ポモドーロ・テクニックで疲れるのは何故か
ポモドーロ・テクニックのルーツから考えてみよう。
ポモドーロ・テクニックの誕生は30年以上前の1987年に遡る。シリロは当時、大学生。家族との休暇先である、ローマ北方のストリという町で社会学の試験勉強をしていた。
「3冊の本を読まなくてはならない。試験の日までもう時間は少ない。もうだめだろう。集中できない。どうしても気が散ってしまう」というシリロの焦りは、試験勉強をしたことのある人であれば、誰もが経験があるだろう。
https://www.newsweekjapan.jp/stories/carrier/2019/03/post-11867.php
そして「10分間、身を入れて勉強することが自分にできるか」を試し、成功した。この際にやり遂げたこと、集中できたことに感動し、これをもっと深堀りしてみたくなった。
改めて、最初は2分から初めた。少しずつ伸ばした。最終的に25分+5分という今のポモドーロの形に完成した。
シリロが、「自分」が「勉強」において「集中」できる時間を「測った」ことが、ポモドーロ・テクニックの始まりである。
この強調した4つの部分に、それぞれ要点が有ると思う。
- 自分である。
- 勉強である。記事を書くことでも絵を描くことでもない。
- 集中は、そのタスクに応じて必要な集中度が違う。
- 測った、のだが、初めは2分だった点。
自分である。
要は個体差の問題。集中力の有る人間・ない人間。
「努力できる脳」なんて紹介のされ方された、脳の報酬系の反応具合だとか。決して良いものだとは思わないけどなあれ。
盲点としては、日常的な要素がある。何食ってるか、運動の習慣は、など。
水分の摂取量で認知能力は変わる。
自分が置かれている環境、プレッシャーが有るのか無いのか、焦りが有るのか無いのかにも依る。
特に集中に対しての自己効力感は影響が大きい。つまり自分で自分のことどう思っているか。
日常的に勉強をしているのか、普段は本なんぞ読まず、家に本棚もないか。
どれだけ集中力が必要となる機会が「身近」であるか、というのもまた大きい。
それら諸々の結末として個体差が生まれる可能性。
これだけで考えれば、まず他人に合っても自分に合わない可能性はある、というのは事実では有る。
ポモドーロの一部での「売られ方」のような、人類は25分の集中が適切だ、というのが元から主語がでかいと言える。
勉強である。記事を書くことでも絵を描くことでもない。
まぁ正直汎用性を誇張されてる面はある、かもね。
努力や成長に於いてたまにある話だが、結構「道」がはっきりしていて、カリキュラムを消化するのがメインなタスクがある。開拓された分野。今回は勉強はこれにあたる。
ディーププラクティスというか、深堀りして理解を得るのとはまた別な話だが、シリロの例は試験勉強だから、「テストで点を取るために効果的な勉強」だったことは想像に難くない。
ともかく、こういうのは集中力で片付く部分は多い。
一方で、クリエイティブな、アイデアが必要なるようなタスクがある。あるいは「道」が不明瞭であり、確認と仮説とシミュレートと実行のサイクルを常に回していなくてはならないような。
こちらはそもそも「集中」で片付く話ではない。集中するなら周りは見えなくなる。「道」が不明瞭な分野ではむしろ出遅れる要因となる。
クリエイティブな方面では面白いことに、脳のデフォルト・モード・ネットワーク、つまりぼーっとしていて色々勝手に思い浮かんだり想像したりしている状態こそが望ましい。
集中状態はタスク・ポジティブ・ネットワークと呼ばれる部分が働くが、これは創造性と正反対だ。つまり集中は創造性を抑制する。
面白い例としては、「ビジネスのアイデアを出す」というタスクを提示してから、それをほっといて5分くらいマインスイーパやソリティアをやらせた(つまり擬似的に「先延ばし」をさせた)場合、アイデアの創造性が増したという話がある。
ゲームをプレイしたグループが出したアイデアは「創造性において28%も勝っている」という評価を受けました。さらに、何も言わずにまずゲームをプレイしてもらった後に「すぐにビジネスのアイデアを出してくれ」という指示を出した場合は、出されたアイデアは創造性に優れたものではありませんでした。つまり、「ビジネスのアイデアを出さなければならないと認識しつつゲームをプレイする」という先延ばしが創造性に良い影響を与えたことが示唆されたわけです。
https://gigazine.net/news/20210312-upside-of-procrastination/
よく絵師が「絵を書かねばならぬがゲームをやる手が止まらない」的なことを言ってるが、案外それは効果的なのかもしれない。時間の問題以外は。
後は脳の活動状態自体が違うから、創造系と作業系のタスクは区別したほうが良い。
集中は、そのタスクに応じて必要な集中度が違う。
例えばスポーツに於いてもそう言われていた記憶がある。ゾーンの強さの話だったかな。
試合に臨むにあたって「ゾーン」という心理状態があることはわかりました。でも、競技種目によって必要なこころの状態というのは少し違いますね。図の左側の二人(選手Aと選手B)は<1>という競技種目の選手です。この二人のゾーンは<2>という競技種目をやっている右側の2選手(選手Cと選手D)に比べるとやや緊張感が低くてリラックスしていた方がピークパフォーマンスを発揮しやすいようです。
http://www.cramer.co.jp/training/mental_04.html
先程の創造系と作業系の話とも繋がる。
なお引用先ではリラックスと緊張のバランスとしてゾーンを語っている。これはプレイヤーの「心理状態」の側面としての話だからだろう。
そもそもそのタスクに専念する必要あるのか。アイゼンハワーマトリクスで分類すれば、タスクは4つの価値に分かれる。
- 緊急で重要
- 緊急だが重要じゃない
- 緊急じゃないが重要
- 緊急じゃないし重要でもない
この内特に「緊急だが重要じゃない」タスクは、集中するよりも手早さが寛容だと言える。マルチタスクもむしろ上等。いっそ可能ならば人に投げろとまで言われる領域だ。
この場合、集中の定義自体が変わってくる。「緊急だが重要じゃない」ものに対しては止まらず脱線せず手早く動いてりゃいいし、それがこの領域のタスクに対しての「集中」だ。
失敗するわけにはいかない「緊急で重要」と、効果的なことが求められる「緊急じゃないが重要」は、慎重さと緊張感を伴う「精密さ」を求めた集中となる。
つまり前者は浅く早い。後者は遅く深い。優劣をつける必要はない。緊急だが重要じゃない案件に精密さを求めては、ただの時間泥棒となる。タスクから見てその集中が「場違い」かそうじゃないかだけ気にすりゃ良い。
別の見方をすればコンフォートゾーン、つまりやり慣れたことに対して、ストレッチゾーン的な過度な集中と不必要な時間を掛けた「専念」が本当に必要か。無駄ではないし、成長するかもしれないが、それらは「今」求めるべきことか。
人が意識的に集中しようとする場合、緊張(要は真剣にやろうと)することに依って集中しようとする。この場合、不必要に強すぎれば必ず疲れる。人間は、車のハンドル握っただけで心拍数上がる生き物だ。体に負担がある状態にすぐになる。
ゾーンやフローにしても、実際には疲労を感じないだけで消耗はする。そもそもその状態になること自体が、当てにできるほど確実でもない。「日頃の集中」は元から強すぎるとマイナス面が目立つものではある。
測った、のだが、初めは2分とかだった。
集中できる時間を測るつもりで2分から初め、少しずつ伸ばしていった。つまりシリロは測ったつもりだが、成長した、あるいは脳が最適化された(慣れた)可能性。
2年半のポモドーロ・テクニック生活をデータで振り返ったChertiさんは「素晴らしい経験だった」と結論づけています。その理由は、ポモドーロ・テクニックに取り組み始めた当初、難しいと感じていた「集中すること」に徐々に慣れることができたからだとのこと。
https://gigazine.net/news/20171220-pomodoro-2-year-ractice/
この通り、慣れ補正が入る。レベルアップと捉えてもいいかな。
さらに、少しずつ伸ばして自分の限界を試していくこと自体が限界的練習のポイントをかなり抑えている。
25分で安定するまでは、ストレッチゾーンにあり続けたと言える。
意図はしていないだろうが、結果的にやったことが「勉強の集中時間を伸ばす良質な訓練」となっていた可能性がある。
[blogcard url=”https://embryo-nemo.com/1887/”]
もちろんそれが全てではない。話を聞いて25分でやってみて、いい感じだったという声自体もまたそこそこあるのだから。
ただその内訳のいくらかにこのような要素の疑いがあり、つまりは訓練してない者が真似したらきつい、となる可能性もまたあるのではないか。
自分+そのタスクでの時間を測る・伸ばすべきでは
特に個人的にかなり気になるのが、「25分は短すぎて辛い。40~50がちょうどよかった」という言を結構見かける点だ。
ポモドーロ・テクニックを実践する上で理解したことは、「時間に執着しないこと」だとのこと。一般的にポモドーロ・テクニックでは、「25分の集中」と「5分の休憩」というサイクルを基本としますが、この時間自体は自分が快適だと感じる時間を設定するのがよいそうで、Chertiさんはさまざまな時間を組み合わせていたそうです。
https://gigazine.net/news/20171220-pomodoro-2-year-ractice/
この例に限らず、実践者が25分の部分をいじっている例はかなり多い。
疲れる理由の一つは、「25分」が長過ぎるor短すぎる可能性がある。
長過ぎれば当然疲れる。集中できていないのだから無理に25分をなぞる必要はない。
短い場合、休憩が煩わしくなる。この声も結構多い。
前述したが個人的に、「そのタスクに必要な集中の種類」自体が2系統有ると思っている。
細く長く弱い集中と、太く短く強い集中の。
なぜなら集中が切れる=その場で急にポンコツになり、脱落するから。「スタミナが保つこと」は、成し遂げることを前提とするなら絶対条件だ。
一見後者がよろしく、前者がよろしくないが、42.195kmをスタートダッシュで全力疾走する面白い奴を想像してみれば、私が言いたいことがわかってくれると思う。細く長く弱い集中でなければ絶対にクリアできない場面は有る。
それこそマラソンで言えば、スタートダッシュで飛ばして横っ腹痛くなってリタイアした者よりは、ビリでも完走した者のほうが評価に値すると思うね。
要するに、持久力と瞬発力の話。どちらも、もう片方を補うことはできない。
ポモドーロを仕事で使うこと前提で、労働時間が8時間前後であると仮定すると、ベーシックなポモドーロはどちらかと言えば瞬発力がメインで持久力がサブだ。
タスクとの相性で見て、持久力がメインであるべきならば、不協和音が聞こえてくるかもしれない。
また、ポモドーロ自体が訓練的な要素があることは昔から書かれていた。シリロ自身も著書に於いて、最初はできないかもしれないが心配はいらない、みたいなことを言っている。つまり元から慣れが必要だし、やってりゃ慣れる部分がある。逆を言えば初見では「合わない」と感じる可能性はそこそこある。
これに加えてタスクと集中力の系統の相性があるとしたら、25分で違和感を感じ続けるのなら(=いつまでも慣れないのなら)、やはり作業時間は変えてみたほうがいい。
作業時間を設定することそのもの価値と、25分はそもそも「集中できる時間」だったのか?という話
また、そもそもこれは集中時間なのか?という疑問は有る。「時間を区切ること」による集中力の上昇という面は間違いなく有る。いわゆる「締切の力」というやつ。
まず前提として、パーキンソンの第一法則がある。
すなわち「仕事の量は、完成のために与えられた時間をすべて満たすまで膨張する」。簡単に言えば、時間ギリギリまで作業時間は間延びする傾向がある。
これと「締切がない状態」を組み合わせて考えると、まぁ集中力なんて出るわけない。無限に間延びする。
ポモドーロテクニックを始めとした時間設定自体が、「これからやるタスク(これは達成目標ともなる)」に対して「短期的な締切」を設定し、たるんだ時間間隔を引き締める効果がある。
これらを織り込んで考えると、集中時間じゃなくて「疲れないで動き続けられる時間」であるようにも思えてくる。
で、こうなると自分の脳の話だけじゃなくなってくる(タスクでやること違うから)ので、自分+タスクで考える必要はやっぱりあるのではないか。
後はまぁ、ポモドーロ・テクニックの「時間以外のルール」は普通にめんどくさい。あれもタスク次第では細かすぎとなる可能性がある。
我々はシリロの方法を採用するよりも、シリロの「自分のペースの見つけ方」をトレースしたほうが得るものは多いのではないだろうか。
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