勇気や度胸が欲しい時、どうやってそれを身につけるのか。育てるためには。

虎穴に入らずんば虎児を得ず。

断る勇気とかもそうだね。

今回割と行動主義、というか考えすぎの否定の話となる。仕方ないね。

失敗に対しての心構えとは

800人の起業家を調べた所、成功した人々は2つの要素を持っていた。
1:失敗を想定する
2:他人の意見を気にしない

ウィリアム・アンド・メアリー大学の研究より。

この2つは一見別物に見えるが、同じ一つのことを示しているように思う。彼らは一般人が持つ「失敗恐怖」を克服している。天然でかも知れんけど。

一般人でも失敗は想定する。そして失敗しないためにはどうすればいいかを考える。この時点で失敗を恐れていると言える。

一方彼らは失敗を必要経費、あるいはゴールまでの過程として織り込む。つまりあり得る(または必ず経験する)こととして捉えているので、恐れない。恐れないと言うか、すでに覚悟が決まっているのかもしれない。

他人の意見を気にしない、というのも同じく失敗恐怖を克服していることの肯定要素となる。そもそもなぜ失敗が怖いのかで大きな理由は、他者からの評価だ。失敗した間抜けとして見られるのが怖いから失敗したくない、という恥への恐れが大きい。

これにリソースを取られ、過剰に大人しくしているのが一般人だとするなら、相対的に成功者たちは能動的に自分のやりたいことをやれることになる。

彼らは今回のテーマの完成形だろう。

諦めの悪さと、諦めグセを付けない習慣

勇気/度胸がない人は、ある意味頭が働いて、諦めが良い。悪い言い方をするなら怖気づくことが多い。
特に対人面において、衝突を予期し、それを恐れる
悪い予測を立てることで無難に振る舞う防衛的ペシミズムの側だろう。

(慎重さそのものだから)方略としては良いんだが、それで負けグセや諦めグセがついたら、やたらと自分から引っ込むことになる。
厄介なことに、行動に依って性格が変わるという説がある。方略として諦めよく振る舞っていたとしても、その内に定着しかねない。

 必要な場面で妥当に振る舞ったところで、「何をやったのか」がカウントされて性格として定着していくのなら。ただ日常を過ごすだけでは、「その日常に適応した性格」に落ち着くことになる。それは、「満足が行く自分」とは限らない。環境が大抵は不満足だからな。

これが嫌ならどこかで欲しい属性の経験値を稼ぐアウトプットの場が必要にある

この話の場合は勇気や度胸の問題だろうか。もっと倍率を上げて見れば「もう切り上げよう」と思うのが早いことが問題になっている。これが勇気や度胸の「逆」だから、結果勇気や度胸が足りないと自覚する形になる。

対人面じゃなくてもいい(というより対人面じゃない方が良いだろう)ので、もうやめようと思った時にもう一段階粘ってみるなどしてみよう。

白黒思考はここでは邪魔になる。このせいで「出来ない=やめよう」とか「途中でやめた=全部無価値」とかになる。「できるところまでやってみよう」「もう一段階無理してみよう」とならない。

まぁ無理した後はちゃんと休みましょう。後これは充実感に確実につながるから、安眠ポイントも入るね。

必要以上に考え込まない

難しいけどね。どこが必要分でどこからが必要以上なのかがね。まぁ行けるはずだと自分で思ったなら、もうやるしか無いのかもしれないが。

諦めグセにも通じるが、考えすぎると基本的に動けなくなるため、必要以上に考えずに動いたほうが良い
この場合考えることとは、やろうとしていることのシミュレート、失敗時のリカバリーなどの備え的な要素が大きい。

一方で、「本当にこれでいいのか、もっといい方法があるんじゃないのか」と言う心理で考えている時もある。これは行動疑念とも呼ばれ、完璧主義の要因の一つに数えられる
自分の行動、やろうとしていることを漠然と疑っている状態。もちろん間違いがあったらよろしくないので、適度なら悪いことではない。

行動疑念とともに、自分の失敗に過剰反応する失敗過敏がある場合、絶望感につながるとされている。絶望=諦めとするなら、考えすぎ=行動疑念は程々にしたほうが良いだろう。

ちなみに失敗過敏=恥への恐れとするなら、一般人には絶望するタネが揃っていることになる。
成功者には絶望の余地がそれほどないことにもなる。

そして、絶望=怖気づく=勇気/度胸がないというのなら、相対的には一般人は成功者と比べて大体ヘタレとはなる。

度胸と無謀は違う:勇気や度胸と衝動性との違い

明確に違う。どちらもリスクを冒すが、覚悟の有無が全く違う。

簡単に言えば、失敗の余地を分かった上で動けるか、分かってないから動けただけか。怖さを知っていて動けるか、怖さを知らないだけか。

同じことをやって成果を出したとしても、衝動性はぶっちゃけて「分かる前/考える前に動いてた」であり、リスクの認知自体をしていない。
「わからないから動けた」の典型的な例となる。「馬鹿でもやんね―よ」ということを実行する余地もあり、危険である。

勇気や度胸は、リスクやデメリットを分かった上でやることだ。だからこそ勇気や度胸が必要なのであり、リスクやデメリットに対して、決断し実行に移すことが本質だ。

陳腐だが、勇気と無謀は違うというのはこういうことだろう。

目先のことに囚われない/目先のことに囚われていることに気づく

勇気や度胸が必要な場面というのは、当人なりの何かしらのやるべき理由、手に入れたい未来/ゴールがある。

勇気や度胸がないというのは、その前に鎮座する何かしらの恐怖/不安を想起させるものに気を取られている。勇気や度胸がないと言うよりも、不安や恐怖がある
もちろんこれは、やろうとしていることが無謀だったり、無計画だったりな可能性に対しての安全装置としても働く。適度ならばむしろなくてはならないものだが。

人は目先のことに囚われる傾向自体は存在する。例えば時間割引。遠い未来であるほど価値が薄れる心理的現象。直感的、感情的な印象は、このせいで歪む。

恐怖や不安を感じた時、人がやろうとすることは、恐怖の克服/回避や不安の解消であり、これらと共にあることではない。まずそれは考えない。

ただ、勇気や度胸が「リスク/コストは分かっているが、やる」という決心に近いものならば、そもそも恐怖や不安を課題として扱わずに、ただ不安や恐怖を感じただけと捉えるというのは重要となる。

逆を言えば解消しなくていい問題として捉えることはできる。怖くてたまらないかもしれないが、十分に考えて、後はやるだけという場面では、もうやる以外にやることが無いだろう。

つまるところ「腹をくくる」という決心が必要であり、それが出来ない時、人はそれ以上に考えようとする。

機会損失の恐怖と実行に移すことへの懸念

「必要以上に考える人」、要は考えすぎな心理的な状態に類似したものとしてFOBOがある。もっといい選択があるのではないかと不安になり、いつまでも決断や判断ができない状態を指す。

※ FOBO = Fear of better options

身近な例で言えば、amazonで数百円の小物を買うために、数十分に渡り「最もいい物」を探して、最適なものはどれかと悩むんでいるような状態。

これも一種の不安や恐怖である。失敗を恐れている。後からそれより良いものを見つけ、自分の判断や行動に後悔することに怯えている。確かに実行に移すことは、決定し選択をすることだ。結果という形で成功か失敗かが審判される。

ベストを尽くそうとすると、遠回りとなりやすい。FOBOの問題点は「割りに合わない」ことが大きい。この行動は自分の感情を最優先にしていることであるため、ナルシシズムだとも言われている。

腹をくくるべき場面と自分で思えるのに、まだ考えていたい、探していたいと思うのもやはりFOBOと言える。
かなり厄介なのが、この時の心理は「自分が知らない/気づいていない何かがあるかもしれない」というものであり、思考によっては絶対に解決しない点だ。それが発見されるか、諦めるかでしか終了しない。

もう一度言うが、たかが数百円の小物を買うという場面ですらFOBOは発生し得る。それほど失敗懸念は頻繁かつ物事を大仰にさせる。

サイコパスと勇気や度胸

 サイコパスは合理性が高いことで有名だが、度胸/勇気を発揮することもある。恐怖を感じないとも言われている。

彼らは平均的な人間にある感情バイアスの働きが弱く、それ故に感情に振り回されない。
依って合理的であり、為すべきと判断したなら為せる傾向が高い。逆を言えば感情がものすごい邪魔になる。

感情バイアス:感情による認知と意思決定の歪み。間違っていると分かっていても心地よい感情を得る選択をしたり、苦痛を感じる事実を否定したり。
過度に悲観的な結論を出す理由ともなる。やらなくていい理由になるから。

まぁいちいち勇気や度胸に頼らないで済むほうがいい

プラトン著、『ラケス』には、ソクラテスとラケスとの対話がある。勇気を徳として扱った問答だ。

ラケスは勇気とは忍耐であるとする。

ソクラテスはその中でも賢明な忍耐と愚かな忍耐があるだろうと問う。

ラケスは、当然賢明な忍耐こそが勇気だと応えた。

ソクラテスが重ねて問う。例えば戦争において、不利な状況にあるとする。もうすぐ助けが来ると分かっている「懸命な人」が逃げずに耐えることと、そうと知らずに「愚かな人」がただひたすらに耐えることと、どちらが勇気か。

ラケスは愚かな人の方が勇気があると言った。言っちゃった。

ソクラテス「じゃあ賢明な忍耐強さって勇気じゃないよね」

ラケス激おこ。

後のニキアスとの議論において、ニキアスは「恐ろしいものと恐ろしくないものの知識」こそが勇気であると主張する。

その後ソクラテスにより質問攻めにされなんかめちゃくちゃになるんだが、ソクラテスは基本しつこくてめんどくさい。


私としてはここでのラケスとニキアスの意見は間違っていないと思う。

まずラケスの言った勇気とは、一般的にイメージする感情的な勇気(奮起などを含める)であり、理解と合理性によって齎される計算された行動ではない。所謂「死を恐れない」ようなイメージ。勇敢さ、蛮勇。
この点でラケスの勇気は「一般人がイメージする勇気」としては正しい表現だと思われる。どの道叩き台だが。

次にニキアスの言った「恐ろしいものと恐ろしくないものの知識」。

ニキアスの勇気をソクラテスは「勇気に於いて恐ろしいものとは、未来の予期される悪である。恐ろしくないものとは、未来の悪くないもの、あるいは善いものである。勇気とはこれらに対する知識だ」と言い換える。

つまりニキアスの言う勇気は、正確な予期(過剰に恐れないことを含める)のための知識とそれの活用であり、「予期に対して分別がつくこと」であると言える。
ニキアスの言う勇気があるとしたら、その者は過度の/不要な恐れを持たず、行動結果を正当に予測し、合理的に判断し、成果を求めることができる。理性に近い。

そしてこれはウィリアム・アンド・メアリー大学の研究の、成功者の持っている要素に該当する。

失敗を想定するのは、無傷で勝つことなどあんまりないという分別ではないか。

他人の意見を気にしないのも、他人の意見が自分がコントロールできる部分ではないとする分別か、あるいはそれは自分にとっては価値はない、影響はない、関係ないとする分別ではないのか。諦め/悟りかもしれないが。

もちろん、やりたいことにまつわることを勉強して、これは気をつけたほうが良い、これは大したことはない、と分かるようになることも大事である。

答えの出ない事態に耐える力

ここまで述べてきたように、人は時に過剰な恐れのせいで、機を逃し、戦う前に敗北する。属性はあっているが、強度がおかしい。あるいは自ら増幅している。あるいは「わからないから不安」であり、やる前に全てを知っておきたいと思っている。

「行動あるのみ」の状態で、なおかつこうなった場合には、分別がついていないと言える。考えれば分かる、探せば見つかる、まだそうするつもりでいるのだから。

恐らくは、不安が動機でよく考える人ほど、決断が必要になる。「調べれば分かること」「考えれば分かること」は全て消化し終わって、まだ不安が拭えない状態だから。もう考えることがないのに、まだ考えたいのだから。決心し、行動することに頭を切り替える必要がある。

何を調べたら良いのか、何を考えたら良いのかが分かるのも実力の内だ。それを含めて人は常に何かしら「足りない」。必ず決断が必要になる。

ここまで並べてきて、勇気や度胸がない人、あるいは勇気や度胸がいちいち必要になる人とは、不確実性に耐えられない人のように思える。
最終的には、「答えの出ない事態に耐える力」とされるネガティブ・ケイパビリティこそが、今回のニーズに対しての答えではないだろうか。鍛えるとしたら「ここ」だろう。

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