めんどくさい。
めんどくさいものはめんどくさい。
冒頭考えるのが一番めんどくさい。
めんどくさいことの分析。
>やらねばならないVSやりたくない
やらずに済むならそれに越したことはない、というタスク。重要度は高いが、あまり好きではない。あるいは好きかもしれないが今は気分ではない。
めんどくさいは大体の場合やらなきゃいけないVSやりたくないの葛藤。
やらなきゃいけない=そのタスクが「義務化」している可能性。
好きなことでも義務化すると嫌いになる。ゲームを買ってくれとせがむ子供に父親がゲームを「義務付けた」所、二度とせがまなくなった、というかゲーム嫌いになった、という話がある。虐待扱いされてたけどあれ。
この例は非常にわかりやすいが、要は強制されるのが人間は嫌いだ。ゲームはやってもいいし、やらなくてもいいし、クリアできなくてもいいし、それを目指しても良いa)(これらは全て禁止令からの開放とも取れるし、治療的ダブルバインドとも取れる)、という「自由」があるからこそ魅力的なのであり、その部分を完璧に潰してクリアすることを強制するとしたら拷問道具になる。
対象が義務化するのは、自らに対しての継続する強制が始まることを示す。めんどくさいと思った時は、それが本当にやるべきことか、「義務」になってはいないか、してるとしたらそれでいいのか、見直すことも必要かもしれない。
>短期的には可能ではある
不可能だったり何していいかわからない場合は「無理」「わからん」となり、めんどくさいとは違う。逆を言えばめんどくさいのは何していいかは見えている状態であり、可能なタスクであると少なくとも「認識」はしている。
端的に言えばそれに対して何やったら良いか「わかる」し、それが「できる」という認識も持っている。つまり自己効力感の要素である達成予期(こうしたらこうなる)、効力予期(自分はそれがやれる)の両方を持っていることになる。
つまり自己効力感だけじゃ積極性とはなりえない、とも言えるか。それでもめんどくさいと思ったことは「できる」ことの証明でもあるかもしれない。
逆に長期的に見ればゴールが遠い、あるいは頻繁に再発すること(家事など)が多いか。人付き合い、仕事、あるいは風呂がめんどくさいってのもあった。
展望記憶(予測や展望などの未来についての比較的短期な思考)が一枚噛んでそうだ。
この辺りから考えるとリソースについての懸念、つまり「消耗」に対しての懸念があると考えられる。特に疲労。ここで疲れると後で大変になる、とか。あるいはもうそんな余裕はない、だとか。まぁできるからってやらなきゃいけない理由になるとは限らない。
>実行コストが不透明である
値段を見ないで商品を注文できるかって話。
時間やカネ、体力や知力などの自分のリソースをどれだけ使うことになるかが不透明な状態。
些細なことが対象だった場合、その「頻度」に注目すると高い傾向はある。つまり終わりがない、あるいは遠い。
総じて「どれだけ疲れるか、手間がかかるか」が不透明な対象。
>自分が止まれないことを自覚している
手軽に手を付ける方法として作業興奮を当てにし、例えば5~10分だけやってみましょう、というのは実際に有効である。だが、実際にはこの時点で懸念する人もいる。
彼/彼女たちには最初から5~10分で終わるつもりが全くないため、結局の所何の工夫もなく「手を付けましょう」と言っているようにしか見えておらず、何の目新しさもない。
自分が「止まらない」あるいは「中断できない」ことを知っている。あるいはそのつもりが始めから無い。手を付けたら最後まで走らなければ気が済まず、だから手を付けようと思うだけで「完走するまで」を予想して疲れる。
青写真の完遂。完璧主義の傾向。コレも展望記憶か。計画ではなく、青写真の通りかそうでないかの二極。進捗度合いを見る気がない? つまり、やり遂げることにこだわり過ぎか。
千里の道も一歩から、というが、一歩踏み出すことができないのは「千里歩き続けなくてはならない」と思っているからではないか、という話。
>コストに見合わない、あるいは見合う保証がない
価値がない可能性。あるいは手を付けたらリソースが無駄になる可能性。
ただこれは、単純に価値を見失っている可能性も高い。前述の義務化などは、それが「あたりまえ」になるために恩恵・成果と行動が乖離する。因果関係を知覚してはいるが、これをやったからこうなっているのだ、という認知が弱い状態。
簡単に言えば給料と仕事の乖離。給料はもらって当たり前だと認知したら、日々の仕事の価値は薄れ、「耐えること」になるだろう。
>煩雑である
頭がパンクする。出来るけど手間が多い、やることが多い。わかりやすく「めんどくさい」。
逆手に取れる可能性も高いか? 内容が多岐にわたるなら分類も可能だろう。逆を言えば整理しないでごちゃごちゃのまま全部やろうとしている可能性。「不透明さ」と被る。仕分けから初めたほうが良いかもしれない。
>ストレスと「痛み」
どうも頭がパンクすると痛みが走ってる気がする。人によっては頭使ってる時「痛そうな顔」してるのまでいる。
心理的なことで脳が痛みを感じることは昔から言われている。俗説だが、罵倒されるとナイフで切られる程度、失恋だと骨折と同程度の痛みが走るとか。人にもよるだろうけれどね。
ホーディング(溜め込み症)の場合、自分の持ち物を捨てようとした際に「紙で指を切った」と同程度の痛みを感じる。このため、紙に自分の持ち物の名前を書くと破ることすら困難となるらしい。彼らは貯め込むのと同時に「捨てられない病気」である。
めんどくさいからやりたくないってのは、痛いからヤダって言ってるのに状態が似ているように思う。まぁ痛いもんは痛い。
脳科学的な根拠としては、痛みを感じた時に活性化するのが前帯状回、島皮質、前頭前皮質。これらの部位はストレスによる情動反応(不安、緊張、焦燥、抑うつなど)にも関わっている、とされている。
また、うつ病により痛みを訴えるケース(慢性疼痛)もあるらしい。
要するに、めんどくせぇ・やりたくねぇ→ストレス→痛みという流れはあるのではないか、という話。当人が認知しているのは「めんどくさい・やりたくない」だとしても、身体・脳は痛みを感じて(あるいは予期して)すくみあがっている可能性。
オペラント条件付けで言えばこれは「正の弱化」に当たる。簡単に言えば、それをやろうとしたら電気ショック流れるって目に合わされ続けたらやらなくなるに決まってんだろ、という話。その上でやらなきゃいけない、と義務化しているのだとしたら、最終的には精神を病みそうだ。
うーん、まぁ、気を楽に?
>義務化+難易度の過大評価
やったらどうなるかを知っている(つもりでいる)。この際に成果ではなく「疲労」に注目している。疲れる(痛い)所だけ想像している状態。
ここまで述べてきた通り、やる前にまず無意識レベルで予測は立てている(展望記憶)。そして難易度の過大評価か、完璧主義な傾向がある。これ自体は間違いではない。生存のための予測がヒューリスティクスの存在意義だとしたら、即判断+過剰気味になってもおかしくはない。案ずるより産むが易しってのは大体の人間が経験しているだろう。その上で似たようなことでまた尻込みするのが良い証拠だ。
スライムやゴブリン倒すたびにドラゴン退治の準備してたら話進まねぇだろと。大体でかい敵は部位破壊できるもんだろと。ヒューリスティクスが仕事してるんだとしても、その上で理性的にその印象を中和する必要はあるのだろう。
脚注
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