完璧主義とノーミス

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https://r25.jp/article/738279603639566226を読んだのでいくつか思ったことを。

基本的にその内容に言及する。

 

白黒思考

・スプリッティングとも呼ばれる。認知の歪みの一つとされる。

何でも白か黒に分ける。グレーゾーンが存在しない。というかグレーゾーンにあるべきものを無理矢理に白か黒かに分ける、または決めつける。

完璧主義の場合、グレーゾーンにある=疑いがある時点で黒落ちだろう。

 

 

減点方式

・白黒思考かつ完璧主義とすれば、汚点がないのが「白」であり、1つでもあるならそれはもう「黒」になる。

完璧主義が減点方式で物を見るというのは「自分のあら捜しをしている」という意味では正しいが、ミスの許容量がゼロだとすると99点はアウトである。

つまり実質「即死モード」で生活していることになる。

この加減のわからなさ=目標を言葉通りに解釈した上での絶対視は、他者から目標を与えられた不適応的完璧主義社会規定型完璧主義)に多い。

 

・一方で冒頭の記事の人は割と自発的な「こだわり」に近い印象を受ける。ただし一日の生活サイクルを引くレベルで設定して実行に移し、できなきゃダメというパターンから見ても、プランやゴールに対しての柔軟性がないのは共通している。当人はどうも克服はしているらしいが、後述。

 

 

 

計画や目標の再構築能力

・何度か似たようなことを書いているが、理想像が受動的な完璧主義は初手で思いついたことや先に決めておいたこと、誰かに言われたことを必死に遂行しようとする傾向が強い。「やりたい」じゃなくて「やらなきゃいけない」という気持ちが強い。義務感。

実際には当人が思いついた程度のことでもこの義務感が働いて、

やること自体はやりたいこと

+優先度が仕事や社会的責任と同レベルなので必死

=超自分勝手

みたいなことになってるのもいる。この上でモチベが義務感からだから、達成したところで別に嬉しくもない。得られるのは義務を果たした安心感と開放感。

ただしこの安心感や開放感は多くの人にとって身近な「報酬」として機能していると思う。まぁそれを求めての行動だとしたら余計に自分勝手ってことになるが。

 

 

その理想の価値

・ここからが感心した点。

元記事の人、女優なわけだが、仕事での完璧主義としてはセリフの暗記や噛まずに言うことに集中していたと。ノーミスなら100点。

努力して100点を取れるようになった。ただしそういう時ほど「今日どうしちゃったの?」という評価だったそうだ。三谷幸喜に。

逆に自分では今日はだめだと思った時ほど、「今日はすごく良かった」という評価だったりもした。

この同じ物に対しての正反対の評価を目の当たりにして、自分の100点が自分で勝手に設定した100点であると気づいた。

自分の100点を達成しても他人から見たら100点じゃないし、そもそも自己満足で終わってしまい、周囲の期待には応えられていない。そこから「自分の考えた100点」を疑えるようになったそうな。

 

・課題作ったの自分、採点するの自分。自己完結。完璧主義ってそういうことだ。これは適応的でも不適応的でも本質的には変わらない。後者は自覚がちょっと怪しいが。

話を戻すと、「セリフをノーミスで言えるようになろう」というのは自分が立てた目的だったわけだ。でも舞台だから演技の面もある。自分の100点が取れたときには、そういった別の部分が疎かになっていたのかも知れない。「どうしちゃったの?」って思われるくらいに。

 

80点

・以降、「余白」を作るようにしたと。80点を目指すという。

おかげで視野も広がり「できたこと」にも目が行くようになり(減点主義じゃなくなった)、いい事ずくめだということだが、ちょっと順番が興味深い。

 

1:まず前述の通り気づきを経て80点を志した。自分の100点は他人から見たら100点ではないので、自分の100点にならないように注意した。

2:視野が広がった。肩の力が抜けた。うまく出来た80点の中身にも目が行くようになった。

 

・よく完璧主義を治そうなんて話では、減点主義をやめて加点主義、出来ないところより出来た所を見る、なんて私でも思いつくと言うか昔書いた覚えがあることが方々で書かれているわけだが、このケースではそのあたり副産物だ。順番が違う。

まず100点を目指すのをやめるというえらい直接的なことを果たして、その後全てが好転している。

 

・もちろん誰もが簡単にそれをやめれるわけじゃないだろう。自分で「自分の100点と人から見た100点が違う」と気づけたのは恐らく大きい。

この時点で2つの評価基準があり、割れている。後はどちらを信じるか、だ。で信頼できる人(と思ってたかどうか知らんが)からの反応で自分の100点を疑うということができた。

 

・高理想も義務感も多分なくなってないんだけど(当人いわく今でも完璧主義)、「自分の100点」への接し方というか、扱い方が変わったおかげで無害化しているように見える。

 

 

「ノーミスなら100点」の穴

・大学生が小学校の「さんすう」のテストで100点取っても意味ないだろう。

でも「ノーミスなら良い」というのは、絶対に失敗しない安全な方を選ぶ動機になる。前述の通り、自分から狭い世界の更に中心に寄っていくような真似をしかねない。

 

・一方で自分の課題発見能力も劣化しかねない。「100点取れない課題」を見つけたがるかどうか。見つけちゃって苦しむ完璧主義もいると思うが、器用に見ないふりができるプライドだけ高い完璧主義もいるなと。

具体例上げると、部屋が汚い完璧主義がそれだろう。アレの理由が「完璧にできないからやらない」だし。結果ちょっとだけ片付けるなんてこともせず、一切手を付けないなんて例もある。

これは、「ノーミスなら良い」って条件を満たしている。やらないことで。

完璧主義のいいところとして、目標に対しては真面目、といわれることがある。そういう方が多いとは思うが、必ずしも完璧主義が真面目だとは限らないんじゃないかとも思う。

 

 

計画性と不安感

・何故か本番前にバイオレンス漫画を読むというオチのような話に流れてくんだが、真面目に考えてみるのも面白いかもね。

曰く、登場人物が理不尽な目に合う。人生なんてこれと同じで思い通りにならないだろう、と思えるかも、だとか。

残念ながらそれ以降ゴア描写を熱く語っているので後はこちらで考えるしかない。

 

・完璧主義は計画性が高い、というより計画に対して空白を許さない傾向はあると思う。ギッチギチにスケジュール詰め込みたがるというか。網羅的にね。

空白を許さないというのは、ランダム要素の排除とも取れる。一方でこれまで述べてきたとおり特に不適応的/社会規定型完璧主義は柔軟性はない傾向が高い。思い通りにならなかった=詰みみたいなノリがある。

排除すればいいからトラブルに対応する気がないのか、対応できないからトラブルを排除しようとするのか、どちらが先だったのかは人それぞれかもしれないが。

リカバリーをする気がないor出来ないと思っているように見える。ただ、80点を目指し、「余白」をリカバリー用に保持すればいいのではないかとも思うが。

 

・物語とは一つの疑似体験といえる。そうでなくともミラーニューロンだとかそんなんで「他者を見て学ぶ」という機能自体は人間にはあるとされる。

この上で内容は理不尽なスプラッタホラーだそうで。つまりは思い通りじゃない、予測どおりじゃない物事を前提としたシナリオだ。割と理にかなっている気がする。

 

・「自分の100点」とうまくやってくコツは多分、実行に移す前に「自分の100点を疑う」という点だ。言い方を変えれば計画段階で「遊び(余裕/バッファ)」を作り(心理的余裕や時間的余裕)、それをリソースとして何かあったら対応しようという心構えを事前に持つこと。

あるいは80点で提出し、早くフィードバックを得ることができれば、残り20点を追求するはずだった時間で「みんなの100点」も目指せるだろう。

これらが普段は多分ない。何かあったら詰みだから。「何か」に対処する気がないというよりは、その対処法が「完璧にする」、という感じだろうか。

心構えを作るというか脳内の工夫は、身につけることはできる。少なくとも現状の「自動的に完璧を目指してしまう」ことへのブレーキくらいにはなるだろう。

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