- 会議で意見を求められるのが苦手、大学で今までとは違い自分の考えや思考を開示する必要があるができないなど「役割を果たせないこと」
- プライベートでも気が進まない用事を断れないなどの「他者に流されること」
- 「自分のことをわかってもらえない」
など、問題は多い。
・特に「自分が意見を述べることは、誰かを不快にする/誰かの邪魔になる」との信念の持ち主は、意見があっても言わない傾向が強い。その分空気は読めることが多いが、空気読みすぎて割り込むタイミングを見失う。
・「意見がない」と「意見が言えない」は別とする。
自分の意見が言えない人
- 年齢問わず意見が言えないと自覚する人は多い。
- 理由として「恥ずかしい(目立ちたくない)」「否定されたくない」の2つの感情が多い。
- 「周りは意見を言っているのに」との焦りや、「相手が悪く解釈するリスク」への懸念もある。
- 「意見を言うと嫌われる」との価値観もあるようだ。
年代別の自分の意見が言えない人:サイレントベビー、挙手ができない子どもたち、社会人まで
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- 「子供のときには意見は言えたはずだ」というのは本当か
- 自分の意見が言えない原因
- サイレントベビー
- トイレに行けない症候群
- 挙手ができない子どもたち
- 自分の意見が言えない大学生
- 自分の意見が言えない社会人
- 仕事で自分の意見を言えない
- 意見を出すための前準備
意見を言う意欲は元から薄い傾向がある
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自分の意見が言えない病気/障害はあるか
ある。
病気や障害と呼ばれるものは、重いものから一見誰だって当てはまるようなのまで様々なので注意されたし。
同じ症状でも幅がありすぎて、同じ病気の人同士で話通じないとかあるからな。
社会不安障害/社交不安障害/社会恐怖
・SADとも。「あがり症」のこと。原因ははっきりとしていない。セロトニンやドーパミン関連のバランスの崩れとする説がある。性格の問題ではない。
社交にまつわる行動に強い苦痛を感じ、不安や恐怖を抱き、極度の緊張を伴う。
これにより赤面、発汗、動機といった身体症状が現れ、精神面では「失敗したらどうしよう」「恥をかいたらどうしよう」との思いに駆られ、そのような場面を避ける。
・SADが苦手意識を感じやすいシーンが、
・人前で話す、発表をする
・人との雑談
・人前での飲食
・人前で字を書く
・電話
・美容院
・合コンとか
となっている。失敗恐怖、恥への恐れについては調べたことがあるからわかるが、そこらへんの一般人にもこれらへの苦手意識(対人場面での緊張)は十分にあると断言できる。SADの場合、その感情が並よりも相当強いと言える。
・うまくやろうとしすぎている=完璧主義的な意識を持っている傾向があるとの指摘もある。これによる緊張で、余計うまくいかない。
広汎性発達障害/ASD
・自閉症スペクトラム症。いわゆるアスペルガー障害はこれに入る。言語の遅れや知的障害はあり得るが、ない場合もある。
広汎性発達障害チェックには、「自分の意見がない、あるいは意見があっても言えない」との項目が存在する。
ASDの主な特性は3つある。
- 社会性の困難
- コミュニケーションの困難
- 想像の困難、異常なこだわり
どれもトラブルの原因となるため、「自分が口を開くとトラブルになる」との認知を獲得する余地はある。そうなれば、意見は言えなくなるだろう。意思伝達を諦めていることも多いようだ。
・言語や交流的な場面が苦手なだけで、筆談やメールなど「書く」ことで克服できた人もいるらしい。
自分の意見が言えない性格と心裡:言うのが怖い 自信がないから言いたくない
・その状況に対しての恐怖心。不安感。それを感じたり想像しやすい性格など。
・これらは「よくわからないがなんとなく怖い」という漠然とした感情になることもある。
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「主張すること」へのイメージが悪い
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- 主張することと攻撃性の関連
- 主張することに対しての日本の文化的背景
- 意見を言おうとした時に考えられるブレーキ
- 発言だけが意見ではない 「言えない」と「言わない」は違う
- 今回においての自分の意見を言うためにできること
・自分が何か主張する時、自分の意見を言おうとする時、どこかブレーキが掛かるのを感じる人も多い。
「主張」と「攻撃性」にはいくらかの関連が見出されている。このため主張に対して攻撃的な人間を連想し、悪いイメージを持ちやすい。
加えて日本では特に個の主張を良しとしない文化的背景も有る。
発信者も受信者もこのイメージを持ちやすい。このため、度胸あればいいって問題でもない。
心理的安全性が感じられない
・心理的安全性は、元は組織心理学のエドモンドソンが1999年に提唱した。定義は「チームの他のメンバーが、自分の発言を拒絶/罰したりしないと確信できる状態」。心理学用語とされている。
心理的安全性が無い = 発言すれば拒絶/罰が予測できる状態だと言える。
組織に限らず、グループ、あるいは一対一でも、「他人が自分の意見を聞いた後のリアクションがどうであるか」にネガティブな推論をするなら、心理的安全性は無いと言える。
・ブレインストーミングのルールとして、アイデアを出す段階では「決して否定してはならない」とする所もある。これも自他共に心理的安全性を保障するものとして機能するだろう。
逆にあら捜しや犯人探し、「どうして○○なんですか!」みたいな事をよく言う攻撃的な過干渉がチームに居ると、生産性が30%から40%は落ちるという話もある(ニューサウスウェールズ大学、組織行動学のウィル・フェルプスによる)。
それらと対面した者だけではなく、その声を聞いていただけの無関係な人間でもこれだ。「ああいうのがいる」と認識した時点で心理的安全性はそりゃないだろう。
心理的安全性を損なう4つの要因と特徴行動
心理的安全性は、当人が意見を述べる際に感じる安心感に近い。現実がどうあれ、当人が不安を抱え、恐れるならば、心理的安全性は無いと言える。
この際にありえる不安感、心理的安全性を低くする原因は4つある。
1:無知だと思われる不安
2:無能だと思われる不安
3:邪魔をしていると思われる不安
4:ネガティブだ(否定している)と思われる不安
総じて意見を述べることで、馬鹿だと思われたり、邪魔だと思われたり、悪く取られたりすることへの懸念。これが強けりゃ「じゃあ喋んない方が良い」となる。
また、競争意識が激しい/冷笑的/自分勝手な人間を相手にした場合には、これらを感じる余地がある。
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AC:従順な子供
・受け身な性格。非能動的。受動的。模範生。
心理学のPACモデルの中に、AC(adapted child)という性格的要素が有る。「従順な子供」と訳される。
ACは「親の言うことを聞く子供」をイメージすればいい。一個人の中の、そのような側面。
これが強いと性格としては感情の抑圧、臆病、遠慮がち、依存的とされ、自己表現が苦手とされる。
反面、順応性が有る、我慢強い、従順であるとも評価される。
自分の意見を言おうとはあまり考えない。良い子でいようとか、大人しくしていようとか、姿勢としてはそちら側。このため、自分の意見を言う必要がある場面は苦手。
・この国は自己主張が歓迎されるお国柄でもないわけで、それに適応していると言える。
というかなんだろな、「他人の意見への姿勢」のレベルが著しく低いような気がしなくもない。個としてはともかく、群としてはかなり。外国の実態も知らんけどさ。
・ビッグファイブという性格分析で見ると、日本人は全体的に協調性が高いとされる。
一見良さげだが、協調性が高ければ高いほど「一人じゃ何も決められない」というACに近い感じになっていく。元から意思表示は苦手分野とする人は多い。
アダルトチルドレンの要素
・自己犠牲的。空気読みすぎ。過剰適応。
親の顔色を伺う幼少期の役割が、人間関係のクセとなった形。人形、英雄、悪役、道化、世話焼き、いない子などの役割を持つ。
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機能不全家族が原因、平たく言えば「親のせい」「家庭環境のせい」であることは実際多い。子供が汲み取りすぎたなどもあるが。
・無私なる態度なので言いたいことは当然言えない。人に好かれることも結構あるが、そのように感情を向けられると戸惑う。怖い。時には実際に逃げる。
・意識的に他人に合わせるよりは「やってしまう」ことが多い。別の言い方で過剰適応、度が過ぎれば自己破壊的同調とも呼ばれる状態になる。それに必死なため、自分の意見なんて考える暇はない。
空気の読みすぎ/人の目の気にしすぎ
・緊張、萎縮。他者を意識すれば、その分思考や意思のリソースは減る。
「他者に合わせなくてはならない」と思っているのなら、当然周囲の人間を意識することになる。アダルトチルドレンが自覚する「自分のなさ」も、家庭が安心できる場所ではなかったせいで他人を気にするセンサーが発達しすぎたからだ。
・意見が言えないと自覚する人の中には、幼い頃から親に意見を否定され、親の考えを押し付けられて育った、という話も多い。
「他人に合わせること」を優先するよう仕込まれたと言える。本人が自分からそうしなくてはならないと思ってしまった例もある。
・自分の意見は、自分が思ったことが正解となる。言い方とか、表現の仕方とか、そういった技術面での課題はあるが、中心となるものはそうだ。出す出さないは自己責任だが。内的なもの。
意見を否定され、考えを押し付けられることは「外部」に正解があり、教育され、なおかつ「以後は自発的にそう振る舞え」と強制されるようなものだ。当然「自分の意見」は出番がない。抑圧されっぱなしとなる。
意見を言うと嫌われる:自己評価が低い
・ACが高いとか、アダルトチルドレンは自己評価が低い、自尊感情が低いと言われている。
自分が意見を言うことが「誰か何かの邪魔をすることになる」という認識を持っていることがあり、このため「でしゃばり」「生意気」だと自分で思う。だからできない。
・まぁ確かに他人をそのように扱う輩もいるし、その手の輩は相手を黙らせることに長けていたりもする。実際邪魔なこともあるだろう。
ただ、通常は他人にも意見があることくらい織り込み済みなので、「大人しすぎてつまらない」とか思われてるかもしれない。
周りに合わせることを考えすぎると自分がなくなる
・共感能力や「空気を読む」ことは他者を気にする分「自分がなくなる」というマイナスの面がある。
社交性や外向性は、有れば有るほど良いってものでもない。例えば極端に人目を引こうとする演技性人格障害は外向性が高いが、その分他者からの影響を受けやすいされている。自分がないから。
「自分の意見」が内面から生じるものだとするならば、その逆の方向に関心を向ければ、意見は出にくくなる。
協調性も同じことで、高すぎると「一人じゃ何もできない・決められない」ともなる。逆に低すぎると独立性は保てるが、今度は我が強くなる。
・ここでちょっとしたジレンマが生じる。意見を述べるというのは当然相手となる他者がいるわけで、他者にも意見があるだろう。
意見を言えない人というのは協調的な面が強いことが多く、自分が意見を言うことで他人の「何か」を損なう、あるいは損なわれたその者に敵視されることを恐れているフシはある。そちらを重視するなら基本的に「自分の意見は言わないほうがいい」となる。今度は「自分」が犠牲になる。
・心理学者のユングが提唱したとおり、外向性と内向性はどちらも育てるべきだと思われる。単に車輪の両輪だと思えばいい。
気配りができるのは結構なことなのだが、自分の意見を主張するという能動的な態度とは正反対の構え。
ちゃんとした形で(つまりわがままとかじゃなく)自分の意見を主張するというのは、状況を理解した上での主張となる(受動→能動)。時には覚悟、決心も必要だ。
学習性無力感
・意思表示はある意味他者との争いの種ともなる。このため傷つくことを恐れて意見が言えないケースも有る。
一方で戦うだけの理由を持たないケースも有る。なんというか、自分を含めて(自分がどうなっても)「どうでもいい」というようなスタンス。
初めから諦めているような、一種の無気力。何か思うところがあったとしても「言うほどじゃない」とする。
・意見を言っても何度も聞いてもらえなければ「学習」する。自分は相手にされない、意見を言っても無駄だと結論づける余地もある。過大な賛美を期待しているのが問題なこともあるが。
ともかくそうして諦めて、無力であると学習すれば、そのうち意見も湧かなくなるだろう。
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・意見が言えない理由は全体的に「人の目/リアクションを気にすることによる萎縮」が原因であることは多いように見える。
「自分」と「社会」は同時に相手にすることは難しい。「外側」を気にする限り、「内側」に目は行かない。
自分の意見なる「内側の表現」の動機が、そもそも周囲に認められたい外側由来のものだった場合、軽くジレンマが発生する。自己表現なる内的由来の行動なのに、狙いは「他人に受けが良い」ことになる。
時には色々間違えて、本心ではないものを本心だと主張することにもなるだろう。
自己開示抵抗感
・自分の意見を言うことは、一種の自己開示と言える。思考や内面を、他人にわかるように表現するのだから。自己開示をしたくないと感じることを、自己開示抵抗感と呼ぶ。中には家族にも本音を言えないということもある。
・理由は様々で、自己開示のリスクへの懸念や、あまり知られたくないという思い、そんな人間だと思われたくない、相手に負担や心配をかけたくないなどがある。
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他者の意見に否定的だと、自分が意見する時に怖くなる
・たまに「呪い」と呼ぶ人がいるが、他人の意見を馬鹿にしたり否定したりしている奴が「自分の意見を言うのが怖い」と言ってることも結構ある。自業自得、自縄自縛、人を呪わば穴二つみたいな状態。
・他人の心理や思考を推測する際のモデルは自分の思考や心理だとする説はある。「このとき自分はそう思う」から、「他人は自分をこう思うだろう」と。他人を見る目が受容的でないのなら、まぁ自分もまたそのような目に晒される空想の中で生きることになる。
・総じて、「人の意見を否定する奴」は、自分の意見を言うのが怖くなる余地はまぁあるね。攻撃的な人間は被害妄想が強いのが結構いる。どちらが先だったんだろうね。否定されるべき意見ももちろんあるが。
自分の意見がない人:わからない 何も思いつかない
・オリジナリティを出そうとして何も思いつかないケース。
・不安の感情が強く、根拠や安全性を過度に求めるケース。
・意見がないのが自分にとっては正しく、この上で無理に意見を出そうとしているケース。
付和雷同
・付和雷同とは、自分の意見がなく、他人の言動にすぐ同調すること。最初から周りに合わせるつもりだから、自分の意見が出てこない。
これに加えて自分の意見があるふりをしようと思っていると、他人の意見に飛びつきやすくなる。まぁこれ一発でバレるんで、軽蔑されてることが多い。その時だけすっごい元気になるから。
・外交性/社交性が高いほど自分の内面がわからない傾向はあるらしい。この上で周りに合わせようとするから、付和雷同となる。
極端な例としては演技性パーソナリティ障害がある。強すぎる外向性と、内面の希薄さからくる被暗示性(暗示にかかりやすい/影響を受けやすい)が挙げられている。
他者に依存的:根本的に自分の意見を持つつもりがない人
・依存性パーソナリティ障害というものがある。その名の通り他者に過度に依存する傾向を持つ。
「過剰に面倒をみてもらいたい(構ってもらいたい)欲求があり、まとわり付く行動を取り、分離することを恐れる」とされている。
依存する(=対象から見捨てられない)ために自分が嫌だと思うことも行う。自分から物事を開始できない、責任を負うためには他者を必要とする傾向が強い。自発性が根本的にない。
早いと10代からこの傾向が出てきて、他人に過度に世話をしてもらおうとする。当然自分で考えるべきことでも他人に意見を求める。交友関係は狭く、過度に特定の対象に依存する。
・「自分が1人では何も出来ないと確信している」とされている。自分で自分の面倒が見れるという考えを持っていない。意思決定をすることに不安があり、「通常の判断」を下すためにも大量の安心や助言を必要とする。
・人口の0.7%は依存性パーソナリティ障害だとされている。女性の方が多いが、男性でも珍しくはない。子供でも大人でも特定の誰かにべったりとついて回る者は珍しくもないだろう。
・洞察療法(無意識的内容の言語化・意識化)によって、今までの自分にはなかった新しい考え方や感情を獲得し、改善するとされる。要するになぜ自分がこのような言動パターンを取るのか、動機やルーツを把握する事から始める。
投薬の場合は抗うつ剤が使われるので、この依存心は不安や恐怖の感情由来かもしれない。
・依存心が強いため、治療者の言う事をよく聞き、治療はしやすいともされる(従順さのプラス面)。依存されないように治療者は注意しなくてはならないが。
関連:
何も考えてない人の心理・対処
内的不適応感
・頭の中が不自由な状態。束縛感。頭の中が「自由」じゃなきゃ自分の意見は出てこない。
・周りに合わせすぎる「過剰適応」という症状に、内的不適応感という概念がある。
外的適応(=周囲に合わせること)の裏面として有り、内部葛藤や自己嫌悪、自己不全や自己不信などを含める。
・周囲に「合わせようとしている」から、内面の表現つまり自分の意見は「邪魔」になる。だから抑制する。元から自分の意見がないか、あっても信頼していないということになる。
・「頭の中から他人を追い出すことも必要だ」とされる。裏を返せば、頭の中に他人がごちゃごちゃいるようなら、自分の意見を思いつくのは難しくなる。
- 過剰適応/自己破壊的同調について
自分を犠牲にしてまでも周囲に同調する傾向。 - 本来感 自分らしさを実感すること
自分らしさを本来性、それを実感することを本来感と呼ぶ。このような「自分の意思に率直に行動できること」と、他者からの評価や調和を意識することは負の関連がある。
関心がない
・興味ないんだから考えも浮かばない。言う必要もない。意見もないし必要性も感じない上で、意見を求められたという「不意打ちの無茶振り」をされた状況。
例えば「世間話として聞いていたら、いきなり意見を求められた」など。
・同様に当事者意識の欠如が理由で、必要な場面でも他人事気分で意見が出てこないことはある。関心を持つべきなのに関心を持っていない状態。あるいは自身の立場や役割への自覚がない。
・心理学用語で「構え」と呼ぶ概念がある。 心構えとも言えるが、「先入観」に近い。
その人が特定の状況に対して「予期」をして、認知や行動の「準備」をしたりなどの精神状態を指す。かなり方向が限定された準備状態。その分それ以外には弱くなる。
逆に意見を求められるだろうとする構えを持っていれば、少なくとも不意打ちされた気分でアドリブをすることにはならないだろう。
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・興味がないことに対してなんとも思わないのはおかしくない。
模範解答が妥当なら恥じる必要もない。
すべての物事に一家言あるなんて、全部思い通りにならないと気がすまないワガママか、何を見ても気に入らないやべーやつ以外にないだろう。
何が求められているかわからない
・話に乗り遅れたケースもあるし、そもそも自分に期待されているものが何かわからないというケースも有る。
これは適応しよう、適切な対応をしようとする思いから生まれており、厳密に言えば「自分の意見」にこだわりはあまりない。
どちらかと言えば無難な返しが言えればいい状態。それができないのは状況把握ができていないという問題となる。
今回の話は結構、このように本当に自分の意見を必要としているのか疑わしい例はある。
自分の立場が決められない・わからない
・自分の意見がないというが、どちらかといえば「立場が決められない」と言ったほうが正確ではないかという例も多い。
この場合方針がないので、「意見」と呼べるほど筋の通ったことは言えない。散発的、対応的な発言ばかりになるだろう。
・方針がないと相手に流される/巻き込まれる余地も生まれる。目的がある意見も沸かないから、自発的な自分の意見もでてこない。他者の意見に対しての賛同も否定もしづらい。
・これは特に周りが嫌がり、意見を言うように求めることが有る。
例えば敵か味方かわからんやつ、ってのは扱いに困る。相手して良いんだか悪いんだか、発言を信じて良いんだか悪いんだか。
そもそも人間は初対面の人間を結構警戒する。これも「どんな奴かわからないから」であり、それがその内氷解するとしたら、どんな考えの持ち主かが分かってくるからだ。
「意見」というほどでもなく「なんか喋ってくれ」と求められるなら、周りから見て当人が「正体不明」みたいな状態になっていると思われる。この際は意見ではなく「思考開示」が求められている。
まぁ一人の人間としてカウントされてるってことだから、ちょっと頑張ってみたら。
意見が一つにまとまらない
・人って結構色々勝手に思い浮かべるもので、頭の中が真っ白になるのは緊張が原因のことが多い。
逆に頭の中に色々ありすぎて一つにまとまらない場合も、意見=結論としては「ない」ことになる。
他者には優柔不断に見えるが、これは結論がまだ出ていないだけのことも多い。
その段階でも意見は言えなくもない。意見という言葉に「結論」を始めとした「納品」「提出」のようなイメージを持っているから言えないだけで、ここに注目している、これが気になる、これには不安を覚える、これはわからない、ここまでは考えた、などは言える。
意見を求められている=意見を言うべきだ、とも限らないという話。前述と同様、思考開示すればいい場面も多い。
・思考には「拡散思考」と「収束思考」とある。連想するとかが拡散、結論を出すようなのが収束。どっちも必要。
「考えたことを口にする」なら拡散となるが、「意見」は収束に当たる。
思うことが色々有ってまとまらない、というのは拡散は十分だと判断していいだろう。次は収束を意識したほうが良い。
十分な拡散をしてから、と思いがちだが、拡散思考はやろうと思えば永遠に続けられる。このため意識的に切り上げて収束に入らなくてはならない。
拡散と収束は小刻みに繰り返した方がむしろ良い。そうしている内に、自信が持てるほどに意見が育つかもしれない。
漠然としたイメージは有るが上手く言葉にできない・形にならない
・考えを口にするというのは、まずイメージがあり次に言語化という流れだ。元から「漠然としたイメージは有るが上手く言葉にできない/まとまらない」ということは多く有る。
じゃなきゃ「推敲」なんて概念が生まれるわけがない。
何度も文章を推敲してようやく「自分が何を言いたかったのか」が自分でわかる、という話もある。
じゃなきゃ詩人の言葉が胸を打つこともない。
SNSで日常のボヤキがバズったりもするが、あれも「なんとなく感じていたことが、ハッキリと形となって目の前に現れた」ことへの反応であり、一種の共感ではないか。つまりそれまでは、形とならずに胸の裡にあったということだ。
・この上で頭の中で並べてから発言したいタイプは、頭の中で台本かせめてもアウトラインが出来上がらないと口にしたくないって気持ちがある。
「全部」を「詳細に」説明しようとする傾向の人もいる。結果、量が膨大になるため、自分でもまとまらんとかはある。
内言を外言に変換する
・頭の中の独り言などを「内言」、人間同士の会話レベルの言語を「外言」と呼ぶ分け方がある。内言は言語としてはかなり残念であるとされる。要するに、他人にはそのままじゃ伝わらないレベル。
面白いことに幼少期に外言を習得してから内言が発達するなんて説もある。この場合、内言は外言を元にかなり省略・簡略化された、「自分用の言葉遣い」、要は「自分語」になる。方言みたいな。当然他人にはそのままだと伝わりづらい。
・何れにせよ元がこんなもんであり、これを「言葉」にする必要がある。簡単じゃないこともある。
・内言、つまり頭の中に浮かぶ言葉は元から「伝えるための言葉」ではない。
・「言葉にならない」というのは、内言としては意見があるが、外言にコンバート(変換)することに手間取っていると言える。
自分専用の便利なものから、他人がわかる公的/社会的なフォーマットに変換しなくてはならない。
しかしこれは元から容易でもない。特に内向型はこの表現のクオリティに拘るように見える。
・説明は、「理解した気にさせる説明」と「理解させる説明」の2つに分けられることが有る。意見が「まとまらない」場合、理解させる説明をしようとして手に負えなくなっていることもある。
概要だけで済む場面ではそうした方が良いだろう。それ自体が「まとめる練習」にもなる。
言うべきではない
・言うべきではない、と自分を止める気持ちと、言うべきだ、と自分を駆り立てる気持ちの軋轢。
前述の動画も、例のデリカシーのないご婦人に言うべきことを言った結果は、最悪支援を打ち切られるだろう。
あの話、感情としては言えなかった後悔の念が先立つだろうが、状況判断としては別に間違ってはいないと言える。
なんなら自分が我慢することで子どもたちの教育の機会を守ったとすら言える。
言うわけにはいかない
・内容がやばい。あるいは不適切な場合。
別に冗談でもない。意見とは社交辞令よりは「本心」に近いが、それを伝えるのは他人つまりは「社会」に近い。この2つは相性が悪い。互いに拒絶・否定する傾向があるのは事実だろう。個人主義VS全体主義みたいな。
自分で「言うわけにはいかない」と思うのなら、基本そちらが正しいのだろう。ただフラストレーションは貯まるかもしれないし、「表現の仕方」を工夫して表すのも道ではある。
意見を言った後が怖い
・恐怖や不安の感情において厄介なのは、それがどこまでも広がり続けたり、実態よりも過大なイメージになったりすることだ。
・自分の意見を言うまでを考える人と、言った後まで考える人がいる。後者は比較的「やっぱやめとこう」となりやすい。それはそれで多分間違いではないのだろうけれど。
前述のアンケートの例のように今後の日頃の人間関係のために、つまりは後腐れがありそうだからやめとこう、という考え。
・他でもよくあるんだが、内向型が外向型を、悲観主義者が楽観主義者を、つまり「考えすぎ」が「考えなし」を羨むケースは多い。
特に楽観主義者の自信は本当に「あまり考えないこと」から来ている。方略としては時にありだとは思うが、向き不向きも状況との相性も確実にある。見習えるところはあるだろうが、そのまま真似するにはリスクは大きい。
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・「悪く取られそう」、「正確に伝わらないのではないか」という懸念もあり得る。
実際に悪く取る奴、曲解する奴、勘違いして飛び出していく奴などはいる。思い込みが激しく、自分の思い込みと合致しないと受け取らない者も居る。相手を選ぶ必要性は、かなり高い。やむを得ない場合には言い方で工夫するしか無いが。
自己主張はしないほうが良いと思っている
・自己主張のデメリットというものはある。というより元から「言いたくない理由」が心理的にある。
シャイネス(対人不安や他者を意識した不快感や我慢)とか、拒否回避欲求(否定・拒絶されたくない)など、「言わないほうが得」だと思わせる心理。
・時には「言えない」ことを気にしすぎて、逆に何でもかんでも「言えればいい」と反転したがるのは結構いる。極端から極端へ。一番向いてないことを、一番未熟な状態でやることになるのでなかなかリスキー。
実際に他者操作や他人を利用とするための自己主張が激しい者はおり、それらに感じる「醜さ」と共通することを自分はやりたくない、自分は反対側でいたいという美的感覚に通じる念もあるだろう。
あるいはただ単にデリカシーの無いやつを見るだけでも「思ったことを口にするのはよろしくない」と学ぶには十分だ。
・本当に自己主張しないことが正解な場面、内容の可能性もある。「言えない」ことを気にしすぎているとこれを見失い、度胸のみで自分に発破をかけて発言し、判断として失敗しやすい。
どうせ聞いてもらえない
・元から人の話を人はロクに聞いてないので正解っちゃ正解だが。スポットライト効果を始めとして、自分で思っているよりも自分が注目されていない現象は多い。
意見を言うことに自分は一大決心が必要で、他人は大して聞いちゃいない、という対比からの学習性無力感はあり得る。
一部は言おうとしていることがボトムアップであり、材料を並べてから結論に至る傾向がある。聞き手は長い話を最後まで聞かなくてはならない。
これを繰り返すと経験に基づき「自分の話は人を退屈にさせる」「どうせ意見を言っても最後まで聞いてもらえない」「人は自分の話をちゃんと聞かない」という観念も育つ。
結果、苦手意識や諦めとなる。
ラケット感情の可能性
可能性くらいだが。
前述の動画の通り、意見を言わない、言えない、沈黙を選ぶというのは、ある種の情けなさ、捉え方によっては卑怯さがある。後悔と恥につながることもあるが、それが「最適」であると判断して自ら選ぶこともある。
ラケット感情とは「偽物の感情」を意味する。心理学用語。偽物の感情を感じることで、本質から目をそらす役目を果たす。
仮に「自分の意見が言えない」という認知がラケット感情のような偽物だとしたら、この場合は「自分で判断して、情けない/卑怯な振る舞いをした」ことから目を逸らすためだと考えることができる。
この時、前提として自分はもうちょっとマトモなはずだという認知もあることになる。
ラケット感情はこの2つの両立を果たす。この場合は「言わない」のではなく「言えないのだ」とすることで。
まぁそうだとしても別にそのままでいい気もするが。やりたい通りにやって、自尊心だかアイデンティティだかも保てて、別に問題行動起こしているわけじゃないし。
だいぶ健全な方だろう。状況や人のせいにすることでもその目的は果たせるが、そうしないのだし。
もちろん普通に意見が言えないことの方が多いと思うが、ここまで述べてきた通り、意見を言わない方が「得」な場面が相当にある。そう思わせる価値観も。
殆どの場合、意見を「言わない」ことで得しちゃってる部分があるため、なんとも言えなくなってしまう。
科学的にはなんとも言えなくなっちゃうとダメなので(反証可能性がない)まぁダメ。カウンセリング的には当人がそう認めるならもうそれでいいってしちゃう所もあるので、これはこれでダメである。つまり、忘れろ。
「自分の意見」と思えない オリジナリティがない
・自信の有無ではなく、オリジナリティに確信がないケース。「意見」ではなくて「自分の」って部分に引っかかっている。そもそもオリジナリティを求めることが間違っている場合が多い。
「自分の意見」という言葉が重い
・なんぞご立派なイデオロギーじゃないといけないみたいな。実際にはそこまでの期待はされていないことが多い。ハードル高くて「これは自分の意見として『提出』できない」とカットしている状態。
あらゆる方面で散見される、素人の持つ謎のプロ意識。緊張から用心深くなり、安心のために質を求める、という流れが多いか。
周りを唸らせるような素晴らしい意見を、とか思ってると緊張して何も出てこない。フィルターがアイデアの全てをカットしてしまうだろう。
朴訥な言葉の強さと美しさも知ったほうがいい。
・ここまでは分かるが後わからんとか、○○の意見にほぼ賛成だがなんか引っかかる、とか。場の話題に参加できてれば、そこそこだという程度で大抵は足りる。
というか、この程度の無難なのしか求められていない事が多い。これすら自己主張激しいと言われる余地すら有る。相場はそんなもん。
問題は「Noと言えない」とかだが、これも普段から口開いてたほうが断りやすいとかはある。
オリジナリティを過度に求める
・あるいは「素晴らしい意見を」なんて思っているのなら、平凡な意見は自分の内側でカットされる。
承認欲求の場合もあるが、別に目立ちたがり屋とも限らない。「自分の」考えを言え、って言われすぎて「他と同じではいけない」「個性的な意見しか許されない」と思い込んだケースも含める。
・少々ややこしいが今回、自分の意見がないこと自体が問題と言うよりは、意見がないことを問題だと思うことが問題、って部分もある。
「恥を掻きたくない」という気持ちが強すぎて過度に「立派な意見」を求めていることも多い。クオリティが高ければその分安心できるから。社会/他人に対しての一種の「武装」。
なんというか、自分の意見というよりは「今までにないオリジナリティあふれる考え」を追い求めているような。
・思考には収束と拡散があり、アイデアを出すとかは拡散で、何かしら結論を出すのは収束に属する。
収束は論理的であり、誰がやっても大体同じ方向に向く。この場面でオリジナリティ求めると道化になりやすい。逆にこの場面での追従、同意は何もおかしくはない。
朱に交われば赤くなる
・ノームという概念がある。日本語で「集団規範」と訳される事が多い。
そのグループのメンバー同士で共有されている、価値判断や行動様式のための規準をそう呼ぶ。
これのおかげで自然にある程度の適応ができる。特別なものではない。ローカルルールは自然発生するものだ。
・朱に交われば赤くなる、と言うがまさにそれだろう。個人の自発的意見そのものが、集団に感化されていく。内面を重視する内向型が、「一人の時間」が必要なのも頷ける。
・集団からその個人を見れば、「わがままを言わなくなった」「周りに合わせられるようになった」という話だ。その集団に馴染んできたと呼ぶのが一番自然かな。
その分オリジナリティはなくなる。「自分の」意見にこだわっている場合、ここに焦りを感じるだろう。
自分の意見かわからない
・では、自分の意見がそのような順化された外的由来のものなのか、内側から湧いたものなのか。なんて哲学をやると、「自分の意見かわからない」なんてことになりかねない。
内容ではなく出処が、世間からか自分からか。
・まぁ変化/順応したところで個人の意見と言えるっちゃ言える。「学習した」とか言いかえれば妥当っぽい。
この上で自分の意見がないと思うのなら、それは「個性がない」との悩みにかなり近いものになる。正確に言えば、自分が個性があるとは思えないという感じか。
・このタイプの「自分の意見がわからない」という悩みについてのベタなアドバイスとして「日記書け」ってのが有ることは挙げておく。
言語化により内省が進み、方針に芯が出てくる。別にきれいな文章じゃなくてもいいし、何なら箇条書きでもいい。何よりも「一人で、自分だけの価値観で、物事を振り返り評価する時間」を作れという話。
これは意見が湧かないのではなく、自分の意見かどうかの判別がつかないという話になるから、その判断基準が出来上がれば済む。
これがタダで元からあると思ってる人も多いが、少なくとも実用レベルにするには天然だと純度が低いこともある。
一人か一人前か
個性を過剰に求めるのは、多感な時期(と呼ばれるのも嫌だろうが)の年頃の場合に特に多い。
人には、一人の人間として見てもらいたい気持ちと、集団規範を弁えた「一人前の(または普通の)人間」として見てもらいたい気持ちの両方がある。
「個人」としてみてもらいたいか、「集団の一員」として受け入れてもらいたいか。受け入れられた上で一目置かれたい、というハイブリットが多いか。
・「個人」としてみてもらいたい欲求が強い時、「個性」を出そうと必死になったりはする。
中二病が中二あたりで発症するのは偶然ではあるまい。
青年期にも自己愛が肥大化するという説もある。こちらの場合、「社会と立ち向かえる自分」を演出、または自分はそうであると鼓舞するためだとされている。当然認知がそれだから、振る舞いにも繋がるだろう。
ただ、「誰がやってもその結論になる」という場面は結構ある。1+1は2だ。
この辺りを見落として、「他人と同じ結論になったからやりなおし」と変な意見をひねり出すのもいる。
問題が1+1である状況で、「2以外の答えを出そう」なんて考えても、なんかおもしれぇことにしかならん。哲学か、禅の考案か、頓知の世界に踏み込みたいなら話は別だが。
この場合、欲求の妥当性はまぁ良いとしても、場面を間違えてるのは確かだ。
「他人」を気にするあまり「個性」が必要になるという構図、多いな。
自分の意見が言えないことの克服
・別に常日頃全ての物事に意見があるべきでも、主張するべきでもない。
意見は対象に自分が何らかの「こだわり」を持っている場合にはでてくる。唐揚げに無許可でレモンかけるなとか。逆にどうでも良ければどうでもいいほど意見はでてこない。他人が自分の分の唐揚げだけにレモンかけててもどうでもいいだろう。
こだわりの良し悪しは、TPOの問題もある。場違いな自己主張なんて失笑モノだろう。相手への何らかの侵害にも成りかねない。つまるところ、意見が有るべきだとか、言えなきゃいけないとか、そういう話では元からない。それだけでは決まらない。
・意見を言うことは「他人」を意識する必要がある。じゃなければ意見を「言う」必要がないからだ。意見を持ってるだけじゃ足りないというのなら、そういうことになる。
「誰か」に意見を述べるという主張/呈示の必要があると感じている状況。
それは具体的な他者かもしれないし、不特定多数の相手かもしれない。もしかしたら、相手は自分自身かもしれない。
・「意見が必要な状況」が先にある、ということもある。「見過ごすわけにはいかない」だとか。「自分の意見」は形としてなっていないが制止や干渉の方便として必要な場合。
自分の意見を言うことで何を得たいのかを把握すること
マーケティングにニーズとウォンツという言葉がある。
ニーズは欲求が満たされない状態を指す。今回で言えば「自分の意見が言えない」というのがそれに当たる。
ウォンツは具体的な欲求を指す。今回で言えば「自分の意見が言いたい」。
この上で更に、ニーズには顕在ニーズと潜在ニーズがある。
顕在ニーズは自分でわかっているもので、「自分の意見が言えない」に当たる。
潜在ニーズは自分でわかっていない本当の欲求だ。ここは同じ欲求でも人それぞれ、時と場合によっても違う。
例えば気分転換に遊びに行きたい、という場合、遊びに行きたいのが主なのか、気分転換をしたいのが主なのかで、「正解」は変わってくる。
前者なら気分転換にならなくても目的は適う(今の状況から逃げられるならなんでもいいなど)。後者なら遊びに行かなくても目的は適う。
「自分の意見」として表現するものも、一人前に見られたいなら意見ではなくて模範解答や正当を、自分の意志を表現したいならその言語化をすることになる。
自分の意見を言いたいといえば意思表示をしたいことと同一視されがちだが、案外「ただ黙って人について行ってる自分が嫌いだからちょっとは前に出たい」みたいな欲求も多い。
このような場合に革命家よろしく演説などしようものなら、自分のニーズは満たせない。所属した上で自分の存在をアピールするのが潜在ニーズであり、我を張ることではない。
ウォンツが叶えば問題は解決する、とは限らない。「自分の意見を言えればこの不満や欲求は満たせる」という認識が、間違っていることはある。
自分の潜在ニーズを把握すること。その後でそれを叶えること。ウォンツは反射的に連想する場合も多く、徒労に終わる余地がある。
自分の意見が必要な場面
断る
大抵は苦手分野となる。
断る必要性を無駄に作るので、仲良くない相手からの社交辞令で「今度●●に行こう」は、結構嫌がられている事が多い。
断れない多くの理由は断るだけの理由がないことであるが、プライベートをタダで売る筋合いもないし嫌なら断っていい場面ではある。
また、社会には結構な数子供もいる。断られると不必要に傷ついたり、恨みに思ったりなど。彼/彼女たちへの懸念もかなり大きな断れない原因となっている。
ある程度のずる賢さを人は持つため、何度も引き受けていると断らない人と見なしてエスカレートすることもある。
主張/提案する
この場合は言いたいことがあるか、「喋る必要」がある状態。内容は多岐に渡る。少なくとも相手に伝える意図がある。
説得力を持たせるには、自分の意見に対しての信頼があることが求められる。自信がない、人前で喋るのに緊張する、話がまとまっていないなどは弱い。
主張/提案の場合は説得または理解を得る必要がある。このため話は構造的であることが求められる。わかりやすく、納得しやすく。準備不足では不安になるだろう。
また、主張したいが意見がないケースがある。例えば「何かが間違っている」と感じるが、それを言葉に表せられないなど。
共有する
自分はこのような考えだと聞いてもらいたい。知ってもらいたい。主張/提案と違い、相手の行動変容は意図に含まれないか、あるいは弱い。期待程度。
これも言いたいことがある状態。ただ、形になっているとは限らない。自分でもうまくいえないことはある。特にそのような気持ちの時には。
雑談はこれに含まれない。雑談はグルーミング、サルで言う毛づくろいをし合うようなコミュニケーションに近く、中身は無難ならいいわけで。
このような時に「意見」を言うと、むしろ「あいつはすぐ真面目な話に持っていく」「すぐに自分のことを話したがる」とつまらないやつ認定かもしれない。
基本、自分の意見とは自分の話であり、真面目な話なので。
参加する
存在の自己主張。その手段としての意思表示。
この場合内容は何でも良かったりする。このため「自分の意見がない」とは言い難い。喋る度胸とかそっちの話になる。
基本的には意見がないなら言えなくていいわけだが、このような場面で「喋れない」という場合、他人の目が気になるなどが考えられる。
表現する
形にすること。それ自体が目的。芸術を含める。
表現することが一種のカタルシスを生むこともある。ただ日記を書くだけで気持ちの整理などのカウンセリング効果がある程度認められている。
この場合相手は必要ないか、誰でもいい。「誰か」に知ってもらいたい気持ちは湧くかもしれないが、主目的は形にすることになる。
聞いてもらう工夫をすること
・ハッキリ言っちゃうと、何かに苦手意識がある人ほどそれが「度胸」かなんかで解決すると思っている。
こうなると考えるのは自分に発破をかけて「思い切る」だけで工夫もへったくれもないから、技術や実力が問題の場合はまた同じ目に合うだろう。玉砕。
言い方は重要だ。ニーチェ曰く、『人が意見に反対するときは、だいたいその伝え方が気に食わないときである』。
・今回、発言が何らかのネガティブなイベントを発生させる「スイッチ」になっているという認知が多い。恥をかく、悪く思われる、嫌われる、失敗する、などの予測の起点として。
「じゃあやめとこう」というのは一つの答えになり、正しくは有る。それを避けるという意味では。
言えない/言わないというのが問題だとするならば、言えるようになることがゴールだ。そのためにはネガティブな結末を発生させない、あるいはダメージコントロールができればいい。
このためには話術を磨くのは正道となる。
ただ、この様な動機で技を磨くと、技に溺れる余地も出てくる。馬鹿の一点張りみたいな真似はやめましょう。
意見を言う必要性については考えること
・意見自体はあるとしても、正直に言わんで良いのが2つ。
- 「人の話を聞かない奴」が、「黙ってる奴」に意見を求めている場合(多い)
- 「自分の意見を支持してもらいたい奴」が、「中立の立場」に意見を求めている場合(多い)
意見を言う必要がないっていうか相手にする価値がないっていうか。
こいつらが悪いから適当にあしらっとけ。元から頭数が欲しいか巻き込むつもりかだから、こいつらが黙ってるべきなんだけどな本当は。
目的は何か
・自分の意見を言う必要性を考える=意見を伝える目的を知ることとなる。
目的を果たすのが動機となるため、量も伝え方も、それに最適化ができるようになる。「タイミング・相手・言い方・量で失敗した」ということは減るだろう。
大体3つある。知らせること。納得させること。選ばれること。
「自分はこう思っている」と伝えるのが目的なら、わかりやすくシンプルにすればいい。
納得させるなら情報源の確かさとか、そういったメタ的な説得材料も必要になる。
自分の意見が選ばれるのは、たいてい他との競争、相手の意見との折り合いをつける余地があるため確実な方法はない。
勝とうとしない/論破を目指さない
・敵を作ることにしかならない。目的が「聞いてもらうこと」なら尚更に悪い結果になるだろう。これは、それこそ「意見を言えない人」に対して勝ち誇る程度の効果しか得られない。
割とそういうつもりに成りやすい。意見を言うことが「闘争」になる余地があることを、我々はすでに知っているのだろう。
・「叩きのめしてやりたい相手」が居たとしても、その手の輩は対話が成立しないので無駄になる。
仮に話が通じる相手にそう思うのなら、自分が今まで意見が言えなかったことによりフラストレーションが溜まっている可能性も考えられる。そのような感情を原動力としての主張をするなら、周りからはいきなりキレたように見えるかもしれない。
手短に済ませることを意識する
・聞き手の集中力は、話し手が聞いてもらうためのリソースである。
目安は70秒くらいとされる。
日本語でひとつの情報を伝える場合、1分10秒から長くて1分30秒くらいがいちばんわかりやすいのです。そこでテレビやラジオのニュースは約70秒前後にまとめられているのです。
これは70秒の法則なんて言われてるそうな。
結論から言え、というのは正しい。前に前に詰め込んでしまったほうが良い。オチは最後に取っておきたい気持ちも分かるんだが、その前に相手が聞く気を失っては元も子もない。
区切りを明確に一つ一つをコンパクトにすると、それだけでもだいぶ聞き手は楽になる。