嫌なことを思い出す場面とその理由について 3

考察その1

・緊張と退屈が同時に起きるとこうなっているように見える。何よりこの2つが同時に起きるのが不思議だが。勉強に依る症状も集中と退屈が同時にだとは言えるだろう。緊張、集中、リラックスが各々排他的ではなく、同時に起きる? まぁ交感神経と副交感神経同時に動くしな。フロー状態は両方活発だそうな。

そう言えば、ゲーム中にこうなって、しかも成績は良い、って話があったな。フローに入りかけの状態でこうなるんだろうか。だとしたらもったいない話とも、後述するが妥当だとも言える。

・特に料理中は「火」か「刃物」を使う。この2つは慣れてはいるが、危険でもある。つまりは退屈で、緊張すること。この状態は頭は退屈で、その上で意識は向けていなきゃいけない状態だ。頭だけ暇だとDMNの出番となる。

・ピアノは他の楽器より難しいみたいな話を聞いたことがあるな。左と右で違うことやるからだろうか。他の楽器は両手で一つの演奏、みたいな気もするし。

ピアノで簡単なのを3曲弾ける程度の私にはよくわからん。ギターは弾けないからぶっちゃけどっちが大変なのかも正直わからん。まぁ難易度高いならその分集中は高い状態だろう。

・どうも集中のイメージが、現実と一般のイメージとで違うような気がする。前にもやったが、あれとは更に別に。偉い感覚的な話になってしまうが、極度の集中状態でも、それとは別の部分が意識内に存在している感覚。つまり、集中と言っても「意識のすべてを使うわけではない」こと。

私はゾーンやフローになったことはあるが、あれが溶けるのはその「別の部分」がまるで自分が水中にいることに今気づいたかのように騒ぎ出して壊れる、という形が多い。どうも「集中しすぎないようにするシステム」はあるんじゃないかと感じるが、あんまり関係ないか今回とは。

ただそのシステムが日常的なもので(なにせ定型発達者は過集中に滅多にならない)、その「手口」が人によって違い、中には「集中していることの危険性を提示する=嫌なことを思い出す」ことに依ってその役目を果たしているとしたら。

実際このシステムがあるとしても不思議じゃない。というか、集中状態が本来はどれだけ危険であるかは高速道路催眠現象からもわかるだろう。

この暴れる部分はメタ認知能力と意識リソースを共有している様に感じる。ここだけ排他的なような。

・入浴などリラックス時に起きることについて。

精神状態には一種の恒常性、つまり一定の状態を保とうとする機能があるように思える。落ち込んでいたり嫌なことがあったら元気が出そうなものを探すか、話を聞いてくれる人を探すだろう。或いはふて寝。このような「回復/避難」の逆に、安心しすぎたら緊張を、喜び過ぎたら少しは悪いことが目に付き始める、など。

この場合「一定の緊張感を保とう」とする機能が働いたとしたら、リラックス時に嫌なことを思い出して「気を引き締めさせる」ことはあり得るかも知れない。クソ迷惑だが。

これがあるとして問題が出るのは、この「基本となる精神状態」が恐らく人によって違うことだ。誰かの「気を引き締めている状態」が別の誰かの「何かの病気じゃないのか」レベルかも知れないということ。重ねてこれは、能動的な思考ではなく、無意識的な精神状態の恒常性の話だ。

俗に「職業病」なんて言われてるのが代表格か。他の場所でも、別の場所の「普通」が出てしまう。一定の真面目さ、一定の細かさ、一定の環境の維持。職業病は「問題のないPTSD」だと思うね。まぁ大抵は自主的に刻み込んだのだろうが。この辺り人間は恐ろしく不器用な気がする。オンオフがないかのような。

どの道、このシステムが実在したとしても、正常に機能しているとは言えない。普段はともかく、この場では。さて、「無意識」に塩梅を学ばすにはどうしたらいいのやら。

・逆に避ける事自体は簡単だろう。本人がトリガーを自覚しているのだし。集中しすぎているのが問題なら、その時はラジオでも聞きながらやってみたらどうだろうか。聞き慣れた音楽では恐らく効果はないだろう。先が読めると、脳は勝手に先走る。手が空くから、多分その空いた手間で嫌なことを反芻するだろう。

嫌なこと思い出すから酒飲んで料理やる、って話もあったが、キッチンドランカーは結構重症になることもあるので今その習慣がないのなら初めないほうがが良い。

・起きる時寝る時に嫌なことを思い出す

割とどうしようもない。ただ、気にしなくていいとは言える。気にしてしまうのもわかってはいるが。「思い浮かんだだけ」であり、別に人生の未消化で決着をつけなきゃいけない出来事、というわけではない。

ここは決して履き違えてはならない。不快な回想だが、ただ不快なだけだ。
思い出した理由は特に無い。記憶にあっただけだ。
リアクションをする必要はない。「今」じゃないからだ。
行動に反映する必要はない。それに対しては「何もしなくていい」。

この何もしなくていいという結論に、人は基本至れない。解決脳というか、することモードと言うか、不快な出来事を「問題」だと捉え、解決し、ある意味「始末」することで初めて安心する、ということを常日頃やっているからだ。

我慢することとも違う。受容と呼ぶにふさわしい。一番近いのは「諦め」だが、まぁイメージが悪い言葉だね。で、それがわかっててもなかなか出来ないから、そこら辺が可能になる第3世代の認知行動療法、マインドフルネスとかが最近取り沙汰されているわけだ。

・まぁそれとは関係なく、眠くないのに寝ようとして布団に入るとそうなる。これは不眠を悪化させる理由の一つとされている。

考察その2

・「忙しい時に嫌なことを思い出す」について

これはわからん。脳が活発になっていると予測できるが、意識はタスク以外にもい使われているような。

死ぬ時に見る「走馬灯」は、死ぬと思った脳が必死に切り抜ける方法や前例を脳内検索をしている状態で、それが可視化されることにより昔のことを思い出しているのだ、という説があるが、それが一番近い気がする。

要は忙しく、脳が活発に動いている状態。これは通常必要なことだけ頭の中に並べられれば良いが、それが見つからない場合には「手当たり次第」にはなるかも知れない。

この忙しい時の嫌なことってのが、もしも他人にやじを飛ばされたり、笑われたり、怒られたり、或いは間に合わなかった時や失敗したときの記憶が蘇るというようなことなら、これは「回想」ではなくて「展望記憶」とした方が良いかも知れない。要は「予測」。今の自分の状態からの「もしもこのままだめだったら」という予測。

うんまぁ、だとしたら脳が「頑張れ」って言ってんだよ。最悪な言い方で。

・「一人でいる時に嫌なことを思い出す」について

まぁそうだね。全部そうだったね。意識/注意は外部に基本向けられる。ただ、外的な刺激が少ない場合、内側に向かい始める。逆を言えば、刺激があるかぎりは外部に注意は向き続ける。

言い方を変えれば「頭の中を見なくて済む」。一人でいると発狂すると公言して憚らないタイプは、これに対して人一倍敏感なのかも知れない。

これらのタイミングは全て「退屈」と言える状態だろう。ピアノだけ正直わからんのだが、他人から見て大変そうでも本人からしたらそうではない限りは「退屈」に入る。

ボケないためには刺激のある新しいことを、とはよく聞く話だが、凡人には不可能なレベルの高度な技術者でも普通にボケるのは「本人にとっては慣れきった刺激のないことだから」だという話もある。チェスやってようが新聞読んでようがボケる。何が「刺激」になるのかは、恐らく個人の経験知にかなり左右される。

ともかく、意識が退屈、暇をしていると、DMNは活発になる。加えてその時何をやっているかと言えば、慣れきっているとは言え注意は向けていなければならないようなことだ。料理がわかりやすいだろう。火、刃物、いくら慣れているとは言え、目を離す訳にはいかない。

つまりはこれらの状況は、意識は外部に向けなくてはならないが、ほんの少しの注意力で足りてしまう。他のことをやるわけにもいかない。料理、演奏、運転などは「ながら作業」が比較的難しいだろう。運転中にスマホを見ることが道交法で取締の対象にされているのは、出来てないのに大丈夫だと思ってる奴が事故起こすからに他ならない。

日常的にやっていて=慣れきっていて、両手がふさがってるし、見ていなかったらほぼ100%失敗するたぐいのこう言ったことに、今回の件は集中している。

見方を変えればこれらのことは、「他人に参加されたら邪魔」である。

まな板を二人で使おう、邪魔。

1つのピアノやギターを二人で弾こう、邪魔。まぁピアノはそういうのあるっぽいけど。

運転を二人一緒にやろう、死ぬ。

どれだけ慣れていようが、一人で、意識を向けて行わなければならないこと。頭は暇を持て余す。

入浴は恐らく「他にやることがないから」だろう。これも頭は暇を持て余す状態。多分風呂でテレビ見れるようにすればこれはなくなるんじゃないか。良いか悪いかは知らんが。

勉強は義務感が強い=やらなきゃいけない。嫌悪刺激からの逃避で意識が内部に向かう可能性のほうが高いか。集中「できているからこそ」、雑念が目につくことはあるのだが、後述。

それとは別に長時間やってると普通に気が散り始める。それこそ「集中力」、意識を束ねる力が疲弊し、拡散し始めるため。小休憩を取ればいい。

・意識リソースについて

最悪なのは、これ以上必要ないという意識リソースの配分は経験則から適当に決まっていることだ。本当は十分じゃないこともある。スマホ運転の話のようにね。どの道、適当な作業の上に嫌なことも思い出すんじゃ何も得してはいない。

この楽にできる分野をコンフォートゾーン、気を張って頑張るような領域をパフォーマンスゾーンと呼ぶことがある。面白いのがパフォーマンスゾーンのほうがその名の通りに実力を発揮できるということだ。

コンフォートゾーンは「安心・安全な領域」という意味だが、手抜きというよりはこれが適切な行動・リソース配分だというような「見切り」に近い。で、前述の通り見切れてない可能性はある。

コンフォートゾーンは長く居続けると真綿で絞め殺す処刑場になるかもしれない。時にはいつもの作業を少しハードルを上げてみる(パフォーマンスゾーンに入る)などしたほうが、精神衛生上良いかも知れない。

個人的な意見

・視点を変えれば、というかこっちが個人的な意見なのだが、集中状態もリラックスも本来は比較的「頭の中が静か」な状態だ。高速道路のアレもボーッとしてくるという意味ではこのカテゴリに入れられる。

後は不快でもなんでも一定の変化のない刺激の場合、脳はこれをカットし始める。そうなると他はなにもないので、やっぱり静かな状態と言える。奇妙に思えるけどね。

これは頭の中が「普段より良く見える/聴こえる」ということでもある。そうなるとDMNは活性化とは別に「よく知覚できる」。

・まぁコンサートでも思い浮かべてくれればいい。演奏が終わったら観客の立てる音しか聞こえないだろう。元からその音はあったのに。

或いは寝る時に妙に耳につく冷蔵庫のモーター音や、時計の秒針の音、外で走る車の音など。これらも元からあったもので、普段耳に入らないだけのことだ。

・総じて「静かだから良く見える/聞こえる」という話で、実はいつも頭の中はそんなんで、その上でまぁ、いつもは普通に生きてるんじゃないか。

だとしたら問題は「気にすること」に、やっぱりなる。

・いくつか見えてきたことのメモ。

1:この邪魔をしている部分が大人しく今のタスクに「協力」している状態がゾーン/フローではないか。

2:特にクオリティが必要ない場合、マルチタスクはむしろ精神衛生上は好ましいのではないか。脳疲労に対しては懸念があるが。手に負えないなら「気を紛らわせながらやる」ことは選択肢に入るかも知れない。

3:意識には確実に「層」がある。舞台と舞台裏のような。まぁフロイト以降常識といえば常識だが、頻繁に、偶発的に、知覚も可能であること。無意識に馴染みがないせいでこのような戸惑いが生まれるのではないか。

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