学習性無力感の伝染と5匹のサルの実験

学習性無力感は、「伝染/感染する」とも言われている。

■学習性無力感の伝染

学習性無力感は個人の内部で完結するとは限らず、社会的な「伝染」をする場合がある。

※引用

ある人が、他の第三者がコントロール不可能な状況に陥っていることを観察することによって、無力感を学習する[10]。アルバート・バンデューラの提唱したモデリングの例である[10]。

動物でなく人間においては、集団的無力感も起こり、小さなグループが解決不可能な問題に対して無力となった場合に、他のグループさえも解決可能な問題の解決に失敗する[10]。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AD%A6%E7%BF%92%E6%80%A7%E7%84%A1%E5%8A%9B%E6%84%9F#%E4%BC%9D%E6%9F%93

※引用

浜銀総合研究所・主席コンサルタントの寺本明輝氏は、「無気力は伝染する。恐ろしいのは、個人で学習した体験が個人の中で伝染するだけでなく、それを体験したことがない人間まで疑似体験として伝染し、企業風土に影響を与えてしまうことだ」と指摘する。

http://www.ce-net.co.jp/column/sub4-311.htm

どうもビジネスやコンサル系での「学習性無力感の伝染」についての話では「腐ったミカン」扱いなんだが(実際そうはっきり書いてある所も有った)、さてどうだか。

トップやリーダーに学習性無力感があると、部下には感染すると言われることもあるし、そんな社員がいるとチームがそうなる、という話もある。

■個人の中での伝染

・例えば、何か一つのことに対して学習性無力感が起きたとする。まぁ小学生が社会の勉強がさっぱりできなかったとしようか。この状況を「勉強しても頭は良くならない」と認識したら、全ての成績は落ちるだろう。

・あるいは、誰かに心の底から嫌われたとしようか。それに対して「自分は人に嫌われる人間だ」と思ったなら、少なくとも自分からは誰にも話しかけなくなるだろう。

反対に「他人は自分を嫌ってくる」としたら、これまた自分から他人には近づかないだろうね。

・要するに、何か「たった一つの」嫌悪刺激が拡大される、つまり他の自信を持っていたこと/できるかどうかなんて気にしたこともなかったようなことに対して伝染することは、十分にありえるのではないか。元から安心・安全に対しては脳は勝手に気を配る。「似たようなもの」はとりあえず気になり始めるだろう。

・この場合、認知の歪みの「過度の一般化」「拡大解釈」に近い状態になる。

・個人の中の一つのイメージに対して無力感が生まれ、他の物事のイメージにまで感染するケース。

■5匹のサルの実験

概要 ※引用

『5匹の猿の実験』

まず始めに、部屋に5匹の猿を入れます。部屋の中央にははしごが設置されており、登るとはしごの上のバナナを手に入れることが出来ます。しかし、猿がはしごを登ると、登らなかった残りの猿に氷水が降り注ぐようになっています。この状況で実験を開始しました。

しばらくすると、猿達は氷水をかけられたくないので、はしごを登る猿を攻撃するようになります。すると、どの猿たちも段々とはしごを登ろうとしなくなりました。

そこで、元々いた5匹のうち1匹を新しい猿に置き換えます。新しく来た猿は、はしごとバナナを発見します。なぜ他の猿達がバナナを取りにいかないのか、と不思議に思いつつも、新参者の猿ははしごを登ろうとします。すると、他の猿達はその新入りの猿を攻撃します。新参者の猿はなんでボコボコにされたのか理解できませんが、攻撃されたくないので、早々にはしごを登ることを諦めます。

また同様に、もう1匹を新しい猿に置き換えます。新参者の猿ははしごを登ろうとしてボコボコにされます。以前ボコボコにされた新参者だった猿も、他の皆がやっているため、今回の猿をボコボコにする行為に加担します。しかし、なんではしごに登ろうとする猿を攻撃しなくてはならないのか、全く理解していません。

このように、5匹の猿を1匹ずつ置き換えていき、5回目には元々いた猿は全員部屋からいなくなっています。今、部屋に居る猿は氷水を浴びせられたことがありませんが、はしごに登ろうとする猿もいません。全ての猿は、何故こんなことをしているか分からないまま、はしごに登ろうとする猿が現われるとボコボコにするのです。

そして、社会の規則もこのようにして決まっているのです。

https://curazy.com/archives/71660

・連帯責任(笑)。「老害(老人に非ず)」がどれだけ若者にとって邪魔であるか、とかまぁ色々。

・これは創作の可能性が高い。まず、このような実験を行われた形跡がない。検証実験も。

この話の根拠を気にする人は海外にも多いようだ。

参照:https://skeptics.stackexchange.com/questions/6828/was-the-experiment-with-five-monkeys-a-ladder-a-banana-and-a-water-spray-condu 

簡単に言うと、この話の初出は海外のビジネス・自己啓発の類の物であり、「友人がこんな実験の話をしてくれた」という形で始まる。

その著者2名の内一人は死去、もう一人はこの話の出典を明言することを避け続けた。最終的には「自分はこの話の情報源を持っていない」と語ったのだとか。

・なんというか、ビジネス本の類にはこういう教訓めいた創作話を堂々と体験談みたいに語る形になってることは多い。今回の場合「実験」騙っちゃったんだとしたらまぁ、色々とアレだな。

・「茹でガエル」だとか、「兎は寂しいと死ぬ」のように、実際にはそんなことはないが人間には当てはまる、と言った立ち位置となるだろう。これらは教訓やイディオムとして機能するかもしれないが、あくまで都市伝説だと思ったほうが良い。

・まぁ、「やってはいけない理由」「やらなきゃいけない理由」を説明できないどころか知らないんだったら、疑うべきかもしれないね。「信者」が多すぎる場合、従わざるを得ない場面も多いのだが。

・実際には、瓶に閉じ込めて頭を打ち続けて飛ばないようにしたバッタは蓋開けたら飛ぶし、象を相手にする調教師は命がけらしいし、このサルの話も海外で実際に研究者に聞いてみた所そんなことはないという答えが帰ってきたらしい

ただ、人間だけはこうなる。その点においても疑いようがない。だから他人から見たら、なぜやらない、なぜ戦わない、なぜ逃げない、なぜ挑戦しないのか、となるわけだが、当人としては「できない」か、そもそも「思い浮かびもしない」感じになる。これらはそこら中にありふれた光景だろう。

人間だけが頭が悪い、というよりは、人間だけが認知と予測能力が発達しすぎて、現実よりもイメージが優先されているフシがある。

だから当人としては「ダメだと分かっているからやらない」形になる。それが無意識レベルで完結していたら選択肢が思い浮かびもしないだろう。

・ちなみに、似たような話で「カマス理論」なるものがある。魚のカマス。この場合ガラスに頭ぶつけまくって目の前に餌があるのに食わなくなる。コレもビジネス都市伝説臭い。

ともかく、ガラスを取り外しても頭ぶつけると思って餌を食わずに餓死する。この「呪い」を解除する唯一の方法が、「新しいカマスを一匹入れること」となっていう話なんだが、餓死までいかねぇだろと思うな。

ガラスの存在なんて知らない新入りカマスにとっては、ただの水槽だ。普通に目の前に餌があるから食う。それを見た「ガラスがあると学習したカマスたち」は、ガラスがないことに気づき、今までの分を取り戻すかのように貪り食ったそうな。

■アルバート・パンデューラの実験

・アルバート・パンデューラはカナダの心理学者。学習性無力感と対となるような自己効力感(セルフ・エフィカシー:目標達成に対して自分は能力があることの認知)の提唱者。彼の行なった実験にこんなものがある。

※引用

子供たちを実験群と対照群の2つのグループに分け、実験群の子供たちにはおもちゃの部屋で1人の大人が風船のように膨らませた「ボボ人形」に乱暴しているのを見せる。対照群の子供たちには普通に大人が遊んでいるのを見せる。

その後各グループの子供たちを1人ずつおもちゃの部屋の中に入れ、その様子をフィルムで撮影する。

 

結果、実験群の子供たちは対照群の子供たちに比べて目に見えて攻撃的だった。この実験からこどもは明らかな強化を与えなくてもモデルの行動を自発的に模倣することが分かった。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%AB%E3%83%90%E3%83%BC%E3%83%88%E3%83%BB%E3%83%90%E3%83%B3%E3%83%87%E3%83%A5%E3%83%BC%E3%83%A9

・要するに、子供は自発的に真似をする。大人にしたって見知らぬ集まりの中では、周りにそれとなく合わせて振る舞うだろう。要するに知らないこと、わからないことに対してはナチュラルに「模倣」という手段を取る。そして、知らないこと、わからないことに対して感じる感情は、大体は「不安」だろう。人がなにかに縋り付きたくなるのもまた、不安を抱えている時だったりする。

・アルバート・パンデューラの提唱する自己効力感の先行要因、つまり何を根拠とし、どのように「学習されるのか」には以下のような要素があるとされる。

  • 達成経験
  • 代理経験
  • 言語的説得
  • 生理的情緒的高揚
  • 想像的体験

今回細かいとこは置いといて、この内の代理経験は「自分以外の他人が何かを達成したり成功したりすることを観察すること」とされる。簡単に言えば観察、伝聞、つまり「見て・聞いて学ぶ」ことでも自己効力感の学習はできる。

・逆に大勢が失敗する、あるいは誰もやらない、あるいは誰もが何の疑問も持たない、あるいは誰もが諦めているような環境では、その「空気を学習して」、初めからそういうものだと思い、その「認知した世界」に適応する。

・簡単に例をあげようか。あなたが社会人だとして、全く理由なく有給休暇をまとめて全部取れるか?って話。

その権利はあるハズだし、雇用者は断れないハズなんだけど、誰もやらないね。それが必要だったとしても、できなかったり、堂々とは言えなかったりはあるよねと。海外からしてみると、「申し訳無さそうに言う時点でおかしい」って感覚らしいが。

まぁ実際にそれやったら雇用者側からの嫌がらせやら同僚からのやっかみやらがありそうだが、それこそさっきの猿の話そのものだろう。

・これらは「伝染」の経路そのものだ。学習機能それ自体が新たな認知を獲得しようとして勝手に学ぶ。誰かの常識・ルール・マナーは別の視点からしてみれば「未開のジャングルの作法」レベルに意味がわからんことだってある。わからんというか、意味がないことも。誰かに都合がいいから、そのままであることも。

・学習能力がオフにできた所でアホになるだけだろうし、まぁなんというか、プラス方面に働きかける方針でなんとかするしかないか。

■メモ

・脳は自分と他人の区別をつけるのが下手くそだ、って話は以前からあるわけだが、もしかしなくてもこれはむしろ積極的に共感やら感情移入やらして「仮想体験」による学習をしようとしてるんじゃないのか。

・「学習」に於いて、「予習」や「復習」は大事なわけだが、脳内が勝手にそれやってこんな事になってる。勝手にやってくれなきゃ大変になるわけだし、「人間」がやるべきことを考えれば、それは「認知の調整・誘導」となるだろう。

・ある意味その無力感はメタ知識的な位置にあるだろうね。だから他の色々なものに当てはまるし、当てはめようとする。

・当人にとっては、学習性無力感という名の一種の認知バイアスが掛かっている状態こそが「現実」になる。これに気づけるのは、何かに挑戦しようとした時くらいだろうか。普段は自然と行動選択から「挑戦」は外されるはずだ。これを知覚し、苛まれている人間ほど、挑戦しようとしているのかもしれない。

■参考文献

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AD%A6%E7%BF%92%E6%80%A7%E7%84%A1%E5%8A%9B%E6%84%9F

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%87%AA%E5%B7%B1%E5%8A%B9%E5%8A%9B%E6%84%9F

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