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本来感 自分らしさを実感すること

投稿日:2021年2月17日 更新日:

 自尊心、自尊感情の要素の一つ。何かを根拠とするのではない、自らの内から湧く「自分らしさの実感」。

どちらかと言えばポジティブ心理学。アイデンティティに近いが、より外部の影響を受けず、直接的に「私は私である」とする感覚。

引用は、論文『本来感研究の動向と課題』より。

本来感とは

 自分らしさ(本来性)を実感すること。

自分らしさ、自分探し、自分がわからないとか、あるいは自分が何がやりたいのか見つからないなんてのはよく聞く話。
これらは「本来感についての悩み」と言いかえることが出来る。


「最良の自尊感情」の重要な性質の一つ、とされる。

  • 最良の自尊感情(Optimal Self-Esteem)→特定の課題や他者の評価に影響を受けない、中核的な自己によって機能している感覚から得られる自尊感情。
  • Authenticity(本来性)→その人らしくあること
  • 本来感→自分が自分らしくあると感じていること

自尊心と本来性と本来感は区別されるべきだが、混同されがちだとのこと。


本来性の内訳は、その者の行動面としての、

  • 気づき(自分の感情に気づいていられること)
  • 歪みのない処理(感情や認知を歪めないこと)
  • 行動(自分の意志に率直に行動すること)
  • 関係(親密な関係で、自分を偽らずにいられること)

の4つから、本来性を捉えることが出来るとされている。
これを行動面ではなく、全体の感覚として感覚面から捉えたものが本来感。

本来性・本来感共に抑うつと負の相関がある。自分らしさがある方が、精神衛生上よろしいということ。

本来性と自己価値との負の相関

 興味深いことに、「自己価値」と負の相関がある。

調査の結果、本来性と随伴性自尊感情、自己価値の随伴性は負の相関を示した。

特に、本来感および本来性の下位尺度である自分の意志に率直に行動できることと、自己価値の随伴性の下位尺度である関係性調和や他者からの評価の領域の随伴性との間に関連があることを示した。

社会的な自尊感情と随伴性自尊感情の2つは、「社会比較に基づく」とされる。褒められたとか、叱られたとか、評価されたとか、他者の干渉や比較で上下する自尊心と言えば伝わるだろうか。

社会的自尊感情は、自分は周りの役に立っているだとかの「自分は社会の中で価値がある」という感情。相対的、条件的で一時的なもの。際限がないとも言われる。「身に付かない」とも言えるか。

随伴性とはそのまま、ある物事に伴って発生する物事。例えば他人に認められた→だから自信がついた、という場合にはこの2つには随伴性があると言える。

他人に認められると本来感が下がるし、調和しても本来感が下がるという面白いことになっている。

興味深いことに、社会的自尊感情はアドラーやセリグマンなどには「幸福の一つの形」として数えられている。随伴性自尊感情はいわゆる「褒めて伸ばす」という心理とその操作に関わる。
どちらも表面上「よろしいこと」だとされているのだが、本来性と負の相関がある。

  • 幸福とは何か?
    ポジティブ心理学のマーティン・セリグマンが言う「幸福の5つの要素」の一つがポジティブな人間関係。
  • アドラーは共同体感覚というものを説いていた。内訳は、自己受容、他者信頼、他者貢献。
  • 褒めて伸ばす 人を伸ばす人、人を枯らす人。
    褒めるのは万能でもない。下手なら人を枯らす。最悪腐らせる。

自分らしさを感じていたり、それを行動で体現できていたりすることは、他者との関係性において自由でいることにつながっていることを示唆している。

周囲に対して一定の独立性を保っているということ。

少なくとも社会的な「つきあい」は、本来感を薄くするようだ。

本来感と幸福度と精神衛生

 本来感があると幸福度が高い。

主観的な幸福感と、ウェルビーイング(身体・精神・社会的に良好な状態)の両方に、本来感と自尊感情が促進的な影響を与えるとされている。

ただしこれは直接的な影響ではなく、本来感と自尊感情の2つを統制した独自の性質がもたらしたものだと考えられている。 

心理的なウェルビーイングに対しては、自尊感情よりも本来感のほうが強く影響があった。適応的性質は本来感の方があるとされる。本来感を感じているなら逆の「やらされ感」はないってことだろうから、道理とも言えるか。

言い方を変えれば、精神的・認知的に「自由に活動している」と感じていると幸福度は高い。

本来感と前向きさ

 本来感は、自主性と前向きさの資源とされる。

本来感、自己価値の随伴性、自尊感情が主体的な自己形成に与える影響について検討した。この結果から、
自分らしくある感覚である本来感は自分の責任により選択していくこと、
自己の新しい可能性へと踏み出そうとする意識、
そして現状の自分を改善させていこうとする意識にとって重要な内的資源であることが示唆された。

やはり「独立心」と呼べるのではないだろうか。


自尊感情と本来感の結果の特徴的な違いは、自尊感情は自律性に対して影響を与えていなかったのに対して、本来感は自律性を高める方向で影響を与えていたことを示している。


「自分らしさ」という言葉はなんというか、盗んだバイクで走り出しそうなフリーダムかつ衝動性を感じさせなくもない。しかし実際の所は、むしろ自律性を増す。

一見不思議な話だと思ったが、「自己責任で自分のやりたいことやってるから、自律性がある」と言いかえると納得できる。

自分らしさと適度な距離感

随伴性が高いほど不安や抑うつが高く自律性が低い、さらに随伴性が高いほど学校満足度が高いという結果が得られたことに対して、人からの評価によって自分を形成することは、学校生活における満足度を高めるが、人とほどよい距離を保って自律的に生活することにはつながらず、精神的に不健康な状態に陥らせる可能性がある、と述べている(p.533)。

ここから見られるのは、社会生活における満足度は「自分らしさ」を犠牲にして果たされている点だ。また随伴性自尊感情が抑うつと関係がある以上、自分を押し殺すことは精神衛生、ひいては主観的幸福度に悪影響であるとも考えられる。

自己価値や随伴性自尊感情だけだと、そうなる余地があると言えるだろう。


 この、「協調性のある人間ほど自分がない」点は他でも見られる。ビッグファイブのそれこそ「協調性」は、高いと「自分で一人じゃ決められない」「自分の考えを持てない」傾向がある。

反対に協調性が低いというのは、特に日本では一見するとよろしくない。だが自主性はある。度が過ぎると手段を選ばない傾向が出てくるが。まぁあの性格分析は全部真ん中なのがよろしい気がする。

ちなみに案の定だが、日本人はこれが高い傾向がある。コミュ力とは別物ともされる。

協調性が高い=愛着傾向があるとされる。愛着は露骨に他者依存だと言えるだろう。

関連ページ:

メモ

自尊感情

 自尊感情に対しては、大多数はよろしいものだと思っている。ただし以前から、多すぎるといけないだとか、よろしくない成分が混じっているだとかは言われている。
世間では自尊心と書いて「プライド」とルビが振られることもあるあたり、お察しだろう(自己愛と混ざってないかとも思うが)。

 自尊心には外部に随伴するもの(他人の影響を受ける社会性、随伴性の自尊感情)と、受けないもの(最良の自尊感情)がある。発生源が外側か内側か。
前者は悪い言い方をすれば、「豚もおだてりゃ木に登る」という言葉に近いと言えばまぁ近い。

社会的自尊感情に「際限がない」「一時的」という言及がされている点は、認められないと不安、褒められないと不安などの心理にも通じるだろう。

本来感と褒めること

 随伴性自尊感情は「褒める・叱る」ことと繋がる。

本来感の研究者からは、既存の自尊感情の低さに対しての対策である、

  • 出番を作る
  • 役割を与える
  • 褒める

などは、時として逆効果になると警鐘を鳴らす者も居る。
これらは親や教師による「コントロール」という点には変わりはなく、本来感を損なうと。

「ほめるという行為は、ほめられた側が、自分自身で納得して行動するようになるというよりは、ほめ言葉を引き出すことを目指すように仕向けることにもなる。」と指摘する(p.65)。

また、「叱るという行為は、短期間で見ると効果のあるものだが、長い目で見ると決して効果的であるとは言えない。」とも指摘する(p.49)。

学校教育現場では自分らしくある感覚としての本来感やRosenberg16)による自分を“これでよい(good enough)”とする真の自尊感情の育成が求められると考える。

「コントロールが目的で褒めてくる者」がいる。褒められるのが嫌いな人は、その手の類の醜さを知っているのだろう。この場合、褒めるも叱るも「介入」になり、必ず本来感を損なわせようとするものになる。

褒めて伸ばそうとすると、本来感を損ない、当人の幸福度と自主性と自律性を損なうリスクがあることになる。
実際、親や教師だけ張り切って、出番を与えて褒めたりしようとしてるけど、子供や生徒は「やらされ感」がMAXだ、って構図はあるな。上司と部下でもね。

「コントロール」を目的としての接触は、自然ではなく、とても人為的に映るものだ。8割方世の中そんなんだが。
有形だろうが無形だろうが、肯定という「報酬」を扱う限り、この問題からは逃れられないだろう。

個人と社会

 全体主義者や同調圧力大好きマンとかは、人間の「人間性の敵」だとも言えるってことになる。実際言ってることがアリやハチのようなもんだし。

もちろん表立って棒をぶん回すのは、ガチ目のおかしい奴だが、アサーティブの作為タイプなどから考えるに、表面上適応しながら、内心では「みんな自分と同じにするべきだ」みたいなこと思っているのは恐らく多い。シニシズムも多分このあたりだろう。

主語が大きいってのが嫌われるのも、意識無意識問わず言ってることは同調圧力気味になるからだろう。

体育会系がクソ嫌われてるのも多分ここ。今、「体育会系」で検索してみても、サジェストに「ゴミ」「使えない」「いらない」「嫌い」との言葉が並んでいる。文系と理系ではこれはない。アメリカでもジョック嫌いは珍しくないわけで、人間の本能を刺激するのかもしれない。

上の自分らしさと適度な距離感書いてて思ったこと。筋肉量は知らんが「性格的に体育会系」は恐らく非常に多い。協調性高いのが国民レベルの特徴な点で、集団行動してると安心する愛着気味の人間の数は、他国より高いことが予測できる。


  • アサーティブについて
    ノンアサーティブ(自分を尊重しない)の内、特に回りくどく自己主張するタイプ。「言えないこと」への不満の表れとして行う。

  • 人に合わせすぎる心理:過剰適応/自己破壊的同調について
    シニシズムは「他者は信用できない。不正直だ。利己的だ」という考えの一群。人に対する基本的信頼感の欠如。人に合わせすぎてしまう過剰適応の原因の一つとされる。

  • 主語が大きい人
    大抵の場合、主語が大きいことは無自覚だが、悪い印象を与える。中には確信犯的に、「自分の責任は回避しつつ、発言に権威性をもたせたいから」という理由で「みんな」「常識」「当たり前」との言葉を使う者も居る。

  • アメリカのスクールカースト 学校生活における性格分類
    ジョックはアメリカの学園モノの映画やドラマのいじめっ子ポジ。サメ映画だとサメに食われる役。1999年のコロンバイン高校銃乱射事件は「ジョックをターゲットにしていた」と明確にされている。

  • 自分の意見が思いつかない人
    これは露骨に、自分らしさと社会の板挟みな所がある。

好きなことを仕事にするなという言

 これもまた2つに意見が分かれる話だが。仕事にすれば、その好きなことを間に挟んで、必ず他人と関わることになる。

どのような収益スタイルだろうが、必ず何らかの形で「他人」を意識することは否めない。たとえ直接的ではなくても。自分が金を稼ぐなら、他人と何かを交換をするか(労働と対価も含める)、他人の役に立って金を貰う必要がある。

仕事にする時点で本来感は、損なわれる余地が生まれるわけだ。

好きなことを仕事にするべきかどうかは私にはなんとも言えんが、というか性格と職種とその相性によるだろと思うが、「本来感」を感じられることと「仕事」は分けたほうが良いような気はしなくもない。「穢れる」余地があるのは間違いない。

だが本来感は独立性を高めるわけで、言い換えるなら一人の人間として「自分対世間」でやっていけるということだ。だから本来感があるのなら、もしかしたら好きなことを仕事にしてもやっていけるのかもしれない。わからん。


まぁ仕事と自分らしさとどちらか選べって話でもないとも言える。イラストレーターとかが、仕事(絵)で息が詰まってきたから落書き(絵)を書きました~みたいなのはたまにある。

一見すると意味不明な感じだが、恐らくこれは当人的には、「行動」は同じでも「意味」が全く違うのだろう。片や他人を意識した社会的活動、片や己を意識した自分のやりたいこと。

逆を言えばこれが大好きだが、仕事でやるのは大嫌いだ、という形に落ち着く余地もあることになる気がする。まとまらん話だ。

多分だが、「仕事」に本来感感じるか、「作業」に本来感感じるかで分かれそう。前者はやってみなきゃわからん気もするし、周囲の人間の影響も大きそうだ。

本来感のない状態について

 自主性と前向きさが本来感だとするならば。作為的で人をコントロールしようとするフリークは本来感はないということか。これらは他人を必要とし、何より方便かなんか知らんが「社会的視点」をかなり重視している。

加えて他者の本来感を感じる機会を認めないのはもちろんだが、自分をどうも模範的な「良い子」だと思ってるフシがある。「良い子」も社会的価値観。他者評価。

世間様に従順かつ不満を持つ者(多くに当てはまるか?)は、「社会的」であるため、本来感は少ないと考えられる。これらは「自分と同じ様に、他の者も在るべきだ」との念は強い。

これは「義務を果たしている者が感じる不公平感」に見える。いわゆる「アイツばかり楽してずるい」って奴。ただその義務が、明示されているものでも、元から万民が果たすべきものでもないのなら、勝手な逆恨みになる。

他にもいくつかこの考えは見られる。そもそも「自分らしさ」という概念が、フリークにはないんじゃないかとも思えてくる。模索するつもりも無いのなら、一生そのままってことになるのだが。

関連ページ:

不確実感

 自分の行動に「OK」と思えない。感じられないこと。不確実さ、不安感、気持ち悪い感覚。

本来感もそうだが、自分の言動に対して感じるもの、としたほうがいいだろう。特に何もしてない時に感じるような類ではない。

つまりこれ自体は性格的、人格的な話ではない。これ自体は。単にたこ焼き屋に無理やり鯛焼き焼かせるだけでも不確実感はある。

これらは初心者に多く見られる。初めてだからね。一方でそこそこ熟練してきたら、このくらいでいいかとか、これで良しと判断できる。

アウトサイダー

 本来感の定義で非常によろしいと思うのは、「歪みのない処理」が条件としてある点だ。まぁ「自分に嘘を付く」というのは、当然本来感を損なう。
これがよろしいのは、「思い込みの自信」が全部失格になるから。

 疑問点。驚異処理理論の様に、「生きていくために人は自ら己を騙す」傾向が示唆されている。
これを織り込むと「適応」を前提とした場合には、認知の歪みは内容次第で肯定されるべき物になる。
反対に「本来性を求めるべきではない場面」、砕けた言い方をすれば「正気に戻ったらやっていけない場面」があることになる。


 生きていくための「歪み」の存在に気づき、それ故に上手く生きられない者たち、というのは居る。この上で、それなしに生きる道を探す者。元に戻るつもりはない。

コリン・ウィルソンは彼らを『アウトサイダー』と呼んだ。知的な社会不適応者と訳されることが多い。

彼らは、現実感や充実感を探したりするとされる。彼らが求めていた「生きている実感」は、本来感に該当するかもしれない。


微妙にシオランもそっちっぽいかもしれん。シオランは特殊な方向でもっと達観してるか?

本来感と内向・外向型

 内向型は一人の時間を過ごすことで充電され、外向型は人と会うことで充電される。別にもう片方が嫌いというわけでもない。よくある「友達と遊びに行くのは楽しいが、すごい疲れる」というのは多分内向型な上で外向型の遊びも好きだと言うことだろう。

内向型は、本来感を感じている限り活力を得る。外向型は、自己価値や社会的自尊心を感じている限り活力を得る。…のかもしれない。

  • 内向型について
    内向型は「社交」で消耗し、「孤独」で充電する。外向型はこの逆。別に好みの話ではなく、「好きだけど疲れる」ということもある。表面上の行動としての内向・外向のイメージと必ずしも一致しない。

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