認知的方略
当人の「問題の見方」としてのネガティブやポジティブを指して、「認知的方略」と呼ぶことがある。
問題状況に直面した際に、人が目標や行動に向かうための認知・計画・期待・努力の一貫したパターンとされる。
方略と言えば意図的・意識的な印象を受けるが、生物における「生存戦略」みたいなニュアンスに近い。逆を言えば、やろうと思って素の自分と違う見方をやったところで、しっくりこない。後述するが、むしろマイナスになる。
Norem & Cantor (1986a) によれば、過去の認知と将来の期待の組み合わせによって、認知的方略は4つに分けられる。
- 方略的楽観主義(SO)
- 防衛的悲観主義(DP)
- 非現実的楽観主義(UO)
- 真の悲観主義(RP)
Oはオプティミズム。楽観主義のこと。ポジティブ。
Pはペシミズム。悲観主義のこと。ネガティブ。
一般で言われるレベルのネガティブは防衛的悲観主義、ポジティブは方略的楽観主義に当たる。残りの2つは今回は扱わない。
感情としては、それぞれに利点がある。
ポジティブ感情は、全体的な認知や処理を高めるとされる。
ネガティブ感情は、局所的な認知や処理を高めるとされる。
このように役割自体が違うため、良し悪しは一概には言えないとされる。この時点で既に、ネガティブが無理してポジティブになる理由はないだろう。
方略的楽観主義(SO)
- 過去のパフォーマンスへの認知がポジティブ
- 将来へのパフォーマンスに対する期待が高い
ちなみに過去のパフォーマンスの認知はネガティブで、将来へのパフォーマンスの期待は高い場合には、非現実的楽観主義(UO)となる。
課題達成に対して「前にも似たようなことでうまくいったから、今度もうまくいくだろう」というスタンス。
課題に対して悲観的に考えることを避け、これにより不安の上昇を避けることで、実力を発揮するとされる。気楽に考え、リラックスすることで自分のパフォーマンスを保つと言えるか。
ただ楽観バイアスのように、そして死亡前死因分析で色々言われているように、「失敗が許されない場面」にはあまり有効だとは思えない。というか、この性格だと死亡前死因分析自体ができないんじゃないのか。
Seligman(1991)によれば(マーティン・セリグマンか)、楽観的な説明スタイル(物事の解釈)を行うものは、自分にとって望ましいことは、
- 自分に関係があり
- これからも長く続き
- それはあらゆる場合に作用する
としている。
反対に望ましくない出来事に対しては、
- 自分以外に関係があり
- 長くは続かなく
- 特定の場合のみに作用する
と解釈するとされる。簡単に言えば都合が悪いことは誰か何かのせいで、一時的な、特別に運が悪いこととする。
防衛的悲観主義はこの反対だと、セリグマンはしている。
これ、対象が難問だと仮定して通しで見ると、
- リラックスするためにナメてかかり
- 失敗したら他人のせいにする
ということにならんか。一貫して「気持ちを楽にするためだけに都合の良い解釈をし続ける」という印象が拭えない。まぁこれは「頭の中」の話だし、言動的に大人しけりゃいいが。(かと言ってこれだと防衛的ペシミズムも「全部自分のせいとなりやすいのでどっちもアレだが)
少なくとも非現実的楽観主義までいくと、ナメてかかる傾向があると考えられている。
逆を言えば方略的楽観主義で、自己研鑽に余念のないタイプならいいのかもな。スポーツ選手向けかもしれない。あの分野、気持ちの切り替えとか大事だし。
ただどの道、これらの楽観主義による活動量や行動力は、度胸があるでもメンタル強いでもない「怖くなるから見ない」とする方略に依るものだとわかった。「動くしか無い時」には有効な方略だろう。人が考えすぎて動けなくなる、というのは事実としてあるのだし。
防衛的悲観主義(DP)
- 精度高い
- コスパ悪い
- 課題遂行能力は方略的楽観主義と変わらないという研究結果がある
- ただし励まされると成績落ちる
高い不安と低い期待を持って、万全に事に当たろうとする。基本的に精度は高いんだが、コスパは悪い印象。
過去に似たような成功体験を自分が持っていたとしても、悲観的になる。不安を感じる。
「以前は上手く言ったが、今度もそうとは限らない」とする。
このネガティブな予期を利用して熟考することで、課題達成を行う方略とされる。
(やはり天然で死亡前死因分析を行っているように見える)
いくつか防衛的悲観主義の研究があるのだが、非常に面白いことになっている。
自信のあるなしとパフォーマンスとの関連はたまに聞くが、Norem & Cantor (1986b) によれば、少なくとも方略的楽観主義と防衛的悲観主義の課題遂行能力に違いはない。これも防衛的悲観主義は別にポジティブにならんでいい理由である。
ただ、セルフ・ハンディキャッピングのような、自尊心を守るための保険(言い訳)を作るようなことがあるともされる。この点だけは注意が必要だろう。ぶっちゃけ失敗した後で人のせいにするようなのよか可愛げがあると思うが。
更に面白いのが、「励まされたら成績落ちた」ということだ。
同じくNorem & Cantor (1986b)の研究で、被験者の過去の優秀な成績を証拠として励ました所、「励まされた防衛的悲観主義」の学生は、方略的楽観主義や励まされなかった防衛的悲観主義と比べて成績が劣った。
防衛的悲観主義は、期待を低くすることで(=失敗をあり得ることとする)失敗に備え、課題に対して努力する理由やモチベーションとする。
失敗する可能性に対して好ましい結果を得ようと努力や対処することで、結果的に高いパフォーマンスを出すとされる。ネガティブを前提とした上で前向き。
メンタルリハーサルをしたり、起こりうる全ての出来事の対処を考えたりすることで不安を和らげ、実力を発揮する。実力を発揮するためには、むしろ懸念材料と向き合ったほうがいいと。
認知的方略の受容について
素がどうあれ、当人がそれを受け入れていないケースもあるとされる。
特にポジティブ信仰による悪いポジ公のネガ狩りみたいなのは、実際にある。これらに対してや社会的にポジ推奨なノリのせいで、防衛的悲観主義による己の方略の否定はより多いであろうことが懸念されている。
『防衛的悲観主義者における認知的方略の認識の検討』によれば、Noremもまた一般書では悲観的な思考が「周囲にばれないように、頭の中だけで密かに行う」ことを推奨しているとされるほどに、歓迎されないもののような空気自体はある。
ここでの調査でも防衛的悲観主義は、自分のそれよりも方略的楽観主義に対しての方が良い印象を持っているとなっている。
(ただしそれでも「自分は防衛的悲観主義のほうがうまくいく」とも思っている傾向はある)
一方で死亡前死因分析みたいに、本当に真剣になるべきような場面では重宝されており、今後のバランスは変わってくると思う。そもそもポジブームの時点でネガをよろしくないとすることに警鐘を鳴らしていた者たちはいたらしいが。
片や方略的楽観主義にしたところで、何かしらに失敗し、己を責めるという構図は普通にある。いくら傾向としては失敗は外的要因としやすいところで、常にそうできる・するとは限らない。このような時、ひどく罪悪感や無力感に駆られ、己の軽率さを悔やむ、というのもまぁ結構見かける。特に己の責任であり、かつ他人を巻き込んだ時は見ていられないほどに。
前述の論文では、この方略の非受容について、自分の方略が「好き・嫌い」と、自分の方略が「有効・無効だと思う」の2分類で述べている。つまり自分の考え方が、
- 有効じゃないし、嫌い
- 有効じゃないが、好き
- 有効だが、嫌い
- 有効だし、好き
という割とアイデンティティに関わりそうな認知につながる。特に「ネガティブ思考を治したい」なんてのはよく聞くトピックだが、前述の通り「それでもこの方がうまくいく」とも思っている場合には「有効だが嫌い」となるだろう。
でもその「嫌い」の理由が前述の通りに外的要因が大きい場合、もっと自分を好きになれる余白はあるかもしれんが。
「考えすぎ」VS「考えなし」と向き不向き
結局「考えすぎ」VS「考えなし」だな。そもそもが人が物事に当たる時に使う「思い込み」であり、ロジカルではないし。
どちらが正しいかなんて状況に依るが、そもそも素質の問題、つまり自身と方略との相性の問題がある。
悲観主義者のように計画し、楽観主義者のように事に当たれ、みたいな話はある。だが今回の認知的方略は、方略とは名ばかりの「性格」に近い印象を受ける。
切り替えること自体はそう難しくもないのかもしれない。現に「ネガティブを励ましたら成績が落ちた」という話、悲観主義が励まされたことにより楽観主義に適応しようとした結果としてスペックが落ちたという解釈がされている。事実課題後の心理状態は楽観主義者と似ていたらしい。
こうなると方略自体は状況に応じて適切に行える余地があるが、根本的な「向き不向き」の問題として立ちはだかることになる。慣れで解決するかもしれないし、そうじゃないかもしれない。
そもそものネガとポジのどっちが良いかの話だが、やはりネガに軍配が上がるだろう。前述の「悲観主義者のように計画し、楽観主義者のように事に当たれ」という件でシミュレートしてみれば、まず計画段階で楽観主義は邪魔だ。それを排除するための死亡前死因分析だ。
実行段階では一見楽観主義の方が動けるが、ハインリッヒの法則のような、労働災害で言う「ヒヤリハット」なんかを見逃すあるいは黙殺する空気も作る。
労働災害に注意を払うべき分野や、パイロットや例えば銀行員、つまりブルーカラーからホワイトカラー、技術者まで「楽観主義だけでいい」なんて状況はない。投資の世界では楽観バイアスは死亡フラグだろうし。
楽観主義は「失敗が許容される挑戦」と「十分に熟練した」分野において、「行動あるのみ」という状況では活かせると思う。毎日同じことを同じだけ注意する、というのは弱いだろう。なにせ「前にもできたから今回も大丈夫だろ」って考えだから。
前述の『防衛的悲観主義者における認知的方略の認識の検討』内にアンケートの自由記述が載っているが、「方略的な楽観主義が他の方略的な楽観主義を嫌いな理由」として、「楽観的過ぎるとなにか見落としていても気づかない(4人)」というのがある。
これは自覚があるということだし、それ以上に好きな理由が「前向きだと人生が楽しい明るい(29人)」と、数の差に非常に不安がある。仕事を任せたくない。どうしても任せるなら先の4人だな。それでも「自分は大丈夫」とか思ってそうだと疑ってかかる。
結論として、「仕事」を前提として考え、方略として扱うのならば、無理をして楽観主義になろうとする「価値がない」。防衛的ペシミズムの問題は世の中のポジムーブと、心労的な意味でコスパが悪いことだろう。
前者はめんどくさいからもうおいといて、後者。当人が辛いからネガやめたいってこと。どうもそれが理由でのポジの憧れも多い気がするが。
これもまた伸びしろがある。例えば時間を決め、思う存分に心配する、というのが有効だとの言もある。
死亡前死因分析の記事でもやったが、このような「適切な心配」は、恐怖や不安に依る萎縮状態を開放する効果が見られる。つまり、ポジにならんでも過度の緊張は和らげることができる、「ネガらしい正当な方法」はある。