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自分を責める・憎む・罰する心的機構:懲罰的超自我と自己破滅的な行動

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フロイトの超自我

フロイトは後期に人の精神構造を、

  • エス(イド)
  • 自我
  • 超自我

の3つに分けている。

イドは本能的欲求、生理的衝動。

自我は自分が自分だと認識できる部分。外界と接触し、外界へ伝達する役割を持つ。

超自我はイドの検閲を行う。


快楽追求的なイド (エス) と対立して道徳的禁止的役割をになうもの。5~6歳頃,両親の懲罰が内在化して,みずから自分を禁止するようになることと,その後の両親その他の価値観への同一視を通じて形成される。良心に近いがより無意識的に働くとされる。

https://kotobank.jp/word/超自我-97854

両親の懲罰、というより、マイルドに「親の予防的態度」としておこう。別に虐待によってではなく、親が「危ないことをしないようにきつく言っておこう」とする態度に属する。


道徳規範を命令する両親の役割を受け継いで,自我およびイドに対して道徳的な監察,命令,裁き,刑罰などを行うとされる。

超自我は自我に対して監視人,裁判官,指導者のような役割を果たす,いわば良心のようなものであるが,すぐれて無意識的である点で通常の良心と異なる。

超自我は両親の禁止や命令を内在化したものであるが,現実の両親像ではなく,両親の超自我を内在化したもので,それを中心としてあとから教師などを介してさまざまな社会的規範がつけ加わる。

極端な説明すると、トイレ行きたいからって場所を問わずにケツを出すことはしないだろう。それが欲しいからって、カネを払わずパクリもしないだろう。
これらはイド(本能・衝動)が、超自我に「検閲」されていると表現できる。

そして、これら非社会的・反社会的行動は普段は「思いつきもしない」はずだ。そのくらい無意識的・自動的に超自我の検閲は行われている。

加えて言えば、人が生まれてからこのようなことをどのように「学習」するのか。親にそうしつけられた、と考えるのが妥当だ。

このように、親の「しつけ」的な態度と内容が無意識下にコピーされ、さらに教師などの干渉から強化・補強されていく。


要するに、頭の中に「世間様」が出来上がるってこと。

超自我は、個人が持つ社会のイメージそのものだと言っていいと思う。フロイトの説の時点でかなり強い立ち位置に有る代物であり、「それに従わないことが懲罰的な意味を持つ(こうじゃなければ変であると感じる)」とも言われる。

完全に義務自己だな。内容が問われる。


くれぐれも言っておくが、超自我自体は必要な機能だ。
これが全く働かないなら「規範・規則を全く理解できない・体得できない」ということになる。

すぐにムショ行き、国によってはその場で叩き殺されても不思議はない言動をやることになるだろう。イドを制御するためのブレーキがぶっ壊れているということだから。

ただし超自我は、初めは未熟で極端であり、洗練されることに依って、一部が理性的になるとされる。

PACモデルとの類似

エリック・バーンの交流分析、その中にPACモデルという人格モデルが有る。
超自我をP(親)、自我をA(大人)、イドをC(子供)にすると辻褄合うんだよな。

超自我人格

超自我と対をなす「自我理想」という概念がある。

超自我型人格は

“自我は,自己の衝動とも外界とも葛藤することが多く,とりわけ,超自我から,『何々すべからず』,『何々を恥じよ』と厳しく命じられ,つねに気息奄々とした状態 にある”

と説明されている。

青年の自我理想型人格と超自我型人格の精神的健康

これはアダルトチルドレン、社会規定型完璧主義などとかなり共通する内面だ。
超自我からの「指令」に日々プレッシャーを掛けられている。

そして「恥」の感情の根源とも言える。


一方で自我理想は、自身が外部との接触で得たイメージを規範として取り込んでいく。超自我と対象的に考えられている。

自我理想はより個人に親和的な個人にとっての理想を表現した在り方を示すもの(こう在りたい姿)であるといえる。そしてこの自我理想が次第に超自我に代り個人にとっての規範となっていくのである。

青年期男子の自我理想とその形成過程より

超自我と自我理想は類型論ではなく、特性論で扱われるべきものだとされる。

簡単に例えれば、16診断じゃなくてビッグファイブで見ろみたいなもの。型にはめるのはわかりやすいが、その分絶対雑になる。
例えばお馴染みの内向-外向というパラメータ。51でギリギリ外向なのと、100でぶっちぎりで外向なのとを、類型論では同一視することになる。このリスク。

齊藤學の(?)懲罰的超自我

調べた限りはこの言葉使ってるのが彼しかいない。

フロイトの超自我は当人に義務を「やらせる」という面と、やらないあるいはできないことを「責める」面とがある。懲罰的超自我はこの「責める面」を特に強調して使用されている。

超自我は洗練されることで、一部は良心となるとされている。懲罰的超自我は洗練されていない、原始的な状態だとされる。

概要としては、度が過ぎた超自我が当人に破滅的な行動を取らせる。「懲罰」として。
例えばクレプトマニア。つまり窃盗症。万引グセなどに繋がる。
自殺にも。


齊藤學はアダルトチルドレンの概念を日本に伝えた第一人者と言える。後にメディアやにわかカウンセラーの無責任な解説(ろくに知らずに番組を作る・本を出すなどされた)、それを読んだ者たちの暴走もあり、当人はアダルトチルドレンという言葉を捨て「アダルトサバイバー」と呼ぶようになったが。

当人はアダルトチルドレンを見放したわけでもなく、それどころか「毒親の子」問題も含めて「たくさん話したいことが有る」と言うほどだ。

そういうわけで私としては患者たちの「至らぬ親」や「毒親」については、幾らでも話を聴く。しかし、それを語り尽しても(決して尽くせないが)何もならないことを知っていただきたいと思っている。患者の皆さんにしてもそんな暇はないはず。

彼らには、むしろパーソナリティ発達の可能性を信じて、今、出来ることから始めてほしい。方法がわからないなら、直接私に訊いてもらいたい。この半世紀の間、皆さんたちと関わってきたおかげでわかったことをお伝えしたくて仕方がない。

毒親と子どもたち 斎藤 学 (論文)

彼は窃盗事件の弁護士から依頼されて意見書を書いたらしく、それについてで懲罰的自我にも言及している。

蛇足ながら、当人における大うつ病性障害なるものを説明しておく。

うつ病圏障害(かつて気分障害と呼ばれたもの)には種々の疾患が含まれるが、当人の場合は、昨今の所謂「新型うつ病」ではない。

本件当事者が罹患していたのは、内因性うつ病ないしメランコリー親和型大うつ病性障害と呼ばれるもので、自殺や自己破壊的行動の危険を伴う病型である。

https://ameblo.jp/satorusaito/entry-12039957721.html

ともかく、時々ハイになる躁うつ病ではなかったとのこと。テンション上がって事件を起こしたわけではない。

被告の観察中に3回のうつ病の症例と、そのたびに当人なりの対応手段(つまり万引)しようとしたという。


大うつ病の罹患者が自傷他害事件などによってよる社会的波紋を起こす場合には内在する思考、信念(「うつ病性妄想」と呼ばれる)が作用しているものである。

事件として具体化した場合、男性では突発的暴力・暴言が多いが、女性では自分を犯罪者として屈辱の極に至らせる万引き行為となることが多い。

知ってる人は知ってる話だが、うつ病の者は時に非常に「凶暴」になることがある。普段のイメージとは違って。
ただ突発的でも脈絡がないのでもなく、デリカシーのない無理解な励ましに対して怒るとかが多いが。それを織り込んでも「凶暴」と評価できるほどには激しいことも有る。


注意をうながしたいのは、罪(反社会的行為)によって罪悪感が発生するとは限らないことである。逆説的ではあるが、非合理的な(理由の無い)罪悪感がまずあって、それに見合う犯罪が付随してくる場合があるという事実がある。

やはり「先にまず感情が湧く」ことはあるようだ。その後、「その通り」に行動する。予言の自己成就に似ているか。

だから「すぐに自分が悪いと感じてしまう」という例も、「問題」を認識する→自分が悪いと思う→その「証拠」を探す、という流れはあり得る。心当たりがあるから、ではなくて。


当該事件の犯人女性の場合、夫からの金銭にまつわる批判や叱責が絶えずあり、これに反撥しつつも、生来の小心から漠然とした罪悪感が生まれていた。


この無意識レベルの罪悪感が、自己処罰的な窃盗・逮捕劇の基盤になったと筆者は考える。そういうわけで、このタイプの窃盗者、つまり症候性窃盗者は容易に捕まる。捕まって屈辱的な立場に身を置くことは自らの無意識的欲望の一部でもあるからである。

  1. 罪悪感が有る。つまり自分が悪いと感じている。
  2. 自分が「悪者」として扱われるように動く。

恥をかく=罪悪感の証明が目的なら、簡単に捕まるのは妥当では有るが。ここまで超自我に身を差し出せるものなのか。


懲罰的超自我は当人の心的内面にこだまする自らを責め苛む声であり、その素材は当人が未だ幼く人語も理解できなかった時期に始まる大人の憤怒の声、それに伴って聞こえるガラスなどの割れる音などである。

超自我そのものは誰もが備えていて、その洗練された一部は良心とよばれるものになる。しかし懲罰的超自我は洗練されることなく、常に自己を責め続け、思春期~早期成年期における自殺や自傷行為の原因となる。

この場合、超自我は「規範や理性」などとはとてもいい難い、「恐怖と暴力」という形でのイメージになっている。

当人と呼ばれる女性は、この種の懲罰的超自我を内包した人であり、それは彼女の乳児期~幼児期にまで発生を遡れるからである。

当人の父親は会社社長を務めていたが、浮沈が激しい業界だったために、家計は常に不安定であり、それによる父母の口論が絶えず、激昂した父親が母親を殴打することも少なくなかったという。

実際この「当人」は、自分の夫にも恐怖感は持っている。


「自殺」は「懲罰」として取るなら有る意味わかりやすくも有るな。「自分」が悪いから、と。

メニンガーによれば、「死にたい」の他に、「殺したい」「殺されたい」という心理も自殺に繋がるとされることがある。
後者もまた懲罰的自我を引き合いに出すとわかりやすい。
前者は特に「そう思っている自分を罰する」あるいは「それができない(超自我が邪魔をする)から」という意味で、らしい。

自殺者の遺書を分析したシュナイドマンの研究では、青年の自殺者は「殺したい欲求」の占める割合が高く、高齢者の自殺者には「死にたい欲求」が高く認められることを指摘しています。

https://duarc.net/archives/2042

特に懲罰的超自我が露骨に怪しい「すぐに自分のせいだと思ってしまう人」の、アダルトチルドレンである自覚は多い。

懲罰を加える、批判する超自我をPACモデルのCP(規範的・批判的な親)、それを「やられる自分」をAC(従順な子供)とすると、やはり辻褄は合う。

齊藤學による自我理想

酒やクスリの乱用から脱したい人々にとって適切な案内役になれるのは、臨床心理学の修士号を取ったような人々(圧倒的に女性が多い)ではない。

心から回復を求める嗜癖者は、岩本氏や近藤さんを自我理想(手本)として自己の生活を律するようになるのだと前回に述べた。

https://gamp.ameblo.jp/satorusaito/entry-12014595333.html

これは限界的練習でも言われている「心的イメージ」とも通じる。あれもイメージの構築は一つの目的である。

結局の所、知識や理念だけじゃない「動的なイメージ」とでも呼ぼうか、そういった生きた、動いている、流動的なイメージも必要なのだろう。
超自我に収まっているであろう「ルール」のような個体ではなくて。

恐らくそれは、現実的な「判断」のモデルともなる。それがあるなら、「自動的」にはならないかもしれない。時にアドバイザーではなく、伴走者の方が望ましい場面が有る。


自我理想は理想的自己のことではない。この言葉の意味するところは広く、先に挙げた「手本」という意味は、その一つである。

自我理想という言葉の振れ幅が広いのは、この語の創始者であるジグムント・フロイト自身がその著作の中で多様な使い方をしているからだからだが、これが自罰的(懲罰的)超自我と対になる概念であることは強調しておいて良いだろう。

干渉されることにより出来上がったのが超自我、憧憬や好感など個人的なものが発端となって構築されるのが自我理想だと個人的には考える。

そのまま「ならなきゃならない自分」と「なりたい自分」の違い。
見ていると、超自我(ならなきゃならない)が強い人は、その分自我理想(なりたい・在りたい自分)が弱い、あるいは自分がどうしたいかわからないなどは結構多い気がする。

例えばアダルトチルドレンのプラケーター。「慰め役」という立ち回りはできるが、彼女(女性に多い)は自分が好意を向けられると「どうして良いかわからない」ので、時には逃げ出すという。
これは「役割」つまり今回で言えば超自我の下僕としては動けるが、自我理想つまり「在りたい自分」が自分でわからないことを意味しないか。


こうだとすると、自分らしさを実感することである「本来感」も、何にそれを感じるか次第では、よろしくない、あるいは危険ともなる。

プラケーターの例で考えれば、彼女は「慰め役」として振る舞っている時に本来感を感じる余地はあるが(義務感ややらされ感も有りえると思うが)、戸惑い、逃げいている時には感じないだろうし。


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