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残心と「今ここ」 

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剣道の残心

残心とは、日本の武道及び芸道に於いて使われる言葉。「残身」「残芯」と書くこともある、とされている。「未練」「心残り」という意味も持つが、あまりそのように使われているところは見ない。

心が途切れないこと。気を抜かない、だらしなくないことであり、まだその「技」が続いている状態。

偉い簡単に言ってしまえば「まだ終わっていない」と自分に言い聞かせ、油断せず、気を抜かないこと。

あるいは生活の場において、襖や障子の閉め方が雑だとか、閉め忘れを「残心ができていない」と叱る、徒弟が後片付けを忘れると「残心ができてない」と叱るなどがあるとされる。これらも油断・気を抜くなどと表現されることに対しての嗜めだ。

剣道の有効打突、つまり一本取れる攻撃の条件にも「残心あるもの」という項目があるそうだ。理由としては一撃で倒し切れない場合反撃されるため、攻撃が当たったからと言って油断しているようじゃいかんでしょ、とかそういうことらしい。

勝ったと思ってガッツポーズやVサインなんぞしようものなら一本を取り消されて負けを言い渡されるとか。しかも旗が三本上がった後に合議の上での取り消しだとか。

単純に、命のやり取りしている「最中」にガッツポーズなんてしないだろ、という解釈、ということでいいかな。終わったと思ってるのはそいつの頭の中だけで、相手も、この場合は審判もまだ「最中」のつもりであるからして。

空手や居合道でも技の後、特定の型を取るそうだ。反撃に備えるため距離を取る、刀を収めるのは一拍於いてから、など。

調べてみると剣道での残心の話が多く、大抵の場合は、例え相手が下手だろうが尊敬するとか、慮るとかの話とセットだった。これは残心と言うよりは、そもそも相手をなめて心を置かないことを戒めることとセットということだろうか。

剣道では「打って反省、打たれて感謝」なんて言葉があるそうで、もっと良くできなかったのか、やられたなら次からはこうしよう、と「相手」もまた教師というか、教材というか、そういった扱いの一種の尊重があるようだ。

ここから考えると、悩むことそのものは別に悪くないと言うか、そもそも自分から悩みのタネを探してるところは人間にはあるだろう。それをやらなきゃやらないで課題発見能力ゼロだな―とかそういう話になるし。悩みに於いての個人差とは、そのまま「悩み方」の上手い下手の問題があるかもしれないな。

ともかく、剣道に於いては残心とは重要なもののようだ。どのくらい大事かと言うと昇段審査の筆記で残心について書くらしい。

認知と残心

脳科学では、実際にはそれがまだ終わっていなくても脳が「もう終わった」「もうすぐ終わる」と感じた途端に脳の血流が落ち、性能が下がることがわかっている。

これが発生した場合、客観的に見たら「終わり際が雑」となる。つまり「油断」「気を抜く」などからの「雑さ」は脳レベルで起きる。「」はこの状態のトリガーとなる「もうすぐ終わる」を意識しないため、これを発生させないだろう。

厄介なことに意識はタスクが終わる前に他所に飛ぶ。ノミの如くに。終わる前に「次」は意識される。時には全く別のことを思い浮かべながら手を付け、残心以前に元から「そこにいない」こともある。そもそも心を置いてないと。

茶道での残心に於いて、

つい終わったという安堵から気が抜けてしまい、次の行動にと気が急いでしまう。

そうすると点前に緊張感が無くなり、席中の雰囲気も台無しになるのです。

http://rinnou.net/cont_04/rengo/1511.html

との描写がある。

人間は安堵すると気持ちは「次」に行く、というのはデフォルトと見たほうが良いだろう。これ自体は問題視しなくなった物事から関心がなくなるという意味では、別におかしくはない。

ただやはり、人間は先読みしたがり、終わってないのに「もう終わる・もうすぐ終わる」と気を抜くのが早すぎるように見える。

残心の概念が「」に似ているのは、どちらも禅や瞑想と関連があるからだろう。「」と異なる点は、残心は何らかの動作が終わった時に注目している点だ。

また、サンフランシスコ州立大学の心理学者で柔道のアメリカ代表監督でもあったデイビット・マツモトによれば、そういった「ゴールに辿り着いた」と認識して喜んだ瞬間にアドレナリンが出て、体が硬くなるとのこと。

この点、現実に命のやり取りでもしていたとして、もしも「勝ってないのに勝ったと思ったら」、隙だらけということになる。死ぬね。

現代に於いては死にはしないだろうが、イージーミス/ヒューマンエラーが出るとしたら「ここ」であることも異論はないだろう。交通事故くらいは起きるかもしれないし、割と命はかかっている話かもしれない。スマホ弄ってたら事故りました、って話は別に珍しくもないし。

メモ

「残心とは、『家に帰るまでが遠足』ということである」、と書こうとしたけどやめといた。

残心は「余韻の美学」がどうのこうのとする解釈もあるが、見た感じもっと「実用的」だと思う。これはクオリティを落とさないためとして機能するだろう。

この概念は非常に面白い。大抵の日々の所作はながら作業だったり、自動的だったり、反射的だったりする。日常生活に於いて残心を意識するためには、「いつそれを初めたか」「自分がちゃんとやり遂げたか」を微に入り細に入り意識する必要が出てくる。自然とメタ認知能力の育成になるだろう。

日本の精神論はなんというか、常在戦場がデフォな気がする。これらがストレスにならないのは、恐らく当人たちの美学と一致しているからだろう。現代に於いてもまぁ、できないやつは辞めるだろうし、生存バイアス的な意味での生き残り達が平気な顔しているのが大半だとは思う。ただ、こういった気を張ることに対して「慣れて身につく」ことが万人に可能ならば、自己実現に於いては非常に良い情報となりえる。尤もその対象だけは、当人にしか決める権利はないと思うがね。ただ、「自身を高める」という概念は、多くの者に於いて超正常刺激的な「良いこと」として認識される。割とやっていけるのかもしれない。

後は、面白いことに残心は「達成感」をぶん投げている概念だと言える点。「」に集中し、終わった後も残心する。武道においては命のやり取りはいくらか想定されているだろうし、達成感どころじゃない世界観なのか。

見ように拠っては、人間が直感的に認識する「ゴール」は、せっかちにも程があるってことだろう。結果的に達成感の前借り=油断に繋がる。
私は「勝って兜の緒を締めよ」って言葉、子供の時は納得行かなかった。なんで喜んじゃいかんのかと。まぁ今こうして書いてみてもこの言葉はストイックな意識高い系ドMに見えなくもないんだが、一理はあるのかもしれない。

認識による脳の状態や体の状態の変化。例えばストレスの害・決断力・集中力に於いては「気にする奴だけ影響がある」「限界があると思ってる奴だけ限界がある」という発表がいくらか出始めてきている。もしかしたら、余計な知識のせいで昔できたことができなくなってるかもしれない。尤も、忘れることも見知らぬフリもできないだろうし、今後そこら辺はさっさと解明してもらいたい部分だ。

ヒューマンエラーとかは残心ができてないと言えようか。尤も、あれはあれで睡眠不足や疲労などによる認知能力の低下が最大の要因だろうから、根本の原因は環境にあることが多々。

いっそもうちょっと欲張って、最初から「今、心をどこに置いているか」を意識したほうが良いような気がするが。メタ認知そのものか。どうも武道での残心は、元からこういったことができてること前提で語っているような印象を受ける。だから「終わるのが早すぎる」点のみの指摘に終始しているのではないか。

剣道に於いては勝敗に対しては「勝って驕らず、負けて悔やまず、常に節度ある態度を堅持する」とある。セネカでも喜びも憂いも程々に感じろみたいなのがあったはずだ。

なんかこう、勝利や達成に対して義務のように白々しい大仰な喜び方する連中がいるが、ああいうのよりは大人しい方がマシだろう。喜び方がどうこうって言うより安売りしすぎな奴ら。ああいうのと自分を見比べて心の底から喜べない、自分は感情薄いとか悩む人もいるみたいだが、それはそのまま「良いこと」かもしれないし、天然で残心しているのかもしれない。まぁ可能性としては、ある。比較対象はもうちょっと吟味したほうが良いと思う。

関西大学の武道学者、アレキサンダー・ベネット(剣道で錬士の称号を持っている)は、勝利して飛び跳ねて喜ぶ某オリンピック選手の姿を指して「あんな演劇見たくないです。武道家として恥ずかしい」と言っている。まぁスポーツとして見るか、武道として見るかで分かれる所なのだろうが。

■クレジット

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AE%8B%E5%BF%83

http://xn--fiq85he02a7l7a.com/archives/1265.html

https://ameblo.jp/hiroo117/entry-11627027501.html

https://www.hibari.jp/weblog00/archives/2014/07/post_2070.html

https://logmi.jp/66582







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