むっつり。
あるいは「毎日が楽しくない」「人生が楽しくない」と感じることの理由の一つかもしれない。
ポジティブ感情の表出抑制傾向
心理分析やうつ病チェックなどで、質問表はおなじみのものでは有る。ただしその質問の仕方で、ちょっと懸念があるそうだ。
「ポジティブ感情の表出抑制傾向」のようなものが日本人にあって,そのために,日本人のポジティブな心理的側面が正しく測定されていないのではないかという懸念である (これについては,岩田,2009が実際の研究をもとに説得的に論じている)。
www.jstage.jst.go.jp/article/sjpr/55/1/55_191/_pdf/-char/ja(論文)
たとえば「毎日が楽しい」のように,抑うつ症状のなさをポジティブな表現で問うているが,日米間で逆転項目のみで著しい差異が見られた結果から,日本人における「ポジティブな表現に対する反応抑制傾向」の存在が示唆された。
逆転項目は簡単に言うと、他の問題はYESだと加点するけど、その問題だけはNOだと加点対象みたいな感じ。心理テストの類はいくらかこういうのを紛れ込ませてあるのが常。
また,この回答傾向は,特に健常者において現れた。すなわち,日本人を対象にした研究で「毎日が楽しい」といった逆転項目の表現をした場合,うつ病患者と健常者とで回答に有意な差は見られなかったが,これを「毎日が楽しくない」のようなネガティブな表現に変えてみると,健常者においてはこれらの項目に当てはまるとする割合が大きく減って,うつ病患者との間に本来現れるはずの有意な差が現れた。
前提として、この論文を私が見つけたのは抑うつリアリズムについて調べている時だった。なので健常者とうつ病との対比が語られている。
日本人の「うつ病じゃない人」が、うつ病の人と同レベルで「毎日が楽しい」にNOつけちゃうから困る、ということ。
で、「聞き方」を変えた途端に、本来あり得るであろうだけの違いが現れた、と。
これまた前提として、このようなテスト(尺度と呼ばれる)は、アメリカなどの他言語からの輸入が多い。だから「日本版○○尺度の作成の試み」みたいな論文も結構見かける。この段階で、日本語・日本人向けに内容がローカライズされる。
まぁ海外ゲームの日本語版作るようなものだ。
「直訳」だとシナリオやセリフが意味を為さない可能性は想像に難くないだろう。
これらのことから,岩田は,日本人にはポジティブな心理的側面を質問した項目に対して,抑制的に反応するバイアスの存在を示唆している。
はっきりと「毎日が楽しくない」という質問ならNoが返ってくるが、「毎日が楽しい」だとこれまたNoを返す傾向。
これが自覚があるのかないのか微妙な所。「隠している」のか「無意識に否定している」のか。
人に向かって脈絡なく「毎日楽しい?」とか聞いたら嫌味かなんかに取られるだろうし、普段の会話ではあまりでてこないだろう。
「問われて初めて自覚する」ということはある。ここから考えると、自発的な自己認識としてはやっぱり「毎日特に楽しくない」みたいな感じにはなるだろうか。
これが楽しさだけじゃなく、ポジティブ感情全般にと思われる。
何が考えられるだろうか。
- 防衛的ペシミズム
- 完璧主義的な「引き算」
- 妬みへの恐れ
- 禁止令:「幸せになるな」「幸福を感じるな」
- ただ単にポジティブ感情をそんなに求めてないんじゃないのか
防衛的ペシミズム
一説によれば日本人に多いとされる。だが論文では逆の「方略的オプティミズム(楽観主義)」も数揃えて比較実験されてたりするので、大差はないかもしれない。
防衛的ペシミズムは、「悪い方向に考え」、「その準備をする」ことでしっかりやろうとする。素で死亡前死因分析に似たことをやっている。
このタイプは達成しても歓喜に打ち震えるようなことは少ない。「肩の荷が下りた」という感覚だろう。
この時に読んだ論文では、アンケートの自由記述に「楽観主義だと人生が楽しい明るい」という意見が多かった。
逆に防衛的ペシミズムだとこれらはない、というステレオタイプな認識は有ると思う。
つまり、楽観主義ではない(ポジティブに考えることが少ない)自分は、楽しくない、という計算的な認識。直接的ではなく。
ただこういった「楽しさ」は消え物だし、所詮頭の中の話だしな。阿片窟で夢見て転がってるのと対して変わらんと思うし。
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完璧主義的な「引き算」
完璧主義にも色々有るが、「理想像」が存在する点は共通する。
現状からそこに至ろうとするのが自己志向型の完璧主義で、これは前向きな「いつかそこにたどり着く」という形になる。
一方でその「理想像」が責任であり、義務であり、「今すぐ為さねばならない」とするタイプが居る。社会規定型の完璧主義。同じ内容の理想でも、こちらの方が強制力や強迫性が高い。
目的の理想像が存在するため(これ自体は結構なことだ)、現状を見る目は「引き算」になる。何かが足りないことにはよく気づく。
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今回で当てはめると、「楽しいとはどういうことか」が焦点となる。
パリピやウェイ系っぽいああいうアレをイメージしていた場合、「そうじゃないから楽しくない」として、毎日が楽しいとの設問にNOをつける余地はある。
理想像から引き算し、これとアレとそれがないから自分は楽しくない、ポジティブな状態じゃない、というこれも「計算結果」としての回答。
これ自分の「ポジティブな状態」のイメージが間違ってた場合にアホなことになるんだよな。
妬みへの恐れ
病的に嫉妬深い人間は実際に多い。
特に弟・妹的な、兄・姉の後ろをついて回り、勝てそうだったら必死こいて追い抜こう、先回りしよう、横取りしようという何が目的で生きてるのか良くわからん行動パターンを取るのはいる。大体「ズルイ」ってよく言うね。
これ中年になってもそのままの例が結構あるぞ。
というか犬でもこれが見られるあたり、本能なのかも知れない。
どうも好意から来るっぽいんだが、相手からは嫌がられてるね。犬同士の話だけど。
というか、脱抑制型対人交流愛着障害かな。
これに限らず、病的な人間に付きまとわれると、それに対応するような振る舞いは身につく。上記の例で言えば、自分が喜べば弟・妹がまたキチガイになって喧嘩を売ってくる、と思えば隠すだろう。
禁止令:「成功するな」「感情を表に出すな」
これも超自我に格納されてるんだろうな。
エリック・バーンの心理学である交流分析。この中に禁止令というものが有る。親からの非言語的なメッセージ、つまり素振りや態度、リアクションの有無などから幼少期に学び取った「教訓」。
子供の視点で学び取ったものだから、かなり単純で、乱暴である。
表記ゆれが結構あるのだが、その中に「成功するな」「感情を表に出すな」がある。
もう一度言うが、子供がこれらを「教訓」として自動学習してしまう。流石に面と向かって言う親も少ないだろう(皆無とは言わない)が、勝手にそう学んでしまう可能性はある。
子供の傷つきやすさ+親の子供に対してのデリカシーの無さ=禁止令誕生みたいなとこはまぁあるんだが、最新の注意を払ってもできる時はできるんじゃないかくらいには禁止令は生まれやすい。子供側に「過度の一般化」があるから。
他にもそれっぽいのだと、
「誰かにとって重要であるな」
「親しくするな」
「欲しがるな」
「自立するな」
「何もするな」
とかいろいろ。
これらが脳裡に有り表現に影響を与えると仮定すると、「毎日が楽しいです!」なんてのはもはや「言ってはいけない言葉」にすらなる。
ただ単にポジティブ感情をそんなに求めてないんじゃないのか
というか、防衛的ペシミズムとかそっちの傾向高いし、「楽しさ」を始めとしたポジティブ感情に対しての追求性が気質的に元から少ないんじゃないか。
某所では日本人98%防衛的ペシミズムのネガティブ思考だと言ってるわけだし。
で、これの根拠が多分だけどセロトニンを運ぶ遺伝子のことで、日本人はこれが短い。だからセロトニンがあまり運ばれない。体質的・遺伝的にあんまり「感じない」ものを、わざわざ追求するだろうか。
禁止令もろくでもないが、逆に「幸福でならねばならない」そして「幸福とはこういうものだ」というステレオタイプがうざいという意見もある。
これ禁止令と合わせて考えれば、拮抗禁止令:ドライバーにあたるのか。これまた人に変なことをさせることがある。
マーティン・セリグマンがTEDで語ったところによれば、幸福は快楽、夢中を追求する、意味がある、の3つとなっている。セロトニンの話は「快楽」に属する。
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彼いわく、(恐らくアメリカ人では)半分の人間しか、遺伝的には「快楽」では充実しないと述べている。加えてどの道「飽きやすい」ことはどうしようもないとも。
つまるところ、この「消え物の幸福」に、あまり日本人は注目していないのではなかろうか。
多分宝くじ当たったら、パーッと使うより貯金か投資に回す人のほうが圧倒的多数だと思うし。
一方でゲームの話では、遠藤雅伸教授が言う所の「温存」など、日本人特有の「楽しみ方」がある。ゲームをクリアしたら終わってしまうため、クリアしないなどの行動を取る。
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これは後に「ルドゥサー(ゲームクリアが目的)」と、「パイディアン(楽しむことが目的)」に分けられた。
海外ではこのパイディアン的な、いわば「クリアしたらもったいない」という感覚は、殆ど理解されなかったという。
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また、パイディアンを「求道者」として扱っている。つまり各々独自の「拘り」を大切にする国民性がある可能性。この上でそれとは別にプロクルステスの寝台に自ら横たわる面もあるが。
この場合、「日本人の実感できる幸福が、日本人の持っている幸福のイメージと違う」という矛盾を抱えることになる。
この上で、実際にラスボス前症候群とかあって、「クリアしたくない」VS「クリアしないのはおかしい」という内部葛藤も見て取れるので、結構あり得るかも知れない。
「楽しさ」と「充実」と、分けたほうがいいのかもな。
多くがセリグマンが言うところの「ハリウッドのようなわかりやすい幸せ」の他に、フロー状態や豊かな内面といった「他者には分かりづらい幸福」を得られる余地がある。そして現代の価値観では、その余地を自ら捨てることになるだろう。
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この「他者には分かりづらい幸福」に対して、自覚がないか、言っても認められないだろうという学習性無力感か、隠そうとしている(色々理由は思い浮かぶ)のではないか、というのが個人的な意見だ。
全てを包括して、「仮に幸福だったとしても、幸福だと言える「自信」がないかもしれない」。
この場合の自信は、社会的な圧力(脳内かも知れないが)との対比で語られる。それを上回るほどには、ないと。
ただ、ここまで述べてきたように、ほとんどの日本人が本当によろしいと思えるのは、パリピやウェイ系的な「にぎやかな」ものではなく、もっともっと「静的な豊かさ」のようなものではないか、という疑問が強い。
全員日曜日に庭でバーベキューやってそうなアメリカ人(ド偏見)でさえ、内向型であるカミングアウトは増え始めてきている。
同時に経営者で、自分が8時間前後眠らないと駄目なタイプだというカミングアウトが増え始めてきている。
これらはどちらも、アメリカ人的な、あるいは経営者像としての「ステレオタイプ」と合わないから今まで言いづらかったというのはあるだろう。経営者の睡眠時間では、しっかりとそう言っている例もある。
で、個人的に思うのだが、彼らがカミングアウトを初めたのは、勇気づけでも数が増えてきたからでもなく、ただ単に「科学的にこっちもよろしい」という証拠がでてきたからではないか。
「自分はこれでいい」と思うために必要なのは度胸じゃなくて理論武装となる。
じゃあ相手は?
ステレオタイプを押し付けてくる奴、ステレオタイプと合致しないからと否定してくる奴、となる。
それが「人」でないこともある。自分の中の超自我だとか。
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