主語がでかい人 

主語がでかい人

 自分の見解・願望をあたかも一般的な意見であるかのように装った主張に対して使われるツッコミ。

https://d.hatena.ne.jp/keyword/主語が大きい

この言葉の初出は、久米田康治の『さよなら絶望先生』という漫画からとされている。それが広まったことは、同意する者が多かったことを意味するだろう。

ニコニコ大百科によれば、144話とのこと。


主語がでかい人は個性や性格というよりも、何らかの意図がある「確信犯」として扱われることが多いが、素でそういうのもいる。

主語が大きいことの問題点

・言うまでもないが、無関係な奴が被弾しまくる。相手も感情的になり反論するのなら泥沼化する。
差別発言にかなり近い形になるから、狙ってやることもそうそうないだろうが。

・主語が大きいと人を騙しやすい。扇動しやすいし、信じ込ませやすい。ある種の極端化、単純化であり、「わかりやすさ」がある。「細かい部分」がないんだからそりゃそうだ。

ステレオタイプの伝播と捏造

・マイノリティの黙殺、に見られてしまうこと。これは受け取り手の問題もあるが。

・不快感や敵意ではなく嫌われる理由として、単純に人を傷つけるデリカシーのない内容になりがちだという点がある。

男は逞しく、女はお淑やかに、といった時点で逞しくない男、お淑やかではない女は自身をマイノリティだと指摘された気分になるだろう。

こう言った平均的(だとされている)イメージは、ステレオタイプと呼ばれる。パッケージ化された先入観、思い込み、決めつけ。当然、嫌う者も居る。私個人はステレオタイプはまだいいが、ステレオタイプの信者は嫌いだな。

これへの怒りとして発言者に対しての「主語が大きい」という批判になることもあるが、単純に凹みっぱなしのことも多い。

・このような「耐える人」の存在は表面化されないため、結果的に「黙殺」される形になる。相対的に主語が大きい者は、差別や偏見の扇動者や監視者(そんな事言うやつに見つかりたくないという気持ちを持つから)の立ち位置になる。好かれる理由が全く無い。

ある種の商法や広告がクソ嫌われてるのと同じだ。整形しろ、英語を学べ、それは異常だ、それは病気だ、皮をry などと「これが普通だ」と「コンプレックスを刺激して煽る」タイプの。

主語が大きい発言は、「これが総意だ」とでも言っているかのように聞こえるわけだ。範囲は広く、断定調であり、偉そうに聞こえる。

無自覚なケース:主観と客観/内言と外言

・主語が大きい発言に対しては、「主語が小さいものを大きく拡大している」というのが大抵の認識なのだろうが、多分違う。

人間は主語が大きいのが基本だ。今ナチュラルに「人間」とかデカイ主語使ったわけで。これで75億人だか巻き込んことになるわけだ。

細かく正確なのが常識だ当たり前だと言い張る奴もいるが、そうではなくて「自然体」の話だ。常識や当たり前って言葉も主語がでかい。

思うこと、感じること=内言はそもそもが主語が大きい。かなり省略された抽象的な言語だとされる。加えて抽象的な方が、認知的には高度な機能だとも。


つまり、「頭に思い浮かんだ主語が大きい言葉をそのまま発言する」とした方が正確だろう。主語は誇張されているのではなく、頭に思い浮かんだ時点では言葉としては元からない。


・人が口にする個人の意見というのは、個人の経験、思考、嗜好、それらの結論からくる。別に統計取ってるわけじゃないし、検査してるわけでも保証があるわけでもない。これを他人の「個人の意見」に求めるのもまぁ、叶うことはないだろう。

要するに当人の世界観や「主観」だが、主語が大きいとそれは「客観的な意見」に聞こえてくる。この上で中身は客観性がないどころか偏見もいいところだったりする(主語に該当し、述語に該当しない者にはほぼ確実にレッテル貼り/差別になる)ので「主語が大きい」と批判されるわけだ。

ここでの問題は、主観的意見を客観的事実として口にしていることだ。特に対立関係にある他人から見たら詐欺師か扇動者になる。当人は無自覚な理由として考えられるのは、

1:自分の口が何言ってるかわかってない
2:その意見が主観的であるという自覚がない

などがある。

1は一見すると頭がおかしいが、特にレアでもない。大半はこれだ。
人間は(主語がデカイ)、「何を言ったか」はあんまり気にしてない。気にしてないから覚えない。

人間は「どんなつもりで口を開いたか」の方を覚えている。要するに物質的事実より精神的な「意図」を覚えてる。

だから舌禍に対して大抵はまずこう言う。「そんなつもりはなかった」「そういう事が言いたいんじゃなくて」。そういう意味にしか聞こえなくてもだ。

「こう言ったらそういう奴」ってのもやめような。それはそれで主語が大きい。


内言と外言という考えがある。頭の中で思う言葉と、口から出す言葉。

内言は「述語中心」である。言葉遣いとしては比較的いい加減で、相対的に主語は重視されていない。直感的、感情的な部分と繋がっている。

結果、今回で言えばオーバーに表しやすく、わかりづらく、伝わりづらい。これを「思ったこと」として内言のとおりに口にすると、時に酷いことになる。

簡単に言えば、内言は子供の言葉遣いだ。大人が口にするならそれ相応の外言に「変換」しなくてはならない。独り言と話し言葉の違いと言ったほうがいいだろうか?


例えば嫌な奴がメガネかけてるとして、内言を外言として聞くと、「メガネしてる=嫌な奴」になりかねない。というか言葉の意味として「メガネ」という言葉はその嫌な奴を指す言葉にすらなり得る。

そんなバカな、と思うだろうか。外見、性別、人種、出身などでこういった話は多いだろうに。

これは主に「言葉」の問題になる。嫌悪感の対象は眼鏡かけた嫌な奴個人だ。メガネをかけた遍く全ての者への嫌悪感とは本来はならない。メガネ関係ないんだから。

動物としては、これで別に構わなかった。「危険かもしれないから嫌おう」という予防的態度として。偏見はリスク回避として一理あるのは間違いない。

ただし人間はくっちゃべるわけで。その時は特に「規模」に気をつけたほうが良いだろう。自然に話す、ただそれだけで主語はでかくなりかねない。

恐らく主語が勝手にでかくなること自体は、大半の者が自覚がある。そもそも主語がデカイことが指摘/否定されているわけではないと思う。

主語が大きいことが否定されるのは、「決めつけ」か「否定」の時が非常に多い。で、確かにこの時に主語が大きいと問題がある。言動が差別主義者と完全に一致することになるからだ。

例えばくだらない痴話げんかに対して「自分の恋人はこうである」という話を「男はこうだ」「女はこうだ」とするだけでクソリプ大炎上にはなろう。

主語が「ない」

・主語がないっていうと一般的にはおばちゃん特有の「最後まで聞いても意味がわからない話」とかだが、他にも害がある。

このあたりは、思ったことが全部口から垂れ流れてるタイプの人間を見ればわかるだろう。彼/彼女は周りをぎょっとさせるようなとんでもないことをよく口走り、デリカシーの無い奴、人の気持ちが分からない奴とされる。

主語がないことで「範囲」がとてつもなく大雑把になり、多くの者が被弾するからだ。この上で発言の理由が「思い浮かんだから」だとまぁ、ちょっと離れたところに行って欲しくもなる。

自他共にこれを「性格」だと認識しやすいが、思い浮かんでから発言に至るまでの認知過程や言葉にする時の注意点がわからないなどの認知/発言にまつわるスキルの問題だと思う。

まぁ無自覚なケースに限る。

主語が何を指すかは言う側と聞く側で違うことがある

・言葉ってのは箱のようなもので、中に何が入っているかは状況に応じて違う。このあたりしっかりしてるはずだと思っている人も割といるけど。

例えばメガネかけた嫌な奴Aがいたとして、そいつのことが大嫌いなBが「メガネ」と口にするときにはAを指している。

言葉の意味としてのメガネは言うまでもなく視力補正の道具だ。この場合は固有名詞。この時点で違っている。

次に、一般においても「メガネ」という言葉が人を指していることは割とある。大きな特徴の一つなのだろう。アフロのやつを「アフロ」って呼ぶようなもんで。

ではBが「メガネは嫌いだ」と言った場合、どのような意味に取れるか。

  1. BはAが嫌いである
  2. Bは視力補正の道具であるメガネが嫌いである
  3. Bはメガネかけてる奴全員が嫌いである

で、「メガネは嫌いだ」との言を聞いたメガネかけた人は直感レベルではほぼ3として受け取る。この時1と2の可能性はまだ考えていない。
この場合の認知の順番は、3だと「感じる」→1と2が後から思い浮かぶという順番であり、1~3が並列に並んでいるわけでは、元からない。

Bが1のつもりで発言していた場合、主語がでかいと指摘されても変なやつが絡んできたようにしか思わないだろう。だが、言葉の意味として見れば2か3として捉えるほうが割と自然であり、1は第三者が思いつくには流暢性が低い。

主語が適当

・これはボキャブラリーの問題。

言おうとしたことに主語がなかった→

主語をつけようとした→

極端な言葉しか知らんかった→

極端な言葉が出る

というコンボ。内言が外言としては未熟であると気付くことはできてるから、後は勉強か。勉強と言っても、言い回しに関心を持って他者の言葉を聞いているだけで良いと思うけど。

本人、丁寧な物言いをしようとしてるのに、言動としてはとんでもないことを真剣に必死で言うというちょっと怖い状態になる。敬語に慣れてない人でもたまにいるけどね。

本音を隠す確信犯

操作/扇動/偽装

・主語がでかいと、意見の内「誰が」の部分が「不特定多数」になる。これは「自分の意見」を隠したい者にとっては都合がいい。

例えば、「私はAが嫌いだ、この世から消そう」と言うのは悪くてもタダのヤベーヤツ程度の認識で済む。大体は「個人の意見」で終わる。

主語をでかくして「みんなAが嫌いだ、この世から消そう」と言うのなら、操作・扇動であり、リンチや焚書の呼びかけであり、何よりも「自分はどう思うのか」を隠して「みんなのために」というスタンスすら捏造できる。

以上から、そのような狙いがある者にとっては、非常に便利だと思われる。好んで使うだろうな。


・「自分の責任は回避しつつ、発言に権威性をもたせたいから」との指摘はある。
まぁだいたい嫌われる。「みんなそうしてる」「みんなそう言ってる」って奴は。

狙ってやってる確信犯。主語がデカイほうが他者への操作性が高い。同調圧力を捏造できる。自分の言葉に威力を持たせたいなら、主語を大きくするのが一番楽だ。

この手の人間の言う「みんな」「世間」なんてのは向こう三軒両隣と職場程度だろう。あとはネットとテレビかね。何れにせよ他と変わらず狭い、偏った範囲だし、その範囲ですら満場一致な意見なんてまずない。

更に突き詰めれば、これら複数形の言葉は殆どが「自分は」という言葉に置き換える事ができ、そちらの方が正しい。「俺はそうしてる」「私はそう言っている」。

これらは「あっそ」「だから?」で終わる。終わられたら困るわけだ。操作/扇動したい場合は。単純に構ってもらいたい場合にも。で、主語がでかくなる。自己愛他者志向型完璧主義(他人を自分の望む「完璧」にしようとする)を疑うことも可能だろう。


・もう1つわかっててやるタイプは、「範囲を限定すると本音がバレる」というケース。前述のメガネが上司かなんかだったとして、表立って名指しでボロカスに言えないから「メガネかけたやつ全員」に拡大する。ある程度のカモフラージュを狙ってのこと。

または自分が個人を不当に責める悪人だとバレたくない時。こちらはモラハラ加害者など。

まぁ太宰メソッドと呼ばれるものだな。「世間というのは、君じゃないか」って。ちなみに太宰は言われる側だ。

これらは自他尊重のコミュニケーションを目的とするアサーティブでは、作為タイプと呼ばれる。要は何らかの理由で素直に言えないから、回りくどいか操作的になる。相手が話を聞く気がないのもこうなる理由の1つだが。


関連ページ:
_アサーティブについて
_人が口にする「世間」、「社会」、「みんな」とは何か

自信がないから「自分は」と言えない

 正直自信なんてなくても「自分は」って言ったほうが良いと思うんだが。

ただ、拒否回避欲求とか、シャイネスとか、傷つきやすさとか、否定される恐れとか、そういった物を強く意識すれば、防御的な言い回しになっても不思議はない。

会議にいるダメなおっさんの例として挙げられる(これもステレオタイプ)、「対立意見があると人格否定されたみたいに顔真っ赤にする奴」とかがわかりやすい例で、まぁそのくらい傷つきやすいのはいる。少なくとも会議に参加できる能力もないと思うが。

 一方で、「じゃあ黙ってろよ」とも言えるわけで。それでも口を開くなら、まぁ実際にどうしても通したい意見があるとか、あるいは単に性格悪くて他人を思い通りにすることしか考えてないとかは考えられる。

ただ、「否定されるのが怖いから」というのは通らない。本当に黙っているだけで済むのだから。

数が正義である:数の暴力の擬態

 まぁ狙いが同調圧力なら、当然そういう世界観ってことになるが。この価値観は割と本能的かもしれない。生物だって自分を大きく見せかけようとするの多いからな。フグとか。

例えば「みんなそうしてる」って言葉が、他者にとって強制力を持つ言葉だと思っているのなら、その者は数が正義と思っていると言える。「私はそうしてる」だと弱いと思っているわけだ。

動機として「自分(の意見)を大きく見せようとしている」というのは高い確率で有り得る。

これは悪意を持って操作しようとする者だけではなく、例えば「心配だから」と多数に従わせようとする忠告でもあり得る。親の身だとありえるかもな。

なぜなら数が正義という世界観に変わりはなく、相手が心配なのは「みんなと一緒じゃないから」が理由であり、それは相手の否定でもあるし、なおかつ自分の意見は隠してる。

依ってこれらは誠実ではない。せめてもそのトピックに対して自分の意見が言えないのなら、参加するべきではないのではないか。

「俺もクソ気に食わねぇが合わせないと何されるかわかったもんじゃないからやっとけ」とかの方がよほど誠実ではなかろうか。

実際「心配だから」という動機の場合、個人VS世間様という戦いの話だし。ここで忠告する者が自分の意見を隠した場合、アドバイザーではなく「世間様代表」となり、敵意を持たれるのではないか。

まぁそんな悠長なこと言ってられん場面もあろうが。


ただ、数が正義を心情としている場合、自分の意見を持つ力は劣化するかもしれない。多数派の後ろを追いかけてりゃいいんだから、考えること無いし。

数は驚異ではあるが、正義ではない。だからこそ「扇動者」は最も危険となる。

受話者の問題

・当たり前だが、こちらもある。

・認知の齟齬。他人の言動は「意図を持ってやっている」と解釈する認知バイアスがある。例えば、自分がイージーミスをしても疲労や寝不足を疑うが、他人がイージーミスをした場合には能力不足(=それが実力)、あるいはわざとやっていると解釈しやすい。

だが前述の通り内言なんて「思っただけ」に近く、意志どころか思考ですらないこともある。つまり意図なんてない。

確かにそういった人間は嫌われる。発言に対して無責任だ、デリカシーがないとされる。まぁやってることは実際そうだね。

「失言」に過剰に攻撃的になる者たちは、その失言が「それが本音なのだろう」というのがお題目なわけだが、そうじゃないこともあるわけで。あそこまでの攻撃性を発揮できるほどの「決め手」ではない。大抵の場合。

主語が大きいのは認知の歪みで言えば「過度の一般化」に近いが、それに過剰反応するのは同じく認知の歪みの「心の読みすぎ」とも言える。


・他者に確実性を求めすぎるケース。

試しに判決文とか読んでみりゃいい。割と読めるものだが、文字数に注目してみればいい。長い。「全てを網羅する」ってああいうことだ。
日常であのレベルを求めるのは、そいつがその分野でド素人か、何かしら精神病んでいると思われる。

普段の言葉遣いはかなり省略されている。ビジネスの場ですら省略されている。それに気づけない/知らないでお仕着せの服のように無理に実行しようとすると「契約書」になる。

要するに、「正確さ」をガチで求めるのは非現実的だということ。日常で求められる正確だと評価されるラインにも省略された要素は割とある。
大体の人にとっては省略された部分が分かるため、簡易さと便利さがあるが。

正確さが最重要案件な人がいる。単純にそれに強迫性を持った粘着質というのもあるし、省略された部分がわからん人(わからんこともないように見えるんだが、「判断がつかない/決め手に欠ける」とした方が正確だろうか?)は嫌がる傾向はある。

後者はまぁ、素人に専門用語並び立てて解説したところを想像してみればいい。良くても「わかってないのにわかったつもりになれた」程度の価値しかないだろう。

受け取り方の問題

・心理的な話になるが、まぁ誰かが持論を展開したとしよう。自分が主語に該当し、述語に該当しない場合「こいつ主語でけぇな」と感じる。ハズレてるからね。

言い忘れていたが、主語に該当した場合、人は面白いことに名指しで言われたかのような過剰な反応を見せることが多い。例えば、

  • あなたは男だ。
  • あなたはスマホからこの記事を読んでいる。
  • あなたは今、自宅に居る。

はいハズレてる人は置いといて、当たってた人は今どんな気持ちかな、と。

インチキ占い師の真似事はここまでにして、たとえこれが当たってた所で「私はあなたをわかってたわけじゃない」よな。「当たってただけ」だ。

ただこの2つは混同しやすい。たまたま当たっただけのことを「なんでわかったんだ」と思いやすい。頭では怪しいと思っても心はざわつく程度になっても不思議じゃない。

これは「バーナム効果」と呼ばれる。誰にでも/多くが該当する意見に対して「自分を指している」と感じる心理。

・これは騙されやすさでもあるが、過剰な被害者意識にも通じる。主語が大きい奴に噛み付いてる奴は「ケンカを売られた」かのようなノリであることもあるだろう。

第三者として見ると完全に自分から殴りかかってるんだが、当人はそう思ってない。まぁ自己愛憤怒(図星を指されてキレる)である可能性もあるかもしれないが、SNSとかだと相手はまずそいつの存在を知らないわけで、やっぱり過剰だ。


・発言者の思い込みが強く、そのまま口にしたことは確かであったとしても、発言者は受話者の存在を知らないというのも大きい。

極端な例を挙げれば「漁師は日焼けをしている」というのは大体において正しいだろうが、美白であることに情熱を燃やしている漁師もいるかも知れない。

ただまぁレア過ぎる。ただしその者からしてみれば「こいつは主語がデカイ」となる。自分は漁師で、なおかつ美白(ということにしておこう)だからだ。

この場合は大抵自分がレアであることを自認している。だから別に声を上げることはないが。

前述の通り言葉なんて主語が大きくなりがちなんだが、このような形での「許容(というか諦めと言うか)」でなんとかなっている。

逆を言えば突っ込もうと思えば突っ込める余地が常にある。他者への攻撃そのものが目的の者がよく狙う点だ。トロールみたいな。

まぁ他人の世界観なんぞ、主語の前に「自分が見てきた範囲では」とか付け足すと収まること多いんだけどね。お前が自分でそれ言えよって思うことは否めないが。

主語が大きいことの対策

言う側

・言う側の「言葉遣い」としては簡単に気をつけることができる。

カウンセリングとかコーチングの分野で「アイメッセージ」という言い方がある。

単に「私は~」と頭につけるだけだ。なんてことはない、主語をちゃんといいましょうというだけで終わるなこれ。

ちなみに「あなたは~」とする言い方をユーメッセージと呼び、糾弾的でやたら言うようならクソ嫌われる。まぁそこまで行かなくても相手は身構えてしまうので信頼は得られないね、という話。

・実践をイメージすると、例えば口開いたあとでああ、私は、と頭につけなくてはならないんだった、と気づくこともあるかもしれない。


性格はともかくその時は激情的というか衝動的になってしまっていたのだろう。
まぁ別に最後に「と、私は思う」とつけりゃいい。

ただし、自覚のないコントロールフリークの疑いもある。「思い通りにならない」ことに対して問題視が強すぎるようなら、気をつけたほうがいいだろう。

聞く側

 えらい大きな事言わはりましたなぁ、と思ったらそいつの言葉を日本語に修正してやろう。

つまり男/女/人間/世界/外国みたいなガバな言葉を全部そいつが「私は」と言っていると仮定して改めて見てみると、だいたいは反応する価値ないね。

むしろ「えらい大きな事言わはりましたなぁ」と相手に言えば良いような気がしてきた。ちなみに京都弁はわからん。あれが怖いのってダブルテイクだからで京都弁だからじゃないと思うけど。

 スポットライト効果と呼ばれる、自分に「注目される心当たり」がある場合に「自分が注目されている」と感じやすい心理効果がある。ギロヴィッチの実験(ダサいTシャツを被験者に着せた)では、実際に注目した人数よりも2.5倍の視線を集めたと感じている。

アイデンティティやコンプレックスなどは、このような反応を示しやすいことは、留意しておいたほうが良いだろう。

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