自分で考えられないことの危険性

  • 自分のことも決められなくなるし、わからなくなる
  • 自分がない分、誰か何かに同調/盲信するようになる。利用されやすいし騙されやすいが、共犯者や実行犯ともなり得る。
  • 性格や能力が原因の可能性もあるが、ただの経験不足の可能性も大きいので、まぁたまには自分で考えてみましょう。

自分で考えられない人

  • 何でも聞く
  • 何でも頼る
  • 人がやったことのマネしかしない
  • 一人ではいられない

大抵は他者に依存的であり、主体性はない。逆を言えば自分で考えることは、主体的に動く方針を作ることに近い。

・特徴として自尊心の低さはよく言われる点である。
自分で考えて動かない=人の意見や真似で動いているから自尊心が育たないのか、自尊心が低いため相対的に「他人の意見の方が正解に近い」と思っているのかはそれぞれだろう。

これは自信がない分野にいきなり投げ込まれたりすれば、誰だってなる状態では有る。先行きの不透明さや失敗への懸念があるほど、この傾向は強まるだろう。

つまり、「自分で考えられない人」と能力や人格みたいな言い方をしてはいるが、状況によって現れる人間の「モード」でもある。特に不安感がトリガーになる。

・主体性と自尊心も関連して語られることが多い。平たく言えば「自信がある人」は他人の意見に揺さぶられることは少ないだろう。他人の意見を参考にするかもしれないが、選択自体は主体的に行われる。

表面だけ見れば人のマネをして方針転換と見えたとしても、自分で考えている人は主体的な選択、自分で考えられない人は不安や焦燥などの衝動的な選択になっている。

自分で考えられない人のリスク

・主体性がないという個人規模の問題も有るが、他人(他者の意見)に対してのある種の耐性の無さにもつながる。

  • 騙されやすい
  • 流されやすい
  • 他人の言いなりになりやすい

人は状況に対して無防備ではいられない。何らかの方針や予測は常に持っていたがる傾向がある。
楽観主義や悲観主義が代表的な例か。危険があるほどの甘い予測だったり、不安を強める恐ろしい予測だったとしても、五里霧中よりはましだと解釈するらしい。認知的方略と言って、自分が動くためにわざと思い込みをしているフシがある。

・自分で考え、自分なりの答えを一応は出すこと。つまり「独立した思考」は、個人としての成長や意思決定に必要になる。これ(内的な判断)ができない=外的な判断のみとなる。他人、特に集団の意見(当人の仮想上の世間や社会を含める)に流されやすい。

つまり人生そのものが「右へ倣え」になり得る。要するに、「自分がないので空気ばかり読んで生きてきました」みたいな感じになる(大抵はそんな自分をかなり嫌うため、確実に「自分」はあるはずだが)。

ゆうても自分で考えて答えを出した程度じゃ大体役に立たないってのも事実だ。勉強も確認も大事。逆を言えば「右へ倣え」でも問題が起きるとは限らない(恵まれた環境ならば)。ただその場合でも、自分がないというか「自分らしさ」を何をやっても感じられないかもしれない

これは生きてる実感みたいなものが、人よりも感じられないことを指す。

本来感 自分らしさを実感すること
 自尊心、自尊感情の要素の一つ。何かを根拠とするのではない、自らの内から湧く「自分らしさの実感」。どちらかと言えばポジティブ心理学。アイデンティティに近いが、より外部の影響を受けず、直接的に「私は私である」とする感覚。引用...

自分で考えられない原因

・色々有る。育った環境だったり、失敗経験からのトラウマだったり、当人の世界観や人生観だったり。

パラダイム

・自分で考えられない原因はパラダイム(価値基準)の問題だったりする。つまり彼らの幾らかは 、

  • 「いちいち聞かなきゃいけない」
  • 「自分で決めちゃいけない」
  • 「自分で考えるという発想がない」

など、有るべき形のイメージが違うだけであることが多い。

知能指数の問題であることはそれほど無い。簡潔に言えば、バカではない。まぁ使わなきゃ衰えるから、鈍ってる可能性はあるが。

・殆どはこれらの価値観やイメージによる行動(=考えることを回避する)ことによる自分で考えてみることの経験不足も大きい。

純粋培養

・純粋培養のケース。
一つの視点に基づいた価値観や世界観の中で育ち、自分で考える必要性自体がなかった場合。考えるという経験そのものが少ない。

・これは親の「先回り」や、「答えを覚えろ」という教育方法などを含める。
暗記させられた公式を使って計算をするのは「考える」ことには入らない。それは計算だ。今回の文脈では、「考える」とは自らの情報資源を使用しての思考、判断、意思決定、行動を指す。つまり主体性に近い

同調や協調の成れの果て

・自分で考えられない人間は、同調や協調のダークサイドでもある。

前提として「個人」は「集団」と対立しやすい。特に日本は個人的な活動を犠牲にしてでも集団に貢献するのを良しとする所がある。有給休暇取りたいけど同僚の目が気になるとかそういうアレ。

個人の意見や考えが、周囲の人々や集団と合わないってことは往々にして有る。自分の考えを言うだけで「わがまま」だと言われることも少なくない。
このため意見を言わない場面は多いだろう。言うにしても言い方やタイミング、どこまで伝えるかを考えるなど、結構めんどくさい。

自分の意見を心に押し込んでいるのもストレスが溜まる。だったら意見なんてない方がいい、なんて方面で内面が発達し、「考えない習慣」が付く人もいる。
このため、過度に協調的でなおかつ本来は我が強いタイプもいる。これはむしろ主体性を発揮している者を「協調性がない」と嫌う事が多い。嫉妬かもしれない。

意見が言えない環境:ぼかしコミュニケーションと日本人の主張性―文化的背景とメリット・デメリット―
・日本人には、人との関係を大切にする(過度に意識する)文化が根付いており、その一環として自分の意見を言わない傾向がある。日常生活においてはむしろ有効に働くことも多いが、自分の意見を言うべき場面ではデメリットをもたらすことがある。こ...

・「自分を犠牲にして周りに合わせる/期待に応えようとする心理」を過剰適応と呼ぶ。重症だと自己破壊的同調と呼ばれる。

努力が実って周囲の評判はよろしいことが多いが、当人は「自分のなさ」や「自己主張できないことへの自己嫌悪」があるなど、内面的にはよろしくなかったりする。

人に気を使いすぎて常に疲れている状態(対人摩耗)の人も多いそうな。

人に合わせすぎる心理:過剰適応/自己破壊的同調について
過剰適応とは 一言で言えば「自分を犠牲にして周りに合わせる/期待に応えようとする心理」。無理をしてでも周りに合わせすぎること。周囲の評判は良いが、当人は辛いという形になりやすい。 研究においての過剰適応の定義はまとまってお...

権威への依存

・これは考えることや自分で決めることを放棄している。
まぁ権威を頼る場面も有るだろうが、それへの過剰な依存

・肩書とか権威があるから盲目的に信じちゃうって心理を「ハロー効果」と呼んだりする。こんにちわじゃなくて後光って意味ね。ヘイロー。名前がつくくらいには割とある心理。

でまぁ、楽なんだね。考えなくていいし、他の人間も従ってるなら自分だけがハズレを引くこともないだろうし、責任は他人にあるし。

・当然、自分で考える力や判断力は低下する。使ってないんだからそりゃそうだ。

「自分なりに考えて答えを出す」という発想がない

・答えは「探すもの」というイメージを持っている。

「自分の考えで動いちゃいけない」とか「正解を知っている者の真似をしよう」など考えは様々だが。

どこかに既に答えはあり、自分はそれを覚えればいい」という発想が根本にあるケース。
こういった考えなので、聞いて回ったり、調べて回ったりは自分ですることが多い。

・考えるつもりがないので「信じていいもの」を探す。それっぽいものが見つかっても疑う能力がないので狂信者になったりする。権威への依存と対して変わらない。

・ただ、自分で考えるということはやはりしないので、調べ方が【どこかにあるはずの答え】を探すことに終始している。材料を拾って自分で組み立てるということはしない。

それ故に個人の意見や考察などは非常に軽視する傾向がある。まぁ確かに個人の考えなんて玉石混交だが。

・加えて、答えは一つだと思っている傾向が高い。
簡単に例えると目的のキーワード一語のみで検索して、Googleの1位に表示しているサイトの情報だけ丸暗記し、それ以外の情報は「あのサイトに乗ってなかった。だからそれは間違いだ」と言い張っちゃう感じ。

また、人に質問をするときも、「丸暗記できる答え」を欲しがる。「理解するための説明」が始まると、「早く答えを教えてくれ」と言う事が多い。

・このケースは子供に多い(盲目的に親の言うことを信じるなど)が、せっかちな性分、また厳しく躾けられて「誰かの言われたとおりにしなくてはならない」と思い込んでいしまっている人もいる。

・「ある程度体系が出来上がっている理論」は疑うことなく鵜呑みにしてしまう。つまり「それっぽさ」に騙されやすい。
結果的に疑似科学・陰謀論・差別主義・インチキ宗教などに簡単に染まる傾向がある。

筋が通った説明とか、辻褄が合うとかは、ただそれだけであり、正しいとは限らない。

周りに合わせすぎる

・自分がないと悩む人は強迫観念のように「人に合わせなくてはならない」と思っているようにみえる。一生懸命そうしてるから、なおさら自分のことを考える余裕がなくなってしまう。

この場合、「自分」の優先順位が他人よりも下になっていく。何かをやろうとした際、真っ先に「他人の考えや意見」が気になるようなら注意した方がいい。

・結果的には自分で考えられず、自分の考えが持てないから、誰かに言われたとおりに行動し、「他人が満足する人生」を過ごすことにもなりかねない。
それは親かもしれないし、「世の中はこうあるべきだ」と声高に主張する赤の他人かもしれない。

他人を見張るのがライフワークの人間ってのは、まぁいる。

あえて「自分」に気づかないようにしている可能性

・自分が気づきたくないような自分の心の中の「何か」から目をそらすために、気づかないふりをしているケースもあるらしい。

・例えば本当は将来の夢、なりたい自分、欲しいモノがハッキリと自分の中にあるのかもしれない。
だがそれを叶えるためには周囲との「闘争」が必要になる場合。

親に反対されるかもしれない。

周りに馬鹿にされるかもしれない。

誰かに先に奪われるかもしれない。

戦う以上、敗北する可能性が出てくる。

・で、絶対に負けない方法がある。戦わないことだ。

だって自分のことだから、諦めてしまえば、それで終わる。

でも気づいてしまったらそのまま我慢するのは苦しくなる。

じゃあ、気づかなければいい。

・こうして自分自身に関心を向けず、表面上の「普通」を維持することに注力する。
これが続くと何も感じなくなる。
「意欲」そのものにフタをすることと同じだからだ。

これは実際の「敵」に対してではなく、敗北そのものへの恐怖や、恥をかくかもしれないとの不安だろう。

経験不足

・そんなこんなで、考える力や気力を失う機会は結構多い。

・「自分で考えられない」とはちょっと違うが、日本人が「自己表現が下手」なのは、機会不足という説がある。練習不足とか、経験不足とか。
これはそのまま「自分で考える経験」の不足と「自分で考えられない理由」にも当てはまる。

・日本人が主張できないのは、主体性がなく自意識過剰であるせいなのも大きい。だが、そもそも日本には自己表現をしないことを美徳とする因習がある。話さなくてもわかるとか、わざわざ話さなきゃならないような事態になるのが悪いなんて考えが、かつては日本にあったともされている。

これらを文化的な土壌として、「自分で考えない習慣」「人前で恥をかきたくないという態度」につながるとされている。
cf.https://core.ac.uk/download/pdf/228926744.pdf

・アウトプットする機会がかなり少ない。つまり、「考え」を「言語化」して整理する機会にもあまり恵まれていない。主張以前の問題、自分の中で考えをまとめる機会が少ない。

自分で考えられないことの結果

・自己表現や自己実現が阻害される。自己がないかわからないんだから、どうしていいかわからない。

「自分の方針」がわからない、決められない。だから個人的な成長をすることができない。まぁ自分で考えることができても悩む部分なんだけど。


・自分で考えられないということは、外部に答えを求めることに等しい。このため他人を気にする意識が過度に発達する。

「他の人は何て言うんだろう」「他の人はどう動くんだろう」。なおさら外部を気にする。さらに自分の考えはでなくなる。何かを盲信するリスクも上がる。悪循環。

・自信や自尊心、自己効力感と呼ばれるものが低下する。これらは、自分で決めて行動し、その結果に満足するなり、「自分で決めた通りにやり遂げた/行動できた」と認知するなどで育つものだからだ。

・「自分で考える人」を蔑視、あるいは敵視する可能性もある。自分で考えられないから協調性が発達する事はありえる。全体主義とか社会主義みたいなもんで、これは個人主義と相対する。

権威主義的パーソナリティという性格がそれに近い。因襲主義、権威への服従、人間不信を特徴とする。「ナチスに協力した一般人」はこれだとされる。

権威主義的パーソナリティ
偉い人の言うことは善悪の区別なしに受け入れる人たちだよ強い者には媚びて、弱い者はイジメるよこの手の人々がファシズムを受け入れたのだとされているよ最初は右翼的な心理だと思われてたけど、左翼にもやたらといることから教条的な服従の心理と...

・欲しいモノ、やりたいことが思い浮かばなくなる。意欲もわかない。主体性の低下。

人間、なんらかの「欲」を原動力として動くものだが、自分がないと悩む人は欲がかなり薄い傾向がある。

欲しいモノもやりたいことも思い浮かばなかったりする。まぁこれは疲れててもそうなるが。

・自分のことがわからなくなる。考えると言うのは答えを導く意味もあるが、想いを言語化して整理する側面もある。

自分の内面の言語化や整理をする暇がないことは、「自分のことを考えられない」と言い換えることができる。能力の問題とは限らず、それをする心の余裕がないことも。

割と多く、アレキシサイミア(失感情症)と呼ばれる症状に近い。
特徴は、自分の感情(情動)への気づきや、その感情の言語化の障害、また内省の乏しさ。

失感情症(アレキシサイミア)
失感情症(アレキシサイミア)はシフネオスが提唱した性格特性です。自分の感情(情動)への気づきや、その感情の言語化の障害、また内省の乏しさといった点に特徴があると言われています。心身症の発症の仕組みの説明に用いられる概念ですが、近年は衝動性や共感能力の欠如など、ストレス対処や対人関係を巡る問題との関連が研究されています。

・自分がないと悩む人は、おそらくは「ない」のではなく、「察知できない」。つまり自分の気持ちが「わからない」だけだと思う。

このわからなさには「表現できない」ことを含める。カウンセリングでフォーカシングってのがあるが、それもフェルトセンスっていうなんかモヤモヤした感覚を言葉にすることをやる。こういうのは、割りと時間がかかるものだ。

フェルトセンスとフォーカシング
・フェルトセンス、フォーカシング、これらは何か。フェルトセンス・「気がかりなこと」を考えつつ、体の中心に注意を向けた時、そこに有る感覚だと説明される。まだはっきりしない、何か意味を含んだ、身体の感覚。胸がも...

自分で考える力を養うには

・ここまでをまとめると、理由はいろいろだが殆どが、

  1. 自分で考える必要性を感じない。機会不足によりそもそも考える習慣がない。
  2. 自分の考えが形にならない(まとまらない)。練習不足。
  3. 他人を過度に気にしてしまい、考えるどころじゃない。

・自分で考えることの必要性自体は、まぁ実際ないことも多い。ググりゃ答え見つかるかもしれんしな。自分で考えるよりマシなものがな。

ただ「嘘や間違いへの耐性」として、少なくとも理由や由来を考えたり、根拠を吟味したり、たとえ正しくとも「他にも正解がある可能性」に思いを巡らせたりはした方がいいだろう。

そのための訓練、あるいは勘違いや思い込みの「解体法」としては、自分で考えることはかなりの価値がある。


・うまく考えがまとまらない、形にならない場合は、他人の意見や視点は参考になる。表現の仕方、着眼点、その理由。この場合はむしろ結論にこそ用はなく、「疑問/視点」、つまり「思考の切り口」こそが参考になる。

ちなみに大体は、個人的な経験とかから各々の思考の切り口が身についてるもんだが、参考にする分には別に同じ目に合う必要はない。


・他人を気にしすぎってのは問題としては奥が深い。不安にまつわる悩みの代表的なものでもある。

先程のアレキシサイミアや、過剰適応、HSPもそうだが、「自分の内部より外部(特に他人の意見や感情)を優先する」という脳内パターンが出来上がっているため、他人が気になって自分の考えに集中できないことも多い。

その場で考える/判断するというのは苦手分野と言えるかもしれない。考えるよりも適応してしまう。

・一人の時にだけ、自分で考えようとしてみるのもアリだろう。陳腐な言い方だと自分を取り戻す時間。誰か精神科医が「頭の中の他人を追い出すことが必要」と表現してもいた。

前述の通り「練習不足」も考えられない理由として多いから(厳密には焦った挙げ句のタイムオーバーだと思うが)、一人で考えを形にしてみる練習として。形になった意見は、後から思い出すこともできるだろう。

・過ぎたことを思い返して考える、と言えばムダに思えるかもしれない。ネガティブだと捉える人もいる。個人的には、「割と悪くない」と他人を見て学んだことがある。

その人物が取り組んでいた問題はタイムオーバーによる失敗に終わった。だが、それでもまだ答えを考えていた。周りはトロい奴扱いしていたが、それでも。で、答えが見つかったらしく、一人で納得していた。

運が良かったのだろう、しばらく後にまた類似した問題が発生した。その人物は、先程の自分で出した答えを元に、今度はスムーズに問題解決した。トロい奴扱いしてた連中は全員黙った。

と言う展開を目の前で繰り広げられたことが有るため、状況が許す限りは、私は考え込んでる人間に「早くしろよ」とは言わないようにしてる。また面白いものが見れるかもしれないので。


・親ページ

何も考えてない人の心理・対処
・考えない人にも色々ある。何も考えない人。やらかす。自分で考えない人。やたらと聞いてくる。鬱陶しい。「考えがない人」。意味は大きく変わる。自分の意見や方針を持っていないという意味。優柔不断なことが多い。具体...
タイトルとURLをコピーしました