マインドフルネス/瞑想/禅に於いてのデメリット/リスク

知ってることと、調べたこと。

大体において危険性はない。極端な例においてはある。
前提知識として知っておくべきは、マインドフルネスは確かに禅や瞑想が元ではあるのだが、そのものではないこと。特に「瞑想と呼ばれているもの」には相当なバリエーションが有り、中にはマインドフルネス瞑想とは別物まであること。

 

>禅病

自律神経失調症。僧侶が多く掛かったからこう呼ばれたのだとか。運動不足も原因の一つらしいけれどね。

https://limo.media/articles/-/5883

頭痛、発熱、息苦しい、涙が出てくる、焦燥感がある、感覚の異常、手足が冷える、幻覚が見えるなどなど。

特にうつ病などのストレスによる諸症状を緩和しようとしてマインドフルネスに手を出したら悪化した、というパターン(瞑想難民)がいるとかいないとか。

また、集中力を鍛えようとして独学で瞑想を行い、上記のようになった例を読んだことがある。ただ、その「集中」がこう、念力みたいな「力を込める」的なニュアンスで解釈していたらしく、それが原因だと思われる。

集中についての誤解で、特に子供に多いのだが、例えば授業中に「集中しよう」といえば肩を怒らせ、鉛筆を握りしめ、足を椅子に巻き付けて、教科書を睨みつけるような「集中」をする子などがいる。
まぁ客観的に見ればわかるだろう。これは「緊張」と呼ぶほうがふさわしい。多分 FIGHT OR FLIGHT、戦うか逃げるか状態だろう。

もしも、「意図的に極度の緊張状態を再現する」ことを習慣的に、熱心に取り組んだら。まぁ交感神経優位になるだろうね。

聊斎志異でもそんなのがあったな。中国の怪談的な話を集めたもので、その中に「耳中人」という話がある。

ある男が仙人になろうと瞑想をした。
耳元から「会おうか」、「会おうか」と声が聞こえだした。
毎回そう聞こえるので、男はとうとう「会おうか」と返事を返した。
直後かさかさと音が聞こえ、耳から何かが這いずる気配がする。
目を開けると鬼の顔をした小さいおっさんがいた。
男は発狂したが、半年くらいで良くなったらしい。

まぁ要するに、出会い厨には気をつけろってことだな。

 

>アイデアが沸かなくなった話

https://gigazine.net/news/20151031-mindfulness-killed-my-creativity/

海外の話。とある起業家がマインドフルネスにハマり、昼も夜も常にその状態を維持しようと努めた。
彼は朝も昼も夜も、食事の時も歩くときも「マインドフル」な状態でいようと努めた。
彼は発想力が自慢であり、そのための知的習慣なども身に着けていた。

そうしている内にアイデアがさっぱり沸かなくなったらしい。
マインドフルに一日を過ごすことを止めたら、元に戻ったそうな。
それ以来彼は「自分にはこれは向いていない」とした。

・脳にはデフォルトモードネットワーク(DMN)というものがある。「脳のアイドリング状態」と呼ばれるもので、脳で消費するエネルギーの大半はDMNが食っている。タチが悪いことに「当人が何もしていない状態」では尚更活発になる。つまり脳は何もしなくても疲れる。当然何かやっても疲れる。積んでるね。

これが雑念の発生する場所であり、気を散らすアレやコレやを思い出すシステムであり、そして「アイデアが発生するシステム」でもある。
閃きと雑念の違いは使い道があるかないかだろう。それ以外は同じではないか。

そしてマインドフルネスはDMNを沈静化させる効果があることが分かっている。頭の中が穏やかになるんだね。これにより睡眠でしか得られない「脳の休息」が、熟練すれば睡眠以上に得られるわけであるが、アイデアも当然湧かなくなる。

起業家の彼の例で言えば、元から知的な、能動的な、望んだ方向での思考を行っているようだった。頭に入れる情報にしたって仕事関連のことだし、元々自動思考に対しての「煩わしさ」を感じるような状況ではなかったように見える。元々フロー状態に近かったのかもしれない。

単純に「やりすぎたね」の一言で終わるだろう。一日中は止めておこうということで。

 

>ネガティブイメージの強化

ネガティブなイメージに集中し、考察してしまい、それが強化されてしまうというパターンが有ると言われている。

本来のマインドフルネス、つまり第3世代の認知行動療法としてのマインドフルネスでは「反応しない」よう指導されるため、これは発生しないだろう。第3世代は「解決」から「受容」の方向にシフトしている。症状の理由が問題と「同化」していることや「解決できないことを解決しようとしているから悩み続ける」ことなどとしているからだ。

加えて、ネガティブなイメージに「集中」すればそりゃそうなるだろう。それは「強化」に他ならない。

このような状態が現実に発生したとしたら、明らかにやることが間違っている。

 

>エゴが強くなる可能性について

http://karapaia.com/archives/52261352.html

どんなことだって修練を頑張れば自己高揚感が高まるって理論がもとから心理学にはある。自信も実力もつくだろうし、努力したという自負もあるからね。この上で仏教やヨガなどで言われているような個を捨てるとか我を殺す的なのは矛盾しているとは言われていたらしい。

そんなわけでドイツの研究チームが人を集めて瞑想させてみたそうだ。93名、定期的に自己愛のレベルや平均と比べて自分はどのくらいかなどのアンケートなど。それと自尊心の高低。
24時間後、全てが上がっていた。

また、「瞑想を行っている」としたフェイスブックユーザー162名を対象とした調査では人生の満足度と色々な要素から測られる「幸福度」が上昇していたとのこと。

これらの結論として、同研究者は仏教やヨガなどが謳う「自我を鎮める」という効果について真剣に再検討しなければならない、としているようだ。

リアルで坊主二人と寺の次男二人(どれも血縁関係なし)を知ってるが、四人全員性格がアレだったしな。アレ。「エゴが強い」と呼ぶのにしっくりくるようなアレだったな。はっきり言っちゃえば誇大型の自己愛っぽかった。サンプル少なすぎるから個人的な経験ではあるが。

ただ、記事内の筆者のコメントなのだろうが、「彼らの瞑想のやり方が本当に正しかったのか」という指摘がある。前述した通り間違った瞑想によっておかしくなることはある。あと確認も難しい。同じテキストを読んで、同じレクチャーを受けたところで、やってることが本当に同じかどうかはまだ疑う余地はある。

後は根本的に欧米人と我々とで精神構造一緒かどうかとか。文化依存症候群なんてのがある時点で、生まれ育った「背景」や「環境」は精神構造に影響を与えうると考えられる。加えてあちら側で言われているマインドフルネス/瞑想/禅の効果/効能がこっちと一緒かどうかもちょっと怪しいかもしれない。つまり、目的もやり方も何もかも違っているかもしれないし、大体同じかもしれない。めんどくさい。

まぁこれが事実だと仮定した上で考えてみよう。エゴと言えば聞こえは悪いわけだが、一定量は必要なのも否めないだろう。元からその傾向があるなら、悪化する可能性があると言えばあることになる。
逆に元が低い、つまり自分で消極的とか、自己評価が低いとか、自信がないとか思ってるならむしろやってみても良いとも言えるだろう。

これらの効果は単純に自己高揚感の増大、幸福感の向上の結果とされている。まぁエンドルフィンが出ればそうなるな。

 

>モチベーションが下がる

ハングリー精神がなくなるというかなんというか。まぁ判断や反応をせずにあるがままを受け容れることを目指してんだからそりゃそうだろというか。
https://gigazine.net/news/20180620-mindfulness-meditation-performance/

読めばわかるが、これはある意味では、寝てる人間を叩き起こしてクソつまらん雑用をやらせた挙げ句「楽しいか?」と聞いてるようなものであり、そりゃつまらんと答えるだろと。

あと被験者がやった瞑想は結構バラバラでいい加減だったようでもあり、これ全部マインドフルネスの影響だって言うのは無理がある気がするが。

確かに仕事での生産性が欲しけりゃマインドフルネスよりゾーンやフローの研究でもした方が良いとは思うが。

ただ、元からやる気がない人間が居たとして、その理由は2種類あるだろう。やる気が「もうでてこない」のか、初めから「やりたくない」のか。前者の場合、精神の休息としての意味でマインドフルネスは有効ではある。後者にしても「やりたくない理由」を受容できるのならば、「やりたくなさ」は緩和できるかもしれない、とも考えられる。

逆に見て、マインドフルネスに拠ってモチベが下がった人間がいたとしたら、それは元から通常以上のモチベーションを持っていたのではないかとも取れる。前述の「アイデアが湧かなくなった人」とかはそっち系だろう。彼/彼女達にとっては確かにモチベーションの「沈静化」として作用するかもしれない。恐らく実際には「リセット」に近いのだと思うが。

ブーストにはならんってことだね。精神の休息か、苦手意識のリセットには寄与出来ると思うが。

 

>現実に戻りたくなくなる

まぁ、実際高僧の脳をスキャンしたら幸せ感じる部分が肥大化してたらしいからね。魅力はあるのだろう。元から瞑想で多幸感を得られるって話はある。

単純に副交感神経優位な状態(リラックス)になるし、脳内麻薬とも呼ばれるエンドルフィンが放出されると言われる。これはモルヒネと同様の効果をもたらすとされる。

というか別名が「脳内モルヒネ」。マインドフルネスに鎮痛作用が見られるのはこのためだろう。wikiによれば、鎮痛作用はモルヒネの6.5倍だそうな。要出典とも書いてあったが。

本来はエンドルフィンが放出されるタイミングは食欲、睡眠欲、生存欲、本能が満足した時とされている。即ち瞑想状態になることでこれらが満たされたのと同様の感覚は得られる可能性はある。

昔は「人体が自分から出してるから安全!」というクソバカ理論でガンガン出しましょうみたいなこと言ってる奴らいたが、まぁそんなわけはない。少なくとも精神的にはこのように依存性はあるだろう。それが行動面の異常にも出る。

性、アルコール、薬物、ギャンブル、そして宗教依存症や、本能を満たそうとする快楽主義者たちはエンドルフィンが放出されている状態を再現しようとして行うともされる。

http://www.geocities.jp/todo_1091/short-story/027.htm

また、高カロリーの摂取で放出されるため食い過ぎが、怪我を追ったときにも出るため自傷行為を繰り返す理由説明として挙げられている。それと「死ぬ間際」。

加えて言えば同じく快楽物質であるドーパミンが学習能力に関与しているため、エンドルフィンも同じように働くならば「味をしめる」可能性が高い。本能的にまたやりたがる、と言えばいいか。

……と、ここまで並べればなんか怖いわけだが、実際にはマインドフルネスは「脱落者」が結構多いそうだ。飽きやすいと言うか、諦めやすいと言うか。基本「することモード」である我々は問題解決をしたいし、そのための手段としてのマインドフルネスであることが大半だろう。で、やることが「何もしない」なので感覚的に時間を無駄にしてる感が強いのだと思われる。

このため、大半は余計な心配で終わるだろう。ハマってきた自覚があるなら、そこで改めて注意すればいいと思う。

>被暗示性が高まる可能性について

被暗示性とは暗示にかかりやすくなること。催眠関係で使われる言葉。見方を変えれば騙されやすい、信じやすい、思い込みが激しいなど。
マインドフルネスに於いては被暗示性が高まるという話は見つけられない。瞑想においてはそう言われることがある。

ただ、被暗示性そのものが、当人のパーソナリティの他にコンディションが大きく関わる。ベタだが五円玉に紐を通して目の前にプラプラさせるあの漫画的表現や、ライターの炎に注目させる、リラックスさせるなど、元々被暗示性が高まるコンディションとは「集中かつ弛緩」の状態と言えなくもない。

逆に、極度の緊張状態に於いて脳がストレスを緩和しようと「適応」をし始める傾向があることが言われている。ストックホルム症候群なんかがそうだね。人質がテロリストに親しみを感じ始めたって話。このような状態にすでにある場合には、ストレス低減によりその「理由」が失われるため、逆に被暗示性が低くなるともとれるのだが。

見方を変えて、催眠状態、あるいは勘違い、思い込みなどを中心に見てみようか。これらは認知バイアスなどに近い。現実とは違うものを現実と認知している状態と言える。で、マインドフルネスはアンチ認知バイアスとしてもその名を挙げられているので矛盾している。

しかし、瞑想状態による多幸感とは副交感神経優位な状態で、前述した脳内物質であるエンドルフィンが放出されている状態ともされる。で、この状態が「洗脳されやすい」とされる。

加えて「集団で瞑想をするとエンドルフィンが出やすい」との研究があるとか。

少なくともエンドルフィンは報酬系に多く分布する。同じく報酬系に関わるドーパミンと学習機能については研究されているし、もしかしたら「覚えやすい状態」ではあるかもしれない。

この時点で宗教的/スピリチュアル的なドグマ(教義)などの下に指導している所は、ある意味危険とも言える。はっきり言ってしまえば、マインドフルネスによる「物理的/科学的な」多幸感を「神秘・奇跡・信仰の結果だ」とすり替えることもできてしまう。

逆を言えばマインドフルネスはそのあたりを取っ払って「技術」としたわけだが、今度はスピリチュアル方面が逆輸入している(あるいはマインドフルネスと「名乗り始めた」)所がある。それらドグマが悪いとは限らないが、「分けたものわざわざ混ぜるな」という気はするのは仕方なかろう。

あまり他人がいる所ではしないほうが良いだろう。

 

>手順が錯綜していること

マインドフルネス単体で見れば大して問題ないのだが、「禅や瞑想みたいなもの」とされるために混同が起きやすい。特にマインドフルネス自体が禅や瞑想を参考にしているのは事実であり、その分仏教的な用語も引き合いにされやすいししやすいのだが。

特に瞑想に於いてがかなりバリエーションが多く、例えば睡眠とは瞑想であると某宗教家が言ったり、瞑想の状態とは半覚半眠であると某坊主が本に書いてたりするわけだが、「マインドフルネス」としてみれば、これらは「違う」。

まぁそれらに求めること、即ち「目的」が違うのだから当然といえば当然で、「間違っている」わけではないのだろう。多分。

ともかく、マインドフルネスしたければ「マインドフルネスとして」調べるなり勉強するなりした方が良いだろう。知識を広げるにしても、ベースとしてはそこで。

個人的な意見を書いておく。マインドフルネスにはフォーカスアテンションとオープンモニタリングの2種類がある。簡単に言えば集中と観察の2種類。加えて宗教的なものでは何らかの感情や神だのなんだののイメージを思い描き、一体化する物がある。これは前述した「ネガティブイメージの強化」と同様の働きをするだろう。そのイメージが健全だとしても、度が過ぎればどうかはわからない。
「最も問題がない」のはオープンモニタリングだと思っている。他の2つは志向性があるため、その分リスクも上がるだろう。

 

>社会的な危険性について

マインドフルネスそのものではなく、それらに付随する部分について。

まぁ知名度上がってきてるから、マインドフルネスやってますって言って即やべーやつ扱いなんてされないとは思うが。

ただ、警察沙汰になるようなことを犯した某宗教団体などがそうだが、特に大学のサークルなどに根を張っているって話がある。その例だと「ヨガサークル」だったらしいんだが、そのポジションにマインドフルネスは収まりそうだな。

被暗示性が高まる点も含めて(特に集団で行えば被暗示性が高まる可能性がある点が大きく、多幸感が信仰の結果だと刷り込むのは比較的容易だろう)、他人がいる所でやるのは避けたほうが良いとは思う。元から一人でできることだし、わざわざ集団でやりたがる意味がよくわからない。

スポーツジムとかだとみんなが頑張っているのを見て自分も励まされる、なんて心理効果もあるらしいが、マインドフルネスに於いては「気を散らす原因」が増えるだけであり、ぶっちゃけいらないんじゃないのか。

>メモ

結論。集中の意味を取り違えるな、目的にあった方法を選べ、一人でやれ。
言われてるほど万能でもないし、安全でもない。朝から晩まで役立つ精神状態でもないってこと。
ただまぁ、例えばエゴが強くなるとかは筋トレ自慢とか、ジョギングしてる自慢とか、早起き自慢の奴などにも見られるわけで、「瞑想に限った話ではない」というか、問題が別の所にある話もある。

やってることが同じとは限らない、というかおそらく違うだろう。メリットとされることにも正反対のものが混ざってたりする。方法も多いし、その当り統一されずに「マインドフルネス」という括りで並べられてる気配がある。というか、ぶっちゃけて言えばマインドフルネスの定義がいまいちはっきりされていないともいわれている。裏を返せば言ったもん勝ちなところはあるのだろう。

正式なマインドフルネス、というか認知行動療法としてのマインドフルネスだって歩きながら、食べながら、ってのがある。とりあえずレーズン食わされるらしいからなアレ。

また、マインドフルネスについての実験などが、少なくとも今回並べたのは比較的短期の物が多い。追跡調査系ではない。脳の可塑性とかDMN絡みで考えれば、マインドフルネスは即効性に期待するものと言うよりは「筋トレ」や「体質づくり」に近い。例えば脳が勝手にいちいち些細なことに反応していつまでもネチネチ悩むとかを改善するとか(自動思考の抑制)、気づいたら別のことやっててそれまでやってたこと忘れてる自分に気づいて元に戻る機能を高めるとか(メタ認知の養成)、そのあたり。

気持ちとか心に対しては、人は結構即効性を期待する。「何か」ができれば/やればすぐに変われる、みたいな。でもそういったことはあまりないだろう。せいぜい勘違いに気付けるとかならあるかもしれないが。

・禅病、アイデアが沸かない、ネガティブの強化はニーズと一致しないタイプの瞑想法を行ったことによると言えるだろう。
また、禅病の名の由来が「僧侶が多く掛かったから」という点を見て、「指導者は役に立たない」のではないかとも怪しむことができる。弟子の異常に気づけなかったってことだからな。
まぁ無理もないだろう。他人の精神は見えないし。内面で何が起こっているかは自己申告だし。気づける可能性が世界で一番高いのは、当の本人だ。

あと、本来は集中するタイプの瞑想にしたってまずは心を沈めてから、ってのが王道だ。いきなり力んで念力かなんかみたいに集中しようってのは根本的にアレだろうね。

・聊斎志異の話、主役の彼は仙人になることを目標とし、そのために瞑想をしていた。「会おうか」という幻聴もまた、ゴールが近いという「兆し」として認識している。「その方法で良いと判断して続けた」あるいは「より一層励んだ」ことになる。異常に気付ける可能性のある当の本人がその方向でやる気満々ってことだ。ドツボだね。

間違ったフォーカスアテンションのリスクがここにある。「進んでしまう」こと。方向が間違っていたら不具合が出るのは自明だろう。
特に「集中」という概念に対しての思い込みによる「力ずくのマインドフルネスもどき」のような間違ったことをやればなおさらに。

より掘り下げれば、このように目標がある場合とは即ち「作業」とも呼べる。そうなるとより効率的に、もっと早く、となりやすいし、何よりこれは「することモード」であり、あることモードである「気付き」とは真逆の方向を向いている。

・始めるなら、オープンモニタリング、つまりは「観察」からが良いと思うね。自分の状態に自分で気づけるくらいにはなっておいたほうがいいだろう。

集中力強化にしたって雑念が消えて自分の心がどこに向いているか分かれば結構上がるんだから、オープンモニタリングで十分な気がするんだけどね。それで足りないなら、そこから「集中力」を鍛えればいいのではないだろうか。

まぁ集中力にも色々あって、長時間集中することが出来るようになりたいのなら「気が散っている事に気づき、戻す」ことが可能になるオープンモニタリングでいいし、そういった意味では「集中力」ではなく「注意を向け続ける持続力」のほうが求められることは多いのではないかと思うのだが。

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