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アイデンティティとサルバドール・ダリ

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サルバドール・ダリ

・太宰治や三島由紀夫と同様に、画家であるサルバドール・ダリも自己愛性パーソナリティ障害だとされている。
他にも様々な精神障害の兆候が見て取れると言われるが、その中核をなすのがナルシシズムであると。

だが今回は自己愛ではなく、その理由とされている彼の生い立ちと、親からの扱いについて。

 

名前の示す者

・彼には兄が居た。名前も「サルバドール」。1歳8ヶ月で死亡している。彼が産まれる9ヶ月前だったとされる。

両親は彼に、死んだ息子の名前を付けた。つまり、「サルバドール」。

まるでやり直すかのように、生まれ変わりとして扱うかのように。

 

・この点が彼の精神構造を決定づけたようにも思われる。

幼少期の彼は「兄」の写真を見ることを極度に恐れた。
自分と同じ名前の、死んだ兄。自分をその兄として扱う両親。

両親に求められた「代役」を、幼い時点で彼は気づいていた。「親が自分を見ていない」ことを肌で感じていたと思われる。
確定的なのは、彼が5歳の時。両親に兄の墓に連れて行かれ、「お前は兄の生まれ変わりなのだ」と告げていること。

「無神経な父は、私の苦しみも知らず、死んだ息子に不毛な愛情を注ぐことで傷をえぐりつづけたのだ」

一方母親は、ダリが何をしても叱ることはなく、とても甘やかしていたという。

両親のこのような「愛情」によって、ダリのアイデンティティは混沌とした、不定形のままだったと思われる。

 

彼に求められたのは、「個人としてのサルバドール・ダリ」として成長することではなく、「一人目のサルバドール・ダリがもし生きていたらという代役」であった。

両親は自分を通して、兄を見ている。「もし兄が生きていたら」という世界を生きている。

そこには「彼」はいない。死んだはずの兄が生きていたらという両親の空想世界には、「彼」は存在していない。

父と、母と、兄だけの家族。

 

・せめて名前が違ったら、と思う。名前は個体識別の代表的なものだ。赤の他人が同姓同名だったら普通とても居心地が悪い。それがどんなにありふれた名字と名前であってもだ。

ここを同じにされ、生まれる前から死んだ兄として扱われ続けていたのなら、自分でも「自分」はわからないだろう。その前に「兄」をインストールされ、育てられた。

 

・兄が二歳で死んだのも拍車をかける。享年二歳で人格もへったくれもない。
裏を返せば「自分が何をやっても兄が生きていてもこうだったのだろうとして受け取られる」可能性が高い。これは「反抗心すら伝達する方法がなかった」と考えられる。

同時に自分の考え、自分の思いが自分のものだという根拠も揺らぐ。これは自分としての考えか。それとも兄の振る舞いか。

彼の自己顕示欲だの承認欲求だの自己愛だの言われている他者を意識したアプローチ全てが、「その名前を聞いた時、“自分”を思い浮かべてほしい」と願っているかのようにも見えてくる。

実際、彼の「キャラ」は素ではなかったようだ。本当に親しい友人の前では、繊細で、気の行き届いた常識人だったと伝えられている。

 

・自分の名前が自分の名前として機能していない。自分でも自分(だけ)を示す名前だと感じられない。自分を指し示す以外の意味を持たないはずの「名前」に、兄の影が見え隠れしてしまう。

彼は、「サルバドール・ダリ」という言葉を「自分を示す言葉」として自分に納得させる必要性、他者に伝える必要性を強く感じていたのかも知れない。

大体は物心ついた時点で自前で持っているだろう「名前」への認知が、大体の通りの形としては彼にはなかった。

 

・自己愛は注目されることについて特殊な感想を持つが、ダリの場合そもそも注目が集まる場所である「自分」というものが、当人に認識できていなかったのではないか。

モデルとなる親から自分への扱いが、自分を通して兄を見ていたのだから。この上で自分に注目してほしいという幼少期の自然な欲求を持っていれば、その目は兄を見ているのか、自分を見ているのか、嫌でも気になる。

「自分」だと思えるものが何もない、というより「これが自分だ」という感覚自体が理解できなかったのではないか。
純粋な意味での自分、つまり「他者の要素がない部分」。

つまるところ、自分がオリジナルであるという感覚が満たされなかった。後に創作に向かっても不思議はなかったのかも知れない。

 

「死んだ兄の肖像」

・ダリの作品に、「死んだ兄の肖像」という物がある。
この絵画は彼が59歳の時に描かれた。

興味深いことに、まぁどう見ても二歳児じゃない。兄が生きていたとしても当時のダリ+2歳半だから61歳くらいだ。この絵画は少年、上に見ても青年といった年頃に見える。

天国から暗い色と明るい色の2色のチェリーが降ってきて、兄の肖像が浮かび上がる。

ダリによると「ここではチェリーは分子を意味する。暗い色のチェリーは死んだサルバドール(=兄)の顔を作り、明るい色のチェリーは生きているサルバドール(=自分)の顔を作っている」これは兄弟の肖像なのである。

顔の中央あたりには茎を分け合う2色のチェリーがあったり、2色のチェリーが1つの混ざりあっているところもある。

一方、絵の右下の方では兵士たちが槍で暗い色のチェリーを払いのけている。ダリの兄は死してなお、ダリのイメージのなかに払拭できないまま居座り続け、ダリの作品に様々なテーマであり続けたのである。

ダリはこう述べている。「私は毎日気の毒な兄のイメージを殺す…「神聖なるダリ」はこの平凡な人間とは何の共通項もないからだ。」

 

・ここでいう「神聖なるダリ」は、恐らく直接自分を指すものではない。前述の通り、気を許した人間には彼は誇大的ではなく気の利く常識人だった。

つまりダリが認識できる「サルバドール・ダリ」は3人いる。兄と、自分と、芸術家としての自分。

 

・上記解説だと「兵士」は暗い色のチェリーを払い除けているとされている。

だが、よく見てみると、黒い色のチェリーそのものが黒い兵士となり、明るい色のチェリーを「攻撃」しているように見える。
「兄」に侵食されるかのような。

ただ、兵士と右側の他の黒い人影たちが別の派閥にも見え、対立しているようにも見える。簡単に言えば、槍持ってる下側VS上で座ってる連中。

下の方を見れば、黒いチェリーが槍を持った兵士になっているのがわかる。

ダリの言を信じるなら、攻撃者はダリであり、その対象は兄でなければならない。つまり槍を持っているのはダリ側でなければおかしい。

この上で、明るい色がダリであり、暗い色が兄だともしている。

だがどう見ても、黒いのと黒いのが向き合っている。

 

・中央、鼻の部分に、とても明るい色のチェリーと、暗いチェリーとが線で結ばれている点がある。

よく見ると鼻と唇の間にも明暗のチェリーがつながっているのが一つあるな。だがこちらはかろうじて「明るい」と言える程度の明るさで、ぶっちゃけ2つとも暗めの色だ。

 

・絵画上部、髪の部分だが、これがカラスになっている。よく見ればご丁寧に目玉とくちばしもある。死の告発者と考えられているようだ。
ただ、このカラスはダリを向いていない。

 

・毎朝兄のイメージを殺す、とのことだが、顔のパーツは全て黒によって作られている。兄=黒いチェリーを全て排除した場合、輪郭しか残らない。

中央部分にいくつかのつながったチェリーがあること、黒い人影が二種類あるように私には見える(この場合片方は味方となる)ことなども加味して考えると、「兄」が「自分」にとって必須の構成要素であり、切り捨てることが不可能であると認めているようにも見える。

皮肉にもアイデンティティを奪った兄の亡霊が、自分のアイデンティティの一部であると。

どうもこう、芸術的にはダリの言うことがそのまま信じられてるみたいなんだが、韜晦しているように感じられる。彼の語った以上の意味が、あるのではないか。

 

ダリは自作に対し、「ダリの作品は誰にもわからない。ダリにもわからない」と述べている。

じゃあ私もわかんねぇや。

ただ、彼と彼の兄は、融合ではなく、対立でもなく、わずかばかりの共存の余地を見つけたような、そんな印象を受ける。

 

参照

 

https://ja.wikipedia.org/wiki/自己愛性パーソナリティ障害

https://kurilyn.hatenablog.com/entry/20040712/p1

https://www.musey.net/3931

https://jp.painting-planet.com/私の死んだ兄弟-サルバドール-ダリの肖像/

 

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