・「やる気は後から出るもの」という話も結構見かけるようになってきた。作業興奮と呼ばれる、手を付けてしばらくしてからやる気が出てくる、という話。
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・たしかにその通りなのだが、手をつけるやる気がねーんだよ、という意見もある。
これは「『やる気』に求めていることはなにか」と考えると、欲しいのは「タスクに手を付けるためのやる気」ということになる。
始めるためにやる気が欲しい、というのは情熱を、熱意を持って、意欲に満ちた状態で意気揚々と取り掛かる、ということだ。
「始めるためのやる気」に対しては、作業興奮は全く無力、役立たずな話となる。死んだ後で金が貰えるとか言われてるようなもんだ。それが欲しかったタイミングをとっくの昔に通り過ぎている。
始めるためのやる気が沸かない
・これは動機づけが足りてない状態だろう。実行するだけの価値・意味を感じられない状態。たとえ頭で分かっていても。
動機づけは「モチベーション」とも呼ばれる。これはそのまま「やる気」と訳されることもあるね。
「行動を始発させ、達成に向かっての維持、調整をする機能」とされる。ここでは「始発」のためにモチベーションが必要だ、という話となる。
動機づけはその発生源から外発的・内発的の2つに分けることができる。
内発的動機づけはシンプルに「やりたいからやる」という意欲。外的な要素には依存せず、自分がやりたい、知りたい、試したいなどの動機による。これによる学習は継続し、効率的であると言われている。
一方外発的動機づけは他者/外部による賞罰が関わっている。褒められるからやるというのもそうだし、バカにされるからやらないというのもそうだ。アメとムチ。
外発的動機づけは親子関係や仕事上でよく見られる。
他人が関わらない自分の問題のタスク、例えば自分がサボった所で怒られないような話だったとしても、それにより自分が「困ることになる」のなら、それは外的な強制力のある「外発的動機づけ」と呼べるだろう。例えば受験勉強をサボれば志望校に受からない、周りに何を言われるかわかったもんじゃない、というのは。
ただでさえ「恥」の概念は人に相当な影響を与えている。一長一短だが。
やって自分のためになるのは確かでも、やらなかったらヤバい場合、「やって当たり前のやるべきこと」になる。つまり義務化。これはペナルティ(罰)が気になってリワード(報酬)が目に入っていない状態。
この場合意欲として、つまり内発的な動機づけの「やる気」はでない。自分がやらなきゃいけないことに対して「仕方なく嫌々やる」形になる。ムチに怯えてアメに目が行かない状態。
重大な、やるべき、やりたいことに対して使命感を感じた結果にこう思ってしまいがちなのは気をつけたい所。
始めるためのやる気が抑制されている
どの道やらなきゃいけないと思うことってのは、やったほうがいいことでもある。ある意味この時点で「やらない理由はない」。それなのにやる気が出ないとはどういうことか。
前述の通り、義務や罰に対してのプレッシャーはそのまま阻害要因となる。これらを想像しただけで結構なストレスだし、元から苦手だった場合には脳は「痛み」すら感じている。
参照:https://embryo-nemo.com/434/#i-6
数学嫌いがこれから数学に取り組まなくてはならない時に、最も脳は痛みを感じていた。その実験の教授いわく、「例えば燃えているストーブの上に手を載せたときと同じです」。
面白いのが、そんな彼らが実際に数学に取り組んでいる時の脳はほとんど反応を示さなかったということだ。
つまり、嫌すぎると「激痛」というレベルでやりたくない。だがそれはやる前の話である。
要するにこれから重大な、苦手な、大変な、責任のある、自分の将来を決めることをやるのだという「予期」が痛みを発生させている。
痛みってのはそれはよろしくない、今時分に起きていることはやばいというシグナルだ。だからそれが怪我なら癒そうとするし、今後は「そのような目に合うことは避ける」。
残念ながらこのようなそもそも発生するのが間違いな「痛み」が、やるべきことに対して発生するというのは事実だ。その痛みを前に引き返している状態。
リアリティとファンタジー
また、ダン・アリエリーなどが示唆しているが、人間は時間的な意味で「近い」物事を過大評価、「遠い」物事を過小評価する。体に悪く、かつ誘惑するような物事に対して人は割と簡単に折れるのはこのためだ。まぁ食い過ぎとか飲み過ぎとかね。
要は、目の前のことにはリアリティを感じるのだが、「将来的」になればなるほどファンタジーになる。絵に描いた餅だ。
この場合、「痛み」こそが現実の問題であり、それに取り組んで手に入れる未来は絵に描いた餅になってる。ある意味で「今、ここ」には痛みしかなく、それを受けるか避けるかを問われている状態だ。
「痛い目にあいたいか」と聞いて首を縦に振るマゾはそうはいない。この問には痛い目にあう事によるリワードは提示されていない。つまりメリットが一切ない。単純に「痛い目にあうか、あわないか」という選択。
少なくとも脳が認識している状態はそれに近い。これにやる気は出せないだろう。
「今」いやだから、痛いから、やだ。という気持ち。遠くに「理想」があったとしても、それどころじゃない。まぁ病院行くことに全力で抵抗する犬や子供でも思い浮かべればわかるだろう。
ともかく、一見すると、損得勘定(理性・思考)で考えればメリットしか無いような「やるべきこと」が、脳からしてみれば「痛い目にあうか、あわないか」になっている。
これに対して全くやる気が出ず、やらない選択をするというのは脳的には妥当な判断だったりする。判断が間違っているのではなく、認知している問題が違う。計算結果が違って当然だろう。
自主的な自分のためになることが、好きなこととは限らない。それが苦手だったり嫌いだったりした場合には、脳はそれをやるかやらないかを、今の痛みを受けて絵に描いた餅がほしいか、痛みを避けるかという二択として認識している。
つまり認知的には選択の時点でリワードと呼べるだけの価値あるものが存在していない。リワードを本当の意味で「脳に見える位置」に置かない限りはアメにはならない。リワード側のリアリティを上げる必要がある。
ともかく、「嫌な部分しか見えていないからやりたくないと思う」という話。イコール、やる気出ない。
なぜ始めるためのやる気が求められるのか
欲求、衝動、意欲。「やりたい」という気持ち。やる気がでないと悩むのは、これらがほしいということ。
痛みの例もそうだが、始める前が一番心理的なハードルが高いことは昔から言われていることだ。「予期」が現実よりもプレッシャーを与えている。
ぶっちゃけてあれだ、「始めてみりゃなんてことはない」なんてこと、経験則として多くの者がとっくに知っているだろう。「それなのに」、手を付けることに抵抗がある、と。
この問題に対しては作業興奮の概念はせいぜいアメの立ち位置にしかなれない。尤も、作業興奮を実際に経験することにより「今やる気なくても大丈夫」と思って手を付けるようになれればいいとも思う。
重要なのは、脳にとっての判断基準が物事の大小ではなく、大きく「見えるか」小さく「見えるか」である点。目の前の脱線するような誘惑や「痛み」に負けるのは、そちらの方が脳の判断基準では問題だからに過ぎない。
意志の強い弱いではなく、タスクへの認知の仕方の問題だろう。やったほうがいい理由がやらない理由より「大きく見える」ようにする必要がある。実際の大きさとは別に。
根本的な話
・はっきり言ってしまえば、「やる気がある状態は生物として異常な状態」だとする説もある。
冒頭で書いたが、なんでもいちいち情熱と意欲を持って意気揚々と物事に取り掛かるのも、なんというか、キモい。居るだけでうるさいタイプだろうこれ。本人は良いんだろうが、周りのやる気が削がれる。
こういった態度を一部の者が求める、強制しているだけ、という面もあると考えられる。
・学習性無力感の提唱者であるマーティン・セリグマン、後にポジティブ心理学を研究し始めた。
彼の言う所の「幸福の種類」で言えば、巷で言われている「やる気」は「快楽の幸福」に近い。熱しやすく、冷めやすく、飽きやすい幸福。まぁやる気が欲しいってのは行動力=活動量が欲しい場面だろうから、それで良いのかも知れないが。
一方、セリグマンが説く幸福には「静かな集中」「静かな没頭」もある。こちらを意識したほうがいいのではないだろうか。
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