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自分の意見が思いつかない人

投稿日:2019年4月13日 更新日:

 他人にそう指摘されるか、何か言おうとしても何も思いつかない時に自覚するか。大抵は更に焦り、ドツボにはまる。

意見がないと一口に言っても、思いつかないのと言えないのとの2つある。問題があるのは片方かもしれないし、両方かもしれない。ここでは「思いつかない」に絞る。

関連:
_自分の意見が思いつかない人
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自分の意見がない人

付和雷同

 付和雷同とは、自分の意見がなく、他人の言動にすぐ同調すること。最初から周りに合わせるつもりだから、自分の意見が出てこない。

これに加えて何かしら考えているふりはしておきたいと思っていると、他人の意見に飛びつきやすくなる。

 外交性/社交性が高いほど自分の内面がわからない傾向はあるらしい。極端な例としては演技性パーソナリティ障害がある。強すぎる外向性と、内面の希薄さからくる被暗示性(暗示にかかりやすい/影響を受けやすい)が挙げられている。

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思うところはあるのだが、言葉としてはでてこない

 色々感じるが「意見」としてはでてこない。まぁ、ある意味普通?
単純に「言葉」としては出てこないだけで、感じたり思ったりはしている。この上で言葉が出るのを待ってると、いつまで経っても出てこない。

 内言と外言という概念がある。頭の中で思う述語中心の省略された言語が内言。外言は普通に人と話す時の言葉だ。内言はそのまま形にしては自分でもわからない。思ったり感じたことの副産物的な言葉。

一人暮らしを始めた人間が独り言を言うようになるという話があるだろう。で、「風呂を沸かさないと」といいながらテレビつけて横になるなど、割と言動が一貫していないなんて話もある。

これは思っただけであり、やるかやらないか決定していない段階で口にでているからだ。

これがけしからんことに見えるのは、裏を返せば「人の発言は決断/覚悟/責任を持って口にされるべきものだ」、という前提がある。
内言をそのまま口にするのでは、良くて意味が通じず、悪くて失言となりやすい。

 

 「意見」は、「誰か」に伝えるという目的を持つ。このため外言であることが必須である。

日記に書くなどの個人的な言語化が目的だったとしても、これは内言から外言レベルに変換するという意味では同じだ。だから自分の気持ちすら、言語化しないと自分でわからないということはある。

「意見」とするなら内言を意識的に外言化しなくてはならない。それができないほど茫洋としているのなら、まず明確にするため掘り下げる必要がある。

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_独り言と内言と外言

「意見」と言えるほどじゃない

 結論を言わなければならないと思っている。あるいは意思表明をしなくてはならないと。

 意見を言おうとすると「何か頭のいいことを言わないと」みたいな気負いが生まれることもある。ハードル上がるし、大抵重箱の隅をつつくか揚げ足取りかになるしでいいことはあまりない。

周りを唸らせるような素晴らしい意見を、とか思ってると大体何も出てこない。フィルターがアイデアの全てをカットしてしまうだろう。

 自惚れや目立ちたがりとは限らず、「恥を掻きたくない」という気持ちが強すぎて過度に「まともな意見」のハードルを上げていることが多い。クオリティが高ければその分安心できるから。

「意見」という言葉に「決意表明」のようなイメージを当てはめ、それに尻込みし、発言を恐れている。想定している目標値が高い。

あるいは、自分の意見が否定されたくない、意見を言うなら賛同・尊重されたいといった理由からの「言えるレベルの意見はない」という状態。
この場合でも「批判や文句の出ない意見」がゴールとして設定され、ハードルが上がる。これはやや不適応的な完璧主義に近い。
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_不適応的完璧主義

「疑問だと感じている」「疑わしいと感じている」「判断材料が足りない」「イマイチ信用できない」「自分には関係ない」「まだ考えてる途中だから黙ってろ」「人に意見を聞くくせに自分の意見は言わないお前がウザい」ってのも「意見」だろう。

何が求められているかわからない

 他人に意見を求められ、それがどんな返答を求めてのことかわからないというケース。この時点で「他人に求められている答え」を探しているわけで、既に自分の意見とは別物なんだが、まぁ置いとこう。言い方を変えれば「質問内容の意味がわからない」というのに近い。

もちろん求められていることは、状況次第でそれぞれである。盲点になりやすいのは、「君が何を考えているか、こちらにはわからないから、喋って欲しい」という「思考開示」を求められている場合。

この場合、別に結論じゃなくてもいい。ここまではこう思うが、ここで引っかかる、なんて言う思考の経緯のような話でもアリになる。
しかし「何か意見を求められている」と解釈するなら、「結論」を言おうとし、そして何も出てこないということはあり得る。

自分の意見が思いつかない原因

 普段ぼーっとしてる時に「今、意見ないな」とは普通思わない。

状況としてまず「意見を出そうとしているから」というのがある。求められたか、このまま黙っているわけには行かないと思ったか。

また、「他人」の存在が関わっている問題である。じゃなければ意見を「出す」必要がないからだ。
「誰か」に意見を述べるという主張/呈示の必要があると感じている状況。

それは具体的な他者かもしれないし、不特定多数の相手かもしれない。もしかしたら、自分自身にそれを証明したいのかも知れない。

「意見が必要な状況」が先にある、ということもある。つまり意見がないがそれが必要だという状況自体は、元から発生し得る。

ただし焦ると衝動性が高くなり、思考がしにくくなってくる。まずは落ち着こう。

関心がない

 まぁそりゃ出てこない。興味ないんだから。意見もないし必要性も感じない上で、意見を求められたという「不意打ちの無茶振り」をされた状況。別に意見出てこなくても良い気がするが。

 関心がなくても意見しようとした場合、当然感情の回路はオフに、合理的思考の回路がオンの状態で意見することになる。

シェイクスピアが言う「痛みを知らぬ者だけが、人の傷を見て笑う」みたいな嫌われそうなド正論か共感が欠如したサイコパス的な意見になってもおかしくない。
正論も基本的には文脈を理解せずに言った場合サイコパスに近い。正論がどんな状況でも正論である「銀の弾丸」だと思ってる奴いるけど間違いだ。

ともかく、どちらかと言うと、「何も閃かないで良かったな」とかそんな状況と言える。

心の「構え」

 心理学用語で「構え」と呼ぶ概念がある。
その人が特定の状況に対して「予期」をして、認知や行動の「準備」をしたりなどの精神状態を指す。かなり方向が限定された準備状態。その分それ以外には弱くなる。

悪いこととは言えない。不意打ちよりも予測して身構えていたほうが大体はいい。

反対に、前例や成功例をトレースしようとする「構え」のせいで目の前の最適解を見落とすような傾向もある。

特にアウトプットよりも、状況や情報の見落としというインプットでの問題は怖い。

 今回で言えば、例えば付和雷同の様に最初から人に合わせるつもりの場合、出てくる意見も出てこない。
あるいは「素晴らしい意見を」なんて思っているのなら、平凡な意見は自分の内側でカットされる。

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平均的な模範生

 他人の視点を意識して、模範的な振る舞いしかできないタイプ。完璧主義で言えば社会規定型。元から自分の意見は少ないし、言おうとする必要性もあまり持ってない。不満やストレスは別の話。
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_完璧主義の3つのタイプ

まぁ、その方が世間体はよろしいだろう。はっきり言ってしまえばこの国は自己主張が歓迎されるお国柄でもないわけで、それに適応していると言える。
というかなんだろな、「他人の意見への姿勢」のレベルが著しく低いような気がしなくもない。外国の実態も知らんけどさ。

さてそれでも自分の意見というものを求めるなら、世間様とは切り離して「自分」対「対象」として考えるしか無い。だがこれより先に模範解答が思いついてしまうため、「自分の視点」で綺麗に見れないという状態だと思われる。

朱に交われば赤くなる

 ノームという概念がある。日本語で「集団規範」と訳される事が多い。
そのグループのメンバー同士で共有されている、価値判断や行動様式のための規準をそう呼ぶ。
これのおかげで自然にある程度の適応ができる。特別なものではない。

朱に交われば赤くなる、と言うがまさにそれだろう。
所属しているグループの品性は問わず、それに馴化していく。

ただ、見方を変えればこれは「わがままを言わなくなった」「周りに合わせられるようになった」という話だ。その集団に馴染んできたと呼ぶのが一番自然かな。

個人的な意見も変化する。「考え方」から馴化されるなら。
集団規範は、個性という意味での自分の意見、つまり「本音」とは対立すると言える。

自分の意見かわからない

では、自分の意見がそのような順化された外的なものなのか、内側から湧いたものなのか。なんて哲学をやると、「自分の意見かわからない」なんてことにはなりかねない。内容ではなくその出処が、世間からか自分からか。

 別の切り口やると、まぁ変化/順応したところで個人の意見と言えるっちゃ言える。「学習した」とか言いかえれば妥当っぽい。

 この上で自分の意見がないと思うのなら、それは「個性がない」との悩みにかなり近いものになる。正確に言えば、自分が個性があるとは思えないという感じか。

 こう言った自分の意見がわからないという悩みについてのベタなアドバイスとして「日記書け」ってのが有ることは挙げておく。何よりも「一人で、自分だけの価値観で、物事を振り返り評価する時間」を作れという話。

これは意見が湧かないのではなく、自分の意見かどうかの判別がつかないという話になるから。だから普段からして自分の意見に触れている必要は出てくる。

オリジナリティを求める

 承認欲求の場合もあるが、別に目立ちたがり屋とも限らない。「自分の」考えを言え、って言われすぎて「他と同じではいけない」「個性的な意見しか許されない」と思い込んだケースも含める。

 少々ややこしいが今回、自分の意見がないこと自体が問題と言うよりは、意見がないことを問題だと思うことが問題、って部分もある。

興味がないことに対してなんとも思わないのはおかしくない。
模範解答が妥当なら恥じる必要もない。
そのおかしくないことをおかしいと思っているとしたらその方がおかしい。

すべての物事に一家言あるなんて、全部思い通りにならないと気がすまないわがままなやべーやつ以外にないだろう。
「自分の意見」と美化して、思いついたことを口から垂れ流れてるのを正当化したり、利己的な都合を押し付けたりするのも結構いるしな。

一人か一人前か

 個性を過剰に求めるのは、多感な時期(と呼ばれるのも嫌だろうが)な年頃の場合に特に多い。

人には、一人の人間として見てもらいたい気持ちと、集団規範を弁えた「一人前の(または普通の)人間」として見てもらいたい気持ちの両方がある。

「個人」としてみてもらいたいか、「集団の一員」として見てもらいたいか。実際の所は、認められた上で評価もされたい的なハイブリットだろうか。

 「個人」としてみてもらいたい欲求が強い時、「個性」を出そうと必死になったりはする。
中二病が中二あたりで発症するのは偶然ではあるまい。

また、青年期にも自己愛が肥大化するという説もある。こちらの場合、「社会と立ち向かえる自分」を演出、または自分はそうであると鼓舞するためだとされている。当然自己提示、つまり「自分はこうである」という他者へのアピールにも繋がるだろう。

ただ、「誰がやってもその結論になる」という場面は結構ある。1+1は2だ。
この辺りを見落として、「他人と同じ結論になったからやりなおし」と変な意見をひねり出すのもいる。

問題が1+1である状況で、「2以外の答えを出そう」なんて考えても、なんかおもしれぇことにしかならんだろ。哲学か禅の考案か頓知の世界に踏み込みたいなら話は別だが。

この場合、欲求の妥当性はまぁ良いとしても、場面を間違えてるのは確かだ。

どれにせよ、ここでもやはり「他人」を意識しすぎているかもしれない。

空気の読みすぎ/人の目の気にしすぎ

 緊張、萎縮。他者を意識すれば、その分思考や意思のリソースは減る。

 「他者に合わせなくてはならない」と思っているのなら、当然周囲の人間を意識することになる。アダルトチルドレンが自覚する「自分のなさ」も、家庭が安心できる場所ではなかったせいで他人を気にするセンサーが発達しすぎたからだ。

幼い頃から意見を否定され、押し付けられて育った、という話も多い。これも自分の意見より「周りに合わせること」を優先するよう仕込まれたと言える。繊細すぎて本人が自分からそうしなくてはならないと思ってしまった例もある。

 このように共感能力や「空気を読む」というのは他者を気にする分「自分がなくなる」というマイナスの面がある。

社交性や外向性は、有れば有るほど良いってものでもない。実際ビッグファイブの各項目も、極端な高低だと各種精神障害や人格障害の可能性が出てくる。
例えば外向性は、高すぎると自己愛性人格障害や演技性人格障害、低すぎるとスキゾイドと関連。
協調性は高すぎると「一人じゃ何もできない・決められない」ともなる。加えて言えばコミュ力とは一切関係ないらしい。

ユングが提唱したとおり、自分の外向性と内向性はどちらも育てるべきだと思われる。

 気配りは結構なことなのだが、基本的にそれは「後の先」という対処や対応を基本とした姿勢になる。「自分の意見」という自発的なものとは逆であることは否めない。
これが「構え」として出てしまっているなら、なかなか自分の意見を思いつくのは難しいだろう。

感情労働による燃え尽き

 何も考えられない状態。

感情労働は対人サービス業などで問題視される「感情の酷使(我慢や緊張を含める)」とそれによる様々な問題。

今ではサービス業にとどまらず、サラリーマンから主婦まで当てはまるともされ、大抵の人間に無関係ではないとしても言い過ぎでもないだろう。特に医療や介護関係のスタッフを対象とした論文が目立つ分野。

関連:
_感情労働について

 感情労働には表層演技と深層演技の2種類がある。

この内「心からの演技」である深層演技は心身を病むリスクが高まる。本心からそう思う様に自らに強いるからだ。これはルーキーの方が多いらしい。

ベテランであるほど表層演技(悪い言い方をすれば形だけの対応)に長けている。良い言い方をすれば、気持ちはどうあれ割り切って適応的に振る舞える。

 深層演技の場合、演技している自覚すらないことがある。前述の「周囲に合わせる」という感情労働を強いられているか、或いは自主的にそう強いている場合には、「周りに合わせることが自分の意見」という状態になってしまう。

 これが原因で燃え尽き症候群もあり得る。

この場合、症状の一つに「脱人格化」がある。テンプレ的な対応しかしなくなるなどの人間味がなくなってくる。

関連:
_燃え尽き症候群/バーンアウトシンドローム

 過敏型の自己愛、要は自分はもっと尊重されるべきだと思いつつも周りの目が怖いみたいな心理がある。この場合、過度に人目を気にする。

関連:
_2種類の自己愛 誇大型と過敏型

 この中で「潜在的特権意識とそれによる傷つき」という尺度がある。

自分は注目を集めるに足るはずなのに周りはそう扱わない、と不満を感じる。勝手に傷ついたり、自分の扱いが丁寧じゃないと他人に対して不満を持ちやすい。

 根本的に「自分は尊重されるべきだ」と思いこんでいるのが原因なのだが、まぁこの態度で意見を言っても、反発食らう可能性のほうが高いだろう。ちなみに大抵の人間が心中「自分は中の上だ」と思う傾向があるそうで、ほとんど誰にでも当てはまるだろうね。

意見を言っても何度も承認/称賛してもらえなければ「学習」する。自分は相手にされない、意見を言っても無駄だと。過大な賛美を期待しているのが元からアレだと思うが。

ともかくそうして諦めて、無力であると学習すれば、そのうち意見も湧かなくなるだろう。

関連:
_学習性無力感とは

 過敏型の自己愛に限らず、意見が言えない理由は全体的に「人の目/リアクションを気にすることによる萎縮」が原因であることは多いように見える。

「自分」と「社会」は同時に相手にすることは難しい。「外側」を気にする限り、「内側」に目は行かない。

自分の意見という「内側の表現」の動機が、そもそも周囲に認められたいという外側由来のものだった場合、軽くジレンマが発生する。表現方法ではなく、内容的に「受けが良い」方が好ましいからだ。
時には色々間違えて、本心ではないものを本心だと主張することにもなるだろう。

 もちろん学習性無力感のみの場合もありえる。意見や希望を口にしたら頭ごなしに否定される経験を繰り返すとかで。

内的不適応感

 周りに合わせすぎる「過剰適応」という症状に、内的不適応感という概念がある。

外的適応(=周囲に合わせること)の裏面として有り、内部葛藤や自己嫌悪、自己不全や自己不信などを含める。
すごく簡単に言えば「今の自分が周囲に適応していると思えない」または「今の自分には自分らしさがない」という心理を指す。

前者の場合、元から自分の意見がないか、あっても信頼していないということになる。ただそれは、自分の目的が周りに合わせることであり、それを優先しているだけかも知れない。

「頭の中から他人を追い出すことも必要だ」とされる。裏を返せば、頭の中に他人がごちゃごちゃいるようなら、自分の意見を思いつくのは難しくなる。

何れにせよこの場合は、自分の意見が思いつかない(生まれない)のではなく、「自分の意見を抑制する力」が強い状態(押さえつけている)と捉えるべきだろう。


 まず「意見」って言葉が色々含んでてどうもね。考えを口にするというのもそうだし、意思表明もそうだし、グループの方針としての提案かもしれないし、思ったことを口から垂れ流すことかもしれないし。

これはそれぞれ自分の考え、自分の今後の方針、提案、思いつきと言い換えることができる。

言い換えたほうが良いだろう。非常に紛らわしいから。

自分の考えが出てこないというのなら、大体は問題に対してそれほど感情移入していない。自分は特に困らないと思っているか、流れに任せるつもりでいる。そんな自分を問題視しているのかもしれないが。

自分の方針がわからないというのなら材料不足かもしれないが、大抵はわからないではなくて「決められない」ということが多い。しかも内心ではどれを選ぶかは決まっているが覚悟ができないだとかそのような形の。

「提案」の場合はここで述べたように「どうせ聞いてもらえない」という諦念はあるかもしれない。ただまぁ、相手がいる話になるから確実に採用されるわけでもない。「無駄だからやらない」ってタイプの完璧主義なのかもしれない。

思いつきはまぁ、雑に扱われることも有るだろそりゃ。基本真面目な場面では歓迎されない。


これは重要な話で、なぜ意見を持つ/発言する必要性に駆られているか知らんが、大抵の場合「個人の意見」は求められていない。仕事だったら当然その一員としての意見、プライベートでも親としての意見、パートナーとしての意見など、「役割」という視点からの意見が求められていることがほとんどだ。

付和雷同が他人の意見に飛びつく様がいい例だが、意見を出そうとするあまり思いつきを口にする、というのはあり得るだろう。それは大抵失敗する、選ばなほうがいい選択肢であることが多い。

関連:
_自分の意見が思いつかない人
_自分の意見が思いつかない対策
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