自分の意見が思いつかない対策

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感情移入してみる

 関心がなくて意見が思いつかない場合。

無理な共感は感情労働になっては精神衛生上よろしくない。言い方を変えれば、「自分が当事者/責任者になった場合のシミュレート」をしてみたらどうかという話。

感情はどのように動くか。何を懸念するのか。何を希望とするのか。問題をどのように解決するのか。そもそも問題だと捉えるか。必要なものは揃っているか。自分にそれはできるのか。

 ただしこれだけだと単純に責任者/当事者になりきるだけで終わる。それらでわかったことを自分、または自分の立ち位置から再評価すること。
例えば相談された所で「それを問題視していることがどうなのか」みたいな意見が浮かぶこともある。

仮説や思考開示とする

 「意見」は意思表示などの「結論」として扱われやすい。そうなると意見を持つこと自体が一種の意思決定となる。この前提だと当然緊張し、「自分」が出てこず周囲を気にする心理にさせる。

仮説とするならこれは避けられる。思考開示とするなら結論に至らなくても良い。
そもそも大抵は他人の意見がご立派だった所で、速攻で乗り換えたりはしない。良くも悪くも自分の意見に未練がある。裏を返せば「意見」という言葉で求められている者は、

  • 君はどうするのか
  • 自分の意見の参考になる情報がほしい(そのための視点、思考開示の要求)

辺りであることが多い。あまり「結論」である必要がない。意味があるとしたらね。意味なく聞いてくる奴いるけどね。
(ここで引っかかってしまうのは、これらがわかった上で自分の意見を述べることはやはり「提出」で、「採点」されるような世界観の持ち主だ。)

意見が求められるのは何かしら「お題」がある状態だろう。全体としての意見を出す必要があるのか、各々が判断を下すのか、どちらのつもりで意見を聞いてくるかでも違う。

模範解答

 まぁなんか言っとけって時には。

受身の場合はこれでいいだろう。無駄にオリジナリティ発揮しても大体滑るからな。「エゴ」と「意見」とを混同しないよう。

我を張るのが自分の意見があることだ、という勘違いをする者は多いが、真似しちゃいけません。別に模範解答のような答えが自分の意見なのなら、それは全く構わない。

雑な言い方すれば「生産地」が「自分」なら「自分の意見」だと言える。
「自分はこうだ/こう思う」というのが自分の意見なのであって、個性コンテストしてるわけじゃない。オリジナリティとは違う。

 「自分の意見を言ってるのに意見がないと言われる」のは大体模範解答だからだが、相手側の過度な期待であることも多い。そいつはそいつで自分の意見はなかったりするかもしれないし。

ただ、模範解答=「冷たい意見」には見られやすい。バカ扱いされたと取る者もいる。
意見を述べるついでに思考開示でもして、テンプレ対応ではなく「考えた結果模範解答」だというアピールくらいはした方が良いかもしれないがめんどくせぇなヒューマン。

時間を確保する

 経験ないだろうか。後から「あれはああいうことだった」とわかったり、「ああすればよかった」と後悔したり。

すぐに意見が出てこない、ということは往々にしてあるものだし、すぐに出てきたところで正しいかどうかはちと怪しい。うかつに答えるわけには行かないのなら、時間を確保するべきだ。

 単に時間を置くだけでも効果はある。文章を書くにあたり、昔からあるアドバイスが「一晩置いてから見直せ」というものだ。そうするとある程度落ち着いて確認することが出来る。
裏を返せば実行中は変な「熱」がある。これが時に近視眼的にさせる。

 また、それを許さずに重要なことをすぐに決めさせようというのは詐欺や洗脳に近い。日常的にこれをやって物事や他人の意見を思い通りにしようとする天然もそこそこ居るので注意。

人付き合いが苦手などの理由で空気を読みすぎると、会話の「テンポ」ばかり気にしてその場で軽く約束してしまったり、適当な相槌をして碌でもない意見に同調してしまったりしがちなため、これも注意。

関連:
_アグレッシヴタイプ

雑談について

自己提示や埋没への恐怖、ともかく「自分のことを知ってもらいたい」という手段としての自分の意見にこだわる場合は、ここも気にすることになるのかもしれない。

 会話に於いて「聞き役」であれ、というのは一理あるんだが、それで好感度が上がるには、そもそも信頼がなくてはならない。

人の抱えてる欲求は「話したい」ではなくて「話を聞いてもらいたい」であり、要するに一種の「受容」をしてもらいたいということだ。

関連:
_心理学の受容(アクセプタンス)

このため相手は流石に選ぶ。少なくとも「どんな人か」という情報は欲しいわけだ。「全く面識のない人のほうが自分のことを話しやすい」ってのは、ある意味仮想実現になる。それっきりの縁で後腐れがないから。

逆を言えば、相手が同じ職場や同じクラスとかだと後腐れがある。
口が固くなければならないし、否定も反論もされたくはないだろう。距離が近いほうがハードルは上がる面がある。

面識があって自己開示を全くしない相手なら、警戒対象になりやすい。「何考えてるかわからない」と。尚更に自分の意見を言わないと、として変なことを言ったり緊張してしまったりで悪循環なこともある。

まぁなんというか、思ったことの内から「無難なもの」を選んで口にしれてれば良いとは思うが。

直感をまず知る

 「意見」や「考え」という言葉に騙されて一から論理的思考をすると、模範解答になるか冷酷な合理主義になるかになりやすい。

人間同士で意見が分かれるのは基本、思考のスタート地点(前提や状況)が違う、目的が違う、情報量が違う、のいずれかの違いだ。
この3つが同じで「考える」という行為を行うなら、ほぼ同じ結論になる。これは「計算」に近く、「自分の意見」と呼ぶにはちと違うかもしれない。

 逆に「自分の意見」というのは、悪い言い方をすれば偏見や固執のような「癖」が出る。個性とはこの辺り。だから内容的によろしいものとも限らない。

「独自の視点」ってのも考えてやってるわけじゃなくて、大体は素だ。最初からその視点。つまり何らかの個人由来のベースがある。既存の知識、経験、価値観、その時の気分も含めていいだろう。

脳の一部は思考とは別に一種の結論を出す。直感、閃き、或いは感情。既存の知識・経験との共通点を見つけるかも知れない。ここからスタートした思考、発言は「自分の意見」に見られやすい。着眼点がイカれてるとかそういう個性かも知れんので、口にする時は気をつけたほうが良いが。

要は「それを見てまずどう思ったか」。それはなぜかの自己分析。

掘り下げる

 自分に対しての体系的な理解を深めるということ。
根本的に、自分の意見が毎度毎度わからないのなら、「自分は自分をよく知らない」ということを認めるべきだろう。そうすれば自分を知ろうとするという方針を持てる。

 何かに対してなぜ好きなのか、嫌いなのか、良いと思うのか、悪いと思うのか。掘り下げてみると面白い。

大抵頭に閃くものというのは思考のスタートではなく、既に一種の結論であることが多い。特に好き嫌いというのは脳的に言えばだいぶ原始的な部分で判別しており、これは記憶に基づいた直感的な「結論」に近い。その結論を導いた道程は本人に自覚がないこともある。

価値観、経験、美的感覚、自分の中の「何か」と反応した結果。自分の中に何か浮かぶことは、結果だけ知った状態だ。何と反応して「それ」ができたのかは認知できない時もある。
それを理解することは、自分が何にこだわり、何を嫌い、何を求め、何と戦うのかを発見することにも繋がる。意見を持つ「指針」となるだろう。

 まぁ、わかった上で「やべぇだろ自分」となるかも知れないが。それはそれで自覚がなかった今までの方がむしろやべぇので良しとしたほうが良い。

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