やる気が必要な場面は、やりたくないことを前にした時が多い。目標達成のための長期的な行動においてうんざりするなどもある。
やる気と言っても種類があり、場合によっては「やりたくなさ」の方がやる気より強いということもある。
やる気の種類
やる前のやる気
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・タスクに手につけるためのやる気。
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・やる気が出ないというよりは、苦手意識などでの「やりたくなさ」への対策。
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メル・ロビンズによる5秒ルール。厳密に言えばやる気を出す方法というよりも「やりたくなさを振り払う方法」という感じ。
ついでに言えば、「やりたくなさ」には特に根拠がないことが多い。
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着手のハードルを徹底的に下げる。
=「始める前のやる気」の必要量は減る。
やってる時のやる気
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・やってる間にノッてくるアレ。
ゴール直前のやる気
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・ゴール直前にやる気が消えてしまうことがある。
やる気を出す方法
もっと嫌なタスクと比べるとやる気が出る
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比べる前よりもやる気が出る。例えば食器洗いは元からやる気が出ない(やる気が22.81%)が、ジョギングと比較することで元よりもやる気が出ている(94.74%)となった研究が有る。
やる気がでないことについて
慣れないことには警戒心が湧く
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TEDxで行われたメル・ロビンズによるトーク。
彼女によれば、人は慣れないことをやろうとすれば「非常ブレーキ」がかかるという。
報酬と監視/管理
・まず物事に当たる時の我々の姿勢から。
かつて,フレデリック・テイラー(Frederick Taylor)による科学的管理法(Taylor 1911)では,労働者による「怠業」の問題を解決すべく,標準的な課業の設定とその達成に連動したインセンティブ(賃金)の有効性が明らかにされた。
https://www.jil.go.jp/institute/zassi/backnumber/2017/07/pdf/016-025.pdf
この「怠業」にまつわる考えは今でもあるだろう。雇用者は労働者を「怠けるかもしれない」というパラノイアな目で基本的に見ている。依って監視的、管理的な構えを取りやすい。
ただ、実際に労働者には怠業が見られたらしい。理由は「頑張っても賃金に見合わない」、「効率が良すぎると仲間から失業者が出るから」などが挙げられている。「組織的怠業」と呼ばれる。これは現代日本でも見られる。
・個人で物事に当たる時もまた、「自分が怠けるかもしれない」と考え監視的、管理的な計画を練る。自身に対して強迫的、あるいは押し付け、時に逃げ道をきっちり塞いで、監視し、進捗を管理する。応援するような意識を自身に向けるのは少数派だ。
これらは目的やノルマがある限り、気にする必要は確かにあるかもしれない。のびのびとリラックスして行動し、達成できなかったり間に合わないならそりゃダメなわけで。規定の時間内に、規定の作業が完遂されなければ、計画としては失敗だ。
・この上でモチベーションとはなんぞやと改めて考えると、それは「やるべきことに積極性を発揮すること」であると言える。対象は限定されており、それに対してやる気がなくてはならない。勉強中に部屋の掃除がしたくなっても「やる気出た」とは普通言わない。
だが監視/管理によって得られるのは「正確性と萎縮」であり、ここに矛盾がある。意識はタスクに向くだろう。だが推進力が無くなる。結果タスクを前にして「やる気が出ない」と途方に暮れる。
人は大抵、正確性は注意力や集中力で賄おうとするが、積極性が出ないという問題は残る。
・例えば個人的にゲームや読書を楽しんだとしよう。時間を忘れて熱中していた。超捗った。として。
この場合、監視/管理とは違い「自由/直感的」属性があり、それによって得られるのは「不確実さ(あるいはゴールそのものが設定されていない自由)と開放感」だ。
自由な分方向性が固まっていないが、その分推進力がある。
とても真面目な場面ではお呼びではない属性だが、「やる気」はこちら側に属している。
「たとえば私たちは、卵を割らずにそっと握ることができますし、一度乗り方を覚えれば、自転車だって転ばずに乗れるようになりますね。線条体は、こうした人の無意識的な行動の運動調整に関わっています。
また線条体には側坐核(そくざかく)と呼ばれる部分があるんですが、ここは人の快感に関わるドーパミン神経系と強く結ばれています。
つまり、線条体で『無意識的な行動』と『快感』が結びついている。だから人は特に意識せず簡単にできることに、気持ち良さを感じる。ひいては、それがやる気にも繋がっているわけです」
https://www.recreation.or.jp/business/survey/brain/specialist/
取り方に依っては「頭使うことにやる気は出ない」というとんでもないことにもなるし、「身につけたスキル」はやる気が出る対象を増やすとも考えられるが、まぁそれは置いとこう。逆にフロー状態は難易度高いほうがなりやすいから大した問題にならない。
脳のドーパミンを出す辺りをA10神経群と呼ぶが、好き/嫌い、面白い/つまらないなどを司る部分でもある。嫌いなことにやる気を出そうとするのは、性格ブスを好きになろうとするに等しい。無理がある。
嫌いなら嫌いでこなしていかなきゃいけないなら「苦痛を減らす工夫」などを考えたほうがいいだろう。
コンテクストスイッチ
・プログラムの分野の言葉だが、やる気や集中力についての言葉としても使われる。要は行動文脈の切り替えとそれによる余計なリスクやコスト発生。まぁ片付けとか準備とかね。
「やる気が出ない」という現象は、自分とそのタスクとの間に発生しているように見える。
だがそうではないかもしれない。さっきまでやっていたことから、これからやろうとしていることへの「切り替え」がうまくいっていないのかもしれない。
そもそもマルチタスクがこのコンテクストスイッチがやたらあるものであり、ご存知のとおりに生産性が落ちるとされている。
・エンジンかかるのに時間かかるタイプ。スロースターター。心当たりがあるのなら、まとまった時間を取ったほうがいいだろう。小刻みにするとその分切り替えのコストとリスクが発生する。エンジンの掛け直し。
特定の場所で始めることや手順をこなすことによりエンジンがかかる、ということもある。よくある「todoリストの簡単なものから消していく」よりも、文脈(コンテクスト)的なまとまりを意識したスケジュールのほうが良いかもしれない。
人には自信の行動に一貫性をもたせたい/一貫性があると見られたいという心理もある。タスクを細切れにしてスキマ時間にやるのは時間効率は良いかもしれないが、エンジンの回転率は落ちるかもしれない。どちらを優先するかは求めるクオリティにもよるが。
スモールステップ:行動イメージを作る
・スモールステップとは、そのまま「小さな一歩」のことだと思っていい。ベイビーステップなんて呼んだりもする。今回に於いては多分、思い切って後者の呼び方をしたほうがいいかもしれない。私は嫌だが。
本当に、言葉通りに小さな一歩であり、例えば椅子に座る、テキストを開く、などの行動単位だ。
「タバコの火を消して、この喫煙所のドアを開け、机まで歩いて行って、姿勢良く椅子に座り、受話器を握って、笑顔をつくり、○○商事の奥田さんに電話をする」
などと具体的にイメージすると、筋肉に指令を出す「運動野」や運動の計画を立てる「前運動野」の活動が促されます。
線条体は運動のコントロールにも関わっていますから、運動野や前運動野が動き出すことで発火するのです。
反対に、「いかに自分はこれをやるべきなのか」とかやるべき理由を自分に言い聞かせるとやる気がごっそり減るという面白い話もある。
これは2つ考えられる。
1:行動イメージが空っぽである:「俺、将来ビッグになるんだ!」って言って何もせんやつと変わらん。
2:義務感による緊張と萎縮:逆説的効果。
まぁ両方かもしれない。
・行動イメージ構築の際、オノマトペを使うと効果的だともされている。擬声語、擬態語。
例えばハキハキとしゃべるとか、スラスラと書くなどの言葉の内、ハキハキ、スラスラの部分。
オノマトペは動的なイメージが多い。ほとんどが行動する様子と関連している。漫画が一番わかり易いだろう。アレで躍動感がでている部分は確かにある。行動イメージの補強の効果はあるだろう。
馬と人参
・やる気を出す工夫は、達成や着手に「ご褒美」を用意するものが多い。俗に言う「馬の鼻先に人参をぶら下げる」というやつだ。ただ、そのやり方が合わない人というのもいるだろう。
努力できる人とできない人が、脳的に違いがあるとされる研究がある。
https://wired.jp/2012/05/25/the-neuroscience-of-effort/
ざっくり言えば、辛くても行動を続ける人間は脳の一部が働き、辛いから止めた人間はそれが働かないという結果だった。
この種の勤勉な人々は、「報酬が得られる可能性」から、ほかの人よりも少しだけ多くの快楽を得ていると思われる。そしてその一方で、自分の内なる「不平家」の声には鈍感なようだ。
なおこの「内なる不平家」は損得勘定だともされ、努力できない人の方が物事を冷静に判断できるとも言える。
・一方でここで言う「勤勉でない人」の場合は脳の同じ場所はあまり活性化せず、代わりに島皮質と呼ばれる場所が活性化していた。これは何の検査しても活性化するからよくわからんとされるのだが、今回に於いては「苦痛」を訴えているのではないかとされている。
要するに「割りに合わない」と判断して脳が嫌がっているということ。勉強嫌いな子供はだいたい言うね。「これが何の役に立つんだ」って。
・この実験の話は某所で紹介された影響か「私は/あなたはそういう脳の作りかどうか」というニュアンスで語られることが多い。私は全くそう思わないので困る。順番がちがうというか、報酬に魅力を強く感じるかどうかが焦点になる。
この実験では1~4.30ドルが報酬とされた。個人のケチ具合や経済状況などでその価値は違う。何の足しにもならない少額な金銭でも、貧しいと損得勘定は強く働くという研究はあるから過大評価はするだろう。
つまり脳の作りじゃなくて、まぁ平たく言えばマインドという奴だろう。裏を返せば俗に言う「ハングリー精神」を持っていたかどうかという話になる。
やる気を出す場所とされる脳の「報酬系」はギャンブル依存に於いて語られることもある、必ずしもよろしいとは言えないものだ。一方でこの損得勘定も今回は邪魔しまくってるわけだが、賭け事をしようとする自分に対して働くなら正気とか理性と呼べるものとなるだろう。
はっきり言ってしまえば、賭け事嫌いを無理やりパチンコ屋にでも連れていけばこの「内なる不平家」は活発になるだろうし、どう考えてもそれは努力できる脳かどうかって話じゃないだろうと。
・脳が演出する「苦痛」に心当たりがある。
https://embryo-nemo.com/434/
「数学が苦手な人が数学について考えると痛みを感じる」という研究がある。
これは数学をこれからやると思った時だ。実際に数学をやっている時はほとんど痛みを感じていない。「やる前のやる気の有無」と同じ属性だと考えられる。
・やりたくないから割に合わないと思うのか、割に合わないからやりたくないのかからして怪しい。どちらもあり得る。めんどいから割愛するが、脳は平気で嘘をつく。そして知ってる限り全てが認知的な齟齬(例えば「やるべき」と「やりたくない」)の解消をその嘘の結果として得る。
何より当人がやると決めたことに対してこのザマなのだ。脳が常に「まともな損得勘定」をすることは非常に疑わしい。
まぁともかく、やる気が出ない人はやろうとしたことに対して「やりたくない」と相当強く思っている状態になり得るということ。「無駄だからやらない」というのは言葉の意味としては正しいが、「それは無駄だ」との認知自体が疑わしい時がある。
・ああ、やっぱ説明するべきだろうか。
メルビン・J・ラーナーが行った実験で、電気ショックを人に流しまくってるところを七十数人の女性達に見学させるというものがあった。まぁその人はサクラで本当は電気なんか流れてないんだが、ともかく彼女たちには電気が流されてる人に見えたわけだ。
彼女たちは初めかなりの動揺を見せた。
だが第三者である自分には何もできないと知ると、その苦しむ人を「蔑むようになった」。苦痛の度合いが強ければ強いほど軽蔑もまた強くなった。
面白いのが「後で苦痛に応じて報酬をもらえる」と事前に聞いていた場合にはこの傾向が見られなかったことだ。
こう考えることができる。
- かわいそうだ、助けたい(目的)
- 第三者の自分にはそれができない(困難や苦痛の認識)
- アイツは電気が流されて当然な人間なのではないか(やらなくてもいいという認知の獲得)
正常性バイアスとか、合理化とか呼ばれる思考。「すっぱい葡萄」なんかもこの系統だな。この脳のつく嘘で第2段階で生じる目的と現実の不一致が解消される。
だから第1段階がそもそも発生しない「後で報酬がもらえる」と聞いた時は軽蔑の念は起きなかったと。
今回で言えば、
- 「やるべきだ」
- 「やりたくない」
- 「やる価値がないのではないか」
と容易になり得るという話。
何よりも、多くの人間が嫌なことに手を付ける前に薄々感じている「やらない理由を探している状態」はこれで説明がつく。
人参ではないやる気
・以上から一部の人、というか一部の状況においては報酬(と達成動機)が報酬になっていない事がある、と考えることができる。
苦痛を感じる、または「やる気がない」と自覚する時点で、『人参』は報酬としては無価値なものに成り下がっている。というよりも報酬や達成動機が「人参に見えなくなる」とした方がいいだろうか。
代わりに何かしら無価値なものに見え始める。それを追いかける理由が脳の中ではもう殆どない。この上でやる気を出そうというのは、嫌いなものを無理して好きだと思い込もうとしていることに近い。
昔「学校に行きたくないから」って理由で学校に火を付けた子供のニュースを見たことがあるが、まぁそれ系の方略。
・裏を返せば「好きなものにしかやる気は出ない」のかもしれない。だがやるべきと自体にはそんな要素はなく、邪魔というかうざいというかめんどくさいというか。
やる気が出ないからやる気が必要だが、やる気は元からやる気が出るようなものにしか出ないという全く役に立たないものなのかもしれない。
・一方で、何か常人より上のスキルやモチベーションを持っている人というのはいる。一見すると「努力できる脳」の持ち主かと思われそうだが、違う認知の持ち主もいた。
以前私は、その手の人は好きでやってるから上達するのだろうと思っていた。だもんでそれ系を見かける度にそうなのか聞いてみたんだが、3割くらいは「違う」と言う。むしろその人並み以上にできるそれが「嫌いだ」と言い切る人もいた。
どうもタスクに対して嫌悪を通り越した怒りというか殺意と言うか、そういった物を向けている。ある人はそこまで自覚していて、当人が言うには「嫌いすぎて詳しくなった/上手になった」らしい。
ちなみに個人的に聞いて回った限りは自分が持ってる並み以上のスキルに対して好き、嫌い、必要だから努力した、の3つが等分な感じだった。対象や環境で偏ると思うけど。
生物として考えても、例えば人を喰う天敵がいたとして、そいつに弱点が見つかったとしたら、あっという間に広まるだろう。誰もが強い関心を持つ。「敵」に対しての攻略法は、必ず自身の益になるから。「嫌い」にもモチベが湧く余地があるということ。
・改めて、既存の「やる気を出す方法」というのは、大抵が馬の鼻面に人参、つまりは報酬や「やるべき理由」をちらつかせるか、タスク自体を好きになるかのような好意的解釈に依るモチベアップが多かった。
そうじゃなくてもせいぜいがペナルティ(負の動機)を用意する程度で、どのみちやるべきこと自体を嫌いになるようなことはしていない。むしろそうならないように気をつけている。
だがそれは、胡散臭いくらいに綺麗すぎると思う。不自然にお行儀の良い方向に偏っているように見える。
・一方でタスクを消化することをやっつける、倒す、殺すという言い表し方をする人がいる。これが正解のもう一つの形だと思うのだ。
元から人が意識を向けるのは、必ずしも好意的な動機とは限らない。むしろ嫌悪感、警戒心など、表向きよろしくないとされているこれらの動機によることは多い。中でも行動につながる「害意」を、非生物というかやるべきことであるタスクに向けることができるのは正解であると言えるだろう。
つまるところ、「クソ忌々しいから効率的に片付ける」というモチベのあり方とスキルの上達はあり得るわけだ。逆を言えば、嫌いだからやらないというのは絶対的な理由とはならない。
・必要なのは結局の所タスクと「向き合うか否か」であり、既存のやり方は「好意的に向き合う」つもりでいるものが多く、相性が悪い人も出ていた。
害意というか殺意というかまぁさすがにもうちょっと健全に「闘志」とでも呼ぼうか、そのような「敵対的にタスクと向き合う」というのはアリな気がする。
・もう一つ、フロー状態辺りで言われているが、「それをやること自体が価値がある」という自己目的的な認知もこの方針には取り込める。嫌いなタスクをぶん殴ること自体に価値があるだろう。死んでくれたら万々歳なわけだし。
既存の、特にゴールに報酬を置くタイプのモチベ管理はタスク自体は報酬を手に入れる「障害」にしかならず、脳が「やらなくて良い理由を作る」という合理化を誘発しかねない。
どのみちタスクの認知は好きか嫌いかに分かれる。報酬への道を塞ぐ時点で無視は難しくなる。大体は邪魔者と認定するだろう。だったら好きになろうとするよりぶん殴ろうとしたほうが早い。
まぁ「良いRPGは戦闘が楽しい」ってどこぞで聞いたが、そんな感じで。
やる気はいらない・邪魔になる説
・「やる気がある者は去れ」という言葉がある。タモリが言ったとされているが、以前にどこぞの名言サイトで聞いたことない名前の昔の日本の経営者の言葉としても私は見たことがある。
それがどこの誰だったか全く思い出せないが、内容は覚えている。
「やる気がある者は去れ。やる気がある者は視野が狭い」
・同じくやる気否定の言葉には、ドイツ軍の将校が言ったという「無能でやる気がある奴は撃ち殺すしか無い」というのがある。
バリエーションが複数あり、解釈も様々で、どうもネットミームらしいけどね。一説によればハンス・フォン・ゼークトが定義した物をエーリッヒ・フォン・マンシュタインが引用して広まった上でネット上で再解釈再利用という又聞きの又聞きみたいなものらしい。
ただ、広まったということは共感/同意するものが多かった、つまりはやる気がある無能に対してうぜぇとか邪魔だとか思う人間は多いと考えることはできる。まぁ単に目立ちたがりのでしゃばりを指しているのかもしれない。
また、ここでの扱いでもやる気がある=せっかちで軽率という「悪い積極性」というイメージを見出すことができる。
大体の形としては、
- 有能な怠け者は指揮官にしろ
- 有能な働き者は参謀に向いている
- 無能な怠け者は斥候に向いている
- 無能な働き者は撃ち殺すしか無い
という形。この働き者、怠け者ってのがやる気の有無に入れ替わっているパターンがあるということ。
全体的に怠け者の方が評価が高めになっている。ここで言う怠け者は、動きたくないから慎重さや効率性を重視するという、手数と行動以外の解決法を持つ者を指すからだろう。
単純に行動量で分けており、怠け者=無駄なことや余計なことをしないという扱い。
一方で無脳で積極的=余計なことをやりまくる奴は撃ち殺すしか無い、となる。
・「無能な働き者」ってのは、簡単に言うとこうだ。「何をしたら良いかよくわからないけれど今すぐ動きます!!」まぁ、止めるだろ。
例えば斥候(偵察)で余計な事やったらバレるわけだ。それ以前に偵察っつってんのに「やる気」を出して勝手に突撃しそうなバカなんて斥候に出せない。こちらが探りを入れたことがバレるし、最悪オンラインゲームでいう「トレイン」みたいに大量の敵を引き連れて自陣に戻ってきたらこちらが死ぬ。
つまりは斥候は余計なことしない「無能な怠け者」にしか安心して任せられない仕事だ。
冗談抜きで「味方殺し」とか「フレンドリーファイア」とか言われるレベルの無能でやる気がある奴ってのはいる。こう言った存在を理解できない人は「働き者なら/やる気があるなら無能でもいいのでは?」とか平和なことを言う。
ちなみに無能な怠け者はやる気がないというよりは「自分が無能だとわきまえているから自分から動かない」というイメージらしい。だとするならむしろ理知的だと思える。場所が違えば有能無能も変わるし。
また、「有能な怠け者」は効率主義者のイメージに近い。以前の遅延評価勉強法とかもそうだが、怠け者だから無駄を省こうとし、人を使うなどして効率的な運用を考える。一方で有能な働き者の方は人に任せようとはしないとされている。どうもここで言う「働き者」は我に拘っているような印象を受けるな。ソロ向きなのだろう。
・目的を持つと、脳はそれに関係ない情報をカットする傾向はあるらしい。だからやる気がある時点で何かを見落としたり、早合点したりする可能性は否定できない。行動中も対象以外は目に入らない危険性はある。
だから「行動意欲としてのやる気」は、少なくとも計画も準備も整った「最後」に出ないと迷惑なものだとは言える。
・加えて個人的な意見だが、やる気の正体は脳内物質のドーパミンやらアドレナリンやらが演出する「精神状態」であり、怒ってるとか沈んでるとかの「感情」に近いものだと思う。だからやる気が欲しけりゃ安直に「テンション上がる曲」でも聴いたほうが早いだろう。音楽には感情誘導効果があるから。
ともかく度が過ぎれば正気とは言い難い状態にもなる。やる気は有りすぎたらよろしくないのは確かだ。やる気は「出ない」ことが問題視されやすいが、「出過ぎ」と「対象が間違ってる」という問題も多くある。
・最悪の可能性としては、「やる気がある状態」で調子こいた計画を立て、それが冷めてから無理無茶無謀なその計画をやる気が消えた状態でひいこら言いながら消化しようとしている状態か。厄介なことに計画立てるフェイズは楽しいから結構あるかもしれないな。
・偉い根本的なことを言ってしまうと、やる気がないと悩む原因は「やる気が無いとできないと思いこんでいる」点にあるような気がしなくもない。
しかし島皮質と痛みの話などを考えるに、「やる気を出そうとするとむしろ拒否感が強まる」ということはあるように思える。
加えて「逆説」という試みたことと思い切り正反対の結果を出す現象は存在するわけで。寝ようとすると寝れないとか、うまく喋ろうとすると噛むとか。この原因が「過剰な自己監視」であると言われており、それは人が「やる気が出ない自分」を問題視している様とダブる。