・自分の意見が「ない」ではなく「言えない」ケース。
自分の意見を言うのが怖い原因
相手の機嫌を損なうのが怖い
・意見を「言う」からには、大抵その相手がいる。加えて「意見する」という言葉が持つように、相手の主張や在り方の否定や異論となり得る余地が多分にある。
このためこの感情は加害の余地の推論であり、度が過ぎれば加害妄想(自分が人を傷つけてしまうのではないか)に近い。
これがないと相当にアレなので、まぁあった方が良い機能だが。ちょっと過剰に働いているかもね。
空気を変える/壊すのが怖い
・意見することは社会的か個人的かで言えば、大抵個人的な側面を持つ。このため集団に対して既存の空気や流れを変化させる余地がある。
周りが盛り上がっていると特に意見を言えないなどはあるわけだ。「みんなで旅行に行こう」みたいな話で行き先が沖縄であること前提の時に別のとこが良いとは言い辛いみたいな。
この場合、意見を言うのが集団か個人かで区別がつく。集団が相手の時に限って萎縮するようなら、空気を尊重し過ぎかも知れない。
一方で同調圧力をフルに使いこなして自分の思い通りにしようとするのとかいるので、まぁ周りに恵まれていないだけかもしれない。
自分の意見を否定されるのが怖い
・意見を述べることに対しての危惧にはいくらか「喧嘩になるかも」みたいなのが確実にある。対人トラブルのロシアンルーレットのトリガーとして認知しているなら、まぁそんなもんやりたかない。
自分はそんなつもりはなく、言い方にも問題はないとしても、「相手」がいる限り確実なことなんてないのもまた事実。曲解して「攻撃された」と思い込み、「反撃」として否定してくるかも知れない。
またはこちらの意見が論理的に穴だらけで、そこを突かれ、否定されるかも知れない。
これらは相手の敵意帰属バイアスへの懸念や、自分の意見への不信感などに由来する。
自分の行動への不信感の場合は行動疑念と呼ばれる。完璧主義の要素の一つだが、これ自体は精度を上げる効果がある。
注目されたくない/知られたくない
・根本的に、自己紹介すら緊張する余地はあるわけで。
意見を述べることは、思考回路や目的、価値観なんかを逆算されるリスクが有る。「自分のことを知られたくない」という心理は別に秘密主義者じゃなくても持つ。何でもかんでもオープンな人間は、他人のそういう心理に理解を示すことが期待できず、逆に信用ならない。
プライバシーの定義とは、自分の情報のコントロールであるとされる。何を公開し、何を非公開とするか。他人に知られた時点でこのコントロールは失われるため、基本的には無駄に情報開示をしようとはしない。
あるいは他人に干渉されない権利であるとも。この場合も自分からそれを手放すのでやっぱりリスク。
つまるところ、意見は述べたいが、自己開示をするつもりはない(自己開示抵抗感)。意見を述べて得るものとの比較で考えるしかないだろう。このジレンマは根深い。
自分の意見を主張することによる対立が怖い
・相手も一歩も譲らんかったらまぁそうなるからな。やっぱケンカを予測して萎縮してるよねと。
意見が言えない人のいくらかは、相手がクッソ凶暴だという想定をしている。実際にはそうじゃないこともかなり多い。漫然とした人間不信や対人恐怖症は見て取れる。
マナーの悪い人間がいるのも確かだ。意見が違う=敵だとするチンパンジーもいる。まぁ、自分から見て相手がそういう奴なんだとしたら、意見は言わないほうが正解だろう。縁を切るのは大正解だとも思うが。
無視されるのが怖い。人は自分に関心はないから、どうせ意見を聞いてもらえない。
・まぁ無いけどな。大抵。
承認欲求の一つに拒否回避欲求というものがある。これは「否定や拒絶をされたくない」気持ち。厄介なことにスルーされても人は傷つくことが観測されており、
1.真剣に誠実に話を聞いてもらえる期待が持てない
2.スルーされて傷つく予測
3.意見を言うのが怖い
なんてスキーマはあり得る。
ただまぁこれは高望みがすぎる気もする。注目されないことが不満というのは、過敏型の自己愛に見られる心理だし。
禁止令に抵触する
・エリック・バーンの交流分析では禁止令は13ある。これは人間が幼少期に親の態度から学び取った「よろしくない行動リスト」だと思えばいい。禁止令は大人になってからも問題になることがある。
ベタな例を挙げれば、親が子供に「生意気言うな」と意見を否定することで、これらを学習する。
自分の意見を言うことはその中の
「お前であるな」
「自立するな」
「主張するな」
「成功するな」
「自分のことで欲しがるな」
「誰かにとって重要であるな」
「仲間になるな」
「存在するな」
あたりが該当する。禁止令並べて毎回思うんだが、普通にムカつくよなこれ。
・逆を言えば、意見を言うことでこれらを得る余地がある。別ページで並べたが、自分の意見を言うことは拒否、主張、提案、共有、参加、表現などの意味を含めるため。つまりは自分らしさに関わるので、意見を言えないことは本来感を損なうことにもなる。
番外:自分の意見を知るのが怖い
・形にしたくない。自分のことを知られたくない心理に似ているが、こちらは「知りたくない」。
自分がそんな事を考えているなんて知りたくない。何をしようとしているのか知りたくない。自分がそんな人間だなんて思いたくない。
気持ちに蓋をしているというか。本当は環境に不満があるが、満足しているフリをしているときなど。
感情労働の内の深層演技に近い。
まぁ良いか悪いかは内容次第だし、表現の仕方でも修正の余地はあるが。
自信がないから意見が言えないのか?
・まぁいくらかはそういう例もあるが。ご覧の通り、「他人を気にしすぎる」という方が今回は多い。目立ちたくない、相手の機嫌を損ねたくない、「注目」が自分に集まってほしくない。
自信がないと言うよりも自尊心が低い、つまりは「自分を尊重していない」ことに由来する。
実際に相手の意見に従ってばかりだと、主体性はなくなるし、本来感が感じられないしで幸福度は下がるとは言われている。これは強制的に従わされ主体性を許さない環境で、自分に幸福感が湧くかどうか考えてみればわかるだろう。
意見を言わない=自動承認と扱われることが多い
・意見を言うべき場面には、「拒絶」を目的とした場合も多い。例えば嫌いな奴につまらない遊びの誘いを受けた時に断るなど。
反対に好きな相手に面白そうな遊びに誘われた時には、いちいち「意見を言わなければ」なんて身構えないだろう。話し合わせてりゃ気づいたら遊びに行く約束になってるはずだ。
沈黙は肯定とみなされやすい。あるいは消極的賛同。背景には「異論があるなら喋るだろう」という共通見解がある。逆を言えば、「異論が有っても喋らない」場合はかなり不利となる。感づいた上でも「我慢してくれている」なんて思ったりね。
文脈からの学習と条件反射
・ほとんど全てが、「自分の意見を言う」ことからスタートして「何か良くないことになる」と予測する一連のイメージとなっている。
古典的条件づけには有名所だとパブロフの犬がある。ベルを鳴らして餌をやることを繰り返すと、ベルの音を聞いただけでヨダレを垂らす(餌を連想して身体が反応する)ようになる。今回もこれに近い部分があるように思える。
古典的条件づけには「消去」がある。成立した条件反射を消すこと。やり方は簡単で、パブロフの犬で言うならベルを鳴らしても餌をやらなければいい。これでその内反応しなくなる。
今回に当てはめれば、意見を言っても悪いことにはならないと学ぶ、あるいは想像した結果よりはいくらかマシであることを、実践を通して学ぶことに他ならない。
「自分の意見が言えない」のようなアイデンティティ的な認知がされる行動上の問題が永続しやすいのは、このための「初めの一歩」が踏み出せない、というか出来たらそれもう解決してるだろという矛盾を孕むからだろう。
自分に向けて論理的な説得を試みるよりも、安全確認をしてから試しにやってみる、という方針の方が有効だと思われる。ただし相手は選びましょう。元から会話通じねーのいるし。