勉強してると部屋片付けたくなる症候群について

テスト前に勉強してると部屋を掃除したくなる気持ちは、結構多くの人が体験しているようで。これは一般にはセルフ・ハンディキャッピングという心理だとされている。

セルフ・ハンディキャッピング

・心理学用語。わざと自分に不利なことをやり、「あれがあったからこれができなくてもしょうがない」という言い訳を予め用意すること。これは実力ではない、理由があったんだ、としたいがため、その理由を予め準備する。

俯瞰的に見れば、割とどうしようもない心理である。大抵の場合、これこれこうだったから「実力を発揮できなかったんだ」というところに落ち着く。

・テストで言えば、部屋の掃除なんてしてたから勉強時間が減った。だから実力が発揮できなかったんだ、と。まぁ実際そうかも知れんが、その理由自分で作ってるからセルフ(自己)ハンディキャッピング。

・獲得的セルフ・ハンディキャッピングと主張的セルフ・ハンディキャッピングがあるとされる

獲得的セルフ・ハンディキャッピングは、ハンデの獲得。

今回の様にそうなる理由を実際に作る。全力で取り組めない理由があったのだ、と。少なくともこの時点で自己コントロールのなさを露呈しているのでどうかと思うが。

主張的セルフ・ハンディキャッピングは、ハンデの主張。

予め「勉強してないからだめかもなー」とか言って回ったりすること。まぁここまで露骨じゃなくても、不安なこと人前でやる際に不慣れだからとか、練習してないとか、苦手だとか、予め言うことくらいはあるだろう。

・尤も、どちらも失敗時に外的要因のせいにするという「保険」と、同時に成功時に自分はそれでも結果を出したと本来よりも自分を好きになれ、周囲からも高評価を得られるための「事前工作」なんて言われてもするが。この点により自己奉仕バイアスの系列だと見られている。

・実質的には不利になることしかしてないため、俯瞰的にはやらないほうがいいんだが。それでも自尊心を守るほうが、人は大事のようだ。

セルフ・ハンディキャッピングだけじゃなくね

・違うと思うんだよね。ぶっちゃけ。いやまぁそういうこともあるんだろうが、全部じゃないだろうと。多分、評価やプレッシャーから逃れるためにこのような心理は確かに働くと思われる。他にも現実逃避が原因としてあげられる例がある。これもあり得るだろう。だがそれだけか。

・だめでもしょうがない、ってのは、諦めてるわけで。ご丁寧に言い訳のための事前工作までしてるんだ。だったらサボってゲームでもやってりゃ良い。でもそうじゃないだろう。例えこのようなことをした上でも、各々机に向かう。

言い換えれば、「安心」を確保した後でそれなりに努力はしている。まぁ、それなりに。つまり失敗への保険を打っているだけに見える。

・ここからは、机に向かう前ではなく、机に向かった後で、余計なことをやりたくなる話。

・勉強は、テストという本番に対しての「備え」であり、その「成果」がでるのは、当然ながらテスト当日。それも「手応え」という抽象的な感覚であり、はっきりと分かるのはテストが返ってきたときだ。超遠い。それまで「テストで良い点取る」という目標に対しての達成感は得られない。

主観的には、大抵の場合は賽の河原やシジフォスの岩の様な、「終わりのない苦しみ」のようになる。

これは被害妄想などではなく、「主観」はかなり時間的な視野が狭いため。明日二つチョコレートもらえるより、今一つくれと思うのが「主観」ってやつだ。少々大げさだが、いい結果を出そうとすればするほどこのような気持ちは強まるだろう。つまり、結果が出るまで達成感がない。

・特に「勉強」は「タスク」としては扱いづらい面がある。一番シンプルであろう「暗記」にしたって、今ここでアウトプットができたとしても、では10分後は? 一時間後は? 翌日は? 本番の時は? これらは確実ではない。結果的に勉強の殆どが反復の必要性がある。尚更刺激の要素は薄れる。即ち「退屈」。

加えて時間がなければ、実力を測ってみようとするよりも、少しでも練習問題を解こう、少しでも単語を覚えよう、となるだろう。目標に近づいている「実感」を得る機会が少ない。行為自体に対しても好意的な解釈ができる刺激は少ない。これらはテスト当日を迎えるまで続く。即ち基本しんどく、退屈である。普段はこれほどじゃないだろうが、テスト前日とかになると気になる程度には強くなるかもしれないな。

・一方、部屋の片付けはどうだ。これがここにあるのは邪魔だ、移動させよう。ここが汚れている、拭こう。掃除機をかけよう、こんなにゴミが取れた。超わかりやすく「自主的な行動」と「望ましい/思い通りの結果」の因果関係を体験できる。

これらは「完了バイアス」と呼ばれる。やるべきことをやるのではなく、「達成感」を求めてすぐ終わり、すぐに手応えを感じられる、どうでもいい作業に手を伸ばす傾向。酷い時にはやることを「捏造」してまで、安易に達成感を味わおうとする。勉強している時の掃除のように。

・何れにせよ、すぐにはやったことの効果が得られない/確認できない場合、萎える。

これはゲームが魅力に見えるのも同じだ。RPGなら雑魚を倒す、EXPが稼げる、適当でも読み進めれば、ゲームは進む。まぁアクションとかシューティングはそうではないが、「操作」という要素そのものが自分の思い通りにコントロールする行為である。加えて出来ないままでも別に困りゃしないという安心と自由がある。

漫画家や絵師とかもそんな感じに見える。詳しくはないが、「仕事の息抜きに落書き」とか言って絵を上げてるのは珍しくない気がするな。仕事も絵なのに、当人的には多分「違うこと」なんだろう。この辺りは他人には伝わりづらい。

・多分、何かあるだろうね。その者の「本題」に対してだけ働いて、裏目に出て、逆効果になるような心理的なシステム。多分「緊張」に属する何か。流石に話がそれてきたか。

・ともかく、人間の動機は大体は「欲」、言い方を変えれば「飢え」だ。この場合達成感/充実感への飢えが大きいんじゃないだろうか。だから即座に「結果」が出る、日常的か得意なことかに流れたくなるのではないか。特に長期目標にあたる際、如実に出る。

要するに、無性にやりたくなる「勉強以外のこと」が部屋の片付けでもゲームでも、人と雑談したくなるでも筋トレしたくなるでも、「行動による成果」が感じられないことに依る飢えを擬似的に/代用として満たすには事足りる。

雑談ならストロークを得られるし、筋トレなら疲労を感じられる。たちの悪いことに座学では疲労感すら精神的なものと感じられるし、人はそれを過小評価する傾向がある。

「ただ座って手と頭を動かしてただけだ。もう無理なんてことはないだろう。まだやれるはずだし、まだまだやるべきだ。さぁやれ!」みたいなな。枯れるわ。

・また、「自由への飢え」も当然あるだろう。意識的になにかに集中しようとする限り、恐らくこれは募る。

他の掃除したくなりそうな要素

・散らかっているというのは「不要な視覚刺激」が飛び込んでくるということだ。集中しようとしている状態では無関係な刺激はカットする機能が働くが、そこに負荷がかかる。

集中したい状態から見て、余計な小物なんかは「不快な視覚刺激」になる。片付けたくはなるだろう。よって「机を」片付けるだけなら、妥当といえば妥当だろう。部屋まで行っちゃうとアレだが。せめても5分くらいやったら戻るくらいのつもりならいいんじゃないだろうか。

・同じ姿勢で居続ける、というのは肉体への負担になる。運動以外のこう言った肉体への負担はかなり軽視される。肩こりからエコノミークラス症候群まで。

特に後者はデスクワーク全般でありえるものであり、尚且下手したら死ぬ場合がある。簡単に言えば動かなすぎて足に血栓ができ、それが肺に詰まる。突然の胸の激痛や呼吸困難、思いと意識障害、最悪死ぬ。

・また、以外にも筋肉、体力はそれなりに使っているらしい。姿勢の維持と言った形で。流石に運動不足の解消にはならんだろうが。

これらの気づきづらい負荷が、数時間身体にかかり続ける。

要するに、どれだけ「楽な姿勢」でも同じ姿勢で居続けるなら疲れるし、身体にも悪いということ。これを本能的に防ぐためなのか、基本じっとしてるには限界がある。寝てるときすら寝返りは打つしな。健康なら睡眠中に20回は寝返りを打っている。

この頻度が正しいとするなら、一時間机に向かい続けるだけで身体的には「特殊」な状態だ。

・要は達成感が欲しい、とかじゃなくて「体を動かしたい」という欲求と、勉強から離れる罪悪感から、それっぽい理由でかろうじて真面目なアトモスフィアを醸す「掃除/片付け」を選んだ可能性。

・こうしてみると、25分集中、5分休憩のポモドーロ・テクニックは色々と都合がいいな。

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