守破離
・『守り尽くして破るとも離るるとても本を忘るな』。武芸での師弟関係のあり方の一つ。
守、破、離の3つのプロセスがある。破と離が反抗的な印象をもたせるが、そうでもない。
教わったことを守り実行する(基本を身につける段階)
作業を分析、改善、改良できる
それを元に新たな知識を開発できる
の3段階。
極端な話、「頭良く見られたい」なんて思ってると、いきなり破として教わったことにケチつけたり、いきなり離としてトンデモアイデア発表したりになる。これらは「わかってるアピール」として、守破離を知らなくてもやらかすケースが有る。
・理解力があると「見せよう」とすると、裏目に出る。その心理は見栄とも限らず、理解力がないって言われたらあるとこみせようと思うのは自然かも知れないが、焦りがあるのも事実だろう。焦れば先へと進みたがる。
また、教わったことを暗唱できるだけではまだ「守」の段階が終わっていない。守を完了した時点でもう一人前だそうだ。
・理解力があるというのは、守を速やかに終えるということだ。ここをゴールとするなら、実行することをイメージして教えを受けるのが早いのも道理だろう。
教えを受ける目的を破や離としてしまえば、ケチを付けるか思いつきを口にするかになるのも道理だろう。
・ただ個人的に思うのが、生来の気質などで、守に向いている者(理解力がある)、破に向いている者(システムとして分析、改善ができる)、離に向いている者(発想に優れる)などがあるようにも思う。スピード社会だから守が重視されがちだが。
尤も、破や離を行うためには守がどうしても必要で。
習絶真
・守破離と似たような言葉で仏教用語に習・絶・真というのがあるらしい。守破離と同意義とされる。
・習は、習う。守に該当する。この時点で「思い込みがなくなるまで徹底的に基本を行う」としている所もある。守の方も「私意を差し挟むことなくひたすら基本を身につける段階」とされている。
この段階で正しい形を「身につける」。
・この「思い込み」や「私意」に対してイメージが沸かない人もいるかも知れない。
例えば、筋トレマニアの前でスクワットやら腹筋やらしてみるといい。多分、大体は姿勢ややり方について意見が出てくるだろう。それでは筋を痛める、効果がない、などと。
逆を言えば、それまでは「これでいい」という思い込みはあったことになるだろう。間違いは「正しい」と思っているものの中にある。このようなものを頭から削除する/正しい形に修正するというのも工程に含まれるということ。
・絶は、教わることがもうない、という段階。現実に適用するなら「そのことについてはもう大丈夫」、って段階。理解力がある人はここだと言えるだろう。
基本を習得しているから、問題なく応用ができる。逆にいきなりここからだと、成果のないことをひたすらやり続けることになる。いきなりここから始めようという人は多いらしい。
・真は、真理を悟った状態。プロがやる曲芸とかそういうレベル。「自己流」が許される段階。
ただ、仕事とかでここを目指すべきというのは少ないだろう。むしろ「いつまでそんな事やってんだよ」とか言われそうだ。
理解力がもてはやされるそもそもの理由に、「覚えることが沢山あるから」というのはあるだろう。この場合、曲芸はほとんどお呼びじゃない。
メモ
・理解する、というのは「基本を素早く抑える」と見ていいのではないだろうか。
一方、理解力を示そうとすると、理解した後の段階をいきなりやろうとしがちで。
関連ページ
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参照
https://www.weblio.jp/content/%E5%AE%88%E3%83%BB%E7%A0%B4%E3%83%BB%E9%9B%A2