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心の距離感がおかしい人/間違えてる人:心のパーソナルスペース

投稿日:2020年4月6日 更新日:

・人との距離感を間違えると、人格とは無関係に嫌いになったりする。むしろ「好ましい人」の条件には、距離感がまともであることは含まれるだろう。

それ以上に、精神的な他者との距離感、特に自他の境界線に問題があると、相手の巻き込まれたり侵害することになる。

悪気はないことは多いのだが、無害でもない。

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心の距離感を間違えている人への不快感:自由とプライバシーの侵食/侵害

 なぜ心の距離感を間違えている人は不快なのか。
心の距離感を間違えている/おかしいと言われるのは、遠すぎるのではなく、ほぼ間違いなく「近すぎる」からだ。つまり馴れ馴れしい。物理的にも精神的にも侵害をされる実害か懸念の不快感。

「心の距離感」の場合、プライベートな内容を根掘り葉掘り聞いてくるなどが該当する。反対に自分のプライベートをおっぴろげに開示するなども該当する。これは「重い」ので仲良くない関係の場合、普通は嫌がる。一般人には「知ったことへの責任感」ってもんがあるからね。

スラッジ

 返報性、つまり自己開示されたらこちらも自己開示しようという「お返しの心理」はあるが、これはモースの贈与論のような社会的な義務感という形になりやすい。自発的ではあるが自由ではない。不快であり苦痛であることは十分にある。

それを狙ってこちらから自己開示しましょう^^なんて「仲良くなるためのノウハウ」もあったりする。つまり実践者はいるだろう。
これは望む結果は得られるかもしれないが、相手には感覚レベルで嫌われる。行動経済学では「相手のためにならない行動をその相手にさせるような仕込み」をスラッジ(汚泥やヘドロ)と呼ぶが、それに近い。

残念ながらこれらは「仲良くなりたい」と思っている人間が焦ってやりがちな手でもある。

プライバシーは当人がコントロールできなくてはならない

 プライバシーの定義には、「自己または自集団に対する他者の接近(access) を選択的に統制している状態」という点がある。「接近」は、基本的にただそれだけでその権利を侵害する余地がある。統制できてないからね。

もちろん自分だけではなく、相手にもそのような感覚があると通常は心得ている。だからみんな基本的にはおっかなびっくり近づいたり離れたりしながら距離を見極めるわけだ。
知られないように、と共に「知ってしまわないように」。踏み込まれないように、と共に踏み込んでしまわないように。

仲良くなるにもペースがあるということ。自分のペースしか頭にないなら、まぁ、アッパー系コミュ障と呼んで差し支えない言動となる。

無遠慮に距離を詰めてくることは、こういった「プライバシー感覚」がこちらと同じではないと想像するに難くない。ぶっちゃけて異常に見えるから警戒心が湧いても不思議はない。実際に接近を許すとリスクも有る。

 この上で「断れない性格」とかだとまぁ、水面下でものすごくヘイトが貯まることになる。

馴れ馴れしい人や距離感の近い人に対する気持ち悪さ

・気持ち悪さは生存戦略上必要なものとされており、「はっきりとはしないが危険/違和感を感じる」ようなものに対して感じやすい。

今回で言えば過度に馴れ馴れしい、あるいはプライベートを詮索するような輩は、それだけなら具体的に何かあるわけではないかもしれない。だが「何かできる」ところまで近づいてくる事自体が異常だから気持ち悪い。

・このようなことをされれば人は避ける、あるいは距離を取ろうとする。これは自分が傷つくので、大抵の人間は不用意に近づきすぎないように気を配る方が多い。それもない。

つまりそうなるとわからないか、それ以上にそれをやる理由がある。これもまたかなり不気味になる。

・「不気味の谷」という現象がある。人に似せたロボットは、人に似ているほど好感を持たれる。だがある一点を超えると今度は気持ち悪さを感じる。「人そっくりで、なおかつ人ではない」として感じられ、不気味に見えてくる。

「偽物」に対して感じる違和感と言えばわかりやすいだろうか。今回は「態度」は近く、実際の関係性は「遠い」ため、ここに違和感が生じ、不気味に見えることになる。

これは距離感が近い人が「仲良くなろうとしている人」ではなくて「始めから馴れ馴れしい人」と扱われる理由にもなる。

馴れ馴れしい人は「そんな仲じゃないのに馴れ馴れしい」のが不気味=気持ち悪い。段階を踏むよりも、既成事実を作ればそれでいいとしているのなら、実際に危険人物だろう。

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パーソナルスペースとは

・物理的な人との距離感。自分を中心とした円形のテリトリー。本来は心の距離の意味はない。ただ、物理的距離が近い=馴れ馴れしいとはなるため、関連はあるといえるだろう。

一般に親密ならば接近を許し、敵視している相手ならパーソナルスペースは拡大する。つまり相手による。
友人に肩を叩かれるのと、嫌いな奴に肩を叩かれるのとを想像してみればいい。触られるの自体が嫌いって人もいるだろうが、許せるか許せないかは違うだろう。

近づけば近づくほど「接触」があり得る距離ということになってくる。それは悪意が合った場合、相手の加害範囲にあるということにもなる。相手次第で可変するのは妥当なシステムだと言える。

当たり前だが、相手にもこれはある。ここにズレがある場合は、どちらかが不快感を、あるいは寂しさを感じるかもしれない。

・注意点はパーソナルスペースが「広い」=こっちくんな、「狭い」=もっとこいよ、という点。狭いって言うとネガなイメージがあるので少々ややこしいかもしれない。

・文化的な背景により国や個人に依って差がある。
(まぁ相手が嫌がってんのにそれがわからないとか、「このくらい普通だ」と言ってゴリ押そうとするならもうアウトだろうが)

・パーソナルスペースの定義は複数ある。
cf.https://ja.wikipedia.org/wiki/パーソナルスペース

エドワード・T・ホールの定義のパーソナルスペース

・パーソナルスペースを4つのゾーンに大別。さらに近接相と遠方相の2つに分類。

  • 密接距離:ごく親しい人に許される。
    • 近接相 (0 – 15 cm) 抱きしめられる距離。
    • 遠方相 (15 – 45 cm) 頭や腰、脚が簡単に触れ合うことはないが、手で相手に触れるくらいの距離。
  • 個体距離:相手の表情が読み取れる。
    • 近接相 (45 – 75 cm) 相手を捕まえられる距離。
    • 遠方相 (75 – 120 cm) 両方が手を伸ばせば指先が触れあうことができる距離。
  • 社会距離:相手に手は届きづらいが、容易に会話ができる。
    • 近接相 (1.2 – 2 m) 知らない人同士の会話、商談をする場合に用いられる距離。
    • 遠方相 (2 – 3.5 m):公式な商談で用いられる距離。
  • 公共距離:複数の相手が見渡せる。
    • 近接相 (3.5 – 7 m) 2者の関係が個人的なものではなく、講演者と聴衆と言うような場合の距離。
    • 遠方相 (7 m -) 一般人が社会的な要職にある人物と面会する時のような距離。

西出和彦定義のパーソナルスペース

  • 排他域
    • 50 cm 以下。
    • 絶対的に他人を入れたくない範囲で、会話などはこんなに近づいては行わない。
  • 会話域
    • 50 cm – 1.5 m。
    • 日常の会話が行われる距離。
    • 会話なしではいられない。会話することが強制的であるような距離圧力を受ける。
    • 会話がないときは何らかの「居ること」の理由を必要とする。
  • 近接域
    • 1.5 – 3 m。
    • 会話をするためにこのゾーンに入る。
    • 会話をしないでこのゾーンに居続けることも不可能ではない。
    • 距離圧力としては微妙であり、しばらく会話なしでいると居心地が悪くなる。
  • 相互認識域
    • 3 – 20 m。
    • 知り合いであるかどうかが分かり、相手の表情も分かる。
    • 挨拶が発生する距離である。特に、3 – 7 mの距離では、知り合いを無視することはできない。

・不自然に近い距離、理由が必要な距離、無言だと居心地が悪くなる距離、挨拶するような距離など。実際に距離を測ってみるとわかるが、結構しっくりくる。

3~7mの距離でも「知り合いを無視することはできない」とされる。「相手しなくちゃならないと思う距離」という意味では、内心で嫌いな奴が近い所にいるだけで嫌である。

・距離が数字として表されているが、それほど絶対的なものでもない。気分にもよる。
人と会話する気分じゃない時は、接近されたら多少ウザいとは思うだろう。これは「排他域」が拡大していると言える。

状況にもよる。ファミレスで食事をしているとして、別の客に相席を頼まれたとしよう。そんな状況あるのか知らんが。
他の席がすべて満員だったらやむなしと思えるかもしれないが、ガラガラだったらやべーやつだと思うだろう。明らかに何かしら自分に用があるからだ。

パーソナルスペース自体は難しさは感じられないだろうが、現実に人間同士が感じる「距離感」は、状況や個人の認知なども絡まってなかなかにめんどくさい。

心の距離とパーソナルスペース

・心の距離が近いと感じる場面の一つは、相手の態度が馴れ馴れしい時だ。この時は物理的にも距離が近い事が多い。

まぁそんなことはどうでもいいんだが重要なのは、パーソナルスペースと心の距離との共通点としては、

  • 近いほどこちらに影響(加害や干渉を含める)を与えることが可能であること
  • 近いならば正当な理由が無いと不自然であること

が挙げられる。正当な理由なく距離を詰めてくる相手を不快に思うことに、物理も心理も違いはないだろう。

心の距離感とそれがおかしい人

・心の距離感が近すぎる場合は馴れ馴れしい、押し付けがましい、支配的などの過干渉系の害が多い。

逆に遠すぎる場合は視界に入らないため、そもそも是非を問われない事が多い。どうしても他人と一緒にいなきゃならない時や日常の社交面において、本人が悩むことの方が多いか。

自他境界

・そもそもの「自分と他人の区別」があまりついていない例としては、自他境界という概念がある。バウンダリーとも。
「自分と他人は別物」という輪郭や境界線を指す。

・自分の視点は他者と異なる。都合も異なる。考えも異なる。求めるものも異なる。嫌いなものも異なる。

言葉にすれば「当たり前」だが、認知として機能しているかどうかとは別。自他境界の異常は、発達障害によく見られる症状の1つとされている。

・心の理論(人の気持ちや考えが推測できるか)でのサリー・アン課題(https://embryo-nemo.com/1197/)の誤答も、他人の知らないことと自分が知っていることの混同といえる。

ストレスでもおかしくなる。無関係の否定的な意見が「自分に向けて言われている」ように感じて、へこんだり「反撃」をするなど(敵意帰属バイアス)。もちろん反撃と言っても攻撃をされたのは自分の脳内の話だから、実際には突然攻撃的になる。

・元から異常があることもあるし、一時的におかしくなることもある。

ただ、知ってる限りだと元からのタイプは方略を身に着けて適応しようとする。一時的タイプは数がクソ多いし自分はまともな認知をしていると思っている。後者のほうが勘弁してくれと思うが、多分自分がなってもなかなか気づけないものだろう。

・内閣府の平成30年度版障害者白書(https://www8.cao.go.jp/shougai/whitepaper/h30hakusho/zenbun/siryo_02.html)によると、知的障害者(発達障害はこの中に含まれる)が108万2千人、精神障害者が392万4千人なので、後天的に自他境界が怪しくなる可能性のほうが高い。

・自他境界の認識能力はそれほど安定したものではないと思う。日常的な言葉で言えば「気分」に含まれるような、些細な、頻繁なレベルで揺らぐのではないか。
例えば精神状態次第では、いつもは気にならないことが気になる、いつもはスルーしていることがカチンと来るなどはあるだろう。

・自他境界のあいまいさは2パターンあるとされる。

  • 自分の領域を他者にまで広げる
  • 他者の領域を自分にまで広げる

自分の領域を他者にまで広げる

・自分の領域を他者にまで広げるタイプは、他者を侵害する。「他人は自分とは別の経験や意見を持っている」ということを理解していないか、軽視する。

自分が「違う」と思った場合はそれを許さない。「他人の権利や自由」がわからない。結果、他者をコントロールをしようとする言動になりやすい。強迫やら泣き落としやら。

・人間の通常の発達としては、10歳ほどで「内面」に違いがあることを理解する。このため「他者にまで広げる」タイプは、良くても10歳児に近い。

・考えとしては、

  • 自分が考えていることはみんなにとっても正しい
  • 自分と同じことを相手も考えているはずだ
  • 自分の気持ちは、相手に伝わるはずだ
  • 自分のルールは相手も守らなくてはならない
    などがある。

これらの考えを元に取る行動は、

  • 他者を自分の都合に合わせようとする
  • 他者に独自の感情、信条、価値観があることに気づかないため、「自分と違う」との理由で他者の言動を否定や攻撃をする
  • 他者の考えと自分の考えの区別ができず、自分の考え=他者の考えという前提で話したり、当たり前のように相手に「自分をわかっていること」を求める。

などがあり得る。このために怒り、不安、葛藤を抱えやすいとされている。
ご覧の通りに幼児臭さがある。大人の場合はもうちょっと理論武装したり屁理屈をこねるが、執着具合がまともじゃないのですぐわかるだろう。
このような過干渉もまた「距離感が近い」と言われる行いだ。介入しすぎと言われることの方が多いが。

・個人の能力の話だけとも限らず、関係性によって問題となることもある。

割とこうなるのが親子関係だ。毒親も上記と一致するだろう。「毒親」と子供に言われる親は、わかりやすくクソ親なのもいるが、「愛情深い親」もいる。要するに過干渉。

・不快だったり有害だったりする愛情、友情、親子関係、仲間意識などはある。これらは過干渉により何らかの安全性が脅かされていることが多い(特に心理的安全性)。

やられた側は「押し付けがましい」「恩着せがましい」「馴れ馴れしい」と感じるだろう。

好意は理性で為される必要があるということ。

他者の領域を自分にまで広げる

・他者の領域を自分にまで広げるタイプは、簡単に言えば「自分がない」または「自分の考えがわからない」。他人の影響を受けやすい。俗に言うところの「自分がない」ような言動になる。

  • 他者と意見が分かれると「自分が否定されている」と感じやすい。
  • 他人と自分の考えの区別がつかない。他人の考えをそのまま受け入れる。
  • 他人の問題や責任と自分の問題や責任の区別がつかない。他人の問題や責任を引き受けてしまう。
  • 相手の要求に嫌だと言えない。受け入れてしまう。断ることができない
  • 相手の言いなりになり、利用され、傷つけられ、他者が怖くなる。

根本的に押しが強かったり他人のことを考えない「侵入的な人」の対応に追われやすいとされる。

・こちらは悪性自己愛や毒親の被害者を彷彿とさせる。

・「みんな一緒じゃなきゃいけない」という世界観自体は、他者を侵害するタイプと同じだったりする。こちらの場合はそれが脆弱性となるが。

境界の種類4つ

・自他境界線は不適切な領土侵犯が主に語られるが、「境界線」そのものにもタイプが有る。ニーナ・ブラウンによれば境界線そのものの種類が4つある。

  • 柔らかい
    • 自他の境界線が重なっている
    • 心理的な操作の犠牲者になりやすい。
  • スポンジ状
    • 時には柔らかく時には硬い。
    • 「柔らかい」よりは感情的伝染を受けることは少ない。
    • 何を受け入れ、何を受け入れないかははっきりとしていない
  • 硬い
    • 閉鎖されるか壁で囲われている。誰も身体的・感情的に近づくことはできない。
    • 虐待(非物理的なものを含める)を受けていた場合によく起こりえるとされる。
    • 「過去の悪い経験と似た状況」にのみ起こる「選択的な硬い境界線」もあり得る。
  • フレキシブル
    • 柔軟性がある様を指す言葉。
    • 選択的な硬い境界線に似ているが、それよりコントロールされたもの。
    • 当人は何を受け入れ、何を受け入れないのかを決めている。
    • 感情的伝染や心理的操作術に抵抗し、破ることは困難とされる。
    • まぁ要するに「心が強い」みたいな感じ。頑固とは違う。

・フレキシブル以外は、心の距離感がおかしい人や押し付けがましい人の被害者になり得る。また「硬い」で言われているように、特定の場面や相手のみが極度に苦手などもあるだろう。

ミウチ セケン タニン 半端な仲、微妙な距離感の相手は一番近づいてほしくない心理

・態度や話題などでの距離が近いというのは、「馴れ馴れしい」と言い換えることができる。馴れ馴れしさは相手によってどこまでOKかが決まるもののため、間違えると大体アウトになる。

このラインは関係性がかなり強く影響するが、社会的に見てもアウトなのがわからないようなのもいる。つまり社会的な距離がわからない者。

・一般的に他者の分類や距離感は、身内と赤の他人とか、ホームとアウェイなど二つに分けられることが多い。「ウチ(内)」と「ソト(外)」と呼ばれることもある。

井上(1977)ではこれを、

  1. ミウチ ナカマウチ(仲間内):親密な他者
  2. セケン(世間):中間的な親密さの他者
  3. タニン ヨソノヒト(他所の人):見知らぬ他者

の3つと定義している。この内「セケン」は、ミウチとタニンの中間にあり、曖昧なゾーンとされている。

そして羞恥心に関しては、ミウチやタニンよりもセケンに対してが最も高く感じられるとされる。つまり、一番近づいてほしくない、プライベートを開示したくないと感じる相手はセケンだ。

・この上で距離感が「ウチとソト」しかない人間はおり、ソトではないからウチだと言わんばかりにくっそ近づいてくるわけで。
これは客観的にはセケンがミウチに潜り込んでしようとする行為であり、まぁ超嫌がられる。

上司が部下と仲良くなろうとプライベートなことを聞くとか超嫌われてるわけだね。よく聞く話だけど。

また、このタイプは「ウチ」に対してはパターナリズムな態度(要するに押し付けがましい)を取りやすい。仲間意識が強いといえば一見よろしいことな感じだが、ヤベーのも混ざってるということ。

・ちなみに、人がセケンのイメージを最も持っているのが「マスコミ」だそうで。まぁそりゃ「こっちくんな」とは思うわな。口が軽い=信用されないというのも、ゴシップ好きなら誰からも「セケン」として扱われるだろうとも想像がつく。

創作において「クソみたいな性格の親戚のババア」がいたりするのもこのイメージなんだろうか。だいたいデリカシーがなくべちゃくちゃ喋る感じの。実際にも結構いるらしいけど。

参照:大学生の”世間”の範囲と援助行動意図

「過度に馴れ馴れしい」愛着障害の脱抑制型

・「愛着」自体は、乳幼児が自分を守る大人との間に築く信頼関係を指す。アタッチメントとも。

「依存」とは別物だとされる。生存のためではないから。愛着を恥じるべきではないともされる。

・愛着障害、またはアタッチメント障害は、愛着が正常に形成されず、対人面での関係構築や自己コントロールに問題が出ることを指す。

症状は2つあり、それぞれ距離が近すぎる(脱抑制型)、距離が遠すぎる(抑制型)。

・距離が近すぎる脱抑制型は、「文化的に不適切で過度の馴れ馴れしさを含む行動の様式」とされる。協調性はなく、信頼関係や仲間関係を築くことは難しい。脱抑制型対人交流障害とも。

・愛着障害は本来子供についての話なのだが、大人でもこのような者はおり、関連が考えられている。

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