アクセプタンス(受容)とマインドフルネス

アクセプタンスとは

人間心理学におけるアクセプタンス(Acceptance)、受容(じゅよう)とは、その人が置かれた現実の状況について、変化や抵抗しようとせずに、その過程や状況を理解しようとする姿である。その多くはネガティブで不快な状況である。この概念はacquiescence(黙諾)に近似しており、これはラテン語の ‘acquiēscere’ に由来する[1]。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%82%AF%E3%82%BB%E3%83%97%E3%82%BF%E3%83%B3%E3%82%B9

評価、反応をせずありのままを受け入れること。マインドフルネスと共通する概念。

前提としてのすることモード

・マインドフルネスでは人間には2つのモードがあるとされる。することモードとあることモード。つまり何かを一瞬で判断して知識や経験、あるいは予測から対処・行動を行うモードと、あるがままを観察するモード。
大体はすることモードであり、それ故になんとかならないと記憶、思考、意思の消化不良を起こす。

野生として考えれば、することモードが基本形なのは納得がいく。「何か」が思っくそこっち走ってきてるのを暢気に「観察」してたら最悪死ぬだろう。

それが何なのかわからないままにも「なんかやべぇ」→「とりあえず逃げよう」の方が生き残れる。

自然界を基準とすれば予測の精度より即応性の方が重要であり、動く前にじっくり観察する「賢者」のような動物が居たとしてもとっくに食い尽くされているだろう。即ち現存する脳を持った生物である我々は、することモードが染み付いている。そうして生き延びてきた。

一方人間は、動物と比べれば予測能力がかなり高い。課題発見能力もそうだろう。
結果思考に囚われる。

すぐになんとかしようとする=すぐ動こうとするため、その分「観察」「理解」は疎かになる。簡単に言えば人間は早計なのが自然体。当然誤解や思い込みは発生しやすい。

まだ起きていないことに「即応性」を発揮しようとしてバグったり。どうも人の能力のバランスは歪な気がする。予測能力は高い。それに対して脳はそれが目の前にあるような反応を見せる。予測を予測として扱えていないような。まぁ単純に脳はせっかちだと捉えたほうが早いか。

・人間は結構な解決脳をしている。やることモードであることが多く、いつも「なんとかしようとしている」。悩み、不安、問題を解決しようとし、時には自分からほじくって見つけ出そうとするのもこのためだろう。

・物事への反応は基本「何かする」「なんとかする」だから、大抵の場合はアクセプタンスの概念は非常に奇異に見える。

「問題解決をしない? じゃあ何も変わらないじゃないか。」

「受け容れる? 諦めろってことか?」

まぁその通りといえばその通りだが。仏教の四諦とかその通りらしいね。

ただそもそもの悩みや不安、そして問題が「解決しようとしているから」「変えようとするから」そもそも良し悪しを「評価するから」発生する場合、問題だと思っているトリガーそのものを受容すれば逆に「これだけで」解決するといえば解決する。

・例えば死の恐怖は逃れられない。論理的に解決できるものではない。

人は幼児期に初めて死の概念を知ると、自分が死ぬこと、親や友人が死ぬことも理解し一種のタナトフォビア(死恐怖症)に近い状態になることがある。
死は解決しない問題だが、寿命を迎えるまでそのままタナトフォビアが続くということはまずない。
その子供はどの様にこれを解決したのか。
忘れたのか、諦めたのか、「いつかそうなるがそれは今ではない」と先送りしたのか、その辺りだろう。
これらの方略を人は基本、否定する。それは逃走であり、妥協であり、「何も解決してない」からと。どれだけ「解決脳」か良く分かるだろう。

・例えばデリカシーのない他者の言動に傷ついたとする。相手は「考えてないから」そのような言動を行ったのに、「自分に対してあんなことをするのはどの様な意図があるか」と考えればドツボにはまるだろう。

厳密に言えばこの場合のスタート地点が「どうしようもないor問題ないのに騒いでる」ってことなんだが、これは日常的に発生し得る。また、問題視するハードルが低い「過敏すぎる」ことが問題を発生させている場合もある。

・要するにアクセプタンスは「頭の中で作られた驚異」に対しては有効。認知、想起、連想、想像、思考など。或いは被害妄想、不安、強迫。

人は問題が「外部」にあると基本考える。内面の問題にしてもその原因は外部にあり、「あいつがいなけりゃこんな気分にならないのに」みたいに思いがちである。自爆しているとは夢にも思わない。「そいつ」がいなくても別の誰かに対して同じ気分になるだろう。

後述するが、問題意識とその解決の行動そのものが問題を発生させているケースも有る。

認知の歪みから見るアクセプタンスの必要性

・「認知の歪み」から見て人が普段どれだけ評価、連想をしているか。
認知の歪みは、「誇張的で非合理的な思考パターン」とされる。事実を歪めて解釈する癖。

スプリッティング(白黒思考/二極思考)

物事を両極端に分ける癖。グレーゾーンが存在しない。「評価」はこれになりやすい。

特に境界性人格障害はこれが激しく、「ものすごく幸せ」と「ものすごく不幸」、「大好き」「大嫌い」などの間を行ったり来たりするという。

「べき論」

・自分は●●をするべきだ、人は●●をするべきだ、という極端なルール化。

これがあると、そうじゃない物事に対して「なんとかしようとする」。

アンガーマネジメントでは「怒りの原因」だとされる。つまりこのルール化は自縄自縛に収まらず、他者に対しての否定、攻撃にも繋がる。

行き過ぎた一般化

「木を見て森を見ず」。根拠不十分で対象のすべてを決めつける。これはたった一度の嫌な経験で社会は、人間はそうだと思いこむなどが該当する。

犬に噛まれたから「すべての犬は私に噛み付いてくる」と思うだとか。

心のフィルター

主に悪い面しか見えない、目に入らない状態。

マイナス化思考

物事の評価にマイナスのバイアスがかかる。物事がうまくいかないのが当然、うまく言ったらまぐれ扱いか、目に入らない。あるいは凶兆。

結論の飛躍

・これには二種類ある。

心の読みすぎ

他者の言動からネガティブな可能性を予測すること。よくあるのは「自分は嫌われているのではないか/馬鹿にされているのではないか」とすぐ思うだとか。心の読みすぎと言っても、過剰反応か妄想。

先読みの誤り

物事の結果が悪いものになるという推測。推測だが、その妄想に没頭するなら事実と変わらない。

拡大/過小解釈

ネガティブなものを大きく、ポジティブなものを過小評価する傾向。

感情の理由付け

厳密に言えば「良し悪しなどの根拠が感情」であること。自分がこう思ったからこれはこういうことなんだ、という因果の逆転。

デビッド・バーンズに依れば「歪んだ思考がマイナスの気分を引き起こす」とされる。が、この状態だとマイナスの気分が歪んだ思考の正当化に使われている。

レッテル貼り

端的に言えば「決めつけ」。事実そのものではなく、「だからあいつは/自分はこういう奴だ」という極論。加えて似たような奴はみんな同じだとか、思い返せばいつもあいつはこうだったとか、そういう方向に広がる。

これも一種の拡大解釈。行き過ぎた一般化の深刻なケースともされる。たちの悪い事に「言語化の際に強力な説明能力がある」ともされ、悪い意味で説得力を持つため偏見や差別の種になりやすい。

個人化

結果を全て自分の個人的責任に帰属させる。
ネガティブなら「何もかも全部自分が悪い」と思うこと。
ポジティブなら「全部自分の実力」と思うこと。
良くも悪くも(どの道間違ってんだから悪いんだが)成果/責任の「独り占め」をする。

・当人的にはこの思考が「結論」だったり、「事実」だったりする。

これらはヒューリスティクス(即断即決のために精度より速度優先の判断)に該当し、これら心理的モジュールは全くの「余計なこと」ではない。

ただし、これらがコントロールできずに常態化するということは、脳が「理不尽で不幸な世界を演出するエンジン」になっていることにほかならない。そして一部は「当人を紛うことなく加害者にさせる」に十分な危険性を持つ。

認知の歪みの問題は、全て一言で言い表せられるだろう。即ち「勘違いして暴走する」と。では何故勘違いしたのか。ロクに見てないからだ。分かる前に「わかった」として次の「行動」に移っている。泣くなり暴れるなりと。

そうなれば対処法もシンプルで、「よく見ろ」の一言で言い表せられる。マインドフルネスはよく「気づき」という言葉を使う。
しかしそれは見えている以上に勘ぐり、無いものを想像するようなことを始める可能性もあるかもしれない。端的に「知る」と心得た方がいいのではないか。ともかく、そこに思考の要素はない。

アクセプタンス=受容が必要というか、「考えるにはまだ早い」段階で決定を下しているのが問題という方が正解に近い気がするが。実際マインドフルネス自体「考えない訓練」みたいな扱いをされることがある。

逆を言えば意識しない限り「考えすぎてしまう/決めつけてしまう」のが人間の自然体。一部の人は考えるということは自らの意志でなければ行えないと思っているようだが、そんなことはない。

むしろ自由意志の存在がかなり怪しい。最近になってドイツのベルリン大学附属シャリテ病院の研究で「人間は0.2秒くらいは自由意志を持てる」ってわかったらしいが。それも脳が決断を下した「後」でだ。逆を言えば残り全部自動的。

心理学の受容(アクセプタンス)

・アメリカの心理学者、カール・ロジャーズが創始した来談者中心療法から来ている(受容・共感・自己一致)。奥が深いとされ、実践は困難だとも、一生ものともされる。

自分自身を受容したとき、人間には変化と成長が起こる。

カウンセラーは、クライエントを無条件に受容し、尊重することによってクライエントが自分自身を受容し、尊重することを促すのである。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AB%E3%83%BC%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%83%AD%E3%82%B8%E3%83%A3%E3%83%BC%E3%82%BA

相手を否定せず、評価せずといった態度を指したらしい。カウンセリングなどでは重視される。

・一方世間でもノージャッジとか言って評価をやめようという試みはあるようだが、まぁ難儀しているようだ。

アクセプタンス&コミットメント・セラピーでは

・第3世代の認知行動療法の一つ、Acceptance and commitment therapy、通称ACT。他の療法に見られる内面のコントロールをせず、「気付き」に専念させ、「心理的柔軟性の向上」を目的とする。

第3世代の行動療法の一つとして知られるようになったアクセプタンス&コミットメント・セラピー(ACT;Hayes,Strosahl,&Wilson,1999)の研究や実践が近年盛んになってきている。

Kazantzis,Reinecke,&Freeman(2010小堀他訳2012)によれば,ACTの臨床的なエビデンスは,経験的に認められた心理療法の基準(Chambless&Ollendick,2001)のうち,近い将来には十分に確立された処遇(well-establishedtreatments)として位置づけられるであろうと述べており,有望な心理療法の一つとして,現在もその効果研究が進められている。

https://www.jstage.jst.go.jp/article/jjep/62/1/62_38/_pdf/-char/ja

ACTでのアクセプタンスは「私的出来事をそのまま体験するプロセス」や「特定の私的出来事に自ら進んで接触し続けながら、積極的にそれを体験すること」だそうだ。まぁマインドフルネスに絡めて解釈するならば、前者のほうがいいだろう。

ACTでは例え健康な人間の正常な思考プロセスでも苦痛は発生するとする。健康だの正常だの言ったところで、所詮は「一般的」ってだけだ。別に普通の人間は健全なわけではない。

・「多くの問題はFEARの結果起こっている」と主張されている。4つの原因の頭文字だけとってFEAR。つまりは恐れ。

Fusion with your thoughts 思考とフュージョンしていること

Evaluation of experience 経験を評価すること

Avoidance of your experience 体験を回避すること

Reason-giving for your behavior 行動に理由を与えようとすること

https://ja.wikipedia.org/wiki/アクセプタンス%26コミットメント・セラピー

これらは一見すると「お前が自分でそうしてるんだ。自業自得だ」と見えかねないのが難点だろう。これらは脳が自動的にそう処理する、とまずは捉えたほうが良い。

・Fは、人は実際、過去の想起、未来の予測などに没入・同化し、「再体験」する(メンタル・タイムトラベルとも呼ばれる)とする説がある。また、共感能力や集中などに拠っても融合/混同/同化は起こりやすい。

思考とフュージョン、とされているが、認知フュージョンや認知的フュージョンと呼ばれることのほうが多い。
これらから脱することはそのまま「脱フュージョン」と呼ばれる。

・E=評価はそのまま「これはこういうことだ」「これはこうするべきことだ」ということ。よく見れば分かると思うが、状況認識と理解や行動の1セットになっている。細かいことを言えばこの時点で「連想」なのだが、直結しているように感じられて大体気づけない。

良し悪しや好き嫌いも実質的にはその後の肯定的/否定的態度の方針となり、「態度=行動」に直結している。評価は基本、その後の対象の扱いを決定する。この時点=評価の時点で決めつけ、思い込みは発生する。

・Aは本能だろう。忌避行動とか呼ばれ、嫌な目にあう/あった物事には自分から近づかないという行動は動物にもある。危険予測として機能すれば問題ないが、強く働けば些細なことにも過敏に気づき、そして反応するだろう。恐怖症などの一部は嫌な目に会いそうなものを避ける「回避」が目立つ。

この行動は「そうなるような文脈を避ける」なんて言われ方をする。文脈は、ここでは「筋道」くらいの意味。
あの道通ると犬が超吠えてくる→あの道通るのはやめよう、みたいな。

・Rは帰属が該当するか。「起きたこと」から逆算して「原因/理由」を考える機能。チンパンジーにはできないらしい。

人がよく帰属として思いつくのが、自分、他人、才能、努力、運、難易度など。

・総じて通常の人間の意識は「起きながら寝ている(=夢を見ている)ようなものだ」なんて表現されることもある。
この様な頭の中に気を取られている状態を仏教では「無知」、マインドフルネスでは「マインドレスネス」と呼ばれる。

・なお、ACTではアクセプタンスを銀の弾丸として扱ってはいない。つまり万能とはしていない。コントロールが有効ならばそれはそれでアリとしている。

コントロールと逆効果

・自分の内面はコントロールできる、と人は思っている。まぁ少なくとも介入はできるが、それで望む結果が出るとも限らない。

逆説という現象がいくらか確認されている。寝ようと思うと眠れない。きれいな字を書こうとすると手が震える。汗ばまないようにするとやたらと汗がでる。上手にスピーチしようとすると噛むなど。

これの解消法に「うまくやろうとしない」ことが有効な場合がある。ヴィクトール・フランクルの逆説志向では「もっと緊張するように」とすることで緊張しなくなる。発汗は「どれだけ汗がかけるかみんなに見せてやろう」とすると出ない。上手に書くことをやめると手が震えない。不眠症を集めた実験では、寝ないで起きていようとするグループのほうが早く寝た。

これらは問題を気にしてなんとかしようとすること、即ち介入やコントロールが症状を悪化させていた事を物語る。

・個人的には、内面はコントロールはできる余地はあると思っている。ただその方法は、私達が直感的に思いつくものとはかなりかけ離れているだろう。一生懸命に「正反対のこと」をやり、何もしないほうがまだマシな結果になるほどに、私達は内面のコントロール法を知らない。問題に対して「頑張る」の一点張りである。

というかまぁ、リラックスするべきタイミングで緊張するようなことしてるケースがほとんどなんだけど。上記の症状、全部そうだろう。で、「なんとかしようとさらに一生懸命に頑張る」という緊張することを一生懸命にやってるから尚更悪くなる、と。

怖くてスルーもリラックスもできない、というのがあるのだろうが、だったら尚更問題点はその恐怖心であり、スルーやリラックスが必要だったりする。

マインドフルネスとアクセプタンス

・アクセプタンスはマインドフルネスの方針の一つとしても扱われることがある。

・マインドフルネスでのアクセプタンスの方針としては、「価値をつけない、評価しない」ことが挙げられる。偉い簡単に言ってしまえば「頭使うな」ということ。

何かしら思いが浮かぶのは「自動的」だから仕方ない。だがFEARの例のように、それを受け取ってから色々やってる部分は「やめることが出きる」。

総じて「頭の中に浮かんだことにいちいち反応しないことを体得する」ことだと言える。

・マインドフルネスの効果は色々挙げられているが、やり方も色々ある。そのうちストレス解消などの効果はアクセプタンスに属するものでしか効果がないという話がある。

・オスナブリュック大学の研究では、オープンモニタリング(心をあるがままに見つめる。ここで言うアクセプタンス)の瞑想をやった際には物事に対して没頭する能力(=集中力やフロー状態)、ワーキングメモリの向上等は認められた。

逆に、呼吸瞑想(集中に属する瞑想:フォーカスアテンション)はストレス減少とマインドワンダリングには効果がないことがカーネギーメロン大学の実験で示唆されている。これだと瞑想に期待することの殆ど(集中力、ストレス解消、静かな精神、ワーキングメモリ向上)がアクセプタンスのおかげだということになる。

参照:https://www.ncbi.nlm.nih.gov/pubmed/27819445

・マインドワンダリングは「精神の放浪」、つまり雑念が湧くことや、空想や自動思考(不安などの予測も含める)にとらわれて心ここにあらずの状態のこと。特に雑念については頭の中のお喋り猿、モンキーマインドとも呼ばれ、大体嫌われてる。実際の所はこれはDMNの活動だと思うが。

・これを見る限り、むしろ何かに集中しようとしている状態は気が散っているようだ。私達がイメージする「集中」はおそらく集中する方法としてはヘタもいい所である可能性がある。

総じて、「マインドフルネスのコツはアクセプタンスをすること」かもしれない。

・ちなみにアクセプタンス能力を鍛えるには「二週間で十分だ」とのこと。一回あたりは3~10分とされている。特に不安に効果ありだとか。

ただ、マインドフルネスでも脳トレでもそうだが、効果が出るのは結構早いが、サボれば同じくらい早く元に戻る。どうも「日常」に上書きされてくる様に思える。長時間よりも頻繁に行うことが推奨されるのもこのためだろう。「継続するペース」を意識したほうがいい。

・マインドフルネスには何かに注意を向けるフォーカスアテンションと、心をあるがままに見つめて干渉しないオープンモニタリングがある。アクセプタンスはオープンモニタリングにあたる。

根本的な話、瞑想=なにかに意識を集中させる、というイメージのせいでフォーカスアテンションが瞑想/マインドフルネスのメインだと思われているフシがある。

実際そのような瞑想も多いのだが、調べた限り何かしらの「マインドフルネスのデメリット」が発生するのもフォーカスアテンションに多く、集中力の強化に至っては呼吸に意識を向けることはほぼ効果がないとの研究結果が出たりなど、期待に応えられそうもない疑いがある。

ただ、瞑想でオーソドックスな数息観(呼吸を数える)にしたって「呼吸はコントロールしない」って言われてるのに(つまり自然な呼吸を数えるのが本来のやり方)なんか意識的な呼吸やってる人とかいたりする。

「瞑想」に対しての結構な先入観が邪魔をしている所はある。フォーカスアテンションが必ずしも間違いではないだろう。
瞑想に限らず集中もそうだが、こう言った「意識に纏わる能力」の根本的な先入観は表面化はしないが深刻だと思う。下手したら「自分だけうまくいかない」とかもあり得る。

どの道マインドフルネスは日本語で「気付き」という言葉が当てはめられることも有り、本来オープンモニタリングのほうが正道なのではなかろうか。

・アクセプタンスの姿勢としては、「思考や感情をあるがままに見つめ、それに捕らわれないこと」だと言える。「気づいた上で相手をするな」って言ったほうが早いだろうか?

・気づき、つまり「一番初めの知覚」は仏教で「感受」と呼ばれる。感受で終わればいいのだが、そこから思考や感情が連鎖するのが普段の状態。

だから雑念が湧こうが一向に構わない。脳みそ動いてる証拠だ。その上で雑念が湧いたことに気づけたのだから100点満点と言っていいだろう。後はそこで思考は終わって、観察に戻ればいい。

或いは雑念にとらわれて空想に没頭してしまったことに気づき、我に返ったとしよう。認知フュージョンから正気に戻ったのだから構わない。そこで思考は終わって、再び観察に戻ればいい。

気を散らさないようにしよう、集中し続けよう、という時点でもう「やる気」になっているわけで、この時点で「気付き」とは逆方向に行っている。

「普段の意識状態の方が最悪」だと思ったほうがハードル下がっていいだろう。普段は気づけてもいないのだし。

・「思考や感情と距離を置く」ことが重要になる。これらに没頭するのが認知フュージョンだ。

メタ認知そのものだが、このためのテクニックとして「ラベリング」がある。

ラベリングについて

教える分には簡単ではある。
「気づき」にラベルを貼ること。
例えば雑念が湧いたら「雑念」ってラベルを貼る。
足痒かったら「かゆみ」ってラベルを貼る。

・ラベリングの立ち位置はあくまでも「確認」の方法であり、それ以上の意味は全く無い。よく「実況中継」と例えられるのだが、私としては「ログ」に近いと思う。

個人的な考えでは、ラベリングは次善の策だ。心の中のあれこれを本当は気づいた上でスルーできればいいが、それも無理。「何かする」のが性質である我々に「何もしないこと」は結構辛いものだ(面白いことにできてない奴ほどできると言う)。だから次善の策として、感受に対しての特に害のない「リアクション」としてのラベリング。だからラベリングに拘るならば逆効果になるだろう。

よくある例は息を吸う時に「吸う」、吐く時に「吐く」。或いは歩きながら「右足」、「左足」、とのラベリング。これを続けて思考ではなく「気付き」に対応し続ける。その分思考に囚われることは減る。

・現状伝えられているラベリングの方法などは少々散乱している感は否めない。元から「瞑想」としてヴィパッサナーとかサティとか言われて存在していた方法であり、これらも派閥が数あり、マインドフルネスの方がそれを取り込んだ形だから仕方ないだろう。

大別して2つ。

呼吸の例のような「事実の認識」と、雑念の例のような「雑に片付けて思考を終わらせるため」のものと。雑に終わらせる必要があるのは、細ければ細かいほど思考が生まれる余地を与えるからだ。まぁ両方やって問題ないだろう。

雑念なら「雑念」、想起なら「想起」、思考なら「思考」として雑に片付ける。また、ラベルの意味などにもこだわってはいけない。最初から最後まで一貫してるのは「頭使うな」という点だ。

・注意点は、ラベリングは予測や宣言、掛け声とかじゃないってこと。これは特に「事実の認識」としてのラベリングで間違えやすい。

呼吸を例に言えば、吸ったら「吸った」とラベリングするのは良いが、吸う前に「吸う」とラベリングするのは先走っていていけない。これは意思であり、能動的であり、「気づき」ではなく、オープンモニタリングじゃない。

気づかぬ内に思考や想起に没頭し、怒りや不安を感じている状態で我に返った時には「感情」とラベリングする必要はある。で、観察に戻る。

ラベリングを「ログのようなもの」と例えたのはこのため。
意思や思考のログではなく、感受のログ。
まぁ記憶する必要は全くないからうまい例えじゃないんだが。

この辺りが実践となると難しいため、「完了形でのラベリング」を最初は勧められる。息吸った後に「吸った」とラベリングするような。

ラベリングの対象は「感受」であること。

当然ながら感受に対しての「評価」であってはいけない。良いとか悪いとか好き嫌いとか。それらは「感受」に対しての二次的に発生した印象であり、感受そのものじゃない。できるだけ感受そのものに気付けるよう。目的の一つは普段勝手に結論づけている「『価値』『意味』からの開放」である。このため思考や感情を理解しようとする努力すら邪魔になる。

まず最初に受容することになるのは、「自分は身体も頭も結構勝手に動いている」という事実になるだろう。

メモ

・前から何度か書いている記憶があるが、マインドフルネスの「フォーカスアテンション(何かしらに注意を向け続けるような瞑想)」はリスクがあったり、今回示唆された様に無意味である可能性もある。やるならアクセプタンス=オープンモニタリングの方がいいだろう。

・総じて頭に勝手に湧いた記憶や空想に対しての、勝手に「なんとかしよう」とする/考える「反応」が問題の場合は効果的。

アクセプタンスのトレーニングは「勝手に過剰反応する癖の弱化」とも言える。或いは「注意のひったくり」に対しての「耐性」をつけることとも言える。

・アクセプタンスが解決脳からみて奇異に見えるのは、そのまま「することモード」と「あることモード」の関係にも言えるだろう。即ち前者は後者を信頼していない。まぁ目的が解決であるのと観察/理解であることだから、「解決」の点では確かにそうといえばそうだが。

ただ、以前にも書いたように「することモード」で詰まった場合には「あることモード」で情報収集、と言った感じでスムーズな切り替えが理想だとされている。

・カウンセリング方面では他者に対しての受容が重視されるようだが、彼/彼女たちは相手が悪人だろうが善人だろうが元はまともだろうが元からキチガイだろうが、まぁとりあえずそういった態度をするわけだ。仕事だし。使命感もあるかも知れんが。

社会のプレイヤーたる我々は、そこまでやる必要がないし、やったほうがむしろ変なのが寄ってきたり懐かれたりしそうなのも事実だろう。他人に対してというよりは、自分を許す、認めることに専念したほうが良い。

大体マインドフルネスにおいて求められているのは聖人君子になることではなく、ストレス緩和、集中力や冷静さの強化など、精神的な不調の改善や思考・判断の向上の方が多い。ビジネス系の記事で多く見られるのが良い証拠だ。「自己のアップデート」なんて言葉を見かけたが、求めているのはその方向だろう。

・受容は、根本的に「問題」だとした認知がおかしい場合に有効となる。「なんとかしようとしているから苦しい」という場合。

私達が普段「知った」「思った」と感じているものが「間違い/偽物」な時があり、それを見逃さないための気づき。

この「偽物」と「融合」するため(これは非常に自然に、一瞬で為される)、間違いには気づけなくなる。つまり「そうとしか思えなくなる」。こうなったら、当人としてはそれは「現実」か「約束されたろくでもない未来/運命」になる。

・アクセプタンスは言い方を変えてしまえば「スルーする」事に近い。反応しない、何もしない。これが結果的に「受け入れる」形になる。別に誰か何かを許さなきゃならないわけでもない。受け入れるのは自分の「感受」だ。それに対して、評価しないこと。

・受容の概念を「受容」する所からして難しいものがあると思われる。加えてあらゆる場面で有効かと言ったら怪しい。落とし所としては、「脳を休める」程度の認識が一番良いのではないか。脳がどれだけ勝手に動いているかは、ここまで述べてきたとおり。

することモードの難点は「いますぐ」「絶対に」「なんとかしなくてはならない」という状態に勝手になることだ。それが無価値な焦燥、衝動、失態に繋がるし、「解決」するまで終わらない。終わらないのに終わらせようとして似たような経験(大抵は嫌な経験)をひたすらほじくり返すとも言われている。

そしてあることモードをすっ飛ばしてすることモードになるということは、何をしなくちゃいけないのかわからないが何とかしなくちゃいけないという、わけのわからない状態ということだ。ゴールがないのにゴールしろってどういうことだよと。

受容だのあることモードだのの価値以前に、「することモードで居続けること」にリスクがある。でも生物の認知スタイルは恐らくデフォルトでこれだ。意図的にオフにすること(結果的に切り替えになる)は、まぁ学んだほうが良いだろうし、それはつまり受容というよりも、頭の中のあれこれ、認知のあれこれに「手や口を出さない/反応しない」ことに近い気がする。

結局、もっとシンプルに「気づいた上で反応しない」って言った方が早いんじゃないだろうか。

関連リンク

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