承認欲求について

承認欲求とは

・大まかに言えば「他人に認められたい心理」。

転じて一般的には目立ちたい、かまってもらいたい、注目されたいという「目立ちたがりの心理」として否定的に使われることが多い言葉。つまり自己顕示欲と混同されている。

確かに自己顕示欲は承認欲求の一部ではある。しかし実際の所、承認欲求という概念はかなり広い。

 

「承認」とはなにか

・別に免許もらうとか、許可もらうとか、そういう話じゃない。承認って言葉は堅苦しすぎるかもしれない。

その言葉の示す幅は広く、ここにいる、そこにいていい、そこにいてほしい、そんな感じのものを含める。

あるいは自分を知ってほしい、関心を持ってもらいたい、気にかけてもらいたいなども含んでいる。

空気扱いやモブ扱いから脱したい、とも言えるか。

 

そして、おなじみの「すごいと思われたい」「活躍したい」「目立ちたい」というものも存在する。

以上から、承認欲求という言葉は意味が広すぎて、自己分析としては向いていないと言える。

 

承認欲求の種類

マズローの承認欲求

・アブラハム・マズローは欲求階層説の第4段階として「承認欲求」を提唱した。
その中でも更に2つに分かれる。

  • 自己承認欲求:自分で自分を認めることができる自己尊重への欲求
  • 他者承認欲求:他人に注目されたい 評価されたい 認められたい

マズローは明確に他者承認欲求が自己承認欲求よりも「下位(より原始的で、かつ優先度が高い欲求)」であるとした。
つまり人は、自分で自分を認められるかどうかより、人の目/世間の目を優先して気にすると。

なお、マズローの欲求階層説は科学的根拠がないと指摘されていることも明記しておく。
ただ、このような心理は確実にあるだろう。他人からの評価を気にしたり、自分で自分を好きになりたい/なれないと悩んだりは。

 

・自己承認欲求は一見すると高尚ではあるのだが、病むことがある。

  • 存在の無条件性の欠如:自分に対しての無条件の安心感がない。
  • 条件付き自己承認:誰かの役に立てなければ自分を認めることができないなど。

これを外から見れば、他者承認欲求に駆り立てられて焦燥を抱えているようにしか見えないだろう。

 

アドラーの承認欲求

・一方アドラーは承認欲求は不要だとしている、脱却するべきもの、とされていることが多い。

アドラーの言う承認欲求はマズローのそれのことであり、なおかつそれは他人の目を気にして生きていくことであり、すなわち「自分」として生きるには不要である、と。

確かに人目を病的に気にすることがデフォな所あるけどな、人間。社会規定型完璧主義とか、今回で言えば拒否回避欲求が強い=消極的、ともなりえるし。

 

・ただ、翻訳のせいなのか、言い方が強いというか、「日本のアドラー心理学」は極端な面はあるので注意したほうがいいだろう。酷い個人主義者に誘導しているような感じの。

ポジティブ心理学のマーティン・セリグマンは、人の幸福の内1つは「良好な人間関係」であるとしている。別の幸福である「意味合い」は、誰かへ貢献している感覚を含める。

これらの幸福の余地をわざわざ捨てるような内容なら、その本を捨てたほうが良いだろうね。

 

・そもそもマズロー、アドラー共に「病気を治す以外の心理学」の先駆けみたいな所があり、哲学やら宗教やらがバイアスとして混じっている疑いは拭えない。アドラーは臨床的だって話もあるんだが、それ以上に「思想」の色が濃すぎるのも事実だろう。

効果がある、それで救われる人間もいるだろうが、「万人向けじゃない」のは断言できる。スタート地点が人によってバラバラなんだから当たり前だろう。まあ自分に向いているかどうかくらいは考えたほうが良い。

 

称賛獲得欲求/拒否回避欲求

・現在の心理学では称賛獲得欲求と拒否回避欲求の2つの側面から研究されている。生活における様々な要素との因果関係が見いだされている。

称賛獲得欲求:肯定的評価の獲得

 

  • いい評価を受けたい
  • 褒められたい
  • 尊敬されたい
  • 認められたい
  • よく思われたい

などの欲求。

 

・「承認欲求」のイメージ通りのもの。アクションを起こして賞賛を得ようとする。言動の傾向は以下。

  • 対人不安を抑制する
  • おしゃれ、化粧、ダイエットなどを多く行う
  • 告白行動を促進する

 

拒否回避欲求:否定的評価の回避

・承認欲求の裏側。失態や悪い評価を避けたい欲求。消極的になる。

「拒否」といっても意味は広くて、失望や落胆をされたくない、嫌われたくない、という気持ちも含める。

  • 否定されたくない
  • 嫌われたくない
  • 嫌がられたくない
  • 悪い評価を受けたくない
  • 嫌がられたくない

など。

 

・傾向は以下。

  • 対人不安を強める
  • 授業場面であがりやすい
  • 告白行動を抑制する
  • リストラ不安を感じている人はこれが高い

 

・一見すると消極的で、実際にも消極的な面も多いのだが、それだけとは限らない。
簡単な話、「嫌われたくない」ならそれなりに相手に合わせるとか気を使うとかを「する」わけで。

だから個人的には社会規定型の完璧主義、つまりハードルが上がりまくった「義務」を必死に実行し続けているタイプの完璧主義は、拒否回避欲求は高いと思う。

 

・拒否回避欲求の存在は、「目立ちたくない」というのもある意味承認欲求によるものであるということを示す。否定的評価を得るリスクを避ける、つまり現状の評価の維持という形の。

例えばクラスのなかや友人のなかで一目置かれる存在になりたいと望むということである。

さすがにみんなの人気者になるのは簡単なことではないということになると、とりあえず「コミュ障」などの悪いレッテルを貼られて「イケてないヤツ」という烙印を押されるのはなんとか避けようと振る舞うことになろうか。

実際のところ、今の高校生や大学生は、みんなから好かれたいというよりも、みんなから嫌われたくないという思いの方が強いのではないか。

 

http://repo.kyoto-wu.ac.jp/dspace/bitstream/11173/2640/1/0140_012_002.pdf

 

ちなみに拒否回避欲求が強い場合、称賛されても「居心地の悪さ」を感じるとのこと。根本的かつ慢性的な対人不安の可能性。これはインポスター症候群にも通じる話かもしれない。

 

・行動が同じでも動機が違う場合がある。
例えばダイエットの動機としては、称賛獲得欲求が強い場合は「他者から良い存在として認められるため」、
拒否回避欲求の場合では「太っていることで他者から嫌われたくないため」という防衛的な理由だと示されている。

なんかもう、承認欲求と言うよりも「評価コンプレックス」とか言ったほうが良いんじゃないかという気もするが。

 

・称賛獲得欲求と拒否回避欲求が「両方強い」ケースも有る。片方が強ければ片方が弱まる、ということでもないらしい。

 

・どちらも欲求ではあるのだが、拒否回避欲求は他者の否定的意見を避けることをゴールとしがちで、「自分の目的」を持っていないとも言われる。

加えて認知(モノの見方)として「防衛的悲観性」を持っているとされている。最悪な事態を避けるため物事を悪く予測しそれに備える、というモノの見方。

逆を言えば、賞賛獲得欲求は「自分の目的」ではある。ただし、そのゴールは「他人の評価」である。

 

なぜ承認欲求は嫌われるか

・一般で承認欲求と言えばまず間違いなく称賛獲得欲求を指す。自己顕示欲と言っても良い。
こちらは拒否回避欲求と違って「自分の欲」によるものであり、並以上にパフォーマンスが求められるため、論文などではそれほど悪いものとしていることは見た限りは少ない。

一方一般では大体嫌われている。
「承認欲求が強い奴が迷惑・うざい」という声も多い。同様に自分の承認欲求が不快だ、消したい、という声も。
なぜ感覚的には承認欲求は「よろしくないもの」とされがちなのか。

 

自己愛にもある称賛獲得欲求

・「称賛獲得欲求」という言葉は、自己愛の研究でも使われている。

自己愛とはナルシシズムであり、簡単に言えば自分を大事にする、優先する傾向。当然他人に対してはないがしろにする、利用する傾向が高い。個人的には自分しか見えていない印象を受けるが。

これが強すぎると大体は嫌われ者で、重症化すれば自己愛性人格障害。
おまけにダークトライアド、ダークテトラッドなどの「邪悪な人格特性」と呼ばれるものの要素の一つでもある。

細かいことを言えば誇大型と過敏型があり、一般に言われる自己愛は誇大型を指すことが多い。

 

・承認欲求としての称賛獲得欲求と自己愛のそれはかなり似ている。後述する論文でも、序文では「極めて類似している」となっている。

ざっくり言ってしまえば、称賛獲得欲求は「性格悪いやつの言動」と行動の動機としては類似している。
要はイメージが悪い。つまり見たくもないし、自分がそれをやるなんてとんでもない、となる。

 

https://www.jstage.jst.go.jp/article/amjspp/18/0/18_92/_pdf/-char/jaによれば、2つの称賛獲得欲求は強く関連しているが、別物であるようだ。

承認欲求としての称賛獲得欲求は自尊感情が比較的高い。自己愛は元から自尊心は低いと言われている。

これを見た限りは承認欲求の方の称賛獲得欲求は、自分が行動することに依って、つまり「実力で賞賛を得る」ことを目的にしている印象を受ける。

一方自己愛は単純に他者からの賞賛がほしいだけのようだ。過程にこだわらないということは、どんな手段でも使うという可能性も比較的高いということだ。誇張や嘘とかもね。

これはおそらく自尊心に関連している。だから承認欲求の賞賛獲得欲求は、賞賛そのものを直接求めるよりも「出番/チャンス」が欲しいような感じになっている(これはある意味空気を読まない言動を好んで行うことにもなり、これまた嫌われる理由かもしれないが)。

総じて、承認欲求の方が自己愛よりいくらかマシだと。何よりも、動機がどうあれ実際に何やるかの方がよほど大事だし。

 

禁止令

・交流分析という心理学の概念である「禁止令」には、
成長するな、
成功するな、
重要であるな、
近づくな、
何かをするな、というものがある。

これは親の態度から子供が汲み取った(あるいは拡大解釈した)「教訓」であり、無意識レベルでこれらが認知や行動に影響を与える。

例えば「努力している限り、自分はここにいてもいい」と思ったり(条件付き自己承認)、「存在するな」のせいで家族とリラックスするような空間が苦痛に感じたりなど。

 

・称賛獲得欲求をまっとうな方法で満たそうとした場合、
無理をするから結果的に成長になる。
成功を目指す。
重要になりたい。
誰かと親しくなりたい。
これらのために何かやりたい。と思いっきり正反対に向いている。

これは称賛獲得欲求で動くことを「見るのもやるのも嫌だ」と思うには十分だろう。

簡単に言えば「やってはいけないこと」をやりまくってる人とか、「やらないほうが良いこと」をやりたいという気持ちだとか、そういった状態だ。

 

・ちなみに拮抗禁止令が、完璧であれ、他人を喜ばせろ、努力しろ、強くあれ、急げ、なので、拒否回避欲求との関連を考えることもできる。

 

カイン・コンプレックス

・兄弟姉妹が親の愛情を奪い合う「椅子取りゲーム」や「ゼロサムゲーム」をおっ始めることをカイン・コンプレックスと呼ぶ。

愛情を受けるというのは、親からの承認を求めるということだ。そしてその邪魔になる「競争相手」に対して無意識的な嫉妬、憎しみ、排除願望を持つことがある。

公平な愛情なんてのはまぁ無理な話で。たとえそれがあって、与えたとしても、隣の芝は青いわけで。

目立とうとした奴が失敗したところを見て「ざまぁ」とか思うのはこれに近い。競争相手の失墜だからだ。
逆に誰かが活躍しているところを見て面白くないのもこれに近い。競争相手の台頭だからだ。

 

・特に日本人に多いと言われているが、自分は「我慢して言うことを聞くいい子」だから報われるべきだ、という考えがかなり強いという話がある。

逆を言えばこれは、誰かが自分の頑張りや我慢を「承認」して、自分に報いてくれることを期待して生きている、ということになる。

で、現実には期待ほどには報われちゃいないとする。
じゃあ当人的には今以上に注目してもらう必要はある。
そして「正当な賞賛」を受ける資格がある、と思っているとしよう。

そういった自分を差し置いて、目立とうとしている奴は、当然「競争相手」になる。

報われた者、助けられた者、関心を集めた者に向かって「ずるい!」って言う奴は、大人でも結構いるわけで。心からの本心なのだろうが、それが間違ってることはある。

 

・反対に、自分が目立とうとする気持ちを持った場合、これは「我慢して言うことを聞くいい子」ではなくなるから実行するわけには行かない。
賞賛承認欲求自体がジレンマを生む。

 

・大抵はここまで濃厚じゃないが、少しくらいなら誰にでもあるだろう。嫉妬はかなり身近で、本能的なものだ。

なんかサルでもあるらしいからな。そういう実験で、サルにキュウリあげて、別のサルにはブドウあげたら超怒ったとかなんとか。

 

拒否回避欲求との対立

・賞賛獲得と拒否回避は同居し得る。そしてこの2つは行動としては積極/消極のような真逆の属性を持っている。

自身の中の賞賛獲得欲求に、自身の中の拒否回避欲求がアレルギーを起こしている可能性もあるだろう。人の頭の中は一枚岩ではない。

 

自由ではいられない 自分がない

・承認欲求とは「人目を気にする心理」と言っても過言ではないだろう。

人は大抵「自由」を求める欲求も持っている。自分がやりたいことが何かわからなくても、自由を害する支配的なものには反発したいなどはある。

人目を気にしてそれに合わせようとする承認欲求とは、対立するだろう。

これは「同調圧力」がどれだけ嫌われているか考えてみれば分かると思う。まぁ感じる側の問題なこともあるけどね。

 

・当たり前の話だが、「他人」の承認がほしいなら、「他人のニーズ」にあったことをしなければならない。これが「承認の条件」となる。

他人が褒めてくれそうなことをやる必要がある。これは自分以外の価値観で動くということであり、まぁ端的に媚を売ってる自分が嫌いだ、というのもあるだろう。
人目を気にしすぎる、自分がない、心の自由がない、このあたりは人間がよく悩むことだ。

尤も、人のためになにかやる、というのはそれほど悪いことでもないらしい。自分のこと以上にやる気が出るなどの効果も認められている。

 

・人は良くも悪くも努力信仰なわけで。「何か」に努力したい、という気持ちは持っている。それが「人に認めてもらうため」ではなく、もうちょっとかっこいい、自分のためになるような目標を持てないか、という気持ちもあるかもしれない。

この場合「自分が他人からの承認がほしいと思っていること」自体が、本人には気に食わない、ということになるか。
当然、承認欲求で動いている人間を見る目は「浅ましい奴」へのそれになる。

 

・ただ、あまり「動機の純粋さ」にこだわりすぎるのもどうかと思う。ぶっちゃけそんなにかっこいい目的も早々見つかりはしない。
なんかご立派なこと言ってる奴らがそれこそ「承認欲求強そう」だしな。

「モテたいからギターはじめた!」で超うまくなったやつとかいるわけだし。「何が動機で始めたか」は、その物事の価値を永遠に決定づけるわけでもない。

それに、何か一つを身に付けた、達成したというのは自己承認欲求も満たす。まぁちゃんと認識できてりゃだけどね。実績であることも間違いない。誰かに迷惑がかかるわけじゃないんだったら、別に他者承認欲求で何か始めても良いのでは。

 

特性/状態承認欲求

・これまでは承認欲求は個人の安定した「特性」だとして研究されてきた。つまり特性論だった。特性として承認欲求が存在することは確認されている。

一方、状況の変化や場面などで変動する承認欲求もあるのではないか、特性としての承認欲求にそれが影響を与えるのではないか、という状態論が上がってきている。

状態承認欲求の存在についての研究論文がある。

まず、場面によって変動する状態承認欲求の存在が確認された。

そして、状態賞賛獲得欲求は特性賞賛獲得欲求と、状態拒否回避欲求は

特性拒否回避欲求と関連していることが示された。

さらに、状態承認欲求は行動と関連していることも確認された。

なお、状態承認欲求が特性承認欲求と行動との媒介要因として働く場合もあることが示された。

状態承認欲求が媒介要因として働く場合とそうでない場合の違いの背景については、今後さらに検討を進めて明らかにする必要がある。

https://www.toyo.ac.jp/uploaded/attachment/8059.pdf

 

なお、意見の対立というシチュエーションに於いて、状態賞賛獲得欲求は「徹底討論」、状態拒否回避欲求は「他者理解」と関連が見られる。

拒否回避は消極的ではあるかもしれないが、穏健とも言えるかもしれない。賞賛獲得欲求はやはりがっついた印象になってしまうな。

 

・身近なものに話を移せば、特定の状況でだけ積極的になるとか、消極的になるとかもあるということ。仲がいいのに告れないとかね。

 

・面白いことにどちらも「装い(服装の本気度)」と「意見調整」は正の相関があると認められている。
承認欲求が「人目を気にする心理」そのものだとしたら、まぁ当然といえば当然になるか。

 

・ともかく、状態承認欲求が存在し、特性承認欲求にいくらかは影響を与えるなら、たとえ持って生まれた特性でも、コントロールの可能性は見えてくる。

 

承認欲求がない人

・承認欲求が少ない、皆無、むしろ目立ちたくない、注目されたくない、というのは賞賛獲得欲求よりも拒否回避欲求が強いと考えることができる。現代ではこのタイプの方が多いようだ。

 

・別の考えとしては、「違うことで満たされているから承認欲求が湧かない」という可能性。

このサイト(https://p-shirokuma.hatenadiary.com/entry/20170309/1489047083)ではマズローの欲求階層説が紹介されているが、ここで言うには、承認欲求は所属欲求で満たすことができる、と。文脈的に他者承認欲求は所属欲求で満たされる、ということだろう。

・思うに、人が「欲求」と呼ぶものには2種類あるようだ。

1つは飢えや乾き、あるいは眠気などそれに対応した特定の方法でしか満たされない欲求。
もう1つは漠然としたもので、比較的多様な方法で満たすことができる欲求。

この場合は、後者ということになる。

 

承認欲求ではない可能性

・例えばSNS中毒=承認欲求みたいな認識があるが、違うかもしれない。

鍵かけてROM専とかもいるし、「なんとなく寂しいから」でスレやSNSを見るという人もいる。

これらは、承認欲求のひとつ下の「所属欲求」だと見たほうが妥当ではないだろうか。

それならSNS病と言われるFOMOa)(Fear Of Missing Out:取り残される恐怖)とかMOMOb)(Mystery of Missing Out:取り残される謎。例えば友人がSNSで急に発言しなくなった時に自分が知らない何か楽しいことをやっているのではないかと不安になる)などにも納得がいく。

承認欲求だったら「忘れられる恐怖」「注目されていない不満」など、もうちょっとアグレッシヴというか攻撃的な感情じゃなきゃおかしくないか。

ガラじゃないのに多少の自己主張を無理して行うような態度も、承認欲求でなく所属欲求、つまり「並に見られるくらいの振る舞いはしておこう」という心理では、とも考えられる。

この上でリア充アピールはインフレ傾向にあるわけで。当然「並」の水準も上がっていく。これで息が上がってきたら「SNS疲れ」だとも言える。

英サセックス大学のPrzybylski教授が行った調査によると、「自立心が低い、自分に自信がない、孤独感が強い」人ほど、SNSに依存する傾向が強いという。

https://www.gqjapan.jp/life/news/20140829/fomo_momo

これが真だとしたら、やはり承認欲求ではなくて所属欲求だろう。

まぁ細かいこと考えんで疲れたり自分の考えてることがおかしくなってきたと思ったら離れりゃいいと思うが。

脚注

脚注
本文へ戻るa (Fear Of Missing Out:取り残される恐怖)
本文へ戻るb (Mystery of Missing Out:取り残される謎。例えば友人がSNSで急に発言しなくなった時に自分が知らない何か楽しいことをやっているのではないかと不安になる)
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