要素の中で「潜在的特権意識とそれによる傷つき」という尺度がある。

自分は注目を集めるに足るはずなのに周りはそう扱わない、と不満を感じる。勝手に傷ついたり、自分の扱いが丁寧じゃないと他人に対して不満を持ちやすい。

ちなみに大抵の人間が心中「自分は中の上だ」と思う傾向があるそうで、ほとんど誰にでも当てはまるだろうね。

この上で前述の通り、自分で思っているほどには他人は注目しちゃいないのが常だ。現実の称賛への期待値は、当人の期待を必ず下回る。意見を言っても何度も承認/称賛してもらえなければ「学習」する。自分は相手にされない、意見を言っても無駄だと。過大な賛美を期待しているのが問題なのだが。

ともかくそうして諦めて、無力であると学習すれば、そのうち意見も湧かなくなるだろう。


過敏型の自己愛に限らず、意見が言えない理由は全体的に「人の目/リアクションを気にすることによる萎縮」が原因であることは多いように見える。

「自分」と「社会」は同時に相手にすることは難しい。「外側」を気にする限り、「内側」に目は行かない。

自分の意見という「内側の表現」の動機が、そもそも周囲に認められたいという外側由来のものだった場合、軽くジレンマが発生する。表現方法ではなく、内容的に「受けが良い」方が好ましいからだ。
時には色々間違えて、本心ではないものを本心だと主張することにもなるだろう。

 もちろん学習性無力感のみの場合もありえる。意見や希望を口にしたら頭ごなしに否定される経験を繰り返すとかで。

何が求められているかわからない

話に乗り遅れたケースもあるし、そもそも自分に期待されているものが何かわからないというケースも有る。

これは適応しよう、適切な対応をしようとする思いから生まれており、厳密に言えば「自分の意見」にこだわりはあまりない。どちらかと言えば無難な返しが言えればいい状態。

自分の立場が決められない・わからない

 自分の意見がないというが、どちらかといえば「立場が決められない」と言ったほうが正確なのでは。この場合方針がないので、「意見」と呼べるほど筋の通ったことは言えない。散発的な発言ばかりになるだろう。

人の意見は、何か目的がある時と、立ち位置から発する反応的な時とがある。相手に流される余地も生まれる。目的がある意見も沸かないから、自発的な自分の意見もでてこない。他者の意見に対しての賛同も否定もしづらい。

これは特に周りが嫌がり、意見を言うように求められることが有る。
例えば敵か味方かわからんやつ、ってのは扱いに困る。相手して良いんだか悪いんだか、発言を信じて良いんだか悪いんだか。

「意見」というほどでもなく「なんか喋ってくれ」と求められるなら、周りから見て当人が「正体不明」みたいな状態になっていると思われる。この際は意見ではなく「思考開示」が求められている。

なんとなく「誰かのおまけ」みたいな立ち位置でそこにいるなら、まぁ意見なんて出てこない。その場合はそれでいいと思うが。

意見が一つにまとまらない

これも立ち位置や方針などの話。人って結構色々勝手に思い浮かべるもので、頭の中が真っ白になるのは緊張が原因のことが多い。

逆に頭の中に色々ありすぎて一つにまとまらない場合も、意見=結論としては「ない」ことになる。他者には優柔不断に見えるが、これは結論がまだ出ていないだけのことも多い。

その段階でも意見は言えなくもない。意見という言葉に「結論」を始めとした「納品」「提出」のようなイメージを持っているから言えないだけで、ここに注目している、これが気になる、これには不安を覚える、これはわからない、ここまでは考えた、などは言える。

言うわけにはいかない

内容がやばい。あるいは不適切な場合。

別に冗談でもなくて、意見は「本音」に近いが、それを伝えるのは他人つまりは「社会」に近い。この2つは相性が悪い。互いに拒絶・否定する傾向はあるのは事実だろう。個人主義VS全体主義みたいな。

自分で「言うわけにはいかない」と思うのなら、基本そちらが正しいのだろう。ただフラストレーションは貯まるかもしれないし、「表現の仕方」を工夫して表すのも道ではある。

言った後が怖い

自分の意見を言うまでを考える人と、言った後まで考える人がいる。後者は比較的「やっぱやめとこう」となりやすい。それはそれで多分間違いではないのだろうけれど。

他でもよくあるんだが、内向型が外向型を、悲観主義者が楽観主義者を、つまり「考えすぎ」が「考えなし」を羨むケースは多い。
見習えるところはあるだろうが、そのまま真似するには相性が悪いことには注意したほうがいいが。

この場合の多くのはその行動力と、自信があることに憧れる。逆に消極的・受動的であることを恥かなんかだと思っている傾向があるが、ここまで述べてきたように「それで正解」な場面も多々ある。

もう少し自信を持って「この状況で決められるかボケお前らが考えなしなんだよ」とか言えるといいね。ここまで口が悪い必要はないけどね。

真面目な話、特に楽観主義者の自信は本当に「あまり考えないこと」から来ている。方略としては時にありだとは思うが、向き不向きは確実にある。


「悪く取られそう」、「正確に伝わらないのではないか」という懸念もあり得る。

実際に悪く取る奴、曲解する奴、勘違いして飛び出していく奴などはいる。普通はこの手の輩はそもそも話してもらえない/話したくないタイプとして扱われる。

それに話してる時点でまぁ、相手の選び方は今後の課題とするべきだろう。やむを得ない場合には言い方で工夫するしか無いが。

「自分の意見」という言葉が重い

なんぞご立派なイデオロギーじゃないといけないみたいな。実際にはそこまでの期待はされていないことが多い。ハードル高くて「これは自分の意見として『提出』できない」とカットしている状態。

意見を言おうとすると「何か頭のいいことを言わないと」みたいな気負いが生まれることもある。ハードル上がるし、無理にひねり出すと大抵重箱の隅をつつくか揚げ足取りかになるしでいいことはあまりない。

周りを唸らせるような素晴らしい意見を、とか思ってると大体何も出てこない。フィルターがアイデアの全てをカットしてしまうだろう。朴訥な言葉の強さと美しさも知ったほうがいい。

自惚れや目立ちたがりとは限らず、「恥を掻きたくない」という気持ちが強すぎて過度に「立派な意見」を求めていることも多い。クオリティが高ければその分安心できるから。

実際気負いすぎた結果(悪い意味で)すごいこと言うとかは、ある。あれは空気凍る。
なんというか、意見というよりは「オリジナルの考え」を追い求めているような。基本それが求められる場面は殆どないのだが。

特に会議とかね。思考には収束と拡散があり、アイデアを出すとかは拡散で、何かしら結論を出すのは収束に属する。
収束は論理的であり、誰がやっても大体同じ方向に向く。この場面でオリジナリティ求めると道化になりやすい。逆にこの場面での追従、同意は何もおかしくはない。


ここまでは分かるが後わからんとか、○○の意見にほぼ賛成だがなんか引っかかる、とか。場の話題に参加できてれば、そこそこだという程度で大抵は足りる。というか、この程度の無難なのしか求められていない事が多い。これすら自己主張激しいと言われる余地すら有る。相場はそんなもん。

問題は「Noと言えない」とかだが、これも普段から口開いてたほうが断りやすいとかはある。

オリジナリティを求める

承認欲求の場合もあるが、別に目立ちたがり屋とも限らない。「自分の」考えを言え、って言われすぎて「他と同じではいけない」「個性的な意見しか許されない」と思い込んだケースも含める。

 少々ややこしいが今回、自分の意見がないこと自体が問題と言うよりは、意見がないことを問題だと思うことが問題、って部分もある。

興味がないことに対してなんとも思わないのはおかしくない。
模範解答が妥当なら恥じる必要もない。
そのおかしくないことをおかしいと思っているとしたらその方がおかしい。

すべての物事に一家言あるなんて、全部思い通りにならないと気がすまないわがままなやべーやつ以外にないだろう。
「自分の意見」と美化して、思いついたことを口から垂れ流れてるのを正当化したり、利己的な都合を押し付けたりするのも結構いるしな。

一人か一人前か

 個性を過剰に求めるのは、多感な時期(と呼ばれるのも嫌だろうが)の年頃の場合に特に多い。

人には、一人の人間として見てもらいたい気持ちと、集団規範を弁えた「一人前の(または普通の)人間」として見てもらいたい気持ちの両方がある。

「個人」としてみてもらいたいか、「集団の一員」として受け入れてもらいたいか。受け入れられた上で一目置かれたい、というハイブリットが多いか。

 「個人」としてみてもらいたい欲求が強い時、「個性」を出そうと必死になったりはする。
中二病が中二あたりで発症するのは偶然ではあるまい。

青年期にも自己愛が肥大化するという説もある。こちらの場合、「社会と立ち向かえる自分」を演出、または自分はそうであると鼓舞するためだとされている。当然自己提示、つまり「自分はこうである」という他者へのアピールにも繋がるだろう。

ただ、「誰がやってもその結論になる」という場面は結構ある。1+1は2だ。
この辺りを見落として、「他人と同じ結論になったからやりなおし」と変な意見をひねり出すのもいる。

問題が1+1である状況で、「2以外の答えを出そう」なんて考えても、なんかおもしれぇことにしかならんだろ。哲学か、禅の考案か、頓知の世界に踏み込みたいなら話は別だが。

この場合、欲求の妥当性はまぁ良いとしても、場面を間違えてるのは確かだ。どれにせよ、ここでもやはり「他人」を意識しすぎているかもしれない。

「他人」を気にするあまり「個性」が必要になるという構図、多いな。

付和雷同

 付和雷同とは、自分の意見がなく、他人の言動にすぐ同調すること。最初から周りに合わせるつもりだから、自分の意見が出てこない。

これに加えて自分の意見があるふりをしようと思っていると、他人の意見に飛びつきやすくなる。

 外交性/社交性が高いほど自分の内面がわからない傾向はあるらしい。極端な例としては演技性パーソナリティ障害がある。強すぎる外向性と、内面の希薄さからくる被暗示性(暗示にかかりやすい/影響を受けやすい)が挙げられている。

関連:
_性格の5大要素 ビッグファイブ/OCEAN

何も思いつかない

感情労働による燃え尽き

何も考えられない状態。

感情労働は対人サービス業などで問題視される「感情の酷使(我慢や緊張を含める)」とそれによる様々な問題。

今ではサービス業にとどまらず、サラリーマンから主婦まで当てはまるともされ、大抵の人間に無関係ではないとしても言い過ぎでもないだろう。特に医療や介護関係のスタッフを対象とした論文が目立つ分野。

>>感情労働について

 感情労働には表層演技と深層演技の2種類がある。

この内「心からの演技」である深層演技は心身を病むリスクが高まる。本心からそう思う様に自らに強いるからだ。

 深層演技の場合、演技している自覚すらないことがある。前述の「周囲に合わせる」という感情労働を強いられているか、或いは自主的にそう強いている場合には、「周りに合わせることが自分の意見」という状態になってしまう。

これが原因で燃え尽き症候群もあり得る。

この場合、症状の一つに「脱人格化」がある。テンプレ的な対応しかしなくなるなどの人間味がなくなってくる。「自分の意見」もでてこないだろう。

>>燃え尽き症候群/バーンアウトシンドローム

内的不適応感

 周りに合わせすぎる「過剰適応」という症状に、内的不適応感という概念がある。

外的適応(=周囲に合わせること)の裏面として有り、内部葛藤や自己嫌悪、自己不全や自己不信などを含める。

自分で信用できないのに意見として口にできる、というのはちと考えづらい。不適応感があるなら、口にしたくもないだろうし、そもそも考えがまとまらないかもしれない。

元から自分の意見がないか、あっても信頼していないということになる。ただそれは、自分の目的が周りに合わせることであり、それを優先しているだけかも知れない。

「頭の中から他人を追い出すことも必要だ」とされる。裏を返せば、頭の中に他人がごちゃごちゃいるようなら、自分の意見を思いつくのは難しくなる。

何れにせよこの場合は、自分の意見が思いつかない(生まれない)のではなく、「自分の意見を抑制する力」が強い状態(押さえつけている)と捉えるべきだろう。


自分の意見が言えないことの対処

別に常日頃全ての物事に意見があるべきでもないんだが。意見は対象に自分が何らかの「こだわり」を持っている場合にはでてくる。唐揚げに無許可でレモンかけるなとか。逆にどうでも良ければどうでもいいほど意見はでてこない。

こだわりの良し悪しは、TPOの問題もある。場違いな自己主張なんて失笑モノだろう。つまるところ、意見が有ればいいとか、無いと悪いとか、そういう話でも元からない。それだけでは決まらない。


普段ぼーっとしてる時に「今、意見ないな」とは普通思わない。

意見がないことが気になる状況として、まず「意見を出そうとしているから」というのがある。求められたか、このまま黙っているわけには行かないと思ったか。

また、「他人」の存在が関わっている問題である。じゃなければ意見を「言う」必要がないからだ。意見を持ってるだけじゃ足りないというのなら、そういうことになる。
「誰か」に意見を述べるという主張/呈示の必要があると感じている状況。

それは具体的な他者かもしれないし、不特定多数の相手かもしれない。もしかしたら、自分自身にそれを証明したいのかも知れない。

「意見が必要な状況」が先にある、ということもある。「見過ごすわけにはいかない」だとか。つまり「自分の意見」はないが制止や干渉の方便として必要な場合。

ただし焦ると衝動性が高くなり、思考がしにくくなってくる。まずは落ち着こう。

聞いてもらう工夫をすること

ハッキリ言っちゃうと、何かに苦手意識がある人ほどそれが「度胸」かなんかで解決すると思っている。

こうなると考えるのは自分に発破をかけて「思い切る」だけで、工夫もへったくれもないからまた同じ目に合うだろう。

今回、発言が何らかの「スイッチ」になっているという認知が多い。恥をかく、悪く思われる、失敗する、などのネガティブな予測の起点として。

「じゃあやめとこう」というのは一つの答えになり、正しくは有る。それを避けるという意味では。
別の方向としては、違う結末を迎えようとすることが挙げられる。つまりは上手になること。これはスキルの話になる。思い切るのはその後が良いだろう。

意見を言う必要性については考えること

意見自体はあるとしても、正直に言わんで良いのが2つ。

  1. 「人の話を聞かない奴」が、「黙ってる奴」に意見を求めている場合(多い)
  2. 「自分の意見を支持してもらいたい奴」が、意見を求めている場合(多い)

こいつらが悪いから適当にあしらっとけ。元から絡んでるか巻き込むつもりかだから、こいつらが黙ってるべきなんだけどな本当は。

「自分」と「他人」のイメージの再確認

自己イメージと他者イメージ。他者イメージは相手を個人として見るか「人間」として見るかで違ってくる。

意見を「言う」のは、必ず他者が相手として存在する。なので個人の問題であったとしても、「他者をどう思っているか」もまた影響を及ぼす。

極端な話、基本話を聞いておらず、曲解し、誤解し、突然発狂し、訂正は受け付けず、みたいな人間観してたら誰だって、誰にも意見は言いたくない。でまぁ、実際にこれに近い「予測」を立ててしまう人もいる。

「相手を選べ」というのはかなり大きくある。
特に「従順な子供」の傾向が強い場合、相対位置に有るCP「規範的な親(規則正しいとか支配的とか)」が強い人物には言いづらいだろう。

補足すると、片方の態度により、相手の何らかの態度が引き出される場合がある。CPはACを引き出しやすくはある。簡単に「威張った奴と萎縮した奴」の構図。

目的は何か

自分の意見を言う必要性を考える=意見を伝える目的を知ることとなる。
目的を果たすのが動機となるため、量も伝え方も、それに最適化ができるようになる。「タイミング・相手・話し方で失敗した」ということは減るだろう。

大体3つある。知らせること。納得させること。選ばれること。
「自分はこう思っている」と伝えるのが目的なら、わかりやすくシンプルにすればいい。
納得させるなら情報源の確かさとか、そういったメタ的な説得材料も必要になる。
自分の意見が選ばれるのは、たいてい他との競争の余地があるため確実な方法はない。

手短に済ませることを意識する

聞き手の集中力は、話し手が聞いてもらうためのリソースである。

目安は70秒くらいとされる。

日本語でひとつの情報を伝える場合、1分10秒から長くて1分30秒くらいがいちばんわかりやすいのです。そこでテレビやラジオのニュースは約70秒前後にまとめられているのです。

https://gendai.ismedia.jp/articles/premium01/42472

これは70秒の法則なんて言われてるそうな。

結論から言え、というのは正しい。前に前に詰め込んでしまったほうが良い。オチは最後に取っておきたい気持ちも分かるんだが、その前に相手が聞く気を失っては元も子もない。

自分の意見が言えない人への対応への警告

意見を言ってほしいなら、信頼関係や人間関係の構築からとなる。心を開いてもらえない、というのはまず間違いなくあるが、それが当人の人生観(自分はこうだから)や人間観(人間ってのはこういうもんだから)などのイメージが原因の場合は気に病むこともない。

意見を言って欲しい側が間違っていることも有る。
当人が模範的社会人で有りたいと思っているのに、「本当はあのことどう思ってる?」とか本音を聞き出そうとするとかね。まず間違いなくうぜぇ奴だと思われていることだろう。

まぁ、別に心を開かなきゃいけない義務もないし、その上で心をひらいてもらえないとジタバタするならそっちの方がハラス臭い。


ハイかイイエで答えられる質問をしましょう、とかアドバイスあるけどさ。これって誘導と強制だからな。「意見がないのが意見」とは認めていない態度。

要するに、「ハイかイイエしか認めない」という態度。まぁ当然、嫌われるね。もちろんそれが妥当か不当かは別の話だし、意見を持たなきゃいけない場面で意見を持ってないのが悪いじゃん、ってのも通るかも知れないが、まぁ嫌われるね。道理と好き嫌いは別物だから。

当人に「言いたくない」のが前提としてある場合、ハイかイイエで答えられる質問を向けるのはダブルバインド(二重拘束)になる。「わからない」という逃げ道を潰して「言えなきゃおかしい」状況を作り、当人の目的は「言いたくない」からだ。追い詰められたと感じられる余地がある。

言わせたいならこれで良いかもね。恨まれたくないならやめたほうがいいだろう。

「意見」とは何か

「意見」って言葉が色々含んでてどうもね。考えを口にするというのもそうだし、意思表明もそうだし、グループの方針としての提案かもしれないし、思ったことを口から垂れ流すことかもしれないし。

これはそれぞれ自分の考え、自分の今後の方針、提案、思いつきと言い換えることができる。

言い換えたほうが良いだろう。非常に紛らわしいから。

自分の考えが出てこないというのなら、大体は問題に対してそれほど感情移入していない。自分は特に困らないと思っているか、流れに任せるつもりでいる。そんな自分を問題視しているのかもしれないが。

自分の方針がわからないというのなら材料不足かもしれないが、大抵はわからないではなくて「決められない」ということが多い。しかも内心ではどれを選ぶかは決まっているが覚悟ができないだとかそのような形の。

「提案」の場合はここで述べたように「どうせ聞いてもらえない」という諦念はあるかもしれない。ただまぁ、相手がいる話になるから確実に採用されるわけでもない。「無駄だからやらない」ってタイプの完璧主義なのかもしれない。

思いつきはまぁ、雑に扱われることも有るだろそりゃ。特に材料は既に出揃っていて結論を出すのが目的の場では閃き程度はむしろ邪魔になるかも知れない。閃きが求められるのはそれよりもっと前の段階だ。

これは重要な話で、なぜ意見を持つ/発言する必要性に駆られているか知らんが、大抵の場合「あらゆるしがらみの影響を切り離した個人の意見」は求められていない。
仕事だったら当然その一員としての意見、プライベートでも親としての意見、パートナーとしての意見など、「役割」という視点からの意見が求められていることがほとんどだ。

求めに応じようとしている場面に限れば、人間性が問われているのではなく、役割を果たすことを求められていることが多い。だがほとんどが「内なる声」を出そうとして藻掻いている。「自分の」という部分に振り回されているようにも見える。


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