人間関係 性格/人格 自分

自分の意見が思いつかない/言えない人

投稿日:2019年4月13日 更新日:

・他人にそう指摘されるか、何か言おうとしても何も思いつかない時に自覚するか。

大抵は更に焦り、ドツボにはまる。

自分の意見が思いつかない原因

・普段ぼーっとしてる時に「今、意見ないな」とは普通思わない。

状況としてまず「意見を出そうとしているから」というのがある。だから意見がない/言えないことに気づく。

意見がある→何らかの理由で言えないならわかりやすいが、意見を言う必要がある→思いつかないとなっている。

自分の意見の必要性を自覚する」ことがトリガーになる。誰かに意見を求められたか、自分で意見が必要だと判断したか。

また、「他人」の存在が関わっている問題であることも分かる。じゃなければ意見を「出す」必要がないからだ。「誰か」に自己主張/自己呈示する必要があると感じている。あるいは自分以外の者が物事を進めようとしているか。
それは具体的な他者かもしれないし、不特定多数の皆/誰かかもしれない。まぁもしかしたら、自分自身にそれを証明したいのかも知れない。

「意見が必要な状況」が先にある。意見が先にあるのではない状態。別にここまでは問題ないね。その後考えりゃいい。

・この上で意見が出てこないなら「必要な時に意見が出てこない」ということになる。この状況が「考えが浮かばない」「考えられない」などとも言う。

特に思考の「目的」が思い浮かばないケース。つまり「何考えたら良いかがわからない」状態。単に「何か言わないと」と感じただけだとか。

特に急かされればそうなりやすい。

付和雷同

・付和雷同とは、自分の意見がなく、他人の言動にすぐ同調すること。

「周りに合わせるつもりだから、自分の意見が出てこない」。誰かの発言を待っている状態。これに加えて何かしらの意思表示はしたいと思っていると、他人の意見に飛びつきやすくなる。

・人間は何をやるつもりであるかで2つのモードに分けることができる。「あることモード」と「することモード」。

大抵「周りに合わせるつもり」の「することモード」になっている。文化的に空気を読むことは身に付けさせられるからね。本能でもある。

先に「周りに合わせた意見」を考え、思いついてしまったから、自分の意見がでなくなった状態。

・簡単に言えば意識のアンテナが周囲に向けられている。自分の意見を持つなら、自分の中に向け、言語化しなくてはならない。

他者に合わせなくてはならないと思っているのなら、ほぼ強制的に外部に意識が引っ張られる。アダルトチルドレンが自覚する「自分のなさ」も、家庭が安心できる場所ではなかったせいで他人を気にするセンサーが発達しすぎたからだ。

・幼い頃から意見を否定され、押し付けられて育った、という話も多い。これも自分の意見より「周りに合わせること」を優先するよう仕込まれたと言える。繊細すぎて本人が自分からそう思ってしまった例もある。

このように共感能力や「空気を読む」というのはマイナスの面がある。同調圧力もそこら中にあるから、家庭が原因とも限らない。

・雑談の場で、相手が「ゲスト」で自分は「インタビュアー」のような立ち位置に自然となるなら、この可能性は高い。

聞き役に回っているというよりも、相手に喋らせてばかりいる感じ。

客観的な見方しかできておらず、会話に「参加」しているかというとちょっと首をひねるような。
物語で言う読者目線での視点と思考。せいぜいが「役者」であり、裏を返せば登場人物としての視点を持てない。

まぁそれができる必要があるかって言うとないかもしんない。実際空気読めたほうが得だしねぇ。

・一般的なイメージだと、自分の意見というのはわがままの属性を持つ。ぶっちゃけ周りを一切気にしないで思いついたことを自分の意見と呼んでいる人は多い。

グループで食事に行くとして、うどんと蕎麦とどちらが良いかと聞かれたとしよう。蕎麦が食いたいとする。意思表示してみよう。まぁ普通に言えるわな(この時点でマイノリティな意見を言ったら死ぬと思ってる人もいるけど)。

口にする前に、グループ内に蕎麦アレルギーが居て蕎麦食ったら下手したら死ぬことを思い出したとしよう。まぁ蕎麦屋に行こうとは言えなくなる。

これは一見すると、周りが見えるから自分の意見が言えないようには見える。

ただ、こうとも言える。「蕎麦くいたいが蕎麦アレルギーをハブるわけにもいかんのでうどん屋に行くのが落とし所だろうという自分の意見」だと。なげーな。

つまりは空気を読むと和合した意見となりやすい。自分の意見に見えない。見えないだけで、しっかりと自分の意見である。逆を言えばギャラリーにも付和雷同に見られやすいということでもあるが、この場合自分の意見は言えているということは見失わないほうがいいだろう。

・余談だが、ラーメンが食べたい。真面目な話、うどんか蕎麦かと聞かれた時点でフレームが決定され、「その中での自分の意見」を人は自然と考えやすい。

選択肢は基本的に4つある。Aを選ぶ。Bを選ぶ。両方選ぶ。両方選ばない。一見した二択で意見が出てこないのは、両方選びたいか、両方選びたくないからかも知れない。

「自分は」と言えない

・控えめな人である傾向が高いが、その分「自分は」という言葉が使えない。やたら言いすぎても逆方向に問題があるんだが(自己愛傾向)。

また、目立ちたくないのか「一般論」な発言が多い人。必要な時に「自分はこう思う」と言えないのなら、口にする意見の全ては「世間の一般論として通用しなくてはならない」ことになる。ハードル高い。

これらは下手な場合は「主語が大きい」として嫌われるかもしれない。
上記の傾向があり、なおかつ正義感が強い場合はまずそうなる。同調圧力を振り回しまくる言動になる。

「自分はこう考える」という言い方の方が気楽になれる場面もあることは知っておいたほうが良いかも知れない。

「あくまでも個人の意見です」とするのも手だろうさ。

思うところはあるのだが、言葉としてはでてこない

・色々感じるが「」としてはでてこない。まぁ、ある意味普通?

内言と外言という概念がある。頭の中で思う述語中心の省略された頭の中の言語が内言。外言は普通に人と話す時の言葉だ。

一人暮らしを始めた人間が独り言を言うようになるという話があるだろう。で、「風呂を沸かさないと」といいながらテレビつけて横になるなど、割と言動が一貫していないなんて話もある。

これは思っただけであり、やるかやらないか決定していない段階で口にでているからだ。

これがけしからんことに見えるのは、裏を返せば人の「発言」はイコール「決断/覚悟/責任を持って口にされるべきものだ」という先入観がある。

独り言は悪いとも限らず、発声は前頭葉を使うから良くて、むしろ独り言我慢して黙ってるとイージーミスとか増えるなんて話もある。

・何かを感じる、思うなど。意見の元となるこれらはまず内言として発生する。あるいはそれよりも更に儚く、クオリアとして。

一方「」は、ここまで述べてきたとおり「他者」に伝えるという目的を持つ。あるいは日記に書くなどの個人的な言語化が目的だったとしても、これは内言から外言レベルに変換するという意味では同じだ。

まぁ要するに、他人に言える言葉としては待ってても湧いてはこないだろと。だから「ある意味普通」と。

意見とするなら内言を外言化しなくてはならない。それができないほど茫洋としているのなら、まず掘り下げるということを。

」と言えるほどじゃない

・「結論」を言わなければならないと思っている。

「疑問だと感じている」「疑わしいと感じている」「イマイチ信用できない」「お前が何言ってるかわからない」ってのも「意見」なのにね。どうでもいいとか関係ないとかも意見である。

ちなみにユカタン半島の「ユカタン」という言葉の由来は諸説あるが、「お前が何言ってるかわからない」という意味の現地の言葉という説がある。

総じて「意見」という言葉にご立派なイメージを当てはめ、それに尻込みし、発言を恐れている。「意見というほど立派じゃない」のが理由で。

・想定しているハードルが高い。「意見」という言葉に対して完全性を見出している。
あるいは、自分の意見が否定されたくない、意見を言うなら賛同・尊重されたいといった理由からの「言えるレベルの意見はない」という状態。

「意見を言うこと」自体にこのようなブレーキ(否定に対する恐怖・)がかかるなら、少し積極的になることも考えたほうがいいかもしれない。

少なくとも意見が伝わるかどうかはスキルと、相手に聞くつもりがあるかどうかの問題になる。逆を言えば相手が聞くつもりが無いような奴だった場合、自分の意見を言う気が削がれても別におかしくない。

・意見を言おうとすると「何か頭のいいことを言わないと」みたいな気負いが生まれる人がいるようだ。これもハードル上がるし、積極的に斜め上に行くし、批判的になるしでデメリットが多い。

周りを唸らせるような素晴らしい意見を、とか思ってると大体何も出てこない。

自惚れや目立ちたがりとは限らず、「恥を掻きたくない」という気持ちが強すぎて過度に「まともな意見」のハードルを上げていることが多い。

ただ、現実に発言には責任が求められることは多いだろう。そういった責任感が強すぎると意見が出てこなくなるかも知れない。緊張して頭がまわらないのもそうだし、発言のリスクが跳ね上がる。

・ちと重症。

感情労働は対人サービス業などで問題視される「感情の酷使(我慢や緊張を含める)」とそれによる様々な問題。今ではこの範囲は拡大されており、サラリーマンから主婦まで、まぁ誰でも当てはまるだろう。

・これは表層演技と深層演技の2種類がある。

この内「心からの演技」である深層演技は心身を病むリスクが高まる。本心からそう思う様に自らに強いるからだ。これはルーキーの方が多いらしい。
ベテランであるほど表層演技(悪い言い方をすれば形だけの対応)に長けている。

・深層演技の場合、演技している自覚すらないことがある。前述の「周囲に合わせる」という感情労働を強いられているか、或いは自主的にそう強いている場合には、「周りに合わせることが自分の意見」という状態になってしまう。

・また、これが原因で燃え尽き症候群もあり得る。

この場合、症状の一つに「脱人格化」がある。テンプレ的な対応しかしなくなるなどの人間味がなくなってくる。

「潜在的特権意識とそれによる傷つき」と「

・過敏型の自己愛、要は自分はもっと尊重されるべきだと思いつつも周りの目が怖いみたいな心理がある。この場合、過度に人目を気にする。

・この中で「潜在的特権意識とそれによる傷つき」という尺度がある。

自分は注目を集めるに足るはずなのにそうじゃないと不満を感じる、傷つく、自分の扱いが丁寧じゃない、と他人に対して不満を持ちやすい。

・根本的に「自分は尊重されるべきだ」と思いこんでいるのが原因なのだが、まぁこの態度で意見を言っても、反発食らう可能性のほうが高いだろう。

何度も承認/称賛してもらえなければ「学習」する。自分は相手にされない。意見を言っても無駄だ。そのうち意見も湧かなくなるだろう。無力であるとの学習。

・過敏型の自己愛に限らず、意見が言えない理由は全体的に「人の目/リアクションを気にすることによる萎縮」が原因であることは多いように見える。

心の「構え」

・心理学用語で「構え」と呼ぶ概念がある。
その人が特定の状況に対して「予期」をしたり、行動の「準備」をしたりなどの精神状態を指す。

B級スプラッタ映画でバカップルがいちゃつき始めたら「ああこいつらこの後死ぬな」と予測して首チョンパのシーンに対して身構えている時の精神状態だ。分かりづらいか。

悪いこととは言えない。不意打ちよりも予測して身構えていたほうが大体はいい。

反対に、前例や成功例をトレースしようとする「構え」のせいで目の前の最適解を見落とすような傾向もある。

・今回で言えば、2通り考えられる。

・「模範解答(社会的な解答)」をしようとする構えにより、相対位置にある「自分の(個人の)意見」が出てこない。

・個性的、または頭のいい「」を言おうとする構えによって緊張し、何も頭に思い浮かばない。平凡な解答はフィルターによりカットされる。

仮に模範型、個性型とでも呼ぼうか。

自分の意見がない 模範型

・ノームという概念がある。日本語で「集団規範」と訳される事が多い。
そのグループのメンバー同士で共有されている、価値判断や行動様式のための規準をそう呼ぶ。
これのおかげで自然にある程度の適応ができる。特別なものではない。

思考もそうだが、物事を考える「視点」にも影響を与える。「適応の構え」がこの時点ですでにある。

朱に交われば赤くなる、と言うがまさにそれだろう。それも価値観レベルで。
所属しているグループの品性は問わず、それに馴化していく。

ただ、見方を変えればこれは「わがままを言わなくなった」「周りに合わせられるようになった」という話だ。

・逆に「本音」は出なくなる。「考え方」から馴化されるなら。
集団規範は、本当の意味での自分の意見、つまり「本音」とは対立すると言える。

つまり、「考えなくても自分の本音はわかるはずだ」という考えは、怪しい。

言い方を変えようか。感じたこと、閃いたことの「出どころが怪しい」。

自分の意見というのは「本音」の言語化だろう。だが価値観レベルで集団規範に馴化されれば(というか何らかの影響はほぼ必ず受けている)、考えなければ自分の意見がわからない、というのは別に不思議じゃない。

・まぁ思ったこと全部口にする奴がどれだけ嫌われてるかは言わなくても知ってるだろうし、単純にそれができたところでワガママ、協調性ゼロと言われても不思議はない。

そもそも模範型はそういった連中が嫌いだったり、そういった扱いをされたくないから模範型になったのだと思われる。

つまる所、口にするべき「」は無難な落とし所であったり、言い方を考えたりなどの「ひと工夫」は必要ではある。「意見を求められても言わないほうが良い」という場面もあるだろう。

そういったものを扱うより、「自分の本音に目を向けない」癖を付けた方が楽ではある。気づいたら勝手にそうなってた可能性。

正直、便利で安全であるメリットもあると思うけど。

自分の意見がない 個性型

・別に目立ちたがり屋とも限らない。「自分の」考えを言え、って言われすぎて「個性的な意見しか許されない」と思い込んだ、実質的には模範型もこちらに含まれる。

・今回、自分の意見がないこと自体が問題と言うよりは、意見がないことを問題だと思うことが問題、って部分もある。

興味がないことに対してなんとも思わないのはおかしくない。
そのおかしくないことをおかしいと思っているとしたらおかしいだろう。

個性を過剰に求めるのは、多感な時期(と呼ばれるのも嫌だろうが)な年頃の場合に特に多い。

人には、一人の人間として見てもらいたい気持ちと、集団規範を弁えた「立派な(または普通の)人間」として見てもらいたい気持ちの両方がある。

「個人」としてみてもらいたいか、「仲間」として見てもらいたいか。

・この「個人」としてみてもらいたい欲求が強い時、「個性」を出そうと必死になったりはする。
中二病が中二あたりで発症するのは偶然ではあるまい。

また、青年期にも自己愛が肥大化するという説もある。こちらの場合、「社会と立ち向かえる自分」を演出、または自分はそうであると鼓舞するためだとされている。当然自己提示、つまり「自分はこうである」という他者へのアピールにも繋がるだろう。

ただ、1+1は2だ。「誰がやってもその結論になる」という場面は結構ある。この辺りを見落とすと、「他人と同じ結論になったからやりなおし」と無限ループしかねない。

問題が1+1である状況で、「2以外の答えを出そう」なんて考えても、なんかおもしれぇことにしかならんだろ。哲学か禅の考案か頓知の世界に踏み込みたいなら話は別だが。

どれにせよ、ここでもやはり「他人」を意識しすぎているかもしれない。

自分の意見が思いつかない対策

・まぁ頭の使い方って結構好みがあるんだよね。情報処理の仕方と言ってもいいが。

「仮説」を立てる

・「意見」はその者の方針を決定する一種の「結論」として扱われやすい。そうなると意見を持つこと自体が一種の意思決定となる。当然、気楽になれずに緊張する。

自分の「意見」或いは「考え」とするから緊張する。萎縮する。仮説とするならこれは避けられる。

・仮説であるから複数あることが望ましい。時に自分で考えたものにイケア効果(努力に比例して自分の成果物が実際の価値以上に見えるバイアス)のような過大評価を持ってしまうこともあるが、複数なら一つに固執はしない。

模範解答

・まぁなんか言っとけって時には。

意見を求められたなどの受身の場合はこれでいいだろう。無駄にオリジナリティ発揮しても大体滑るからな。「エゴ」と「意見」とを混同しないよう。

我を張るのが自分の意見があることだ、という勘違いをする者は多いが、真似しちゃいけません。別に模範解答のような答えが自分の意見なのなら、それは全く構わないだろう。

・「自分の意見を言ってるのに意見がないと言われる」のは大体模範解答言ったからで、まぁ相手側の過度な期待であることが多い。そいつはそいつで聞いて回るくせに自分の意見はなかったりな。

・また、「特に関心ないから/思い浮かばないから模範解答を提示。これが自分の意見」という意見はアリだろうさ。冷たく見られることもあるかも知れんが。

時間を確保する

・経験ないだろうか。後から「あれはああいうことだった」とわかったり、「ああすればよかった」と後悔したり。

すぐに意見が出てこない、ということは往々にしてあるものだし、すぐに出てきたところで正しいかどうかはちと怪しい。

うかつに答えるわけには行かないのなら、時間を確保するべきだ。まぁその確保した時間で考え無くてはならないが。

・また、それを許さずに重要なことをすぐに決めさせようというのは詐欺や洗脳に近い。日常的にこれをやって物事や他人の意見を思い通りにしようとする天然もそこそこ居るので注意。

人付き合いが苦手などの理由で空気を読みすぎると、会話の「テンポ」ばかり気にしてその場で軽く約束してしまったり、適当な相槌をして碌でもない意見に同調してしまったりしがちなため、これも注意。

雑談について

・考え込んでしまうとこれが一番難しかったりする。どうでもいいやつ相手ならまだしも、仲良くなりたい相手なら尚更だろう。

意見がないということは「自分が出せない」ということだ。相手はこれを「壁」と感じるだろうし。

慰めや励ましは他所に任せるとして、方針くらいは思いつきたいものだが。

・会話に於いて「聞き役」であれ、というのは一理あるんだが、それで好感度が上がるには、そもそも信頼がなくてはならない。

人の抱えてる欲求は「話したい」ではなくて「話を聞いてもらいたい」であり、要するに一種の「受容」をしてもらいたいということだ。

このため相手は流石に選ぶ。少なくとも「どんな人か」という情報は欲しいわけだ。

「全く面識のない人のほうが自分のことを話しやすい」ってのは、ある意味仮想実現になる。それっきりの縁で後腐れがないから。

逆を言えば、相手が同じ職場や同じクラスとかだと後腐れがある。口が固くなければならないし、反論もされたくはないだろう。距離が近いほうがハードルは上がる面がある。

面識があって自己開示を全くしないなら、警戒対象になりやすい。「何考えてるかわからない」と。

尚更に自分の意見を言わないと、として変なことを言ったり緊張してしまったりで悪循環なこともある。

まぁなんというか、思ったことの内から「無難なもの」を選んで口にしれてれば良いとは思うが。

直感をまず知る

・「意見」や「考え」という言葉に騙されて一から論理的思考をすると、模範解答になるか冷酷な合理主義になるかになりやすい。

意見が分かれるのは基本、思考のスタート地点(前提)が違う、目的が違う、情報量が違う、のいずれかの違いだ。この3つが同じで「考える」という行為を行うなら、ほぼ同じ結論になる。

これは「計算」に近く、「」と呼ぶにはちと違うかもしれない。

・逆に「自分の意見」というのは、悪い言い方をすれば偏見や固執のような「癖」が出る。

「独自の視点」ってのも考えてやってるわけじゃなくて、大体は素だ。最初からその視点。つまり何らかのベースがある。既存の知識、経験、価値観、その時の気分も含めていいだろう。

・「付和雷同」はこれを押さえつけるため、自分の意見は出辛い。「自分の気持すらわからない」ことの大半は、意識のアンテナが「外部」に向いているからだ。

・脳の一部は思考とは別に一種の結論を出す。直感、閃き、或いは感情。既存の知識・経験との共通点を見つけるかも知れない。ここからスタートした思考、発言は「自分の意見」に見られやすい。

・要は「それを見てまずどう思ったか」。それはなぜか。

掘り下げる

・これは意見そのものを見つける時と違い「ツール」、要は意見を考える時の指針となる自分のパターンを見つけるという話。

根本的に、自分の意見が毎度毎度わからないのなら、「自分は自分をよく知らない」ということを認めるべきだろう。そうすれば自分を知ろうとするという方針を持てる。

・なぜ好きなのか、嫌いなのか、良いと思うのか、悪いと思うのか。掘り下げてみると面白い。

・大抵頭に閃くものというのは思考のスタートではなく、既に一種の結論であることが多い。

特に好き嫌いというのは脳的に言えばだいぶ原始的な部分で判別しており、これは記憶に基づいた直感的な「結論」に近い。その結論を導いた道程は本人に自覚がないこともある。

価値観、経験、美的感覚、自分の中の「何か」と反応した結果。

自分の中に何か浮かぶことは、結果だけ知った状態だ。何と反応して「それ」ができたのかは認知できない時もある。

それを理解することは、自分が何にこだわり、何を嫌い、何を求め、何と戦うのかを発見することにも繋がる。意見を持つ「指針」となるだろう。

・まぁ、わかった上で「やべぇだろ自分」となるかも知れないが。それはそれで自覚がなかった今までの方がむしろやべぇので良しとしたほうが良い。

自分の意見が言えない人

・思いつかないではなくて「言えない」人には何が考えられるか。
発言することに苦手意識を持つ人は多い。何か案を募られたような場面でも、まず左右の人間の動きを見るだとか。アレ目立つね。

・身もふたもないこと言えば、言ったらどうなるか一切考えないなら言えるだろう。逆を言えば、そこを気にすれば言うかどうか迷うし、気にしすぎれば言えなくなる。
だからまぁ、迷う程度が丁度いいのだろう。「気づいたら言ってた」ってのは別のベクトルで問題がある。

あるいはもっと露骨に「自分の意見が言うのが怖い」という声もある。「意見する」という言葉自体、大抵の人は自己主張か他者否定のニュアンスを感じるものだ。言えない理由もまたその辺りと繋がっていることが多い。

具体的には、

  1. 自分の意見が他者の否定になりはしないか
  2. 間違っていたら恥をかく
  3. 意見を否定されることの恐怖

1は他者否定として取られることの懸念。
2は自己主張の失敗。
要するに意見を言う=喧嘩を売ることになるか自爆のリスクへの懸念。で実際にそういう可能性はあるだろう。特に「言うべきだ」と思って意見を述べるなら1になりやすい。大体そういう状況だから。

何でもかんでも「言えないのが悪いこと」で、「言えるようにならなきゃいけない」って認識なら、それは極端だと言える。言わない方が良い時もあるし、黙ってた方がマシな言い方もあるわけで。

3は難しい。当人が恐怖症に近い状態かもしれないし、相手が「そういう奴」かもしれないし。前者なら克服の必要があるかもしれないが、後者の場合(どうせ話を聞くつもりもないので)意見を述べないほうが精神衛生上よろしいというのはある。具体的にどこが気に食わないか言うような相手なら話は別だけどね。その場合自分がそれ受け止められるのかどうかが問題になる。

・よく会議とかでダメなおっさん共を指して言われているのが「対立意見が出ると人格否定かなにかと捉えてクッソ恨みに持つのがいてうざい」というもので。まぁそういうのが相手なら黙ってた方が得だというのはある。

一方で、人にそういう心理があるのも事実だろう。一瞬、自分が否定されたような感覚がするような。それが怖いというのなら、まぁ意見を出さないというのはその痛みの予防にはなっている。それで良いのか悪いのかは、自分で考えることだね。何と何を天秤に乗せて計るのかに依る話だ。

・内容は同じでも、言い方次第で印象は違う。この辺りを「上手になりたくない」という人がいくらかいる。

「巧言令色鮮し仁」という言葉がある。巧言は文字通り口先が巧みであること。鮮(すくな)しは少ないということ。仁は思いやりの徳。要するに口がうまいのは不実っぽいというかそんな感じになる気がして。

だが誤解を招いたり、感情的な反応を引き出すこともまた本望ではないだろう。「うまい言い方」が好きだろうが嫌いだろうが、いくらか習得したほうが良いと思われる。せめても意図通りに相手に伝わるように。逆を言えばびっくりするほど曲解するのもいる。正気かどうか疑わしいレベルで。

この辺りが苦手だという自覚があるのなら、意見を述べる相手はあなたの話を理解しようとしてくれる人を選ぶのがいいだろう。頭の良さはあまり関係ない。

拒否回避欲求

・否定されたくない、嫌われたくない、悪い評価を受けたくない、という欲求を拒否回避欲求と呼ぶ。一見反対だが、これも承認欲求の一部。従来の承認欲求は賞賛獲得欲求を指す。

発言にはリスクがある。アホなこと言ったらアホ認定されるわけだ。

一方で「自分の意見を示したい」というのは賞賛獲得欲求と呼ぶほどドギツイ自己主張ではなく、自己提示つまり自分はこう見られたい、このような意見を持っている、というほどほどな主張ではある。

ただし他者評価に過敏になれば、その分拒否回避欲求は強まる。否定されるのではないか、異論が出てくるのではないか、笑われるのではないか。

このような具体的なネガティブなものでないとしても「どのように思われるだろう?」という漠然とした不安も人を萎縮させる。まぁそういうもんである。

「意見」や「考えた」ではなくて、「感じた」とか「思った」とか弱めの主張にしておくのも手ではある。これは結論とせず、まだ思考の途中だ、とする保険。

どの道、拒否回避欲求をなだめながら自分の意見を口にするとなると、考えなしか、度胸か、慣れか、言い方的な技術か、いずれかが必要ではあるだろう。

空気を読んだ

・拒否回避欲求は誰にでもある。前述したが、会議とかで意見を求められてもまず周りを伺い様子見するようなのは多い。率先して自己主張するのがみっともない、みたいな空気も確実にある。

日本人は特にシャイネス(対人不安や他者を意識した不快感や我慢)が高い。承認欲求が安直にみっともないことだとされがちなのもこれが原因だろう。実際迷惑なのもいるが、必ずじゃない。

Zimbardo, P. G.の報告によれば,日本人の若者(18歳~21 歳)は欧米人よりシャイネス経験がはるかに高いという。日本人の実に 90% 以上が自分をシャイだと感じた経験があり,75% がシャイな自分を問題だと考えていた7)。

https://www.jstage.jst.go.jp/article/stresskagakukenkyu/27/0/27_55/_pdf/-char/ja

まぁ白人も醜形恐怖症や加害妄想が文化依存症候群だったりするので、苦労のない国民性なんて多分ないのだが。

意見を言うことが歓迎されないような空気が形成されやすいことは忘れないほうが良いだろう。
「空気を読んで正解」の場面は多いということ。自分の意見を表明するかしないかしか頭にないようだと、意見の内容ではなくタイミング的な理由で失敗するかもしれない。

・逆にこれらを踏まえた上で意見表明するような場面があるかと言うと、授業中や仕事中ではそんなにないだろう。

ただ、友人関係と呼ぶのに抵抗があるような友人関係とかだとあるかもしれない。強引だったり、押し付けがましかったり、馴れ馴れしかったりする相手に「NO」と言わなくてはならないような場面。







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