自立心、向上心、独立心が高く、要点を見つけることができる+やることやってる。頭の処理能力というよりは、動機や目的の時点での差が大きい。
また、非常に効率的である。時間ややる気などのリソースが限りあるものであると熟知しているように見える。この配分が上手い。
彼らが優れていることもあるが、要領が悪い人が自爆していることも多い。
関連ページ:
_要領が悪い人
理解力のある人 飲み込みが早い人
飲み込みが早いとは
「飲み込みが早い」と言う場合、「習得している」というニュアンスが強い。
習得や学習能力が高いこと。
コツを掴むのが上手い、身につけるのが早い、理解が早い、吸収が早いなどとも表現される。
全く同じ教育を施されても、個人差は出る。
これを一概に「頭の出来が違う」などとされることもあるが、大体はそうでもない。
観察力・洞察力に優れている
コツや要点を見つけるのが上手い。これは覚えるべき物事の量に直結する。
極端に飲み込みが遅い人などは丸暗記の傾向+完璧主義な傾向がある。教えられたことを「絶対」として、何も欠けずに覚えなくてはならない、としている。覚える量としては最大値になる。
反対に飲み込みが早い人の場合、圧縮や簡略化を行う。情報の要点だけを見切り、そこだけ押さえればいい。覚える量としては最小値になる。
彼らは一見記憶力がいいように見えるが、こういった圧縮や簡略化を自然と行っている。
一方で、飲み込みが遅い人も圧縮や簡略化を行っている場合もある。ただそれは不可逆圧縮(元に戻らない)に近い。要点を見いだせなければ、重要な部分を切り落としてしまう余地があるから。
観察力・洞察力に長けるということは、覚える量のスリム化と、思い出す時の正確さに繋がる。
「覚える前」に情報を整理している。量が減るからすぐ覚えられる=身につくのが早い。
観察はシミュレートにもなる。人間の学習能力はなかなかのものであり、他人がやっていることを自分がやっていると捉えて「学習」する機能は元々ある。
ミラーニューロンは他者の行動の理解、模倣の習得、他者の行動のシミュレーションをもたらすといわれている[30]。
https://ja.wikipedia.org/wiki/ミラーニューロン
疑問の解消を後回しにしない
疑問はすぐに解消する傾向。
「理解」している物事が多ければ多いほど、他のことを理解する下地になる。この性格はこういった「地力」を自然体で増やせる。
後回しにせず質問する、調べる人は、独立心が強いとも言えよう。疑問の解消の後回しが、自分のためにならない事がよくわかっている。
ただ、わかるまで聞かない人にしても、生徒役だけの問題とも言えない。
教師役は「教えたつもり」になりやすい。教師役だけの責任とも限らないが。
聞く側が「説明を遮っては悪い」と遠慮して、結果教師役が一方的にしゃべるだけで終わる、というパターンも多い。
「説明してもらったんだからわからなきゃいけない、でもわからないからわかったふりをしよう」というケースも有る。ただこれでは質問の意味がない。
教師役が遮られることを露骨に嫌がったり、知ってることを「暗唱」すればそれを聞いた奴は出来るようになると思い込んでいたりとかもある。
これは相手側の知識量や視点を全く無視しているので、ワンサイドゲームに終わりやすい。これらの点は当人の対人スキルや、人間関係の問題なども影響はある。
もちろん「今はわかんねーけど後でそのうち分かるようになるだろー」ってほっぽっとくのもいる。それでなんとかなることもある。一方でそのうち疑問に思ったこと自体を忘れ、同じところでまた疑問に思うかもしれない。
それほど後回しに反対はしないが、その前に「知らないと後で困りそうか」くらいは気にしたほうがいいだろう。
身につけるつもりで見る/聞く
理解が遅い理由の一つとして、「実行することをイメージしていない」事が挙げられる。簡単に言えば、使い道を考えていない。
「話」として聞いて、「言葉の意味はわかった」としている。この場合いざやろうとすると手が止まる。頭でだけ分かっている状態。
一方、実行イメージをする場合は「手順」として聞いて、「実際に出来るかどうか」を考えることになる。これにより自分はここからわからない、ここの説明は飛ばされた気がする、というのはわかる。
要するに、聞きながらすでにシミュレートしている。聞いたことを役立てるつもりでいるとも言える。
「教える側」は高確率で「教える教育」を受けてはいない。知っていることだから教えられるだろう、できているから教えろと指示された、その程度の話だ。
教師役のタスクは「知っていることを言語化して伝えること」になりがちになる。この時「言うほどではない」とする判断基準は、自分のレベルにどうしても影響を受ける。このため大抵基礎部分が抜ける。
逆に言うべきだと考える基準は自分の経験だろう。その点は際立たせるが、それ以外が過小評価されて伝わりがちだ。
結果として自分がわからない説明をされることもあるし、そうなら調べる/聞くしかない。
同様に「後で誰かに教えるつもりで聞け」というのもよくあるアドバイスだ。これも「使い道」の一つであり、それだけ身が入る。
説明する側の視点を持つことは、全体を把握する必要、要点を言語化する必要などが発生する。これの視点は聞く側の理解のためにも役立つ。
積極的である
行動を惜しまない。失敗を恐れない。陳腐な言葉ではあるが。
大抵の場合、過剰な丸暗記や義務感につながるのは「失敗して怒られて恥をかきたくないから」という思いが強い。これは根深いものであり、誰もがいくらかは持っている。まぁ親が子供にする教育からしてこれを助長させる傾向があるしな。
一方、飲み込みが早い人はこの辺りを必要経費として織り込んでいる。自分は初心者であり、失敗することもあるだろう、と。その上でも調べて、行動する。
謙虚であり、アクティブでもある。この謙虚さから質問することにも比較的抵抗が少ない。
自分の成長性に対しての信頼もあるだろう。実際に彼らは同じミスはほとんどしない。
他人の失敗からも学ぶ/自分のできることを考える
これも動機の話。簡単に言ってしまえば、自分に関係ないと思った物事は良く見ないから覚えない。ただすれ違っただけの人の顔なんて、いつまでも覚えてはいないだろう。
「明日は我が身」みたいな感じで関係有ると思ったら、よく見ないと困るからよく見る。結果覚える。
余計なアレンジ/思い込みをしない
飲み込みが早い人は「飲み込める人」だ、なんて話もある。
余計なアレンジや思い込みをせずにそのまま自分に取り込める人。
例えば料理がいつまでも下手な人は、レシピ通りにせずに大抵余計なことをやる。やれ強火のほうが早く火が通るはずだ、調味料の量はこのくらいでいいはずだ(目分量)、みたいな「こうであるはずだ」または「自分はわかっている(と思ってるだけでわかってない)」というのが多い。
この上味見もしないのは「うまく出来てるはずだ」ってところだろうか。
飲み込みが早い人は言い方を変えれば素直。この上で要点を見抜くのが上手い。これは飲み込みが遅い人が勝手に自爆をしているだけだという話となる。その分差が開く。
関連:
_理解力がある人と守破離/習絶真
自分の記憶力に頼らない
記憶するのではなく「記録」として残す傾向がある。
「要点」を見つける能力が高いことを示す。
メモやノートをしっかり取るというのは、「後で見返して何のことか分かる」レベルが求められる。この上で、素早く、端的に書くことが。
つまり観察・洞察力は必要になる。
メモは取っているけど飲み込みが遅い、というタイプは見返しても意味がわからない書き方になっていることが多いか、見直して整理する習慣がない。
カテゴリーでまとまっていない、印象に残った部分の走り書きのみ、特に「状況」がすっぽ抜けてることが多いかな。「内容だけ」書いてあって、それがいつどこでの話なのかわからない、だとか。
或いは「相手が話したとおりに記録」しようとするだとか。それは書記であり、メモを取ることとは違う。
コーネル式というノート術が在るが、あれも「理解してから書け」またはなるべく簡潔に箇条書きなどで書き写せとされる。丸写しは頭を使わないから。
ひたすら書くタイプの勉強法もあるが、やることが単純な分、回数が必要だ。一回やっておしまいとするなら足りない。
明日の自分は他人
「今わかる」書き方は、数分後には「わからない」となっていても別におかしくはない。
人間はワーキングメモリという、一時的な作業領域を利用して物事を理解している。これは長くても数分しか維持できない。書いたときには一時記憶で補足して理解できるが、それが消えたら何書いてあるのかわからない、となる。
逆に「書いたら安心」「困った時だけ見ればいい」という使い方(=自分のメモ能力を知る機会が少ない)は、メモのとり方を上達させる必要性に気づかない。
これらのメモは「自分が必要だと思った知識」の集大成だ。これらをまとめることは、自分の頭の中の整理にも繋がる。
まとめたものを教師役に確認してもらえば、自分の理解が正確か否かも双方わかる。
関連:
_メモをとる時の注意点
自分を信じない
優秀な人間ほど、自分の記憶をあまり当てにしていないように思える。
例えば物をよく無くす人の方が、「どこに何があるか自分には分かる」とか言う。無くしたら「次からは気をつける」「もっと注意する」と言う。
実際に物をなくさない人は、置き場所を決めて、いちいち覚える必要がないようにしている。まぁその分他人が勝手にいじったりしたら怒る。
前者は「能力」で解決しようとし、できていない。
後者は「システム」で解決しようとし、できている。
「成長」という概念が時に足を引っ張る。要領よくさっさと覚えりゃいい話を「身につける」という回りくどいタスクに変えてしまう。結果何度も繰り返し失敗するようなことを自分からやったりだとか。「練習」をしようとして。
前後を把握している
全体から見てその作業がどんな役回りなのかの理解。
その作業の前の工程、後の工程を把握している。
ここを抑えないと次で困ることになるから慎重に、ここを前の工程でやっておいてくれないと困るから確認しないと、などが分かるようになる。或いはここを気をつけることにどんな意味があるのか、という理解にも繋がる。
これも要点を見つける能力に関わる。
要点同士の理解/パターン化
要点を起点としての全体像の把握。
要点は割と教えてもらえるかも知れない。ここを気をつけろ、ここは間違えやすい、ここは抑えなければならない、と。まぁ周りも困るからね。
で、たまにいるが、「そこしかやらない/気をつけない」人とかはいるわけだ。これは要点「だけ」、それも教わった部分だけ抑えている状態。
要点と要点のつながり、全体の骨格が見えてくれば、他の気をつけるべきこと、コツなども見つけやすくなる。
パターン化は要点の共通点を見つけ、他にも適用することだ。
他人にはそう見えるだけ
影で努力している
特に今日学んだことのまとめや、今後やりそうなことの予習など。単純にやることやってるパターン。
これについては幼少期からの習慣であることが多い。
基礎部分が頑丈になる。後は要点を追加していけばいい。更に強固となるだろう。
この上で、一部の人は努力を隠す傾向が高い。多く知ってるが、基本的に理由は「邪魔されたくないから」だ。
人目が気になるからというのも有るし、努力している人を見ると「抜け駆けしようとしている」とか騒ぐ不健全な仲間意識を持った者のせいでもあるし、「そんなことをしても無駄だ」と曰う選民思想や冷笑主義者のせいでもある。
うんまぁ、隠したほうが利口な気がしてくるな。
下地ができていた
予備知識と慣れに直結する。それと類似した経験がある、或いは類似した技術を習得しているパターン。
同じ「始めて」だとしても、スタート地点は平等ではない。各々の経験により習得率は変わる。ドラクエやったことあれば、コントローラーに触ったこともない奴と比べればFFもやれるだろうって話。
能力、性格から見てそれほどじゃないはずなのに、一定のカテゴリでだけ非常に飲み込みが早いなどの現象が起きる。
小学校のクラスでいなかっただろうか。ドッジボールやサッカーしか頭にないようなのが三国志や戦国武将にだけ異様に詳しいとか。そういうのが複数人居たから聞いて回ったんだが、兄か父親が家でその手のゲームしてたの横で見てたってさ。
他人が見れば「一を聞いて十を知る」となるだろうが、当人からしてみれば「知ってることと同じだった」ということになる。別分野(この場合はゲームと授業)の知識の流用。
これは才能は経験で補えるという示唆である。
理解力を上げる 飲み込みを早くするには
何を覚えようとしているか
心理学で「構え」と言うのだが、簡単に言えば「どんなつもりで学習にあたるか」という心構えの話。これは無意識に構えていることも多い。これが違うと「覚えた」と自覚するゴールも当然違うため、差は出る。
何を学習するか、という点について考えれば、その物事のパターンとシステムの2つに分けることができるだろう。
パターンはそのまま「流れ」を学習する。再現のため。要領が良い人は最初はこちら。
一方システムを覚えようとすると、「理解」が必要になる。当然楽ではない。難易度は比較的高く、時間がかかる。要領が悪い人と見られる。
例えば「スイッチを押せばライトが付く」という件で、その通りに覚えればライトのオンオフは可能になる。
この場面で「なぜスイッチを押せばライトが付くのか? なぜもう一度押すと消えるのか?」とか哲学を始めれば知るべきことも覚えることも膨大になる。
これは無駄ではないのだが、特に仕事においてはさっさと役に立つレベルになってほしいというのはある。加えて教えなきゃいけないことは山積みだ。次が待っている。
反対に、さっさと「できる」ようになるパターン的な理解なら、予定は順調に消化できる。もっと教えてもらえるから、当然できることが増える。客観的に見たら、この二者の実力は大きく差がつくことになる。
これは「詰め込み教育の流れに乗れるか」という話だ。頭の善し悪しであるとは言えない。例えばエジソンに義務教育は無理だった。アインシュタインも、どうも快く思っていなかったフシがある。
問題はパターンを覚えるということが「できない」ケースのほうだ。エジソン少年はおそらく、義務教育に対してはそれができなかった。泥団子2つくっつけて「1+1は1じゃないか」と言うのはどう見ても「飲み込めてない」。
これは客観的に見れば要領が悪い。言い方を変えれば、時に「理解」は必要なく、これはこう言うものだと「飲み込む」ことが必要であることがある、となる。
関連:
_要領が悪い人
飲み込んでから理解
もちろんパターンの学習だけでも問題がある。パターンの学習は当然ながら、トラブルに弱い。想定内のことなら最速のアウトプットができるが、想定外のことだと最速で間違えるかフリーズするかのどちらかになる。
「テストで点取るためだけの勉強」と言えば分かるだろうか。この表現は勉強だけできるやつの代名詞っぽいが、少なくともテストで点を取るという目的自体は果たしているため、間違ってるとは言えない。
むしろ「勉強なんぞ全てテストの点数のためだ」と割り切って効率的な勉強をする者もいる。
これは技能単位での丸暗記に近い。丸暗記の弱点と言ったら、おなじみの「応用力の不足」だ。
応用力も、要領の良さや理解力と同類のものだろう。
で、何が応用力となり得るか、といえば「システムの理解」に他ならない。メタ知識とも呼ばれることがあるが。
例えばパソコンのキーボードでタッチタイピングができ(野生のタイピングではなくシステム的な理解をしていれば)、この上でテンキーのある点に気づいていれば、間違いなく初めてでも手元を見ずに数字入力だけならできる。
成長率に補正がはいるというよりも、スタート地点に補正が入る。
1を聞いて10を知る、とまでは行かないが、これは1を知って2を実行できている例だ。
言葉にすれば「似たようなもんだから似たような使い方はできる」という話だが、理解度が低いとそもそも似たような2つが「似たようなもん」に見えない。
共通点がまったくない別物に見える。そうなれば当然「ああ、アレと同じか」とはならない。0からのスタートになる。
思うに理解を深めるというのは、他の知識とのつながりを容易にさせるのだろう。思いつきやすい、閃きやすい。
もちろん大して重要じゃない、「できりゃいい」だけのことなら、パターンだけ覚えてハイサヨウナラ、でも構わないと思うが。
LEDの発光原理を知らなくても、スイッチ押せば照明はつくわけで。それ以上のことを知っても「雑学」扱いなのが現実だ。
理解の優先順位は常にトップとは限らない
スマホを使っている奴は別にスマホを作れない。でも使える。
鳥は空を飛べるが、別に航空力学を知ってるわけじゃない。でも飛べる。
システムの理解とは、まず実態というか対象があって、それを分析、調査、研究して明らかになる=言葉にする科学のような属性が強い。既存の物事に「なぜ?」と問うことから始まる。
「覚える」というフェイズで、研究を始めるのは大抵の場合歓迎されない。必要なのは「分析と理解」ではなくて「観察と習得」だから。
ただし、システムが気になる性格は別に悪いことじゃない。自主的な予習や復習の頻度は比較的高いだろう。
どのみち実用的な覚え方は、
- まずできるようになる
- 理解する
という形が良いのだろう。仕事だと特にね。まぁ業種によるか。
一方で、正反対の順番で覚えようとする人も多い。動機はそれぞれだが、いずれにせよ「万全を期そう」とすると遠回りしやすい。
具体的思考と抽象的思考
思考を具体的思考、抽象的思考と分ける考え方がある。
一般的な言葉のイメージとしては具体的な方が「賢い」、時には「真面目」と思われがちだ。実際の所は反対で、抽象的な概念の扱いが高度認知機能とされている。具体的なものはそのまま覚えればいいから楽。
逆に「目標」としては、具体的じゃないと何をしたら良いか思いつかなかったりで、一長一短。
「抽象的」なのは具体性のない曖昧なものであるが、その概念を扱うには関連する情報とのリンク、柔軟性なども必要になる。認知症になるとこの辺りがダメになってくる。
例えばおまんじゅうがあるとします。
「おまんじゅうある?」と聞かれたら「あるよ」と答えられるのに、「何か甘いものはある?」と聞かれてもおまんじゅうは浮かびません。
抽象的な考え方が低下すると、特定の物を言うとわかりますが、あいまいな表現になるとわかりにくく、たとえ目の前にあっても「ない」ということになります。
https://info.ninchisho.net/symptom/s40#id1-1
「理解」もまた、具体的なものと抽象的なものがあるように思う。
具体的な理解とは、丸暗記に近い。抽象的な理解とは、関連する情報を抜き出して扱うという高度認知機能でもある。「応用が効くのはどちらか」を考えれば答えは明白だろう。
例えるなら人工知能における「弱いAI(具体的な理解)」と「強いAI(抽象的な理解)」だ。
前者は人工無能とも言われる。チャットボットとかがそうだね。入力に対して予め用意された解答を返す、それ以外はワカラナイというもの。明確に「これに対してこうしろ」というインプットがない限りはアウトプットができない。
中国語の部屋
「中国語の部屋」というたとえ話がある。人工知能関連の思考実験だったかな。
中国語で書いた短いメモをドアの隙間から差し入れると、中国語で書いた返事のメモが返ってくる。当然中にいるのは中国人だ、と普通は思う。
実際には中にいるのはイギリス人で、中国語はさっぱりわからない。メモに書いてあるのは文字ではなく「記号」だと思っている。ただ「この記号の並びにはこう返せ」というマニュアルがその部屋にはあり、そのとおりにしているだけという話。
このイギリス人は、記号を元に記号を書いて送り返していると思っている。部屋の外からは「中国語のメモに中国語で返事を返している人がいる」と見える。
つまりは意味がわからなくてもできるし、他人には「分かってるからできる」ように見えるという話。加えて言えば、「出来るようになるためには、分かる必要はない」。ただし、ものすごく落ち着かない。
実践と理解
別の切り口で、教える側と教わる側の食い違いの原因にもなり得る。
教える側が理解を目的とした「抽象的な理解」をさせようとしていても、教わる側が「具体的な理解」、即ち実践的なことを教わっているつもりで聞いているならうまく行かないだろう。
教師役は時に「考えさせるための課題」を与えるが、生徒側がそれを「指示/命令」のつもりで受け取るならば伸びない。
逆に教師役がとりあえずこれ丸暗記しろと実践的なことを促しても、部下が抽象的な理解を得ようとして回りくどいことをしてれば、伝わってないことになる。
この辺りはやれ教えるのが下手だとか、やれ真面目に聞いてないだとかとされがちだが、「構え」が食い違ってるだけかもしれない。まぁ意図は説明したほうがいいね。
メモ
予習について
昔見かけた話だが、海外の事業家がこう言った。
「自分は一日に4時間しか仕事をしてない」。
要領がいいね。すごいね。
で、これ見た他の者たちがこう言った。
「お前それ以外の時間も仕事のことばっか考えてんじゃねーか」。
これは一見すると、単なる見栄っ張りに見える。ただ、ここから学ぶことも出来る。
この経営者は、「実働」が4時間で、それ以外は頭の中で「実働の準備」をしていたと言える。良いアイデアならメモくらい取るかもしれないし、気になることは調べるかもしれないから、頭の中だけとも言えないが。
要領の良さとは、行動が滑らか且つ効果的であることだと言える。行動の滑らかさは「動き」だけではなく、次に何をやるべきかなどの段取りの把握も大きい。
タスクが終わるたびに仕事を探すのでは、要領が良いとは言いたくないだろう。予定している行動が効果的かどうかの脳内シミュレートも、時間が有れば可能だ。これらを事前に済ませておけば、実働の4時間はかなり効果的となっているだろう。
つまるところ、恐らく実際に要領はいい。
「後はやるだけ」の状態にまで、準備しておくこと。言い方を変えれば、従来の作業はこれらの「実働以外」の要素が多分に含まれている。調査、確認、シミュレート。勉強もこれに入るか。これらは「予習」の一言で括ってもいいだろう。
「予めやっておけること」を済ませておけば、残りは実働のみとなる。
何か思い出すなーと思ったらこれあれだ、料理の下ごしらえだ。予め火を通しておくとかの。
全体を通じて、「要領がいい」というのは、観測者がその人の要領がいい所しか見ていないだけではという疑いは持てる。準備や用意を目の前でしているかもしれない。