自己目的的について:フロー状態

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自己目的的とは

・フロー状態になりやすい性格や状態。

・フローの提唱者であるチクセントミハイによれば、「それ自体が目的である」ということ。将来での利益を期待しない、行うこと自体を報酬だと感じること。「好きだからいくらでも続けられる」というのが身近な表現か。

自分がやってることが目的のための「手段」ではなく、やってる事自体が目的であること。

例えばテストで100点を取るために自主的に勉強するのは、勉強の立ち位置は「手段」になる。

その教科自体が好きで勉強したいのなら、勉強そのものが「目的」になる。自己目的的とはこちらを指す。

何を「目的」として認知するか。行為そのものが自己目的的ならフロー状態に入れる。

・人が何かを行う時、行為そのものが目的か、或いは達成に依って得られる報酬が目的か。

私達は大体後者だ。私達は何らかの「見返り」を求める。まぁ親子関係から仕事に至るまで操作の一環として「報酬と罰」はあるだろう。

物としてでなくとも、精神的なものも含めればほぼすべてのやり取りに該当する。見返りは期待しないと言う者でも、礼すら言われないなら不機嫌になるものだ。

努力が報われることを期待する、というのも支払ったコスト(努力)に対しての見返り(成果)の期待だと言える。

・遊びは自己目的的。遊び自体が目的であり、何かのためとかじゃない。
快楽の幸福に思えるが、没頭することもあるな。この2つは両立し得るのか。

・それをやる目的が「手段」ではないこと。つまり何かのためや見返りを期待してではないこと。だがこれだと「努力」は全てフロー状態には向いてないことになる。努力と呼ばれる行為はほぼ全てが、目的のための「手段」だからだ。

実際そうだな。むしろやる気からして出ないとかそういう話の方が多いもんな。じゃあ没頭してる人は? それ自体大体好きだったりするね。

必死に取り組む、というのは「没頭」とは言えないだろう。あれはどちらかと言えば理性的な自己制御だ。

ただ、これは「それをどう見るか」という話だ。やってることが全く同じでも、手段であるか、目的であるか、どちらのつもりなのかで身の入り方が違うということ。

・自己目的的行為は自己充足的でもある。自分のやったことで自分が満たされる。

・結果に拘るのではなく、行動自体が目的であること。

・外的報酬ではなく、内的報酬=内的な感覚(喜び・達成感・満足感)を目指しているタイプ。

・アンダーマイニング効果もこれで言い表すことができるだろう。内的報酬が外的報酬で上書きされた場合、自己目的的な人間ならやる気を無くす。

・合理的な計算、効率主義、損得勘定などは自己目的的とは正反対となる。

見方を変えればすぐ分かると思う。何かを楽しんでる人、何かを好きだと言ってる人に向かって「それ、何かメリットあるの?」と言ってくるような無粋な輩。まぁ趣味はそれぞれだからわからんのはともかく「メリット」と来たもんだ。

この「無粋な輩」が自身の頭の中にもいる。効率主義、合理主義的な物の考え方をする損得勘定大好きな部分。なきゃないで困るが、これは「没頭」をする際には邪魔になる。

難易度と手段/目的

・フローの構成要素の一つに能力の水準と難易度とのバランスがある。楽すぎてはいけないということ。

一方、別の研究では能力と比べて難易度が高い状態でもフロー状態に入れたという話もある。やっぱり楽だと駄目だったようだ。

フロー(心理学)の状態とフロー状態への入り方
フロー理論とは フロー理論をわかりやすく言えば、食事も忘れて作業に没頭してるような状態だよ 何かに夢中になって気づいたら時間が経っているような状態でもあるよ ポジティブ心理学では幸福の一つに数えられてるよ・フローは一種の集...

・TEDで限界的練習についてのトークがある。

「あなたが普段タイピングしているスピードを少しだけ早くするよう心がければタイピングはもっと早くなる」とかなんとか。

私は今文字を打ってるわけだが、まぁ普段どおりの「無難なスピード」で書いてるわけだ。今まで文字数としては結構書いてるわけだが、「早く文字を打とう」と思ったことはあまりない。

私にとって私のタイピングの能力は「目的のために使うもの」であり、もはや鍛えるものではない。タイピング自体が目的にはならない。練習することはない。その必要はないと思っている。できるからだ。

・で、子供の頃パソコンでタイピングの練習としてタイピングゲームやってた時に、フロー状態になったことがある。

はっきり覚えている。画面しか見えてない。指は勝手に動く。自分がそのように動いているのをただ見ているような、そんな状態。

・今と何が違うのか。当時は実力が足りなかった。だから全力を尽くす必要があった。それでも足りないこともあった。
今はぶっちゃけ目隠しして歌いながらでも変換以外ならできる。余裕。

・「文字を打つこと」自体が「目的」で、それに一喜一憂してたのはどちらだ、と問われれば間違いなく子供の頃の私だろう。だからフロー状態になったことがある。

今の私は前述の通り、何か書いたりする「手段」としてしか見ていない。だからタイピングではフロー状態にはならない。まぁもっと複雑な、それこそブログを書くということに対してそうなったりはする。

目的のスライド

・「自己目的」だけじゃ駄目だ、という話。

・「Aについて調べたい。本を読もう」。この状態では「Aについて調べる」のが目的で、手段として「読書」がある。

だが「本は読破しなければならない」というコアビリーフ(或いは「べき論」)を持っているなら目的は「本を読破する」ことにすり変わる。

全部読むのは流石にしんどい、じゃあやめとこう、となる。おかしいね。パラパラめくって調べるだけで済む話なのにね。

・この様な目的のスライドは頻繁に起こる。

例えば誰かに苦言を呈したら反応が思い通りじゃなかった。「態度が悪い、謝れ」。

これは最初は相手のためか、せめても自分が感謝されたいかのどちらかが目的だろう。

だが、傷つけられた自己愛の修復をしようと速攻で粘着ストーカーになってるから、どちらも絶対満たされない。

私達はこのように、自分の内部か、外部の影響で目的がスライドする。まぁこれはこれで「対応」という生物の目的に適ってはいるだろう。

・この様な認知レベルでの「目的がブレまくる」ことに対して、自己目的的な性格ではブレてないように見える。一種のしつこさとも言える。
「最初の目的」が失われない。

もしも自分が立てた目標や計画に対してそうなれたなら、必ず達成するだろう。それが裏目に出る余地もあるように思えるが。

・ここで彼らがビッグファイブでは外向型であることを取り上げたい。外向型はその分内向性が弱い。内部の動揺、逡巡などに鈍いということだ。鈍いと言えば聞こえが悪いが、神経質的な症状に悩む人間のほうが多いため、これは比較的マシなことかも知れない。
加えて彼らはあまり他人も気にしてない。

自分の心にも鈍いから読破の強迫観念のようにはならない。他人にも鈍いから謝罪要求マンにもならない。行動選択の動機として残るのは、「自分がやりたいからやると決めたこと」だろう。自然に。

加えてタスク自体からのフィードバックを過敏に得ている可能性もある。この状況下だと没頭する可能性は上がる。燃え尽きる可能性も上がるのだが。

ダークサイド

「長期的な視野」を維持する能力に欠けた場合は失敗する。過集中となってしまう可能性。

例えばダイエットフード食いすぎて太ったとか、健康法のやりすぎで体を壊したとか。悪い意味での「手段が目的になった」、その結果というものはある。「何のためにやるのか」が失われた状態。

・目的、というか「自分がやること」しか見ない状態であることは否めないだろう。この分、没頭の前に計画的な準備をすることは求められる。

つまりフロー状態になる対象は選択する必要がある。幸福な没頭の果てになんか酷いことになってました、じゃ意味がないだろう。

自己目的的な生き方

・小売業者は利益上げることに必死なはずなのに、そうでもない連中が居るのはなぜか、みたいな話の論文がある。彼/彼女らは自己目的志向を持つと定義され、コメントが載っている。

「お客さんに迎合しようとは思わない。自分の好きなものを集めたいというのはあるから。それは経営に関していえば間違いでしょうけども。ただ同じ一回しか生きられないのだったら,そんなにお客さんにあわせて,自分の意思を曲げることはないんじゃないかなと。自分は自分なりのポリシーでやりたいというのはありますね。」
(アジア雑貨販売小売業者)2)

「自分でピックアップしたものを,自分のお店に入れて販売するっていうことですね。自分の気に入ったものを仕入れてきて,売りたいっていう。」
(アパレル販売小売業者)3)

「知らんもの,興味のないものやってもね。これ売れそうやから買う(仕入れる:引用者注),っていうのもないなぁ。お客さんに対して失礼やし。自分が着たい,店に置いときたい,探してまで欲しい,と思わせるものだけ。」
(アパレル販売小売業者)4)

https://www.jstage.jst.go.jp/article/jsmd1998/6/1/6_1_81/_pdf

こういう店って固定ファン付きやすいイメージが有るな。というか店主の幸福度が高そう。

まぁ食うに困るくらいになればそうも言ってられないかも知れないが、少なくとも経済的な豊かさが、彼/彼女達にとってはゴールではないようだ。

むしろ既にゴールしているかのような、今現在を「堪能」しているような印象を受ける。

・彼らは利益のために「我を殺す」のではなく、むしろ「我を活かす」かのように意思決定をするようだ。

・同じく消費者たちも合理的判断で「お買い得」なものだけ買ってるわけではない。
カテゴリーに依るが購入により何かしら幻想を抱いたり、感情や記憶を呼び起こしたりなどの「内的報酬」が消費につながっている、とする主張はあるようだ。懐かしくなってつい買ってしまった、みたいなの。

特に絵画や音楽などの芸術方面ではこの属性が強く、「好きだから」が理由で消費が行われるとされる。

・こうなると一周回って、自己目的志向の小売業者は、趣味が同じの内的報酬が目的の消費者と相性がいいことになる。むしろ同じ目的で行動しているため「消費者に最も近い位置にある」とこの論文ではされている。

固定ファンが付きやすいイメージが有るのもこれだろう。同好の士から見れば「内的な価値の高い物」が相場で売ってる店になる。お得。

・また、芸術家たちも「自分のために創作する者たち(自己志向のクリエイター)」がいる、とする指摘があるようだ。「自分の内なる欲求を満足させるために創作する」のだと。
彼らは比較的同業者や一般の人々の評価を気にしないとされる。

・結局、前にも書いた覚えがあるが、暴走や目的の喪失などの危険性自体はあるため計画と実行にしっかりわけよう、と。完璧主義が締切ぶっちぎって完璧に拘るとかも自己目的的だし。

計画は頭使って考える。実行は没頭する。対象となる目的設定を含めた「没頭してもいい環境作り」は必要になる。じゃないと快楽の幸福と大して変わらないだろう。

自己目的的自体は、眼の前のことを「やり遂げること」を目的にすればいいのではないかと思うが。

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