論文では完璧主義ではなく「完全主義」としている所が多い。反対に一般では完璧主義と言われることが多い。ここでは完璧主義に統一する。
また完璧主義を人格ではなく、「心理状態」のようなものとして扱う(一部を除く)。実際に完璧主義のような姿勢自体は誰にでも出ることはあるし、理由・動機・原因は様々だし、特定の病でこの傾向は強まることもある。もちろん頻繁にそうなる人は、周囲からは完璧主義者だと認識されるだろう。
完璧主義は悩みのタネとなることが多い。「誰にでもある完璧主義」が、コントロールが効かずに時に邪魔であったり、不和の原因となったりする。今では、自慢げに自分が完璧主義だと言う者は、こちらでは全く見なくなった。
完璧主義の分類
完璧主義の3つのタイプ
- 自己志向型
- 社会規定型
- 他者志向型
大まかな分類としては、自己志向型、社会規定型、他者志向型の3つの概念が扱いやすいのでこれを主軸とする。
自己志向型は、自分の目標に対して完璧を目指す。完璧になりたい、完璧にやりたい。イメージしいやすい完璧主義。
社会規定型は、完璧を「求められている」と思っている。そしてそれを果たそうとする。完璧じゃなきゃいけない。実際には一番多いタイプの完璧主義。精神病的な完璧主義の話だとこれを指していることが多い。もう少し細分化もされるが。
この2つはそれぞれ理想自己(なりたい自分)、義務自己(そうじゃなきゃいけない自分)のどちらを目標としているかで区別できる。目標の出どころが自分か、他人かの違いとも言える。
他者志向型は、いわゆる「押し付ける完璧主義」。他人を自分の思い通りにしようと指図、操作する言動が目立つ。
関連ページ
>>他人に厳しい、相手に完璧を求める完璧主義と他者志向型完璧主義
適応的/不適応的
もっとシンプルに二分するものもある。適応的か、不適応的か。それぞれ良い完璧主義、問題のある完璧主義ともされる。
何に適応してるんだって話だが、心理学で適応と言うと健康的で、不適応だと病みやすい/トラブルを起こしやすい程度の認識でまずはいいだろう。
不適応的完璧主義:評価に対する不適応的関心
- 失敗恐怖
- 自分の行動に対しての自信のなさ
- 親との批判的な関係。
適応的完璧主義:積極的な努力
- 自分の行動に対する高い要求水準
- 秩序を守る
- 計画的に行動する
適応的な完璧主義は、高い目標を持ち、完璧であろうとする。
不適応的な完璧主義も、高い目標を持ち、完璧であろうとする。そして失敗した場合には強く自分を責めて、次が怖くなったり病んだりする。適応タイプはこれがない。
これだけ見ると自分を責めるか責めないかの一点の違いだが、完璧を求める動機が適応タイプは自己目的的、不適応タイプは「失敗から少しでも遠ざかりたいから」と初めから違うようだ。
ただ、「タイプ」として二分されることもあるのだが、論文などでは完璧主義者は「構成要素」として、2つを同時に持っているような表現をされることもある。
2つを見比べて考えて見ると、
- 高い要求水準を持てば、身の程を超えることになり、失敗のリスクは上がるのだからこの2つは関連性があると考えられる
- 秩序を守るというのは、ある意味自主性ではなくルールを優先しているのだから、この2つは連続性があると考えられる
- 計画的な行動が「他者(脳内イメージを含む)に、自身の行動が意味のあることだと証明するため」である場合、親(他者かつ上位として干渉してくる存在)との関係とも繋がると考えられる
最後はちと苦しいが、全体で見て同じコインの裏表に見えなくもない。
関連ページ
_完璧主義の適応的構成要素と精神的健康の関係(外部リンク)
隠れ完璧主義
関連ページ
完璧主義を直したいという話はあっても、バレないようにしてるとかそういう話は聞かない。これらは「やってしまうこと」であり、隠すという考えが思いつく段階でも無い。隠れ完璧主義は、大抵の場合は「自分が完璧主義だと気づいていない人」を指す。
多いのが、「これだけダメなのに完璧主義なわけがない」というものだが、自分を低く見積もるのも、高い理想があるからかも知れないし。
何よりも、完璧な目標への執着を指すため、「完璧にできないから一切やらない」というのも完璧主義だと言える。サボり魔の完璧主義はあり得るということ。
特徴を大きく分けて2つ。
- 白黒はっきりさせたがる(出来るかできないかの二分)
- 目標が高い上で改める気もない(結果やりたくないと思うなども含める)
特に無意識に高い目標を描き、それがプレッシャーになり(目標の修正を行わない)、やらないとかサボりたいとかしんどいとかもある。この上で目標自体は訂正もしない。
目標と出来るかできないかしか考えないとも言える。逆を言えば「どこまでできるか」とか「どこまでいけるか」みたいな考えは持たない。なのでできないと思ったら全くやらないことになる。
完璧にはできないと思っているがやらなきゃならないというのはプレッシャーなので「先延ばし」が見られることが多い。ただし先延ばしのせいで時間がなくなり、焦り、失敗しやすくなるという負のループがありえる。
オーバーアチーバー・過剰達成
過剰達成者。頑張りすぎ。能力以上の結果を出す者。この言葉は「他人が丁度いいと期待するレベル以上の目標を達成した時に揶揄する言葉」とされる。
元々は子供の成績に於いて、知能以上に成績が良い者を指す。対義語はアンダーアチーバー。
公言していないものを含め、目標を多く抱えているとされる。これらはジャンルとしてはバラバラのことも多い。また、公言することにより話題にされたり邪魔されたりを避けるため、好んで黙っているとも。
- 結果重視の傾向。
- 不安が動機とされる。ストレスに晒されると頑張る傾向がある。
- 自分への期待値は高い。自己評価が低いわけではないらしい。
- 他人からの建設的な批判を受け入れるのが苦手。このためそれを避けようとして余計なタスクを作りまくる傾向がある。
(恥に対して過敏かつ避けているようにも見える) - 自覚は大体ない。
周囲の期待に応えようとしてこうなるとされる。つまり無理をして結果を出しているということ。完璧主義で言えば社会規定型に近い。個人の自己満足が動機のこともあるかも知れないが、他者の評価や反応がお目当てならそういうことだ。
一応は「先駆者」になりえるとも言える。高い目標+その達成のための行動であることに変わりはないから。
過剰適応
過剰に周囲に適応しよう、期待に応えようとする心理を過剰適応と呼ぶ。
「適応」というのは対象がある。周囲の評価や承認を得るには「合わせる」必要がある。この時点で「何を頑張るか」がほぼ決まっている。
この上で「自分はまだ足りない」「まだ安心できない」と思うのなら、それを過剰に頑張ることになる。これを客観的に見ればオーバーアチーバーとなる。
動機というか心理としては、1つには自分が信じられない(あるいは自分らしさがない)から過剰に周りに合わせようとするタイプがある。オーバーアチーバーはこちら側に近い。
もう1つには自分らしさを知っているが、断れずに無理をして周りに合わせるタイプがある。こちらはそれがストレスになり、溜め込み、更に過剰適応する(つまり完璧主義的にさらに頑張る)可能性が考えられている。
どちらも完璧主義を発症していると言える。ついでに抑うつ状態でもある。
過剰適応は周りに「合わせすぎる」ため、目立った完璧主義とはならない。
方向性的に「良い子」か「優等生タイプ」のどちらかだと認識されやすい。隠れ完璧主義にはなりやすいだろう。
- 過剰適応/自己破壊的同調について
周囲の期待やニーズに応えるため、優等生・模範生に見られやすい。ただし動機が不安や人間不信のため、自分らしさを犠牲にしてでも適応する傾向がある。 - 本来感 自分らしさを実感すること
不適応的な完璧主義は、本来感のない状態だとも言える。周囲に認められる、褒められるなどの社会的な自尊感情や自己価値は、本来感と負の相関にある。
完璧主義の要素
4つの要素
関連ページ
要素としては4つが挙げられている。
完全欲求:完全を求める。他の3つに共通する特徴。
https://embryo-nemo.com/773/
高目標設定:目標設定を高くしがち
失敗過敏:失敗に対して敏感であり、些細なことでも「失敗」と捉える
行動疑念:自分の行動を漠然と疑っている
この中で失敗過敏と行動疑念が強いと抑うつや絶望状態になりやすいとされる。
反対に、完全欲求や高目標設定そのものは精神衛生に悪影響はないともされている。
自分が失敗したこと、不完全であることが「許せない」ことが、抑うつなどの原因となる。
スプリッティング(白黒思考)
代表的と言っても構わないだろう特徴。白と黒の2つに分けたがる。グレーゾーンが存在せず、白黒つけるというよりも無理矢理にどちらかに押し込む。
0点か100点か思考、全か無か思考、二極思考などとも呼ばれる。
スプリッティングは不安や抑うつを発生/増大させる認知の歪みの一つとされる。分裂の意。
誰でも通る道としては、赤ん坊から見て親の自分を満足させてくれる面(白)と、自分を満足させてくれない面(黒)を同一人物として統合できないことを指す。「全体として捉えることの失敗」ともされる。
実際に完璧主義の思考だと成功/失敗のどちらかになる。進捗や成長、収穫や勉強というグレーゾーンや「途中」として見るような概念がない。
スプリッティングは境界性人格障害、自己愛性人格障害、抑うつで多く見られる。
減点方式の評価
「出来て当たり前」=100点であり、出来ない部分があればどんどん評価は下がっていく。特に社会規定型に多い。
100点で終わるためにはノーミスでなくてはならない。1つでも失敗したらもう100点は取れない。
これはまぁ、楽しくない。
完璧主義の原因
言われることが多いのが、親からの条件付き愛情。出来が良くなきゃ相手されないから、完璧を求めるようになった。あるいは結果を出さなきゃ愛されないという認識が出来上がったという説。
個人的には理由としてちと弱い気はする。しかしアダルトチルドレンのタイプの一つである『ヒーロー』はかなりこれに近い。家族が望む「優秀な子」であることで家族の目を引き、家庭内不和の一時的な改善を図る。
社会規定型の完璧主義の原因として、SNSなどの場で「見せたい自分」だけを見せれるような現代の環境が挙げられている。結果として脳内の「普通」のハードルも上がり、努力しなきゃそれに追いつけない。
動機としてはほとんどが「失敗への恐怖」からであり、その発生源は自己肯定感の低さや実際の失敗にまつわるトラウマなどがある。
また、二次受傷/代理トラウマもありえるだろう。他者の経験を聞いているうちに自分のトラウマになるパターン。カウンセラーなどで実際にある。共感能力が高いとなりやすいとされる。
「教訓」として、あるいは「見せしめ」として何度も聞いているうちにいつの間にか、ということはあるだろう。手を抜いたらどうなるか、失敗したらどうなるか、迷惑をかけたらどうなるか、恥をかいたらどうなるか、経験してなくても「避けるべきだ」と判断が付く程度には、既に教育/汚染されてるはずだ。
関連ページ
二次受傷:経験していないことがトラウマになる
不安だから完璧にしておく
完璧主義と親
一時期は馬鹿の一つ覚えみたいになんでもかんでも親のせいだったところが心理学にはあるわけだが、今回は割と本当に「影響は」あるとされることが多い。責任かどうかはそれぞれのケースによるだろうが。
「良い子」というのは一見よろしいことだが、度が過ぎれば問題があるとして研究されていたりもする。目立ったよろしくない状態が「過剰適応」。つまり聞き分け良すぎ、良い子すぎ、大人しすぎ、子供らしいところがない。この時点でアダルトチルドレンとも通じる。
一般にはこれは親の条件付き愛情、すなわち言うこと聞けば褒められる、そうじゃなければ愛してもらえないという「教育」の成れの果てだとか言われたりもするのだが。
過剰適応の定義は「内的な欲求を抑圧して外的な期待や要求に応えること」と定義される。子供の過剰適応の要素が、
- 他者配慮
- 期待に沿う努力
- 人からよく思われたい欲求
これらは他者志向的行動と呼ばれ、外的適応を高める。これは社会規定型の完璧主義とはかなり共通する。
子供にこのような「機能」がある時点で、親視点で言えば「気をつけないと勝手にそうなってる余地」は割とあると言える。
まぁ、子供に限らない。やらかしたVtuberとかも大体こんなもんだろ。
反対に、
- 自己抑制
- 自己不全感
といった自己否定的なネガティブな感情があり、これが内的適応を低める(自分を尊重しなくなる)とされる。
これは親と子で言えば、親の過剰な心配による先回りが、子の「自分は1人ではできないorやってはいけない」だとかの自己抑制、自己不全感に繋がりやすい。
関連ページ:
_過剰適応の日豪比較 : メルボルン大学他との研究交流から(外部リンク、論文)
嫌われ者の完璧主義
完璧主義は嫌われる、という話は多い。ただし前述の通りタイプが分かれるわけで、全部が全部同じ様に嫌われるかと言えば、そうでもない。
他者志向型完璧主義
関連ページ
嫌われるのが当たり前なのでなんかもうどうでもいいんだが。
ケント大学のヨアヒム・スト―バー曰く。他者志向型完璧主義は他者を犠牲にする攻撃的なユーモアを好み、他者や社会規範をないがしろにする傾向がある。反社会的であるとされている。
またサイコパス、ナルシシズム(自己愛)、マキャベリズムの性格特性を併せ持つダークトライアドである傾向も高いとしている。
コントロールフリーク
「仕切り屋」のこと。完璧主義者に多いとされるのがコントロールフリーク。
コントロール(統制)は、レベル3防衛機制の一つである[2]。コントロールフリークは完璧主義者が陥りやすく[3]、それは自身が抱える内面的な精神の脆弱性から身を守るためであり、他人の個人的生活など「全て」をコントロールしなければ、児童期の不安や自身の持つ男性・女性のイメージを破壊されるなど誤った信念を持っているからである[4]。
こういった人々は、他人へ自身の認識を強制し、操作し圧力をかけ[5]、また裏切られた男性・女性のイメージなど内面の虚しさから逃れるために他人の力を利用する[6]。
このようなコントロールフリークのパターンが破綻すると、コントローラーは無力な恐れの中に取り残されるのだが、それらの痛みと恐れは、そもそも自分が持ち合わせていたものである[7]。
コントロールフリークと共依存には、「自分が依存している対象について、コントロールを失う事の恐怖」という点において共通点が見られる[8]。
https://ja.wikipedia.org/wiki/コントロールフリーク
防衛機制とは、ストレスを無意識的に和らげるために人が行う行動を指す。前述のスプリッティングは防衛機制の一つとしても数えられている。
「統制」は、過度な管理によって安心を得ようとする行為ということ。他者に自由を与えないことによって、かも知れないが。
リーダーシップとかマネジメントとか言いながら、やってることはコントロールフリーク、というのは結構多い。モラハラやDV加害者も該当する。
自分勝手
自己志向型は自己目的的、つまりは「自分がやりたいからやる」という実際自分勝手な動機である。これは公私混同しなければいいだけの話だが。
社会規定型はそういった方向ではないのだが、不安感から周囲と不調和になるレベルで拘ってしまう。結果自分勝手やマイペースと見られる。他者志向型は論外。
何れにせよ完璧を求めるわけだが、「もう完璧にはできない」という時点で失敗であり、途端にやる気を無くすこともある。これも無責任で自分勝手に見られる理由。
時間にルーズ
この点はほとんどのタイプに当てはまる。仕上がりから細部に至るまで全部に拘るなら、時間がいくらあっても足りない。この上で締切よりも仕上がりのクオリティを優先するなら人を待たせることになる。
基本的に人は待つのが嫌いだ。特に他人の都合で待たされるのは。そんな目に毎回合わせてくれるのなら、まぁ嫌いにはなるだろう。
完璧主義が「自分勝手」だと言われるのもこの点だ。規定されたゴールよりも、周りにかける迷惑よりも、「自分が勝手に立てた目標」を優先しているから。
自分が満足しなければ終わらないという点は、実際に自分勝手ではある。この上で頭が固いというか話を聞かない傾向もある。
だからこそ自分勝手でOKな自分の時間で、自分が好きでやってることに好きに拘ると、クオリティが高かったりする。高目標設定、つまりは一般的なラインよりも良いものをイメージできること自体は、才能ではあるだろう。
部分最適
組織、チームなどの集団として考えると、完璧主義は部分最適を追い求める形になる。言葉通り一部分だけ最適であること。必ずしも悪いとは言えないことだが、大体はよろしくないこととされる。対義語は全体最適。
ピンとこない人も多いんだが簡単に説明すれば、運動会で二人三脚するとして。相方が全力ダッシュしやがったらこっちえらい目に合うよねと。だからといって自分も全力ダッシュしたら良いのかと言ったら、連携取れてないからどのみちえらい目に合うよねと。
二人三脚で最速を意識するなら、両者が「合わせる」必要があるだろう。早く走ろうとするのではなく。これが部分最適と全体最適の違い。
自分だけ完璧であろうとすれば部分最適だし、全体を自分の都合で完璧にしようとすれば、コントロールフリークな他社志向型完璧主義だ。割と詰んでることになる。
単純に人が増えるだけ仕事が進むかと言えばそうでもない。必ず連携や連絡といったコストが発生する。全体最適はこのコストを最小限にする必要があるが、完璧主義はこの場面でも、部分最適に拘ることになる。ここでも「自分勝手」に見える行動が問題になる。
これに関しては、部分最適かつ全体最適になるような場面でなら、問題はないのだが。
完璧主義をやめるには
関連ページ
_完璧主義とノーミス
直接的な原因はスプリッティングにあり、これが悪い意味で妥協できず、100点じゃない=0点という極端な自己評価につながっている。
他にも高目標が一瞬で設定され、そして絶対なものとなっているのも原因と言える。しかしこれもスプリッティングのせいでやる/やらないとしか考えられず、プランの修正をする気が全く起きなくさせているように見える。
スプリッティングをやめることは、全体を見ることと、グレーゾーンを認めることだ。
良い前例としては、上のリンク先に有る女優が完璧主義を克服…というよりもうまい付き合い方を見つけた話がある。当人曰く今でも完璧主義らしいが、問題は出ていないようだ。
概要としては、
- 自分の完璧が他人から見て完璧とは限らないと知った。当人はノーミスを意識していたが、それが出来た時ほど今日はいまいちだと評価された。むしろ今日はだめだと思ったときには褒められることもあった。
ここから当人曰く「お前の100点なんてたかが知れてんだぜ」と気づいたとのこと。 - 80点をまず志した。当人曰く「余白」を作るようにした。意識して100点にならないようにしたという。この辺り完璧主義らしい。
- 結果、肩の力が抜け、視野が広がったという。どころか80点の中身、つまりは「今日よくできたこと」にも自分で気付けるようになった。初めはノーミスを意識した減点方式だったため、そこには目が行ってなかった。
興味深いのが、無理やりに加点対象を探すようなことはしていないことだ。その辺りは副産物的に最後に手に入っている。
心がけたのは80点=100点を取らないことであり、これは意識的にスプリッティングを拒否し、改めてグレーゾーンを求める行為だと言えるだろう。この後で好転している。
自分の目標そのものを疑えたのがおそらく大きい。完璧主義の状態とは、これの言いなりになっているということだから。
高い目標自体は思いついても構わない、というよりも勝手に思いつくだろう。はっきり言ってしまえば、キレイな理想像のほうが頭を使わずに直感で思い浮かぶ。
テストは100点、成績はトップ、セリフは噛まずにノーミス、部屋はチリ一つ落ちていない。ほら思いつきやすいだろう。
直感的な高目標をどう扱うか、がこの話では変わったということ。今までは盲目的にそれを叶えようとしていたが、今ではちょっと距離を置けたと。
完璧主義を活かすには
古くはアドラーが、完璧主義について示唆している。曰く完璧主義は「成長」の正常な方向性であり、目標水準が非現実的に高い時に問題が生じると。
Hamachekもまた、高目標設定のせいで自分に満足する機会が著しく低い完璧主義者がいるとしている。対象的に「正常な完璧主義者(と書かれている)」は、
- 自分の能力の限界を心得て、
- 「達成可能な限界」に目標を設定することができる
とされている。
これは個人的な感想なのだが、確かに完璧主義が行動面で問題になるのは「目標や計画に対しての修正能力のなさ」の一点だけな気がする。簡単に言えば、「たかが」思いついた程度の目標を盲信し、遂行しようとする。計画自体は細かいが、その根底部分(目標自体の正否、現実性、自分の能力)は検討していない。
病む完璧主義の認知的な問題点は、満足できる水準が非現実的な点が挙げられるだろう。というか目標しか持っておらず、それ以外に合格ラインないだろう。
Hamachekは正常な完璧主義者は、目標設定の段階で「まともな目標」を設定できるとしているようだが、これでは天然の、生まれつきできるかどうかの、つまりは運が良い奴と悪い奴の話でしかない。
恐らく目標設定自体は一瞬で決まる。例えば予定が決まった時点でスケジュールが頭の中を駆け巡るなどの話はあった。そこまで「思いついてしまう」「考えてしまう」というのがスタート地点として考えなくてはならない。
そうだとすると、設定ではなく「再設定」、すなわち第一案を骨子として「現実的」に修正する工程が必要にある。目標の質に対しては、これができればクリアできる。
ボトルネックになるのが、彼/彼女たち特有の認知であり、すなわち「そこまでやらなきゃいけない」という強迫観念だ。この場合の高い目標設定は、「絶対失敗しないため」という負の動機からだとされることもある。恐らく目標の再設定は、できるできない以前に「全くやる気が起きない」工程だと思われる。
(この時点で成否を他人が決めるという認知があると思われる。自分で程度がわからないというよりは、誰かが後出しでケチをつけてくることへの対策のような。
これを避けるためならたしかに「考えつく限りの最善を」となってもおかしくない。この場合対人恐怖症や人間不信とも言えるか。あるいは周りの人間が現実にそんな奴らか。)
加えて言えばこれ単品でも相当厄介で、「絶対に間違えないようにしよう」と思えば誰でもできることすら怪しくなる。
宮本武蔵が「道を歩くように塀の上を歩けるのが剣の極意だ」と言ったとかなんとかいう話もあるが、「落ちる」ことを意識すれば普通に歩くことすらできなくなるものだ。社会規定型や不適応的と言われるタイプの完璧主義、つまり根底に失敗恐怖が根強いタイプは、これを攻略する必要がある。
いわゆる「動かないタイプの完璧主義」は、加点式で自己評価をするしか無いだろう。
現状は減点式の自己評価で、だからこそ動かないことで「持ち点を減らさない」という方略を立てている。
その様を加点式で評価すると、まぁ、0点になるね。はい動こうね。
注意点は、「絶対に合算するな」ってことだろうか。プラスとマイナス混ぜんなということ。目的は行動数のカウントであり、自己採点ではない。
計算結果はものすごくどうでもいい。問うべきは「プラスがどれだけあったかだけ」だ。ここが低ければ、持ち点が何億あろうとよろしくない。「収入」と「預金残高」の違いと言えばわかるだろうか。
減点部分は嫌でも目につくだろうし、スルーするのも難しいだろう。それはそれで気にすればいいが、「プラスがどれだけあったか」とは関係ない。