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人に合わせすぎる心理:過剰適応/自己破壊的同調について

投稿日:2021年1月20日 更新日:

過剰適応とは

 一言で言えば「自分を犠牲にして周りに合わせる/期待に応えようとする心理」。無理をしてでも周りに合わせすぎること。

周囲の評判は良いが、当人は辛いという形になりやすい。

 研究においての過剰適応の定義はまとまっておらず、少しばらついている。

「自己への不全感や自分らしさがないために、 必要以上に自己抑制的な振舞いをしたり、他者からの期待や要求に応えようとする努力が行き過ぎている状態」

「一見すると社会に適応しているように見えても、それとは裏腹に心理的には適応しているとは言い難い状態」

論文に於いて多く使われる過剰適応の定義は「環境からの要求や期待に、個人が完全に近い形で従おうとすることであり、内的な欲求を無理に抑圧してでも、外的な期待や要求に応える努力を行うこと」が多いとされる。

全体的に「無理をしてでも自分(内)より他者(外)優先」という点では共通している。これより度が過ぎた場合「自己破壊的同調」と呼ばれる。

研究ではいくらか肯定的要素がある。過剰適応は「全くあってはならない」という類のものではない。
過剰適応は言うほど自己犠牲的とも限らず、周辺へ打ち解けるという意図があり、適度ならば問題ないともされることが多い。

ただし精神疾患になりやすい性格ともされる。うつ病やパニック障害が二次障害としてありえる。



過剰適応の特徴


 過剰適応になるシステムは2系統考えられており、全てが一致するとは限らない。

承認欲求。強い承認欲求を満たす=他者に認められるために、自身の本質よりも周囲のリクエストを優先し、心身を摩耗させるとされる。

自己主張できない。

「自分のせいだ」と思いやすい。

自己抑制。すぐ我慢しようとする。他者には消極的に見える。思ったことを口にできない、自分の気持ちを抑えるなど。
他者に合わせるという外的適応なのか、自分を出せないという内的不適応なのかよくわからんとの指摘もある。

自分と同じ様に、他者も己を殺して同調するべきだと思っているとされる。
(この「皆自分と同じように我慢するべきだ」的な誤信念&パーソナリティは他でもいくらか見かける。ノンアサーティブなど。)

周りに合わせて自分の言動を変えること。

最終的に怒りを爆発させ、自分の我慢を台無しにするともされる。


過剰適応の内訳

 まず「適応」に2つの側面がある。

  • 外的適応=
    他者配慮、期待に添う行動、よく思われようとする行動。
    社会や現実に対して自分を変化させていく。
    客観的に見て、社会的文化的基準に依拠しながら他人と強調し、また他人から承認されている場合。
  • 内的適応=
    個人の主観的世界、現象的内的枠組みにおける適応、自己受容、充足感、自尊感情などを経験し、心的状態が安定していること。
    (心理的な適応とした方が理解が早いかも知れない。これが普通、いつものこと、問題ない、自分は満足している、と。)

この2つが両立した状態が健全な適応と言えるだろう。
ただし本来感、つまりそれが自分のやりたいことか、というのはここでは問われていない。「適応」だから。

 これに準じて過剰適応も2つの側面がある。

  • 過剰な外的適応:自分を抑えてまで、周りに合わせすぎてしまう実際の行動。
  • 内的な不適応感:自己不信や自己不全感など。

 ちなみに「適応の異常」自体が2つある。

  • 過剰適応
  • 不適応

適応を求める側がイカれてる可能性もあるかもしれないが。

過剰適応のタイプ

 大きく分けて2つ。複合タイプもいると考えられている。

自分らしさのなさが動機となっているタイプ

 内的な不適応感の内、自分らしさがない・自分に自信がないなどの思いにより、外界に適応しようとして過剰な外的適応に走る。

 この場合の要因が、

  • 親子関係
  • 養育態度
  • 性格特性
  • 承認欲求
  • 見捨てられ不安
  • 精神的健康要因の強迫観念
  • 対人恐怖
  • 自尊心
  • アイデンティティ
  • 本来感(自分らしさ)

これらは直接的に抑うつ感と関連があるとされる。

 面白いのが養育態度で、中学生対象の研究からは、養育者の「温かな養育態度」が、他者配慮や期待にそう努力、人からよく思われたい欲求を促進すると明らかにされている。
まぁ「もっと認められたい褒められたい」的な。あるいは「認められてないと安心できない」みたいになっちゃったか。

内的不適応

 過剰適応者には、対人スキル欠如、他者orヒトへの認知の歪み、ネガティブ感情の否認が見られるともされる。これらの特徴は特に「自分らしさのなさが動機となっているタイプ」が強く当てはまる。

対人スキルに自信がないならコミュニケーションにより下落した評価を取り戻そうと、過剰適応になるのはおかしくはないだろう。

他人がそれを求めていると感じ、応えようとしているのは前述したとおり。他人に完璧を求められていると感じる傾向は結構高い。

ネガティブ感情の否認はそのまま、嫌悪感などに対して「こんなことを思ってはいけない」と否定することだ。あるいは無理やりポジティブ感情を持とうとする。
これをやると心を病みやすい。感情労働の深層演技に近く、バーンアウトやうつ病などが考えられる。

関連ページ:
_感情労働について
_燃え尽き症候群/バーンアウトシンドローム


自分らしさを持っているが過剰適応しているタイプ

 もう一つのパターンは「自分らしさを実感しているが過剰適応しているタイプ」。

「NOと言えないタイプ」であることに違いはないが、嫌だと感じるくらいには「本来感」に自覚がある。何が自分らしさか知っているとも言えるか。この上で自己主張できずに過剰適応する。


その本来の自分よりも外的適応を優先することにより、内部葛藤、自己嫌悪感などの内的不適応を起こす。過剰適応自体が内的不適応の原因となる。結果、さらに過剰適応に駆り立てるという嫌なスパイラルになる可能性も考えられている。

これにより抑うつ感情を悪化させるともされる。心情的には「我慢して周りに合わせている」状態がずっと続くだろう。「ネガティブ感情の否認」だけはこちらにも当てはまる。

 また、現代青年の対人の悩みが、具体的なトラブルへの苦労ではなく、円滑な人間関係を進めることに伴う「対人摩耗」の方が多いとされている。

これは「問題のない友人関係」であっても、対人関係によるストレスが掛かっていることになる。適応するための自己抑制、過剰な外的適応などで。なんてことはない、「周りに合わせるのは疲れる」ってことだ。

この点は人間関係リセット症候群の1つの動機ともなるかも知れない。人間関係をやり直したいのではなくやめたい、あるいは休みたいという理由もあり得る。

関連ページ:
_人間関係リセット症候群

対人スキルや認知の歪みの修正が有効だと考えられている。が、対人スキルは個人の問題でないことも多い。
少なくとも「誰もがわがままを聞いてくれなきゃ発狂するようなキチガイというわけではない」、という程度の認知は持っておいたほうが良いと思うが。正直な所、過剰適応はそういったキチガイによるメタとして発生している気がしなくもない。

過剰適応の行動様式

 「良い子」として振る舞うか、迷惑をかけないように大人しくしているかになりやすい。

過剰適応の行動様式としては,たとえば,①優秀なよい子として頑張るタイプと,②口数少なく他者に迷惑をかけないように努めるタイプという,いくつかのサブタイプの存在が示唆されてきた(村瀬・杉山・石井・若子,1994)。

https://ci.nii.ac.jp/naid/120005845035

これはアダルトチルドレンのタイプであるヒーローとロストワンに酷似している。あちらも家庭への過剰適応と言える。

この論文では青年の適応様式は気まま型(あんまり気にしない)、他者志向型(他人の期待に応える)、自己抑制型(我慢)、両高型(他者志向と自己抑制が高い)が見いだされている。

過剰適応と承認欲求

 過剰適応する時、承認欲求は強い状態だとされる。

承認欲求なる言葉は悪目立ちしたがるようなのを想起させやすいが、それとはまた違う。
承認欲求は他者に称賛されたい称賛獲得欲求、他者の否定的評価を避けたいという拒否回避欲求の2種類がある。

今回は特に拒否回避欲求(=否定されたくない)という側面のほうが強いかも知れない。

過剰適応は「良い子」問題と関連付けられることもある。自己主張せず、わがままを言わず、言うことを聞く良い子。つまり自分がないか、自分を表現しようとしない状態。確かに過剰適応の消極的な面と一致する。

このような振る舞いも、「周囲に認められるため」の方略ならば、「承認欲求が強い」というのも納得は行くだろう。

関連ページ:
_承認欲求について
_自分の意見が思いつかない/言えない人

シニシズム

 対人場面における態度、行動は、本人の認知と、影響を与える他者に対する認知の2つが関与していると考えられる。
「他者」がどのようなもので、なにをやったらどうなるのかという知識あるいは想像は大きく影響を与えるということ。相手によるとも言えるが、「人間観」の影響を受けるとも言える。

 シニシズムはヒトに対する皮肉的、ネガティブな批判的態度や認知。過剰適応者には多い考えだとされる。

「他者は信用できない。不正直だ。利己的だ」という考えの一群。実際そういう奴もいるし、そういう奴にそう思ったって妥当でしかないのだが、これが「人間観」になっているのが問題となる。誰に対してもその態度、ってなるから。

また、怒りの感情を抑制する傾向がある(裏を返せば大爆発する余地が生まれる)。これらは本来的ではない行動であり、結果内的不適応は高まる。

シニシズムが強いと対人ストレス場面をより脅威なものへと変え、日常場面での対人的な葛藤、問題やそれに伴う怒りなどのネガティブ感情を増加させ、ソーシャルサポートを少なくする。要約すると他人に敵意や猜疑心を感じているため、うまく関われない。

シニシズムを悟られないように適応的に振る舞うことも考えられるとされる。まぁ「敵」に気づかれたくはないだろう。これは過剰適応の余地になるし、そうじゃなくても内的不適応を起こす。嫌いなやつor信用できないやつとうまく付き合おうとするのだから。

シニシズムは「人に対する基本的信頼感の欠如」だと考えられている。
これは見捨てられ不安や承認欲求とも関連している。いつか自分を裏切る、見捨てるかも知れない、本当は認めてもらいたい、というところだろうか。だとするなら、それを解消するために過剰適応、というのは十分考えられる。

承認欲求と自分を出すことのリスク

 ネットを代表とした簡単に縁が切れる新しい関わり方のおかげで、本音を語らず表面だけ適当に合わせる「地雷を踏まない」コミュニケーションスタイルが発達したとも推測されている。

相対的に本音を言うことのリスクも現代では強いとされている。言い方の問題もタイミングの問題もあるしで、本音そのものがいかんのかと言ったら疑問があるけど。

また、対人関係の形成・維持そのものがストレスだともされている。

 過剰適応の自覚される動機として多いのが、周囲によく思われたい、周囲に評価されたいという承認欲求に属する思いだ。

この上で、コミュニケーションの研究でキャラクター的な付き合いとか言われるような、表面上のやりとりしかしたくないという思いも持っていることが多い。

つまり溶け込みたい、あるいは打ち解けたいが、自己開示はしたくない。自己開示には否定や無視といった「非承認のリスク」が伴う。

現代青少年のコミュニケーションが、この「非承認のリスク」の最小化に傾いていると言われている。それでもに周囲からの承認を求める気持ちは高く、結果「周りによく思われよう」とする行動は目立つんだとか。

オリジナリティで目立とうとするのではなく、優等生的な承認をねらうというか、つまりは過剰適応。

 1999-2008の15-24歳のうつ病の数が3倍に上がっている。うつ病になりやすい40代と同じかそれ以上の数値。このスタイルだけの理由とは思わないが、一端ではあるかもしれない。

関連ページ:
_承認欲求について

過剰適応と完璧主義

 過剰適応に類似する概念としてオーバーアチーバーがある。過剰達成者。「目に見える功績の達成に価値を置き、そのために過剰なまでの努力をする」とされる。背景要因として自己不信を想定した論文もある。

これは社会規定型の完璧主義(周囲の期待に完璧に応えようとする)とかなり似ている。

加えて言えば、そもそもの過剰適応の尺度の中には「期待に添う努力」という項目があるのだが、中身が、

  • 日頃からプレッシャーを感じることが多い
  • 完璧であることを求められていると感じる
  • 期待に答えないと、叱られそうで心配になる
  • 他人からの期待を敏感に感じている
  • 自分の価値がなくなってしまうのではないかと心配になり、がむしゃらにがんばる

というものであり、どう見ても社会規定型の完璧主義。ついでにいうとアダルトチルドレンにも酷似する。ヒーロー、クラウン、プラケーター、イネイブラー辺りはかなり。

関連ページ:
_過剰適応と幸福感との関係(外部リンク・論文)
_完璧主義について
_アダルトチルドレンの6つのタイプ

過剰適応と自己愛的脆弱性の類似

 自己愛関連で過剰適応の心理にかなり似ているものがある。

自己愛の病理と言えば誇大型・無自覚型の自己愛、イメージとしては自己愛性人格障害などがあるが、もう一つ過敏型の自己愛というものがある。

こちらは他者に対してかなり過敏で抑制的、注目の的になることを避け、侮辱や批判を極度に恐れる。また、傷つきやすい。総じて過敏型あるいは過剰警戒型と呼ばれる。ちなみに日本人の自己愛はこちらのほうが多いとされる。

 これら過敏型自己愛の特徴はそのまま「自己愛的脆弱性」とも呼ばれる。これには4つの要素がある。

  • 承認・称賛への過敏性:人にどう思われているのかをとても気にする傾向。
  • 恥傾向と自己顕示抑制:自己顕示を恥ずかしいものと強く感じ、抑制つまり「我慢」しなくてはならないと思っている傾向。
  • 潜在的特権意識とそれによる傷つき:自分への特別の配慮を求め、それが叶えられないと傷つく傾向。
  • 自己緩和不全:自分の強い不安や情動などを自分で緩和する力が弱いこと。自分でそれができないので、他者に調節、緩和してもらおうとする。

潜在的特権意識だけ今回に該当しない。ここは露骨に自己愛的な部分だ。ただし「自分にふさわしい正当な評価にはまだ足りない」と思い過剰適応するならば、該当すると言えるか。

他はわかりやすく該当する。他人にどう思われているかを気にし、自己主張は恥だと思い、不安を自分で緩和はできず、結果過剰適応する。

尤も、一時的にこのような状態になることもまた珍しくはないが。場面にもよるだろう。

関連ページ:
_2種類の自己愛 誇大型と過敏型

過剰適応とアサーティブ

 過剰適応にはアサーティブ(自他尊重のコミュニケーション法)が有効とされる。

自己表現の出来なさについて、他尊感情が強すぎる事が挙げられている。つまり「自分を尊重していない」状態。

アサーティブに於いては過剰適応の状態はノンアサーティブ=非主導的な自己表現と位置づけられる。自分を尊重しないという点で、自他尊重ではないからだ。

 ノンアサーティブ自体が「自分のことを後回しにする」という傾向があるとされる。頼まれごとなども断れないとも。

関連ページ:
_アサーティブについて

過剰適応と人格適応論

  類型論の性格分類の一つに「人格適応論」というものがある。生き延びるための適応と、行動上の適応との2種類が3つずつある。

生き延びるための適応は、

  • 想像型:スキゾイド型/創造的夢想家
  • 信念型:パラノイド型/才気ある懐疑者
  • 行動型:反社会型/魅力的操作者

行動上の適応は、

  • 反応型:受動攻撃型/おどけた反抗者
  • 思考型:強迫観念型/責任感ある仕事中毒者
  • 感情型:演技型/熱狂的過剰反応者

要するに「性格そのものが適応の産物だ」とも取れる。
人格形成自体が「適応」ならば、当然そのシステムは遺伝子レベルでヒトに組み込まれている。多かったり足りなかったり、暴走したりもまぁあるかもしれない。

なお、スキゾイド、パラノイド、反社会、受動攻撃、強迫、演技の6つの名前は全て人格障害から来ているが、各タイプに良し悪しはないとされる。
これらが「普通の人間」が各種類「最低一つずつ」持っているとされている。

関連ページ:
_人格適応論:性格分類

メモ

一つに対しての過剰適応

 「何に合わせるのか」という話が論文読んでても出てこない。単に「周囲」あるいは「環境」としかされていない。確かに適応という観点からすればそれでいいのだが。

ただ現実には人は複数のコミュニティに必ず属する。例えば平凡な小学生にしても家族、学校、学年、クラス、クラス内のクリーク(派閥)、クラスの班、塾や習い事など、ざっと考えてもこれだけある。

さらに「役割」として考えれば、兄姉、弟妹、親から見た子供、年長年少、もうめんどくさいから一口に「色々」でいいや、まぁ色々あるわけだ。これらは「周囲からの期待」となる。

こんなもんいちいち適切にやってられる数じゃない。評価に対して過敏なのが現代のデフォだとするなら、「地雷を踏まない距離感」はほぼ最適解だと言える。

裏を返せば過剰適応者の傾向として真面目、良い子、責任感が強い傾向があるのも納得が行く。「やらなきゃいけない」と思っているのだろう。もはや「周囲の期待に応える」ではなくて「相手が違和感を感じたら自分はお終い」みたいなノリにも見える。


 もう1つ、どれかの環境に極度に適応した場合、まず間違いなく他の状況下で齟齬が出る。こちらは恐らく「不適応」として扱われるが、何かに対しての「過剰適応」の結果という見方もできる。

例えば家族内の人間関係に過剰適応した者が、他人に対してもその見方、その接し方しか出来ないなど。アダルトチルドレンがこれに当たるか。

過剰適応とアダルトチルドレンの各タイプ

 諸説あるが、アダルトチルドレンのタイプは5~6程度に分けられる。クリッツバーグの定義では6つ。過剰適応に当てはめてみると結構それっぽい。

  • ヒーロー:
    「活躍」により家族に貢献する。
    ストレートな過剰適応。期待に全て応えようとする。

  • スケープゴート:
    「わかりやすい原因」であることで家族に貢献する。意図的な不適応。

    いわゆる問題児の立ち位置なのだが、「何が悪いことなのか」がわかっていないとこれは出来ない。ふらふらと自分勝手なことをしているわけではない。
    つまり「何が適応か」は理解している。

  • クラウン:
    道化。あるいはマスコットとも呼ばれる。

    一見すればコミカルな言動で場を和ませるのだが、動機は「自分がなにかしないとみんながどんどん不機嫌になっていく」という恐怖から。
    「空気を読むこと」の過剰適応だと言えるだろう。

  • プラケーター:
    家庭内カウンセラー。リトルナースとも。

    落ち込んだ家族を慰め、励ます。他者の面倒を見るという役割の過剰適応と言える。
    特に無条件の愛情を振りまき、自分が感謝や愛情を向けられると「戸惑う」のは、それ以外の在り方を知らないからとも見ることができる。

  • イネイブラー:
    偽親。まるで親のように援助し、励ます。
    アダルトチルドレンとしては「他人の心配をすることで自分の問題から目を逸らす」とされている。

    ただ過剰適応として見ると、親がアレ過ぎて自分がしっかりするしか無い、という可能性は出てくる。例えば親が弟妹の面倒を殆ど見ない。自分しかやる者がいない、などで「発端」だけは説明がつく。後はその役割に過剰適応すればイネイブラーにはなる。

  • ロストワン:
    いない子。

    適応の拒絶や逃避とも取れる。
    家族と関わることを避け、自分の心が傷つくことを防ぐとされる。
    また、心の自由がないと感じたから、家族の過干渉があるからなども原因の一つとされる。

ロストワン以外は全て「自分を尊重しない」という点は共通する。だからこそ似ているのだが。ロストワンも自己犠牲的に機会を辞退している場合は該当する。

同時に「空気が読める」傾向がかなりある。見方を変えればこれは「どんな適応が求められているか」を察知してしまうという意味でもあるだろう。
この点はロストワンも同様で、だからこそ避けているようにも見える。自分でいるためには応えたくないから。

関連ページ:
_アダルトチルドレンの6つのタイプ

ディストピア

 今回の話、モラルも美学も哲学も出てこない。つまりは適応対象が腐っているかどうかは問われていない。例えばブラック企業に入社し、そこに適応しようとするならば、心身ともに健やかなる人間も過剰適応にはなるだろう。

ついでに言うと、訴訟や告発でもするべきタイミングで適応するなら無言の支持に。過剰適応するならもうブラック社員だな。こういうのも多い。

イジメでもそうで、「参加しないと自分がいじめられる」という動機の加害者はいるわけだ。ここでも過剰適応、つまりより安全になろうと「積極的な行動」を取る可能性を否定する要素は特にない。

 また、適応のイメージが間違っている場合、いくら努力を重ねても徒労どころか逆効果ということも当然ある。

例えばゴシップ好きは大抵コミュニケーションのつもりだが、ほぼ確実に周囲からは下品、性格悪い、自分のことも影で同じことを言われているだろうから信用しない、などと言った評価を受け、避けられる。

つまり外的適応を試みて外的不適応な行動となる。それしか思い浮かばない、知らないなら、焦ってまたやる。まだやる。繰り返す。

まぁこの辺りは世界観とか人間観とか認知の歪みとか人生脚本とか交流分析のゲームとかの話になるが。
シニシズムの果てに「どうせお前らこういうのが好きなんだろ?」と自分も嫌なのにゴシップ好きとして振る舞う、なんてのもいるかもな。

おそらく相互監視なディストピアは自然発生し得る。猜疑心のある指導者によってではなく、人々の安全獲得欲求によって。

ミルグラム実験

  そう言えば、モラルや美学や哲学が問われるような実験が1つあったな。アイヒマンテスト。別名ミルグラム実験。あるいは「権威への服従実験」。

同調圧力ではないが、命令という外的要素と、拒絶の意思という内的要素の不協和としては、過剰適応と同じと見ていいだろう。

これは権威者からの命令にどこまで従うか、という実験だった。実験者のミルグラムはユダヤ人。アイヒマンテストという別名は実験のきっかけになった1人の男の名前から来ている。

アドルフ・アイヒマン。ホロコーストに関与し、逃走したが後に逮捕、絞首刑にされた。

アイヒマンは花束を買ったことにより逮捕された。彼は偽名を使って生活しており、追跡者たちは怪しい人物に目星は付けたが、対象がアイヒマンだとするだけの確信を持てない状態だった。彼が花束を買った日が、アドルフ・アイヒマンの結婚記念日だったことが決め手となった。

アイヒマンは「職務に忠実な平凡で小心な男」だったという。ホロコーストを行うような人間は異常者なのか、それとも結婚記念日に妻に花束を贈ろうとする平凡な人間がこうなるのか。それを知るために実験は行われた。

 簡単に言えば、被験者は命令に従い、他人に電流が流れるボタンを押す(実は役者が演技してるだけで電流なんて流れてないんだが)。だんだん強くするよう命令される。権威からの命令に人はどこまで従うか、という実験。

最初の実験で、致死量だと想像するに十分な最大威力の電流のボタンを「命令どおりに」押したのは、65%と言われている。

ちなみにボタンには電圧の強さが書かれており、450ボルトまであった。役者には330ボルトを超えたボタンを押された場合には「無反応になる」ように指示されている。要するに死んだんじゃないかと思うような演技。それでもそれ以上を多くが押したことになる。指示に従い。

一応被験者のフォローをしておくと、報酬がもらえる予定だったんだが、金はいらないから辞めさせろと訴えたり、続行中止を訴える声もそこそこあったらしい。

後にミルグラムはボタンの数を30→10に減らし実験をしているが、85%に上がったという話もある。

ここまではボタンを押す役は男に偏っていたが、再実験の時に男女比を均等にしてみた。結果は、90%に上がった。

被験者が実験の続行を拒否しようとする意思を示した場合、白衣を着た権威のある博士らしき男が感情を全く乱さない超然とした態度で次のように通告した。

1.続行してください。

2.この実験は、あなたに続行していただかなくてはいけません。

3.あなたに続行していただく事が絶対に必要なのです。

4.迷うことはありません、あなたは続けるべきです。

4度目の通告がなされた後も、依然として被験者が実験の中止を希望した場合、その時点で実験は中止された。そうでなければ、設定されていた最大電圧の450ボルトが3度続けて流されるまで実験は続けられた[5] 。

https://ja.wikipedia.org/wiki/ミルグラム実験

電流を流される側を女にしてみたら続行拒否を訴える数が3倍に上がったという話もある。

さて、権威者の命令ではなく「常識」、つまり同調圧力や「みんなやってること」とした場合どうなるだろうか。
例えば左右で涼しい顔をして致死量のボタンを押しまくってるヒトに挟まれた人間はどうなるだろうか。私はもっと酷くなると思う。

マイノリティ、マジョリティ、同調圧力、ステレオタイプ、正論を吠える者。過剰適応の心理にはこの辺りに関わる要素が埋まっている気もする。言っておくが正論って場違いだったらバカ論だからな。

過剰適応は一見すると「集団による犠牲者」に見えるが、積極的な加害者にもなりうる。

多くの者は喜んでボタンを押したわけではないだろう。内心はやりたくなかっただろう。では、実際の行動は?

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