人間関係 性格/人格 自分

自分の意見が思いつかない/言えない人

投稿日:2019年4月13日 更新日:

・他人にそう指摘されるか、何か言おうとしても何も思いつかない時に自覚するか。大抵は更に焦り、ドツボにはまる。

自分の意見がない人

・付和雷同とは、自分の意見がなく、他人の言動にすぐ同調すること。最初から周りに合わせるつもりだから、自分の意見が出てこない。

これに加えて何かしら考えているふりはしておきたいと思っていると、他人の意見に飛びつきやすくなる。

 

・外交性/社交性が高いほど自分の内面がわからない傾向はあるらしい。極端な例としては演技性パーソナリティ障害がある。強すぎる外向性と、内面の希薄さからくる被暗示性(暗示にかかりやすい/影響を受けやすい)が挙げられている。

 

「自分は」と言えない

・控えめな人である傾向が高いが、その分「自分は」という言葉が使えない。やたら言いすぎても逆方向に問題があるんだが(自己愛傾向)。

また、目立ちたくないのか「一般論」な発言が多い。無難なことしか言わない。必要な時に「自分はこう思う」と言えないのなら、口にする意見の全ては「世間の一般論」として通用しなくてはならないことになる。ハードル高い。

これらは下手な場合は「主語が大きい」として嫌われるかもしれない。
上記の傾向があり、なおかつ正義感が強い(他者を操作しようとする)場合は同調圧力を振り回しまくる言動になる。

「自分はこう考える」という言い方の方が気楽になれる場面もあることは知っておいたほうが良いかも知れない。

 

思うところはあるのだが、言葉としてはでてこない

・色々感じるが「」としてはでてこない。まぁ、ある意味普通?
単純に「言葉」としては出てこないだけで、感じたり思ったりはしている。この上で言葉が出るのを待ってると、いつまで経っても出てこない。

 

・内言と外言という概念がある。頭の中で思う述語中心の省略された言語が内言。外言は普通に人と話す時の言葉だ。内言はそのまま形にしては自分でもわからない。思ったり感じたことの副産物的な言葉。

一人暮らしを始めた人間が独り言を言うようになるという話があるだろう。で、「風呂を沸かさないと」といいながらテレビつけて横になるなど、割と言動が一貫していないなんて話もある。

これは思っただけであり、やるかやらないか決定していない段階で口にでているからだ。

これがけしからんことに見えるのは、裏を返せば人の発言は決断/覚悟/責任を持って口にされるべきものだ、という先入観がある。

 

 

・何かを感じる、思うなど。意見の元となるこれらに続いて内言が発生する。

一方「」は、「誰か」に伝えるという目的を持つため外言が必須である。日記に書くなどの個人的な言語化が目的だったとしても、これは内言から外言レベルに変換するという意味では同じだ。内言をそのまま文字にした場合、恐らく5分後には自分でもわからない文章ができあがる。

まぁ要するに、他人に言える言葉としては待ってても「湧いてはこない」だろと。だからある意味普通と。

意見とするなら内言を意識的に外言化しなくてはならない。それができないほど茫洋としているのなら、まず掘り下げるということをする必要がある。

 

」と言えるほどじゃない

・結論を言わなければならないと思っている。あるいは意思表明をしなくてはならないと。これらは「決断」が要る。

「疑問だと感じている」「疑わしいと感じている」「判断材料が足りない」「イマイチ信用できない」「自分には関係ない」「まだ考えてる途中だから黙ってろ」「人に意見を聞くくせに自分の意見は言わないお前がウザい」ってのも「意見」だろう。

「意見」という言葉に「決意表明」のようなイメージを当てはめ、それに尻込みし、発言を恐れている。「意見というほど立派じゃない」のが理由で。

 

・想定している目標値が高い。「意見」という言葉に対して完全性を見出している。
あるいは、自分の意見が否定されたくない、意見を言うなら賛同・尊重されたいといった理由からの「言えるレベルの意見はない」という状態。

少なくとも意見が伝わるかどうかは話術スキル、相手との関係性、そもそも相手に聞くつもりがあるかなどの問題になる。逆を言えば相手が聞くつもりが無いような奴だった場合、意見を言う気が削がれても別におかしくない。「言っても無駄だろう」と。

 

・意見を言おうとすると「何か頭のいいことを言わないと」みたいな気負いが生まれることもある。これもハードル上がるし、大抵重箱の隅をつつくか揚げ足取りかになるしでいいことはあまりない。

周りを唸らせるような素晴らしい意見を、とか思ってると大体何も出てこない。フィルターがアイデアの全てをカットしてしまうだろう。

自惚れや目立ちたがりとは限らず、「恥を掻きたくない」という気持ちが強すぎて過度に「まともな意見」のハードルを上げていることが多い。クオリティが高ければその分安心できるから。

 

自分の意見がない/思いつかない原因

・普段ぼーっとしてる時に「今、意見ないな」とは普通思わない。

状況としてまず「意見を出そうとしているから」というのがある。人か出来事か、何かに対して意見を出す必要があるから、意見がないとか思いつかないと気づくことになる。

誰かに意見を求められたか、自分で意見が必要だと判断したか。

また、「他人」の存在が関わっている問題であることも分かる。じゃなければ意見を「出す」必要がないからだ。

「誰か」に意見を述べるという自己主張/自己呈示の必要があると感じている。

それは具体的な他者かもしれないし、不特定多数の皆/誰かかもしれない。もしかしたら、自分自身にそれを証明したいのかも知れない。

「意見が必要な状況」が先にある。意見が先にあるのではない状態。別にここまでは問題ないね。その後考えりゃいい。

・必要性が先にある場合、当然意見が出るにしてもその後からだ。ただし焦ると衝動性が高くなり、思考がしにくくなってくる。

関心がない

・まぁそりゃ出てこないよ。興味ないんだから。

・関心がなくても意見しようとした場合、当然感情の回路はオフに、合理的思考の回路がオンの状態で意見することになる。

よくある嫌われそうなド正論か共感が欠如したサイコパス的な意見になる。
正論も基本的には文脈を理解せずに言った場合サイコパスに近い。正論が銀の弾丸だと思ってる奴いるけど危険人物だね。

ともかく、どちらかと言うと、「何も閃かないで良かったな」とかそんな状態と言える。

 

心の「構え」

・心理学用語で「構え」と呼ぶ概念がある。
その人が特定の状況に対して「予期」をして、認知や行動の「準備」をしたりなどの精神状態を指す。かなり方向が限定された準備状態。その分それ以外には弱くなる。

悪いこととは言えない。不意打ちよりも予測して身構えていたほうが大体はいい。

反対に、前例や成功例をトレースしようとする「構え」のせいで目の前の最適解を見落とすような傾向もある。

・今回で言えば、2通り考えられる。

・「模範解答(社会的な解答)」をしようとする構えにより、相対位置にある「自分の(個人の)意見」が出てこない。

・個性的、または頭のいい「自分の意見」を言おうとする構えによって緊張し、何も頭に思い浮かばない。平凡な解答はフィルターによりカットされる。

仮に模範型、個性型とでも呼ぼうか。

自分の意見がない 模範型

・他人の視点を意識して、模範的な振る舞いしかできないタイプ。完璧主義で言えば社会規定型。

まぁ、その方が世間体はよろしいだろう。はっきり言ってしまえばこの国は自己主張が歓迎されるお国柄でもないわけで、それに適応していると言える。というかなんだろな、「他人の意見への姿勢」のレベルが著しく低いような気がしなくもない。外国の実態も知らんけどさ。

さてそれでも自分の意見というものを求めるなら、これは世間様とは切り離して自分対対象として考えるしか無い。これより先に模範解答が思いついてしまうため、「自分の目」で綺麗に見れないという状態だと思われる。

パソコンの知識がそこそこあるなら、エミュレータと言えばなんとなく伝わるだろう。干渉しないところで演算しなくてはならない。じゃないとほぼ混ざるか、乗っ取られる。

 

・ノームという概念がある。日本語で「集団規範」と訳される事が多い。
そのグループのメンバー同士で共有されている、価値判断や行動様式のための規準をそう呼ぶ。
これのおかげで自然にある程度の適応ができる。特別なものではない。

朱に交われば赤くなる、と言うがまさにそれだろう。
所属しているグループの品性は問わず、それに馴化していく。

ただ、見方を変えればこれは「わがままを言わなくなった」「周りに合わせられるようになった」という話だ。その集団に馴染んできたと呼ぶのが一番自然かな。

個人的な意見も変化する。「考え方」から馴化されるなら。
集団規範は、個性という意味での自分の意見、つまり「本音」とは対立すると言える。

まぁ本音が良いものとは限らない。思ったこと全部口にする奴がどれだけ嫌われてるかは言わなくても知ってるだろうし、単純にそれができたところでワガママ、協調性ゼロと言われても不思議はない。

そもそも模範型はそういった連中が嫌いだったり、そういった扱いをされたくないから模範型になったのだと思われる。

つまる所、口にするべき「自分の意見」は無難な落とし所であったり、言い方を考えたりなどの「ひと工夫」は必要ではある。「意見を求められても言わないほうが良い」という場面もあるだろう。

そういったものを扱うより、「自分の本音に目を向けない」癖を付けた方が楽ではある。気づいたら勝手にそうなってた可能性。

正直、便利で安全であるメリットもあると思うけど。

 

・別の切り口やると、まぁ変化/順応したところで個人の意見と言えるっちゃ言える。「学習した」とか言いかえれば妥当っぽい。

この上で自分の意見がないと思うのなら、それは「個性がない」との悩みにかなり近いものになる。正確に言えば、自分が個性があるとは思えないという感じか。

ところで味噌汁の具やら、おでんの具やら、カレーの具やら隠し味やらは、各家庭に個性があったりするものだ。この上で、各家庭それが「普通」だと思っている。おふくろの味ってやつですかね。

単純に、自分がそのグループとしか付き合いないから自分の個性がわからないだけかもしれない。それだと自分の行動範囲の問題になる。

 

・こう言った自分の意見がわからないという悩みについてのベタなアドバイスとして「日記書け」ってのが有ることは挙げておく。何よりも「一人で、自分だけの価値観で、物事を振り返り評価する時間」を作れという話。こちらは模範型というより埋没型とでもしたほうがよかったか。

 

 

自分の意見がない 個性型

・オリジナリティを求める。

 

・承認欲求の場合もあるが、別に目立ちたがり屋とも限らない。「自分の」考えを言え、って言われすぎて「他と同じではいけない」「個性的な意見しか許されない」と思い込んだケースも含める。


・今回、自分の意見がないこと自体が問題と言うよりは、意見がないことを問題だと思うことが問題、って部分もある。

興味がないことに対してなんとも思わないのはおかしくない。
そのおかしくないことをおかしいと思っているとしたらおかしいだろう。

どうも「自分の意見」と美化して、思いついたことを口から垂れ流れてるのを正当化したり、利己的な都合を押し付けたりするのも結構いるしな。ああいうのを「お手本」にするなら、まともであるほどおかしいってことになる。


個性を過剰に求めるのは、多感な時期(と呼ばれるのも嫌だろうが)な年頃の場合に特に多い。

人には、一人の人間として見てもらいたい気持ちと、集団規範を弁えた「一人前の(または普通の)人間」として見てもらいたい気持ちの両方がある。

「個人」としてみてもらいたいか、「集団の一員」として見てもらいたいか。


・この「個人」としてみてもらいたい欲求が強い時、「個性」を出そうと必死になったりはする。
中二病が中二あたりで発症するのは偶然ではあるまい。

また、青年期にも自己愛が肥大化するという説もある。こちらの場合、「社会と立ち向かえる自分」を演出、または自分はそうであると鼓舞するためだとされている。当然自己提示、つまり「自分はこうである」という他者へのアピールにも繋がるだろう。

ただ、「誰がやってもその結論になる」という場面は結構ある。1+1は2だ。
この辺りを見落として、「他人と同じ結論になったからやりなおし」と変な意見をひねり出すのもいる。

問題が1+1である状況で、「2以外の答えを出そう」なんて考えても、なんかおもしれぇことにしかならんだろ。哲学か禅の考案か頓知の世界に踏み込みたいなら話は別だが。

どれにせよ、ここでもやはり「他人」を意識しすぎているかもしれない。
また、こちらも「埋没への恐怖」が見て取れる。たまには自己主張してみてもいいとは思うけどね。

空気の読みすぎ/人の目の気にしすぎ

・模範型。緊張、萎縮。他者を意識すれば、その分思考や意思のリソースは減る。

・「他者に合わせなくてはならない」と思っているのなら、当然周囲の人間を意識することになる。アダルトチルドレンが自覚する「自分のなさ」も、家庭が安心できる場所ではなかったせいで他人を気にするセンサーが発達しすぎたからだ。

幼い頃から意見を否定され、押し付けられて育った、という話も多い。これも自分の意見より「周りに合わせること」を優先するよう仕込まれたと言える。繊細すぎて本人が自分からそうしなくてはならないと思ってしまった例もある。

 

・このように共感能力や「空気を読む」というのは「自分がなくなる」というマイナスの面がある。同調圧力への被暗示性はそのまま同調圧力を加える側になる可能性にもなる。

まぁ極端な例ではあるが社交性や外向性は、有れば有るほど良いってものでもない。ユングが提唱したとおり、自分の外向性と内向性はどちらも育てるべきだと思われる。

 

・姿勢としては受け身となる。雑談の場で、相手が「ゲスト」で自分は「インタビュアー」のような立ち位置に自然となるなら、この可能性は高い。
聞き役に回っているというよりも、相手に喋らせてばかりいる感じ。あるいは相槌しか打ってなく、話題を自分から振ることはないだとか。

まぁ意見が言える必要があるかって言うとないかもしんない。実際空気読めたほうが判断材料増えるという意味では得だし。おとなしいとか控えめとか言えば長所っぽいしな。

 

感情労働による燃え尽き

・何も考えられない状態。

感情労働は対人サービス業などで問題視される「感情の酷使(我慢や緊張を含める)」とそれによる様々な問題。今ではこのサービス業にとどまらず、サラリーマンから主婦まで、まぁ誰でも当てはまるだろう。特に医療や介護関係の論文が目立つ分野。

・感情労働には表層演技と深層演技の2種類がある。

この内「心からの演技」である深層演技は心身を病むリスクが高まる。本心からそう思う様に自らに強いるからだ。これはルーキーの方が多いらしい。
ベテランであるほど表層演技(悪い言い方をすれば形だけの対応)に長けている。

・深層演技の場合、演技している自覚すらないことがある。前述の「周囲に合わせる」という感情労働を強いられているか、或いは自主的にそう強いている場合には、「周りに合わせることが自分の意見」という状態になってしまう。

・これが原因で燃え尽き症候群もあり得る。

この場合、症状の一つに「脱人格化」がある。テンプレ的な対応しかしなくなるなどの人間味がなくなってくる。

 

・過敏型の自己愛、要は自分はもっと尊重されるべきだと思いつつも周りの目が怖いみたいな心理がある。この場合、過度に人目を気にする。

・この中で「潜在的特権意識とそれによる傷つき」という尺度がある。

自分は注目を集めるに足るはずなのに周りはそう扱わない、と不満を感じる。勝手に傷ついたり、自分の扱いが丁寧じゃないと他人に対して不満を持ちやすい。

・根本的に「自分は尊重されるべきだ」と思いこんでいるのが原因なのだが、まぁこの態度で意見を言っても、反発食らう可能性のほうが高いだろう。ちなみに大抵の人間が心中「自分は中の上だ」と思う傾向があるそうで、ほとんど誰にでも当てはまるだろうね。

意見を言っても何度も承認/称賛してもらえなければ「学習」する。自分は相手にされない、意見を言っても無駄だと。この時点で過大な賛美を期待するのが悪いが。

ともかくそうして諦めて、無力であると学習すれば、そのうち意見も湧かなくなるだろう。

 

・過敏型の自己愛に限らず、意見が言えない理由は全体的に「人の目/リアクションを気にすることによる萎縮」が原因であることは多いように見える。

 

・もちろん学習性無力感のみの場合もありえる。意見や希望を口にしたら頭ごなしに否定される経験を繰り返すとかで。

 

自分の意見が思いつかない対策

・まぁ頭の使い方って結構好みがあるんだよね。情報処理の仕方と言ってもいいが。

感情移入してみる

・関心がなくて意見が思いつかない場合。

感情移入と言っても感情労働になっては精神衛生上よろしくない。言い方を変えれば、「自分が当事者/責任者になった場合のシミュレート」をしてみたらどうかという話。

感情はどのように動くか。何を懸念するのか。何を希望とするのか。問題をどのように解決するのか。必要なものは揃っているか。自分にそれはできるのか。

・ただしこれだけだと単純に責任者/当事者になりきるだけで終わる。それらでわかったことを自分、または自分の立ち位置から再評価すること。

 

「仮説」を立てる

・「意見」はその者の方針を決定する一種の「結論」として扱われやすい。そうなると意見を持つこと自体が一種の意思決定となる。当然、気楽になれずに緊張する。

自分の「意見」或いは「考え」とするから緊張する。萎縮する。仮説とするならこれは避けられる。

・仮説であるから複数あることが望ましい。時に自分で考えたものにイケア効果(努力に比例して自分の成果物が実際の価値以上に見えるバイアス)のような過大評価を持ってしまうこともあるが、複数なら一つに固執はしない。

 

模範解答

・まぁなんか言っとけって時には。

意見を求められたなどの受身の場合はこれでいいだろう。無駄にオリジナリティ発揮しても大体滑るからな。「エゴ」と「意見」とを混同しないよう。

我を張るのが自分の意見があることだ、という勘違いをする者は多いが、真似しちゃいけません。別に模範解答のような答えが自分の意見なのなら、それは全く構わないだろう。

「自分はこうだ/こう思う」というのが自分の意見なのであって、個性コンテストしてるわけじゃない。

・「自分の意見を言ってるのに意見がないと言われる」のは大体模範解答言ったからで、まぁ相手側の過度な期待であることが多い。そいつはそいつで自分の意見はなかったりするかもしれないし。

・また、「特に関心ないから/思い浮かばないから模範解答を提示。これが自分の意見」という意見はアリだろうさ。冷たく見られることもあるかも知れんが。

時間を確保する

・経験ないだろうか。後から「あれはああいうことだった」とわかったり、「ああすればよかった」と後悔したり。

すぐに意見が出てこない、ということは往々にしてあるものだし、すぐに出てきたところで正しいかどうかはちと怪しい。

うかつに答えるわけには行かないのなら、時間を確保するべきだ。まぁその確保した時間で考え無くてはならないが。

・また、それを許さずに重要なことをすぐに決めさせようというのは詐欺や洗脳に近い。日常的にこれをやって物事や他人の意見を思い通りにしようとする天然もそこそこ居るので注意。

人付き合いが苦手などの理由で空気を読みすぎると、会話の「テンポ」ばかり気にしてその場で軽く約束してしまったり、適当な相槌をして碌でもない意見に同調してしまったりしがちなため、これも注意。

雑談について

・考え込んでしまうとこれが一番難しかったりする。どうでもいいやつ相手ならまだしも、仲良くなりたい相手なら尚更だろう。

意見がないということは「自分が出せない」ということだ。相手はこれを「壁」と感じるだろうし。

慰めや励ましは他所に任せるとして、方針くらいは思いつきたいものだが。

・会話に於いて「聞き役」であれ、というのは一理あるんだが、それで好感度が上がるには、そもそも信頼がなくてはならない。

人の抱えてる欲求は「話したい」ではなくて「話を聞いてもらいたい」であり、要するに一種の「受容」をしてもらいたいということだ。

このため相手は流石に選ぶ。少なくとも「どんな人か」という情報は欲しいわけだ。

「全く面識のない人のほうが自分のことを話しやすい」ってのは、ある意味仮想実現になる。それっきりの縁で後腐れがないから。

逆を言えば、相手が同じ職場や同じクラスとかだと後腐れがある。口が固くなければならないし、反論もされたくはないだろう。距離が近いほうがハードルは上がる面がある。

面識があって自己開示を全くしない相手なら、警戒対象になりやすい。「何考えてるかわからない」と。

尚更に自分の意見を言わないと、として変なことを言ったり緊張してしまったりで悪循環なこともある。

まぁなんというか、思ったことの内から「無難なもの」を選んで口にしれてれば良いとは思うが。

直感をまず知る

・「意見」や「考え」という言葉に騙されて一から論理的思考をすると、模範解答になるか冷酷な合理主義になるかになりやすい。

意見が分かれるのは基本、思考のスタート地点(前提)が違う、目的が違う、情報量が違う、のいずれかの違いだ。この3つが同じで「考える」という行為を行うなら、ほぼ同じ結論になる。

これは「計算」に近く、「自分の意見」と呼ぶにはちと違うかもしれない。

・逆に「自分の意見」というのは、悪い言い方をすれば偏見や固執のような「癖」が出る。

「独自の視点」ってのも考えてやってるわけじゃなくて、大体は素だ。最初からその視点。つまり何らかのベースがある。既存の知識、経験、価値観、その時の気分も含めていいだろう。

・「」はこれを押さえつけるため、自分の意見は出辛い。「自分の気持すらわからない」ことの大半は、意識のアンテナが「外部」に向いているからだ。

・脳の一部は思考とは別に一種の結論を出す。直感、閃き、或いは感情。既存の知識・経験との共通点を見つけるかも知れない。ここからスタートした思考、発言は「自分の意見」に見られやすい。

・要は「それを見てまずどう思ったか」。それはなぜか。

掘り下げる

・これは意見そのものを見つける時と違い「ツール」、要は意見を考える時の指針となる自分のパターンを見つけるという話。

根本的に、自分の意見が毎度毎度わからないのなら、「自分は自分をよく知らない」ということを認めるべきだろう。そうすれば自分を知ろうとするという方針を持てる。

・それをなぜ好きなのか、嫌いなのか、良いと思うのか、悪いと思うのか。掘り下げてみると面白い。

・大抵頭に閃くものというのは思考のスタートではなく、既に一種の結論であることが多い。

特に好き嫌いというのは脳的に言えばだいぶ原始的な部分で判別しており、これは記憶に基づいた直感的な「結論」に近い。その結論を導いた道程は本人に自覚がないこともある。

価値観、経験、美的感覚、自分の中の「何か」と反応した結果。

自分の中に何か浮かぶことは、結果だけ知った状態だ。何と反応して「それ」ができたのかは認知できない時もある。

それを理解することは、自分が何にこだわり、何を嫌い、何を求め、何と戦うのかを発見することにも繋がる。意見を持つ「指針」となるだろう。

・まぁ、わかった上で「やべぇだろ自分」となるかも知れないが。それはそれで自覚がなかった今までの方がむしろやべぇので良しとしたほうが良い。

・自分に対しての体系的な理解を深めるということ。

 

自分の意見が言えない人

・思いつかないではなくて「言えない」人には何が考えられるか。
発言することに苦手意識を持つ人は多い。何か案を募られたような場面でも、まず左右の人間の動きを見るだとか。アレ目立つね。
これも付和雷同と呼ばれそうな挙動ではある。

・身もふたもないこと言えば、言ったらどうなるか一切考えないなら何も気にせず言えるだろう。逆を言えばそこを気にすれば言うかどうか迷うし、気にしすぎれば言えなくなる。

だからまぁ、迷う程度が丁度いいのだろう。「気づいたら言ってた」ってのは別のベクトルで問題がある。

あるいはもっと露骨に「自分の意見が言うのが怖い」という声もある。「意見する」という言葉自体、大抵の人は自己主張か他者否定のニュアンスを感じるものだ。言えない理由もまたその辺りと繋がっていることが多い。

具体的には、

  1. 自分の意見が他者の否定になりはしないか
  2. 間違っていたら恥をかく
  3. 意見を否定されることの恐怖

1は他者否定として取られることの懸念。
2は自己主張の失敗。
3は条件付けに近い。

・意見を言う=喧嘩を売ることになるか自爆のリスクへの懸念。で実際にそういう可能性はあるだろう。特に「言うべきだ」と思って意見を述べるなら1になりやすい。大体そういう状況だから。

後は、同意以外の意見は全部否定ととるオツムがアレなのも結構いる。

何でもかんでも「言えないのが悪いこと」で、「言えるようにならなきゃいけない」って認識なら、それは極端だと言える。言わない方が良い時もあるし、黙ってた方がマシな言い方もあるわけで。

3は難しい。当人が恐怖症に近い状態かもしれないし、相手が「そういう奴」かもしれないし。前者なら克服の必要があるかもしれないが、後者の場合(どうせ話を聞くつもりもないので)意見を述べないほうが精神衛生上よろしいというのはある。
具体的にその意見のどこが気に食わないか言うような相手なら話は別だけどね。その場合自分がそれ受け止められるのかどうかが問題になる。

・よく会議とかでダメなおっさん共を指して言われているのが「対立意見が出ると人格否定かなにかと捉えてクッソ恨みに持つのがいてうざい」というもので。まぁそういうのが相手なら黙ってた方が得だというのはある。

一方で、人にそういう心理があるのも事実だろう。一瞬、自分が名指しで否定された感覚がするような。
それが怖いというのなら、まぁ意見を出さないというのはその痛みの予防にはなっている。それで良いのか悪いのかは、自分で考えることだね。何と何を天秤に乗せて計るのかに依る話だ。

 

・内容は同じでも、言い方次第で印象は違う。この辺りを「上手になりたくない」という人がいくらかいる。

「巧言令色鮮し仁」という言葉がある。巧言は文字通り口先が巧みであること。鮮(すくな)しは少ないということ。仁は思いやりの徳。要するに口がうまいのは不実っぽいというかそんな感じになる気がして。

だが誤解を招いたり、感情的な反応を引き出すこともまた本望ではないだろう。「うまい言い方」が好きだろうが嫌いだろうが、いくらか習得したほうが良いと思われる。せめても意図通りに相手に伝わるように。逆にびっくりするほど曲解するのもいる。正気かどうか疑わしいレベルで。

この辺りが苦手だという自覚があるのなら、意見を述べる相手はあなたの話を理解しようとしてくれる人を選ぶのがいいだろう。頭の良さはあまり関係ない。

 

拒否回避欲求

・否定されたくない、嫌われたくない、悪い評価を受けたくない、という欲求を拒否回避欲求と呼ぶ。一見反対だが、これも承認欲求の一部。従来の承認欲求は賞賛獲得欲求を指す。

発言にはリスクがある。アホなこと言ったらアホ認定されるわけだ。

一方で「自分の意見を示したい」というのは賞賛獲得欲求と呼ぶほどドギツイ自己主張ではなく、自己提示つまり自分はこう見られたい、このような意見を持っている、というほどほどな主張ではある。

ただし他者評価に過敏になれば、その分拒否回避欲求は強まる。否定されるのではないか、異論が出てくるのではないか、笑われるのではないか。

このような具体的なネガティブなものでないとしても「どのように思われるだろう?」という漠然とした不安も人を萎縮させる。まぁそういうもんである。

「意見」や「考えた」ではなくて、「感じた」とか「思った」とか弱めの主張にしておくのも手ではある。これは結論とせず、まだ思考の途中だ、とする保険。保険っていうか実際感じたとか思ったとかが正確な表現なわけだが、いちいち言わないと断定調に取られることは多いね。

どの道、拒否回避欲求をなだめながら自分の意見を口にするとなると、考えなしか、度胸か、慣れか、言い方的な技術か、いずれかが必要ではあるだろう。

 

空気を読んだ

・二回目。「個人の意見」と「集団の意見」は対立関係とまでは言えない。ただ、集団の意見を通すために個人の意見はいくらか犠牲になりやすい所がある。

わかりやすい例が多数決か。少数派は我慢しなければならない。「多数決は少数派を黙らせるためのシステムだ」なんて話もあるな。
バカと賢者とどっちが多いかといえば、バイアスとかゲーム理論とかを加味すれば多分バカのほうが多いので、多数決は時にとんでもないことになったりする。

この状況で自分がマイノリティに属しているとわかっていた場合、意思表示に得はない。反対派であると知られた上でマジョリティに従わなければならないという社会的に不利な状況になる。

この上でも意思表示できるのは美学というか、そこらへんの話で、できなきゃいけないわけではない。打算の上で黙っていたのなら、それが「意見」だろう。

 

・拒否回避欲求は誰にでもある。前述したが、会議とかで意見を求められてもまず周りを伺い様子見するようなのは多い。率先して自己主張するのがみっともない、みたいな空気も確実にある。

日本人は特にシャイネス(対人不安や他者を意識した不快感や我慢)が高い。承認欲求が安直にみっともないことだとされがちなのもこれが原因だろう。実際迷惑なのもいるが、必ずじゃない。

Zimbardo, P. G.の報告によれば,日本人の若者(18歳~21 歳)は欧米人よりシャイネス経験がはるかに高いという。日本人の実に 90% 以上が自分をシャイだと感じた経験があり,75% がシャイな自分を問題だと考えていた7)。

https://www.jstage.jst.go.jp/article/stresskagakukenkyu/27/0/27_55/_pdf/-char/ja

まぁ白人も醜形恐怖症や加害妄想が文化依存症候群だったりするので、苦労のない国民性なんて多分ないのだが。

意見を言うことが歓迎されないような空気が形成されやすいことは忘れないほうが良いだろう。
「空気を読んで正解」の場面は多いということ。自分の意見を表明するかしないかしか頭にないようだと、意見の内容ではなくタイミング的な理由で失敗するかもしれない。

・逆にこれらを踏まえた上で意見表明するような場面があるかと言うと、授業中や仕事中ではそんなにないだろう。

ただ、友人関係と呼ぶのに抵抗があるような友人関係とかだとあるかもしれない。強引だったり、押し付けがましかったり、馴れ馴れしかったりする相手に「NO」と言わなくてはならないような場面。

メモ

・まず「意見」って言葉が色々含んでてどうもね。考えを口にするというのもそうだし、意思表明もそうだし、グループの方針としての提案かもしれないし、思ったことを口から垂れ流すことかもしれないし。

これはそれぞれ自分の考え、自分の今後の方針、提案、思いつきと言い換えることができる。

言い換えたほうが良いだろう。非常に紛らわしいから。

自分の考えが出てこないというのなら、大体は問題に対してそれほど感情移入していない。自分は特に困らないと思っているか、流れに任せるつもりでいる。そんな自分を問題視しているのかもしれないが。

自分の方針がわからないというのなら材料不足かもしれないが、大抵はわからないではなくて「決められない」ということが多い。しかも内心ではどれを選ぶかは決まっているが覚悟ができないだとかそのような形の。

「提案」の場合はここで述べたように「どうせ聞いてもらえない」という諦念はあるかもしれない。ただまぁ、相手がいる話になるから確実に採用されるわけでもない。「無駄だからやらない」ってタイプの完璧主義なのかもしれない。

思いつきはまぁ、雑に扱われることも有るだろそりゃ。基本真面目な場面では歓迎されない。


これは重要な話で、なぜ意見を持つ/発言する必要性に駆られているか知らんが、大抵の場合「個人の意見」は求められていない。仕事だったら当然その一員としての意見、プライベートでも親としての意見、パートナーとしての意見など、「役割」という視点からの意見が求められていることがほとんどだ。

付和雷同が他人の意見に飛びつく様がいい例だが、意見を出そうとするあまり思いつきを口にする、というのはあり得るだろう。それは大抵失敗する、選ばなほうがいい選択肢であることが多い。

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