「主張すること」へのイメージが悪い:自分の意見を言えない心理

  1. 何か主張しようとする
  2. 集団的/社会的によろしくないと思う
    • 日本の文化的背景
    • 「主張すること/されること」への攻撃性のイメージ
  3. ブレーキが掛かる

・自分が何か主張する時、自分の意見を言おうとする時、どこかブレーキが掛かるのを感じる人も多い。

「主張」と「攻撃性」にはいくらかの関連が見出されている。このため主張に対して攻撃的な人間を連想し、悪いイメージを持ちやすい。
加えて日本では特に個の主張を良しとしない文化的背景も有る。

発信者も受信者もこのイメージを持ちやすい。このため、度胸あればいいって問題でもない。

主張することと攻撃性の関連

  • 「主張」だけだと実際に攻撃性が高い
  • 相手を尊重する意識がある場合、攻撃性は抑制される
  • 「自己主張はストレートにすべき」という思い込みがあるとされる
  • 従来の自己主張の考え方は「言う所」までで、言った後にどうなるか考えてないフシが有るともされる(要するに自己満足で終わっていて、自分の目的を果たせたどうかすら考えてない)

自己主張=攻撃性のイメージ

・「自己主張」だけで見るなら、実際に攻撃性と関連がある。

・元々、何かを主張したり自分の意見を言うことに対して「意見を言うと嫌われる」「誰かの邪魔になる」「誰かを不快にさせる」などのイメージを持っている人は多い。まるで意見を言うことが悪ガキやチンピラが行うような「悪いこと」であるかのような。

・青年期女子を対象に行った調査では、一種の主張性であるアサーション(アサーティブ)と攻撃性との間に関連があることを指摘されている。

アサーティブとは自他尊重と訳され、「自分の意見を主張はするが相手も尊重する」という態度。この内「自分の意見を主張する」という要素と攻撃性に関連が見られるとのこと。

一方で他者尊重(自己表現する際に相手を尊重する態度)の要素では攻撃性とは負(マイナス)の相関が示されている。

これは、自分の意見を主張するだけでは攻撃性が増すという話。逆に陳腐な言い方をすれば「相手への思いやり」があるほど攻撃性は抑制される可能性が示唆されている。

・同じく、「自己表現に対する肯定的態度」と「言語的攻撃性」に正の相関がある。自己表現はいいことだ、と思ってる奴は言葉による攻撃性が高いということ。
具体的には他者への批判、口喧嘩、怒鳴るなど。

まぁ多いだろう。「言いたいことははっきり言うタイプ」とか自己申告する衝動性が高くて性格悪いだけの奴みたいな。

cf.日本人のアサーションにおける熟慮的自己表現

馬鹿に見える

・アサーティブ(アサーション)も、「自己主張」のイメージに捉えられやすいとの指摘が有る。

アサーションを権利の主張と捉えた場合、アサーションは「率直に」「正直に」「ストレートに」自己主張すべきという、自己主張時の形態に縛りがかかる。

また、そのようにアサーションを捉えた場合、自己主張がうまくいくかどうかや相手に受け入れられるかどうかという自己主張の機能は必ずしも重視されない。

https://ja.wikipedia.org/wiki/機能的アサーション

要するに2つ。

  • 自己主張は「ストレートに/正直にするべき」という信念。これは簡単に、オブラートに包んではならない、加減してはならない、徹底的にやるべきだという思い込みになり得る。
  • 「やったかどうか」は気にするが、「うまくいったか」は気にしていない面がある。言いっぱなし

これも攻撃性に見えるっちゃ見える。加えて衝動性にも見える。つまり馬鹿に見える余地もある。と言うか上記のとおりに実践したら無責任で攻撃的で反社会的な馬鹿だ。普通の人間は、馬鹿なことを馬鹿だとわかった上でできない。ブレーキが掛かる

この問題を「自己主張とはこういうもので、自分は「これ」をやるべきだ」との思い込みで実行に移すなら、まぁどうなるやら。

そしてこの「従来の方のイメージの自己主張」の実践者はいるし、やはりナルシシズム入ってることが多い。

逆を言えば自己主張のイメージの刷新、そのまともな自己主張を実行するためのスキルで賄える余地があるが。

・一応フォローしておくと、アサーティブの要素ではたしかに「率直」があり、遠回しではなく率直に、相手に伝わるようにというのは重視されている。

一方で別の要素として「自己責任」があり、これは言ったことに対して責任をもつこと(厳密には「言わなかったこと」にも責任を持つ)。上記引用のような「自分の権利の主張や行使」としかアサーティブを捉えないのなら、まぁそもそも間違ってる。

自分はそうじゃないが、相手はそう取るかもしれない

・意見を言いやすい環境の概念として、心理的安全性がある。意見を述べても安全、と当人が感じられる度合い。

これを下げる原因には「邪魔をしていると思われる不安」「ネガティブだ(否定している)と思われる不安」がある。

穏便に意見を述べる際には避ける点でもあるだろう。邪魔をしないタイミングで、否定せずに、と。そのくらい染み付いている。これは「攻撃だと捉えられると困る」という判断としてのブレーキであり、まぁ間違っていないのかもしれない。

・「根に持つ人間」は結構いる。自前で捏造した自尊心の持ち主であることが多いが。
会議のお作法(笑)でも、「攻撃だと受け取られない言い方をしましょう」「意見を否定されてもあなたが否定されたわけではありません」なんてのがだいたいあるだろう。
このあたりをいちいち意識しなければ穏やかには進まないのも現実だ。

・案外、意見が言えないことを自分だけの問題だと思っている人は多いのだが、環境要因は結構大きい。相手に拠るってのもある。「適応」という視点で考えれば、無理そうなら黙ってるってのも一つの判断となり得る。

心理的安全性について
・チームのパフォーマンスを高める土台。基本的には個人の特性ではなく環境要因として語られる。チームの空気とか雰囲気とか。・需要としては、部下に積極性が見られない、受け身的な従順さが強すぎて「協力的」ではないなどの原因と解決に...

主張することに対しての日本の文化的背景

・日本における「主張」へのネガティブなイメージとして「個として主張しないことは、集団に適応的である」という考えがある。コミュニケーションの背景にこの価値観があるとされ、これが主張することの阻害要因となっているとされる。

・このためか、意見を「言わない方がいい」との考え方も、社会人になる頃には見られ始める。(ここでは意見を持つことと意見を言うことは別と扱う)

文化庁発表の、平成28年度「国語に関する世論調査」によれば、「意見が食い違う時、納得行くまで議論したいか」への答えはなるべく事を荒立てないで収めたいのが61.7%

まぁ逆を言えば、納得がいくまで議論しようとする=事を荒立てる余地があるとのイメージは、やはり見て取れる。

日頃の人間関係を優先し、自分の意見を主張しない方だと答えたのが58.6%であり、これまた意見を主張する=人間関係やばくなるかも、とのイメージが見て取れる。

つまるところ、社会人に限れば、何かを主張しようとする時点で6割の人間から悪目立ちする。

自分の意見がない/言えない人が、意見を言えるようになるには
会議で意見を求められるのが苦手、大学で今までとは違い自分の考えや思考を開示する必要があるができないなど「役割を果たせないこと」プライベートでも気が進まない用事を断れないなどの「他者に流されること」「自分の...

・いわゆる陽キャやパリピも嫌われていたり、「怖い」なんて言われるレベルの輩も一部いる。距離感が近すぎたり、デリカシーがなかったり、騒がしかったりで。まぁ実際そういうところがあり、イェール大学の研究でも陽キャは陰キャより人の心がわからないとの結果がでてもいた。

こういった、主張することや自由に振る舞うことに対して「周りが見えていないことによる反社会性」のようなイメージを持っている人も多い。自分がそれをやるとなれば、やはりブレーキはかかる。

・根本的な話、個人と社会は相反する所がある。「全体」を優先するなら、「個」は犠牲となりやすい。ぶっちゃけて空気読む限り意見は言いづらいってのがある。

この上で空気を読む必要性が、日本は文化的な意味ではかなり高い。昔は主張や説明することに対して「そのような状況になること自体が悪い」なんて価値観もあったらしい。

意見を言おうとした時に考えられるブレーキ

・つまり、自分の意見を言おうとした時に、

  1. この国の従来の価値観にある「主張することへのネガティブなイメージ」がちらつく
  2. 自分の意見を言うことが「攻撃」に思え、実行することをためらう
  3. 相手に「攻撃」と捉えられるリスクがあり、割に合わない

などは考えられる。特に2。これは「主張する/しない」が「ケンカする/言いなりになる」の極端な二択になる。この場合、前者が過激すぎるという理由で、可能な限り後者を選ぶだろう。

よく白人が怖がる「ギリギリまで我慢してキレたら徹底的に殺る」って感じの日本人のキレ方と一致する(戦争からネットゲームまでこの手の小話は聞く)。

相手が我慢する限り調子に乗り続ける方が人間性がゴミだとは思うが、まぁゴミはそこらにいる。と言うか各々にそういう種があるのは間違いないだろう。別に日本人同士でも良くある話なんだし。

・これらは一種の社会的な文脈であり、要するに意見を言うことに「世間体の悪さ」を感じる余地があるということ。
主張することが「悪いこと」と思っている限り、「悪いことをしてはいけない」という心理的な禁止令には必ず引っかかる。

発言だけが意見ではない 「言えない」と「言わない」は違う

・強調しておきたいのは、「言えない」と「言わない」は違うということだ。「言わない」は意思表示としてカウントされる

金子・中田(2003)は,“自分が主張しないと決めたらそれも1つの主張である”と述べ,平木(2009)は基本的なアサーション権の1つとして「自己主張しない権利」をあげていることから,「主張しない」ことと「主張できない」ことは明確に区別する必要があろう。

非主張性研究の現状と課題

・反対に、言葉にはしても「あいまいで相手にきちんと伝えることができない」というケースはアサーティブではないとされる。

・そもそも主張性を測る尺度自体も精度というか純度というかが問題視されている。


“従来の主張性研究では,自分の考えや感情を実際に表明しているかどうかという側面に焦点をあてていたため,相手の都合や状況を考えて自ら引くといった複雑な行動は,非主張的で適応的でないものと評価されている”

非主張性研究の現状と課題

これは「自分の意見が言えない」と悩んでいる人も同様に見える。

・「言えない」と「言わない」の違いは、己の意志かどうかだ。意志と行動の統一感とか本来感と言っても良い。

「主張しないという主張」は、その感情は自分で納得できるものであり、相手への配慮も妥当なものだと考えられている。

「言えない(非主張性)」は言動は「言わない」とおなじに見えるが、その感情はネガティブなものであり、他者への配慮は過度であると考えられている。
つまりこの状態は他人を気にしすぎる過剰適応の状態に近い。過剰適応の酷いのが自己破壊的同調であり、これは自分を尊重しないノンアサーティブに通じる所がある。

今回においての自分の意見を言うためにできること

・一つは、「言わないのも意思表示だ」と理解すること。まぁ、自分の行動に納得した所で、それがいい結果を招くとは限らない。ここを混同してると正しいのにすっきりしないなんてことはあるかもしれない。

自分の意見かどうかは、自分でしっくり来るかどうか(本来感が感じられれば良い)。自分のこの行動は、自分がそうするべきと判断したものだ、というのなら、問題は内にはない。社会的に問題有るかどうかは内容次第だけどな。

・もう一つの問題、攻撃性に連なる悪いイメージで主張することに尻込みすることは、主張のスキルを学ぶことが有効だと言える。
主張することが「相手を蔑ろにして自分を優先させること」とのイメージがあるのが理由であって、自他尊重のアサーティブとかを学ぶことは、これの緩和にはなるだろう。

基本的には相手を尊重する限りは攻撃的にはならない。ただ、意見が言えないと悩む人は既にそれをやりすぎていて今度は自分が出せないという状態がおそらく多い。

また、なぜそちら方面でやり過ぎになったかといえば、そっちに全振りしてれば反対側で間違えることはないだろうという一種の状況判断の手抜きが大体ある。ぶっちゃけ当人からしてみれば自己主張での「やり過ぎ」は強く避けたいことであり、苦手分野だったというのが元々だろう。

まぁ何れにせよ、大事になる前にさらっと言っとくのが一番ハードル低いんで。小出しにしていくといいね。

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