・特定の相手とではなく、「人付き合い」そのものがめんどくさい、疲れることについて。
目次
人付き合いをめんどくさいと思っている人たち
- 歩いてる時に対面から知り合いが来たらルート変更
- スマホや時計などを気にするふりをして目を合わせない
- 話しかけられてしまったら嫌がる素振りは見せず友好的
- でも話題がないから早く会話を終わらせたい
- あるいは無理にでも話題を探さないといけない使命感を感じる
- 別に相手のことを嫌っているわけじゃない
- 楽しく話をしていても、会話が終わって相手と別れると疲労感を感じる
- 別れた後は、なにか変なことを言わなかったか、あの言い方じゃ嫌味や自慢に聞こえただろうかと1人脳内反省会
- 一人でいるのが基本で、人と会うのは「イベント」である
- 知らない人とは話せるが、仲良くなると苦手になる
- 二人きりなら話せる。あるいは反対に三人以上でなら話せる。
- 美容院の人に世間話を振られるのが苦行
- でも放置されても寂しい
流石に全部てんこ盛りってことはないと思うが。動機としては大体は、
- 自分のために金・時間を使いたいのにそのペースが乱される
- 他人を気にする・他人と合わせることに疲れてしまう
のどちらか。
なぜ人付き合いがめんどくさくて疲れるのか
コミュ障?
コミュ障って言葉もだいぶガバいからなぁ。立ち話では便利だろうが、考える時に使う言葉でもないような。
何よりも、個人個人で人間関係は様々だ。実際えんがちょな人間しかいないようなコミュニティで萎縮してるんだったら、それはコミュ障と呼ぶのはふさわしくないし。
特に女性に於いては、共感性が高い傾向があり、仲間にならないといけない、共感しないといけないと考えがちだとされることもある。一種の義務化とそのエスカレート。
その分「周りから求められる距離が近い」ことが多い。結果的にその距離感が苦痛=人付き合いが疲れる、ということはある。
要は相手というか、コミュニティの「普通」と合わない可能性。ただこの場合、ほぼ全員が苦痛を感じながら普通のフリを続けるなど、かなり奇妙なことになってる場合もある。
対人恐怖症
・自覚がない場合もある。赤面恐怖症などは、一見普通に振る舞っているが実は、と言うケースも。
他者からどう見られるか、どう思われるか、これらを気にしすぎることにより悪化する。
苦手意識を感じる程で落ち着いているならば、軽度とは言えるだろうが。
感情労働
空気を読みすぎる人、気を使いすぎる人、相手に合わせすぎる人。
感情労働は主に対人サービスの業種で言われる概念。ざっくり言えば、わがままな相手に対して素直に感情を出すわけにも行かず、我慢しながら笑顔を浮かべて相手しなきゃならないこと。擬似的なパワハラ状態。
これを乗り越えるため、人は2種類の演技をする。
- 表層演技:愛想笑い、適当に話を合わせる、表向きの同調
- 深層演技:心の底から相手に同調しようとする労働
どっちみち疲れる。後者の場合は精神を病む可能性すらある。
また、相手のお望み通りじゃない場合の報復を危惧し、防御的な動機でこれを行うこともあるとされる。
感情労働させる者は横柄な、攻撃的な態度とも限らず、同情を買うだとか、気を使わせるだとか、そういった方面での「腫れ物」のような相手も含める。
といっても、周りの人間の気遣いに期待しすぎるならば、今度は感情労働「させる側」となるだろう。人はどの道、我慢しなきゃならない機会は多く、感情労働する場面もどうしてもでてくる。だからこそ、どこで感情労働しているかは把握したい所。
後は深層演技は止めよう。確かに中には表層演技を見抜いた上で、「心の底からの同意じゃない」と非難する者もいるが、大抵の場合は他人にそんなもん求める時点でそいつの頭がおかしい。
内向型
内向も外向もどちらもそうだが、本来の気質とは逆のこと、この場合で言えば内向型が外向型なことを続けていると「ものすごく疲れる」事が挙げられる。言い方を変えれば一人の時間が必要な人が、一人じゃいられない人たちと付き合ってたら、そりゃ疲れるよ、と。
要するに「充電」できるタイミングが正反対。一人でいる時が充電になるタイプと、人付き合いが充電になるタイプと。さらに言えば、これは充電の話であり、「社交的かどうか」とはあまり関係ない。TEDのスピーカーなどが雑誌での取材に対して「あなたは外向的? 内向的?」って質問がされることがあるが、知ってる限り全員「内向的」って答えてる。
内向型は悪いことではない。そして、わざわざ「悪いことではない」と言わないといけないくらいには世間のイメージはマイナス気味。これが問題で、要は外向と内向の世間のパワーバランスは外向に傾いている。数としては対して変わりゃしないだろうに、内向型は自分がマイノリティであると思っている傾向が高いように見えるのだが。
また、感受性や共感能力が高すぎて自然と「相手に合わせすぎてしまう」こともあるようだ。
人は内向的な面と外向的な面、両方持っている。どっちで充電できるかとか、どっちが気楽にできるかで外向・内向は決まるが、もう片方が無理ってわけじゃない。加えて片方を過度に使い続けると「補償」と呼ばれる揺り返しが起きる可能性が示唆される。後述。
拒否回避欲求
・承認欲求って概念があるが、あれには賞賛獲得欲求と拒否回避欲求がある。
前者はイメージ通り。
後者は失望されたくない、嫌われたくない、バカにされたくないなどのネガティブな評価を避けたい欲求。
当然「そこそこな振る舞い」はする必要がある。
当人の拒否回避欲求が強い場合、日頃から人前では緊張していることになるし、休日に知人とエンカウントしたら「無事に切り抜けるもの」になる。抜き打ちテストみたいな。
冒頭の例でも相手が嫌いなわけじゃないのに疲れる、苦痛を感じる、終わるとホッとするなどがある。
加えて「一人反省会」は、そのまま「ネガティブな評価を受けなかっただろうか?」という感情からくる反芻にも見える。
このような他者評価への警戒、緊張、不安、そして疲労。
・一方で仲良くなるとめんどくさくなる、嫌いになるというケースも有るようだ。
仲良くなるってのも色々ある。相手が厚かましくなってきたとかもあるかもしれないがそれは今回は除外しよう。
相手を気に入って、好感をもった場合。当然今までよりも嫌われたくはなくなるだろう。
ところで、承認欲求は特性としてのそれ(本人の性格のようなもの)と、状態としてのそれがある。
状態承認欲求は、その名の通り状況、状態で変化する。
- 相手が大事になった
- 嫌われたくない=拒否回避欲求が強まる
- 緊張するからめんどくさくなる
は、あるかもしれない。
人付き合いの結果仲良くなるというのは、相手に気に入られるという意味でもある。
気に入られたのが「演じた自分」であった場合、だんだんと疲れてくるかも知れない。
通常、初めはある程度お行儀よくして、段々と自分を出していく、という形になると思うが、この切替時や加減を見極めるのが苦手だと緊張するかもね。
好き嫌いと損得勘定
・「いい人」に多いと思うが、付き合う人間に対して好意を「持たなくてはならない」というような義務感がある場合。
実際には立場を傘にする嫌なヤツだとか、相手の自然体が我慢ならなかったりと、ぶっちゃけ嫌いな奴とも付き合わなきゃならないことも多い。
このような場合に無理に好きになろうとするのはもう、感情労働だろう。しかも深層演技=疲れる。
・「我慢して付き合わなきゃならない相手」は、損得勘定や利害的な関係となる。別に好きにならなくてもいい。
心理学者アドラーが提唱したライフタスク(人との距離感)は3種類ある。
- 仕事のタスク(永続しない人間関係)
- 交友のタスク(永続するが運命を共にしない)
- 愛のタスク(永続し、運命を共にする)
人間関係で緊張するタイプはここで言う所の交友のタスク・愛のタスクレベルでの付き合い方しか「するつもりがない」ように見える。だから仕事のタスク(仕事に限らず浅い人付き合いすべてを含める)が疲れる。「心をこめすぎて」。
危惧してそうなので言っておくが、これらは相手に対しての点数付けではない。距離感の方針だ。感情労働の概念がいい例だが、もうちょっと精神的エネルギーをリソースとして「運用」することを考えるべき時期かもしれない。まぁ簡単に言えば節約。
「圧力」
内向型は人付き合いで疲れてしまうだけで、人が嫌いでも人付き合いが嫌いでもない。遊びに誘われると、行くまでは憂鬱だが行くと「楽しかった!」となったりする。また、心の底から一人で平気なタイプの人もいるようだ。この場合でも別に人嫌いではないし、そこそこ付き合ったりはする。
外向と内向の話でよくでてくるが、社会が求める社交性に便乗しての外向型の同調圧力(内向にはそう見える)で嫌々付き合ったりしてて疲れる、というのもあるようだ。マジョリティに悪気はなくとも、マイノリティには同調圧力かデリカシーが無いように見えることは多々ある。
就職関係のサイトのアンケートなんかでたまにあるが、ぶっちゃけ飲み会も休日の上司からの電話も半分かそれ以上は「ふざけんな」って意見があったりはする。が、表立ってそれが主張されることは少ない。
この点においては、特に有利な立場の側の無自覚な横暴(やられる側にはそう見える)に対しての憤りの声を、当人が見て驚愕することもある。まぁ逆にそれを傘にどうせ断れないだろうみたいな振り回し方する奴もいるんだが。
前述の「仕事のタスク」の立ち位置の人間に対して、交友のタスクのような扱いをしなければならないと思わせる、同調圧力のようなプレッシャー。これは仕事の人間関係で多い。また、自分で勝手にそのようなプレッシャーを感じてしまい、誰に対しても気を使いすぎる、ということもある。
人付き合いがめんどくさくても、人が嫌いとは限らない
嫌いなわけではない
・大体の場合、人が嫌いなのではなく、「人付き合い」のリスクの過大評価による緊張からの苦手感。あるいは今、人付き合いに疲れていて、「少し休憩したい」感情。あるいはちょっと一人の時間が欲しい。
リスクの過大評価や緊張と言っても、まぁ相手がいる話であるから、相手次第ではそれが妥当なこともある。
ともかく、その警戒心・緊張感が妥当であると自分で判断するならば、そのままのほうがいいだろう。だが限界を感じているのも現実のはずだ。なんか適度で上手な力の抜き方があるといいね。ポイントだけ抑えるとかね。
固定された距離感に注意
・一般的には距離感はおっかなびっくり着いて離れてで「調整」するものだ。最初から加減するから、失敗しても損害は軽微。だが我慢強いタイプと厚かましいタイプが出会ってしまうと一種の上下関係、力関係が生まれ、そのまま固定される。
問題は、厚かましいやつが我慢強いやつ相手に調子こいてるのか、それとも積極的タイプが消極的タイプをサポートしているのか、見ててわからんことだ。時には当人たちにもわからない。まぁわからないと言うよりは、決まってないのだろう。これは「自分から見て相手はどうか」によって決まることだからだ。
だからこそ共感能力ないとコミュ障扱いされる。アスペルガーだとか、サイコパスだとかがそうか。これらは先天的なものだが、もちろん先天的な要因ではない「分かるつもりがない奴」もいるし、「必要以上に分かってもらいたがる奴」もいるし、もうめんどくさいので「相性の問題」ってことにしたほうがいいかもしれない。割れ鍋にも綴蓋って言うし。
急に人付き合いが全部めんどくさくなったら要注意
燃え尽き症候群の可能性がある。感情労働し過ぎで感情がわかなくなる症状。別名燃え尽き症候群。
うつ状態やイライラが症状としてある。あるいは感情が枯れる、あらゆることに無関心になるなども。そのものズバリ「人付き合いを避ける」ってのもある。急に、全部嫌になるだとかだったら要注意。
ただこの場合でも、「疲れただけ」だと捉えたほうがいいだろう。一時的なものとして。もちろん休息が必要だ。
何件か、こうやって全部嫌になって、ご丁寧に全方面と絶縁して、その後寂しくなりました、なんて話を知っているからね。
この様になった場合には、日常の感情面での負担が高すぎたことは、認めるしかないだろう。ちょっと周りに気を使いすぎていたとか、キャラを演じることに一生懸命になりすぎたとか。
「補償」について。ユングの理論に於いて、片方を使い続けた果ての揺り返し。自動的な調整機能とされ、これによりバランスをとると考えられた。個人的には同じ部分ばかりを使い続けた結果、回復が追いつかない、あるいは焼き切れた感がある。
まとめ
基本的には、
- 今まで平気だったのがめんどくさいと感じるようになったのなら、感情労働に疲れた。この場合人間関係的な意味で休息を取りたい。仮病でも使おうか。
- 元から人付き合いめんどくさいと思ってたなら、一人でいることで充電するタイプであり、世間の偉そうな馴れ馴れしさにうんざりしている。ただ、世間の半数くらいはそう思ってるはずなので、意外とその手の話題で気が合う人がいるかも知れない。
・莊子曰く、君子の交わりは淡きこと水の如く、小人の交わりは甘きこと醴の如し。
醴(れい)は甘酒のようなものでベタベタしている。めんどくさいからカルピス原液に脳内変換してくれ。
要するに、人格者の人付き合いはさっぱりしているが、凡人の人付き合いはベタついているということ。で、我々は凡人だからベタついてるわけだ。どうも本能的な欲求として他者との交流を求める気持ちはあるみたいだし。でまぁ、色々それで脳内ホルモン出るし。オキシトシンとかセロトニンとか、ドーパミンとか。
交流中毒とでも呼ぼうか、「ベタついた付き合い」を過度に望む者もいる。相対的にそれらにうんざりする者も当然出てくる。
莊子の言葉はこう続く。君子は淡くして以て親しみ、小人は甘くして以て絶つ。
君子の付き合いは淡いからこそ長続きするが、小人の付き合いは甘いからこそ途絶える。まぁ、飽きるだとか胸焼けするとかそういった感じの。
まぁなんというか、カルピス原液みたいな付き合いしてたらそりゃ疲れるだろうと。濃すぎて拒絶とかもあるだろうし。薄める=力を抜くことを考えたほうがいいのかもしれない。
■クレジット
https://omocoro.jp/kiji/101534/
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