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心が痛い:精神と痛みについて

投稿日:2018年10月17日 更新日:

認知、心理的なものから発生する痛みについて。

数学が苦手な人が数学について考えると痛みを感じる

http://karapaia.com/archives/52108179.htmlより。

これが欲しかった。

肉体的な痛みと同じような反応が見られたとのこと。

物理的な危険、身体的な危害があり得る状況と同様の脳の領域が活性化。加えて実際に痛みを伴うことがあるとのこと。

数学が苦手な14名、そうではない14名との比較。数学の授業の前、数学が卒業の必修科目だと気づいた時などを思い浮かべてもらい、fMRIでスキャン。実際に問題を解く時にもスキャンした。

注目するべきは「実際に問題を解いている時はほとんど反応を示さなかった」点。上手くやれるかどうかは置いといて、少なくとも「苦痛を感じる」のはやる前に限られるということ。私達が問題だと感じていることは、問題そのものではなく問題だと感じていることが問題なのかもしれない(何言ってんだ)。まぁ思いっきり油断して取り掛かる訳にはいかないからこそ問題だと思うわけだし、消去ではなく緩和を目指すべきか。

心理学教授シアン・ベイロック曰く「例えば燃えているストーブの上に手を載せたときと同じです」。

さらに、「これから数学に取り組まなくてはならない時」に反応が顕著になったとされている。これはいつぞや言った「展望記憶による難易度の過大評価」の補足になるだろう。

問題を解く時ではなく、それに対する不安が苦痛を生む。これは話は数学だけには留まらないということだ。ありとあらゆる不安を感じる対象に対して、あるいは「不安そのもの」が痛みを発生させる可能性。

心の痛みと社会的痛み

 社会的痛みは、望ましい関係性(友人、恋人、家族、仲間など)から排斥されたり低く評価された時に経験するネガティブな感情反応とされている。死別や生き別れなども含めるそうだ。
「社会」と言うと違うものを連想しがちだが、「他者との関連性(人間関係)」全てに当てはまると思っていいだろう。多分ペットロスも入るんじゃないかな。

この時の「痛み」も身体的な痛みと機能を共有しているとされる。

多くの動物実験及び画像研究の知見から,身体的痛みと社会的痛みはその機能と神経機序を共有していることが示されてきた。
なぜ心が痛いのか-社会神経科学における排斥研究の現状-

 痛みを感じることがない無痛症/無痛覚症というものがある。

ある珍しい症例が報告されている(Danziger& Willer, 2005)。生まれつき無痛覚症の女性で,彼女は骨折や火傷,虫垂炎,無麻酔分娩でも痛みを感じたことがない。さらに心理的にも苦痛を感じることなく生活してきた。

しかし不運にも彼女の弟が交通事故で亡くなったときに,その無痛覚症の女性は激しく悲しみ,頭痛に悩まされたが,これが彼女にとって最初で,また唯一の痛み経験であった。
なぜ心が痛いのか-社会神経科学における排斥研究の現状-

少なくともそれまでの間、社会的(=概念的/心理的)な痛みを感じていない。


 面白いことに鎮痛作用のあるオピオイドにより、社会的痛みも軽減または消失したと記されている。心が痛い時には痛み止め効く、ということになる。常用すると胃がやられそうだが。

同様に各種の鎮痛薬で「他人の痛みに対する共感能力がなくなる」という副作用がある(アセトアミノフェン/オピオイド系鎮痛薬)。
さらにプラセボ効果、つまり偽の薬を飲み、思い込みで鎮痛作用を発揮した場合にすら共感能力がなくなるという。
鎮痛=痛みを感じない=他人の痛みもわからない、といった感じか。逆に他人の痛みがわかる=自分の痛みとして感じている、とも言える。が、それがまともな判断につながるかどうかはその者次第だろう。同情や共感からろくでもないことをしでかすのもいる

 存在意義だが、

所属欲求や性的欲求は接近の動機づけとなるが,自分を排斥する個人や集団は安全でなく,社会的資源にもならない。そのため,そういった個人や集団から離れ,受容してくれる環境へ向かう必要がある。社会的排斥に対する感情反応がこういった行動を促すと考えられる。
なぜ心が痛いのか-社会神経科学における排斥研究の現状-

となっている。そこじゃなくて別のところに根を下ろそうみたいな。
「離れるべきだ」というシグナル。まぁ全部の社会的痛みに当てはまるわけじゃないが。

痛みについて

http://karapaia.com/archives/52185614.htmlから。

痛みの認識の調整の仕組みは、まだ完全には解明されていない。

痛みはコントロールが可能。

痛みは脳内回路によって作られる。

兵士が緊急時に痛みを感じなかった、という話がある。ここまではよくある話だが、その後注射などの些細な痛みに対して大きな痛みを感じることがあるとの記述がある。

痛みの処理の回路は2つある。

位置、強さ、性質(斬殴突みたいな)の情報処理回路。

これとは別に感情的な側面の回路がある。精神的な緊張、不安、あるいは高負荷な思考などに対して痛みを感じるとしたら、こちらか。

前向き、平静な感情は痛みを過小評価。否定的、悲観的感情なら過大評価される傾向。後者は拷問テクとしてCIAが使用したとされる。

前頭野が気をそらす物を無視する機能があり、これが痛みのコントロールを可能にするのではないか、と考えられている。

脳波を測定しつつ被験者に足に意識を向けるよう指示した。この時点で「手の感覚に対応する部分」の脳波は低周波リズムが増加した。この低周波リズムが脳からの情報を遮断するものだと確認された。無視しようと思えば無視できる、ということ。そのための方法として違うものに注意を向ける。

この際脳の「気をそらす物を無視する部分」も低周波リズムが増加したとされる。つまり同期・連動している。周囲の情報を選別する部位と連携することにより「何が不要であるか」を判断、カットしているようだ。

紛らわしいが、要するにこれは何かに集中している状態だろう。意識的な集中、前頭野による注目対象への意識の制御時には同期して「無関係な情報をカットする機能」が働く、と。

この際被験者は意識的な足への集中をしているだけだ。つまり「集中」という意識的な行為とは、対象へ意識を向け続けること+その間無関係な情報をフィルタリングすることという2つの要素があるのだろう。主観的に意識が集中し、無意識がフィルタリングを担当するとしたら、無意識がフィルタリングどころじゃない状態では(気が散っている状態)いくら能動的意識で集中しようとしても特に出だしは集中することが難しいことには説明がつくか。片足だけで走ろうとしているようなもので。

痛みを感じさせる対象・部位を「意識しないこと」こそが痛みを感じない/和らげることに繋がる。気にしないことが有効となるわけだが、痛みってのは自己主張の権化みたいなとこあるからな。簡単ではないだろう。

ネガティブな認知、思考、イメージに対しても痛みを感じているとしたら、同様に気にしないことが有効となるだろうが、直接そうしようとするのは上記の理由で実践的ではない。上記実験のように、何か集中対象を用意するのが現実的か。ダン・アリエリーが似たような話をしていなかったか?

ただ、痛みという自己主張の権化みたいなのが「精神的な領域」にまで関わっているとしたら、それこそ注意のひったくりのようなもので、コンプレックスや認知の歪みが悪化しやすいことについて腑に落ちる。痛みを感じる限り、気にし続けることになるとしたら。

また、これら精神的な痛みは脳的には痛みであるが、主観的には「痛み」としては知覚されていないはずだ。つまりそれについて考えることが「痛いこと」だという自覚がない。後述するが、数学嫌いが数学について考える時、「熱いストーブに手をおいたくらいの」痛みを感じているとする話がある。でも当人は「痛い」とは感じていないだろう。それならもっとこの分野は研究されている。

この記事では痛みは瞑想によりコントロールできると記述されている。これに始まったことではなく、結構前からそういった話は多い。

痛みの強さ

http://karapaia.com/archives/52124067.htmlより。

「痛み」は現状主観的な側面が強く、数値化するのが難しいとされる。現状は本人に主観的な痛みの度合いを聞く他ない。

将来的には可能だろうという展望もある。

この実験では熱による痛み(温かい~熱い)を与えてMRIのスキャンを行った。結果、「感じた痛みに個人差はなかった」らしい。

失恋により痛みを感じるという話の確認として、失恋したばかりの人間に相手の写真を見せてMRIでスキャンした所、「熱を加えられた時に脳が発するシグナル」は観測されなかったという。

事前に痛み止めを処方されていたグループはそのシグナルが弱まった。まぁそりゃそうだろうという気がする。

この実験は熱=痛みとしているため、気になる所も多い。失恋云々も違う種類の痛みとして感じている可能性もあるし、その辺りは気になる。

少なくとも痛みの物理的知覚の段階では(センサーとしては)個人差はない可能性、逆に脳内での情報処理の段階で差異が生まれる可能性。感情・感覚的な評価の差? 先程の痛みに対してポジなら過小評価、ネガなら過大評価という話とつながるか。

認知行動療法によるプラス思考での痛みの緩和

http://karapaia.com/archives/52170908.htmlより。

被験者を2つのグループに分け、片方には五分の認知行動療法を受けさせた。その後火傷の痛みを再現させ、度合いを測定。

事前に認知行動療法を受けていたグループはそうでないグループと比べ、痛みの度合いが58%低かった。

5分の事前の認知行動療法で痛みが6割減した、ってことになる。また、8つの痛みの実験に於いても58%の不快感の減少が見られた。

ただ、具体的に5分何をやったかが書かれていない。加えて前述の通り痛みの正確な測定は現状できないため、被験者の主観に拠っている。

記事タイトルがプラス思考と書いてあって、記事内ではそれについての記述は見られないため、なんぞポジティブシンキングでも仕込んだのかもしれない。

認知行動療法について。瞑想/マインドフルネスだが、マインドフルネス認知療法、というのは存在する。こちらはネガでもポジでもなく、一歩離れたところから自分の心を観察する、つまりメタ認知能力を養う形になるため、今回とは違うかもしれないが。

メモ

つまるところ、不安などの脳に起こるネガティブな感情・思考などが最終的には(始めからかもしれない)「痛み」に変換され、これらが人間の行動の条件付けで言う所の「弱化=消極性」や苦手意識、忌避感、恐怖症などに繋がっているのではないか、という考え、について調べたかったのだが散らばった感があるな。

また強迫的な症状に対してのその「強迫性」が、これらの痛みを避けるための予防的態度である可能性。ホーディング(溜め込み症)は所有物を捨てようとする時に「痛み」を感じているし、社会規定型の完璧主義の原因も親の予防的態度がモデルになっていると言われているし、完璧さを求める動機自体も予防的態度だろう。

でまぁ、痛いもんは痛い。

だが痛みが正しいとは限らない。「絶対に感じるわけがない痛み」を感じることがある。例えば幻肢痛。事故などで後天的に手足を失った人間が、「失った部分が痛い」と訴える症状がある。現実と脳が脳内で描いている「認知」とは別物。そして人間にとって「認知」の方が現実として扱われる。

今回のような「脳の二元論」、脳的に明らかに両立し得ない二極について情報を集めていきたい。現状、ネガとポジ、思考と共感くらいか。

これらを総合的に見れば、「私達の認知と判断は合理的・理性的ではない」ことが浮き彫りになる。少なくとも客観性は相当無い。というか、コントロールできていない。だが、コントロールそのものは可能であることは示唆されている。

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