自分の意見が言えない人

自分の意見が言えない人

 まず、何でもかんでも「言えないのが悪いこと」で、「言えるようにならなきゃいけない」って認識なら、それは極端だと言える。言わない方が良い時もあるし、黙ってた方がマシな言い方もある。

 思いつかないではなくて「言えない」人には何が考えられるか。
発言することに苦手意識を持つ人は多い。何か案を募られたような場面でも、まず左右の人間の動きを見るだとか。アレ目立つね。これも付和雷同と呼ばれそうな挙動ではある。

 言ったらどうなるか一切考えないなら、何も気にせず言えるだろう。逆を言えばそこを気にすれば言うかどうか迷うし、気にしすぎれば言えなくなる。だからまぁ、迷う程度が丁度いいのだろう。「気づいたら言ってた」ってのは別のベクトルで問題がある。

意見を言うのが怖い

 もっと露骨に「自分の意見が言うのが怖い」という声もある。「意見する」という言葉自体、人によっては自己主張か他者否定のニュアンスを感じるものだ。言えない理由もまたその辺りと繋がっていることが多い。

具体的には、

  1. 自分の意見が他者の否定になりはしないか
  2. 間違っていたら恥をかく
  3. 意見を否定されることの恐怖

このあたりが見受けられる。

1は他者否定として取られることの懸念。
2は自分の意見の内容への不信。
3は条件反射に近い。それを経験したのかもしれないし、想像しただけでもそうなり得る。あるいは目撃した、又聞きしただけで二次受傷(代理トラウマ)なんてことも視野に入る。

関連:
_二次受傷:経験していないことがトラウマになる

 1は意見を言う=喧嘩を売ることになるか自爆のリスクへの懸念。で実際にそういう可能性はあるだろう。特に「言うべきだ」と思って意見を述べるなら1になりやすい。大体そういう状況だから。後は、同意以外の意見は全部否定ととるオツムがアレなのも結構いる。

 2と3は似たようなものだが、2は自己不信、3は文脈的、パターン的なものだ。2は適度ならあって良い。これがない=根拠のない自信なので、そちらの方が恥をかく。それに気づかないほど図太いかもしれないが。


また特に日本人が遺伝子レベルでそうだが、用心深さの発露としての自己不信がある。セロトニンを運ぶ遺伝子がちょっと効率悪い形をしており、結果割とネガい。ただしこのおかげで慎重でいられるという話。

関連:
_快楽の人生
_神経質

 3は難しい。当人が恐怖症に近い状態かもしれないし、相手が「そういう奴」かもしれないし、話を聞きそうに思えないのかもしれない。

よく会議とかでダメなおっさん共を指して言われているのが「対立意見が出ただけで、人格否定かなにかと捉えてクッソ恨みに持つのがいてうざい」というもので。まぁそういうのが相手なら黙ってた方が得だというのはある。

どうせ話を聞くつもりもないのなら、意見を述べないほうが精神衛生上よろしいというのはある。「言っても無駄」とも言う。会社は潰れるかもしれないが。

 具体的にその意見のどこが気に食わないかを、お行儀よく言える相手なら話は別だ。その場合、自分がそれを受け止められるのかどうかが問題になる。

関連:
_3つのコミュニケーションスタイル

強く自己主張することへの懸念と勘違い

 どうも3つとも、「口論」を想定しているように見える。元からそういう場面で自分の意見が言えないという悩みなのかもしれないが、そうじゃないなら気にしすぎかもしれない。
自分の意見や価値観を押し付ける、フレネミーやら被害妄想に極振りしたのやらも実際にそこら辺にいるのでなんともだが。


コロンビア大学の研究で、偽の交渉を被験者にさせるという実験があった。適度な交渉をしている人も、消極的な人も居た。

後に被験者たちに感想を聞いた所、客観的にはそこそこ意見を述べていた人が、「言い過ぎた」と感じているとわかった。

反対に、「自分は適度に意見を言っている」との感想を述べた人は、57%が他人から見るとそんなんでもなかったという。

この作用は「食い違いの幻想」と名付けられた。

 これは結構興味深く、

  1. 必要なだけ意見を言った場合、攻撃的だったと後悔する。
  2. 十分に言えたと思っても「足りない」ことがある。この場合は意見を言った成果が無い。

1は後悔と反省で弱化(次からはあまりやらなくなる)となりえる。あるいは手加減することにより2になる。

2は成果がないので、これまた意見を言うことに対して弱化になりえる。

などは考えられる。意見を述べることに対しての心配事が「口論」を想定している様に見えるのも、自分が攻撃的になることへの恐れ、つまりは加害妄想に属するのではないだろうか。


 

個人的な考えだが、この食い違いの幻想は、スポットライト効果に近いのではないだろうか。内容としては、

トム・ギロビッチが行った実験では、

1.研究室で多人数がアンケートを書いている。
2.そこに遅刻者が入ってくる。
3.遅刻者は「大物歌手のTシャツ」を着ている。
  このTシャツは、その大学の大半の者が「絶対に着たくない」と答えるものである。
4.遅刻者は50%の人間が、自分の着ているTシャツに気づいたと感じた。
5.部屋の中に居る者で、実際に遅刻者のTシャツに気づいたものは20%だった。

ちなみにそのTシャツは、1980年代に流行った歌手の、顔面ドアップの似顔絵のTシャツだったらしい。

認知バイアスについて

というものである。これは、

  1. 「注目される理由」が自分にあることにより、
  2. 「自己注目」が高まり、
  3. それがそのまま他者の視点を想像する材料に使われているから

だと考えられる。シンプルに「心当たりとその影響の過大評価」と言っても良いかもしれない。今回の場合に当てはめると、

意見を述べるという目立つ行動により、自己注目が高まり、そのまま自分の言動の効果の過大評価(言い過ぎへの懸念)に繋がるのではないかと思う。

◆関連ページ:
 認知バイアスについて 
 自己紹介が苦手な人

伝える能力に不安がある

 内容は同じでも、言い方次第で印象は違う。この辺りを「上手になりたくない」という人がいくらかいる。

「巧言令色鮮し仁」という言葉がある。こうげんれいしょくすくなしじん。
巧言は文字通り口先が巧みであること。「鮮し」は少ないということでいい。仁は思いやりの徳。要するに、口がうまいのは不実っぽいというかそんな感じ。

 だが誤解を招いたり、感情的な反応を引き出すこともまた本望ではないだろう。「うまい言い方」が好きだろうが嫌いだろうが、いくらか習得したほうが良いと思われる。せめても意図通りに相手に伝わるように。

言い方を変えれば「伝わる言い方」を意識したほうが良いという話だが、この点は認識がそれぞれだ。言ったら伝わる=工夫なんて必要ないみたいな考えの持ち主も居る。一方で、文章なんて3割しか相手に伝わってないなんてことを、プロが言ってたりもする。

安心のために、伝わる言い方の腕を磨く、というのも悪くはないのではないか。希望は無いよりあったほうがいいし。

逆にどうあろうがびっくりするほど曲解するのもいる。正気かどうか疑わしいレベルで。こういうのは人生経験にカウントしなくていい。

この辺りが苦手だという自覚があるのなら、意見を述べる相手は、話を理解する姿勢を持つ人を選ぶのがいいだろう。通常、意見を伝えるのに頭の良さはあまり関係ない。どちらかと言えば、お互いの根気と素直さ次第。

「自分は」と言えない

 控えめな人である傾向が高いが、その分「自分は」という言葉が使えない。やたら言いすぎても逆方向に問題があるんだが(自己愛傾向)。

また、目立ちたくないのか「一般論」な発言が多い。無難なことしか言わない。必要な時に「自分はこう思う」と言えないのなら、口にする意見の全ては「世間の一般論」として通用しなくてはならないことになる。ハードル高い。

これらが下手な場合は「主語が大きい」として嫌われるかもしれない。
上記の傾向があり、なおかつ正義感が強い(他者を操作しようとする)場合は同調圧力を振り回しまくる言動になる。

「自分はこう考える」という言い方の方が気楽になれる場面もあることは知っておいたほうが良いだろう。通販CMの「※個人の感想です」ってのと同じ。

関連:
_作為的タイプ

拒否回避欲求

 否定されたくない、嫌われたくない、悪い評価を受けたくない、という欲求を拒否回避欲求と呼ぶ。これも承認欲求の一つの形とされる。従来の承認欲求は賞賛獲得欲求を指す。

発言にはリスクがある。アホなこと言ったらアホ認定されるわけだ。

一方で「自分の意見を示したい」というのは賞賛獲得欲求と呼ぶほどドギツイ自己主張ではなく、自己提示つまり自分はこう見られたい、このような意見を持っている、というほどほどな主張ではある。

あるいは流れに埋没しそうな自分に対して危機感を抱き、「自分はここにいる」という誰かへ向けての主張かもしれない。

 他者評価に過敏になれば、その分拒否回避欲求は強まる。否定されるのではないか、異論が出てくるのではないか、笑われるのではないか。つまり意見を示すリスクが目に付き始める。
具体的な不安でないとしても、「どのように思われるだろう?」という漠然とした不安も人を萎縮させる。まぁそういうもんである。

「意見」や「考え」ではなくて、「感じた」とか「思った」とか弱めの主張にしておくのも手ではある。結論とせず、まだ思考の途中だ、とする。実際感じたとか思ったとかが正確な表現なわけだが、いちいち補足として言わないと断定調に取られることは多いね。

どの道、自分の拒否回避欲求をなだめながら自分の意見を口にするとなると、度胸か、慣れか、言い方的な技術か、いずれかが必要ではあるだろう。

関連:
_称賛獲得欲求/拒否回避欲求
_人目を気にする心理について

空気を読んだ

 「個人の意見」と「集団の意見」は対立関係とまでは言えない。ただ集団の意見を通すために、個人の意見はいくらか犠牲になりやすい所がある。

わかりやすい例が多数決か。決が出たら少数派は我慢しなければならない。「多数決は少数派を黙らせるためのシステムだ」なんて話もあるな。
バカと賢者とどっちが多いかといえば、バイアスとかゲーム理論とかを加味すれば多分バカのほうが絶望的に多い。依って多数決は時に、とんでもないことになったりする。

この状況で自分がマイノリティに属しているとわかっていた場合、意思表示に得はない。反対派であると知られた上で、マジョリティに従わなければならないという、社会的に不利な状況になる。これによる萎縮は小学生レベルの多数決でも散見される。

この上でも意思表示できるのは美学というか、執着というか、そこらへんの話で、できなきゃいけないわけではない。打算の上で黙っていたのなら、それが「意見」だろう。
これを自分の意見を言えないと捉え、不満だとか、気にしているというのは「悔しい」という感情だという話になる。その気持を忘れないでください。

 拒否回避欲求は誰にでもある。前述したが、会議とかで意見を求められてもまず周りを伺い様子見するようなのは多い。率先して自己主張するのがみっともない、みたいな空気も確実にある。

 なお、「言って良さそうな空気」を見図ろうとして、見つからないまま話が終わり、自分の意見が言えなかったとなることはある。またその対であるかのように、相手に喋らせないために自分が喋りまくり判定勝ちを狙うタイプはいる。

割り込んでまで意見を言うべきか、まともな相手にチェンジするかの選択も状況に応じて判断するべきではあるが。

黙ってたほうが楽で安全

 日本人は特にシャイネス(対人不安や他者を意識した不快感や我慢)が高い。承認欲求が安直に、みっともないことだとされがちなのも、これが一因かもしれない。実際迷惑なのもいるが、必ずじゃない。

Zimbardo, P. G.の報告によれば,日本人の若者(18歳~21 歳)は欧米人よりシャイネス経験がはるかに高いという。日本人の実に 90% 以上が自分をシャイだと感じた経験があり,75% がシャイな自分を問題だと考えていた7)。

https://www.jstage.jst.go.jp/article/stresskagakukenkyu/27/0/27_55/_pdf/-char/ja

まぁフィリップ・ジンバルドーの報告だから眉唾だが(スタンフォード監獄実験で不備があった)。
白人も醜形恐怖症や加害妄想が文化依存症候群だったりするので、苦労のない国民性なんて多分ない。

 ともかく同調圧力や衆人環視といったベクトルで、意見を言うことが歓迎されないような空気が、形成されやすいことは忘れないほうが良い。これは単純に「恥」への鋭敏さの話で、自分を見るのと同じ目で、他人を見ているということでもある。シニシズム(冷笑主義)とはこれだろうと思う。

関連:
_シニシズム


人には内在的にこんな余地がある限り、「空気を読んで正解」の場面は多いということ。自分の意見を表明するかしないかしか頭にないようだと、意見の内容ではなくタイミングや相手の選び方などの理由で失敗する。

 逆にこれらを踏まえた上で、戦う覚悟で意見表明するような場面があるかと言うと、授業中や仕事中ではそんなにない。というかあってもやらない選択を選ぶことが多いだろう。

ただ、友人関係と呼ぶのに抵抗があるような友人関係とかだとあるかもしれない。どの道、強引だったり、押し付けがましかったり、馴れ馴れしかったりする相手に「NO」と言わなくてはならないような場面では、時には必要となる。

ノンアサーティブ

 アサーティブは自他尊重のコミュニケーションを目的とする。この中で「自分を尊重しない」タイプはノンアサーティブと呼ばれる。これらは人格ではなくて姿勢・態度の話。相手によって違うこともある。

受動的であり、他人の意見を優先する傾向がある。自分の意見を尊重しないので自己主張をほぼしない。そのままの受動タイプと、言えないから回りくどく不満を表現する作為タイプにさらに分けられることがある。今回はどちらもあり得るだろう。

 一方で、自分だけ尊重するタイプはアグレッシヴタイプと呼ばれる。勝ち負けに拘り、人の話を聞かず、「相手の意見を言わせなければ勝ち」としているなど、ほぼ誇大型の自己愛性人格障害に近い。

関連:
_ノンアサーティブタイプ
_誇大型・無自覚型 oblivious type

 時に性格の分類では、AとBが対になっているように見えることがある。今回で言えばアグレッシヴとノンアサーティブ。後者が前者に適応したかのようにも見える。
実際相手がアグレッシヴタイプなら、自分もアグレッシヴとして振る舞い叩き潰すか、ノンアサーティブとしてやり過ごすか、婉曲的な抵抗しかなくなるだろう。

裏を返せば周囲に常時アグレッシヴ気味な者が多ければ、年季の入ったノンアサーティブになってもおかしくない。自他尊重の状態が「アサーティブ」の状態ではあるが、コミュニケーションとしては双方がそのつもりでなくてはならない。一方がもう一方を尊重する気がなければ、破綻は確定する。

上品に自分だけアサーティブな態度を守る、というのもできるが、公の場でならそれは有効だが(評価者はオーディエンスだから)、一対一だとまともな結末になるか怪しいものだ。アグレッシヴタイプは「時には暴力を振るう」と書かれてるレベルだからな。

 まぁ要するに、意見を言ったら何してくるかわからんような奴が相手だったら、意見が言えないのはまぁ自然なことで。
一方で、誰も彼もが「意見を言ったら何してくるか分からん奴」に見えるのなら、それは問題かも知れない。その環境がやばいか、そう見えるのがやばいかはそれぞれだが。

これは、対人不安や対人恐怖症に近い話となってくる。

関連ページ:
_アサーティブについて
_2種類の自己愛 誇大型と過敏型

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>>自分の意見が思いつかない対策
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>>自分の意見を言うのが苦手に感じる心理や原因と、面接時のプラス表現

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