・マインドフルネス認知療法(MBCT)のシーガル、ウィリアムズ、ティーズデールによれば、意識は2つのモードがあるとされる。 doing mode(することモード)とbeing mode(あることモード)。
・することモードは実行を意識して、あることモードは観察を意識している。
・出番が違うので優劣も無いんだが、人が「することモード」の一点張りで「あることモード」に切り替えない(できない)ことが多い。
することモードでは不適応な状況に対してそのままでいれば、ネガティブな考えが繰り返し頭に浮かぶなどになり得る。
することモード doing mode
- 人の普段の状態で、問題が起きた時にもこれになる
- 問題解決のための論理的思考
- 自己に焦点が合っており、自己批判的でもある
・自動的に反応するモード。人の普段の状態だとされる。また「望ましくない問題」が起きた時にもこれになる。
・理想と現実のギャップに目が行き、それを埋めようとしている。そのための問題の発見、解決を行う。思考的、論理的な傾向がある。
日常的にはこちらを用い、普段の雑事をこなしている。半自動的に。
・対象を「問題」とみなし、「解決」を試みるモード。総じてアウトプットに傾いている。問題・課題に対して、知っていること・出来ることで解決しよう、と。まぁ自然だね。
・心の中の出来事にも「反応」する。思い浮かんだだけのことを「現実」として捉えて騒ぐ傾向があるとされる。
脳が元からイメージと現実の区別が余り得意ではない。過去や未来を思い浮かべる時、まるでその場にいるかのように感情を伴うことは多い(メンタルタイムトラベルと呼ばれる)。
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・論理的ではあるのだが、それしかできないと言ったほうが良いかもしれない。つまり「気持ちの問題」など有効の手段が「気にしない」とか「気持ち」を切り替えるなどの場合にその結論に至らずに無限ループしたりする(反芻思考)。
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これらは「普段の意識状態」よりもちょっと病んだ精神状態とも言えるかもしれない。「何かを気にしている/悩んでいる状態」として構わないだろう。
今回はこちらへの理解を深めた方が良いだろう。一見して意識的にしかできないはずの「考える」という行為が自動的に行われていることもあるということに。つまりは思った以上に普段の意識が「自分のコントロール下にない」ことに。自動的であり、それ故に食い違っていた場合に大きな間違いとなり得る。
なにか問題が起きた時、何が悪いのか、原因はなにか、考えることでの解決を行おうとする状態とされる。これらに用いるのが批判的思考、習慣的な反応とされる。
つまりは認知のクセ、認知の歪み、認知バイアス、あるいは帰属、あるいは評価。これらが「自動的に」行われているということ。
意識について、まずここで誤解というか、正確ではない認識をもたれやすい。思うこと考えることは自分の自由にできているはずだ、と。認知バイアスとかが「気をつければなんとかなる」とか、考えが浮かぶことに対して「じゃあ考えなきゃ良い」だとか、小学生レベルの解決法(笑)が真顔で返ってきたりするのはこのためだろう。
これらは別に悪いとは限らない。「上手く行けば」、というか結果的に正解ならば何も問題はないし、上手くやるつもりで脳はやっている。
ただ、「上手く行かなかった時」、さらに言えば既存の方法が根本的に不適切な場合でも、解決を求めてさらなる評価、分析、あるいは過去の似たような事例を思い出し、それがネガティブな思考の反芻となる。
つまり分析や論理的解決を試みるなどの行為が失敗に終わった場合、ネガティブな感情、ネガティブ思考の反芻がいつまでも止まらない、という人によってはおなじみの状態になる。
することモードは他に解決のためのやり方を知らないからだ。なんとも出来ないことをなんとかしようとして、既存の方法を繰り返す。「真面目な人間は悩みやすい」ってのは、お馴染みの話だろう。
また、これらは「予期」した未来の不安に対しても同じことが言える。こちらはさらにタチが悪い。想像力が許す限り「問題」は見つかり、いますぐ解決することはない、というか問題自体がまだ発生していないんだから当たり前だ。
これはこれで予防的態度というか、予め先手を打って被害を最小限に抑える、問題そのものを発生させないように立ち回るなどになれば「正常な働き」と言えるだろう。限度を超えなければだが。
することモードは視野狭窄・近視眼的なところがあり、問題に対して悩めば悩むほど周りが見えなくなり、見えてること、思ったこと、知ってること「だけ」で解決しようとすることになり、やっぱりドツボにはまる。
ドツボにはまっている上でドツボにはまった理由であるこの方法を更にひたすらやろうとするので、そりゃ病むだろう。簡単に例えれば、この構図は「うつ病の人間に根性論を押し付ける奴」と全く同じだからだ。それが脳内で起きているわけで。
問題以上に問題を発生させる可能性が十分にある。「気にしない」ことが解決になり得るということは、逆を言えば「気にする」という行為自体がかなりのメンタルヘルス的な意味でのリスクを含んでいるということでもある。
何よりも。「それ」は本当に「問題」だったのか。本当はそうではなかった場合には問題だと捉えた「認知」に問題があったことになる。
まぁこの上で普段はそこそこまともに働いてることも疑いはない。おかしなことになったら手入れをするために「目をかける」必要があるというだけだ。即ち自身の内面に対しての気づき。
あることモード being mode
- 物事に意識的に反応していたり、意識的に注意を向けている状態
- 「気づき」「注意」がメインの状態
- 特定のゴールや目標を持たない(持つと「することモード」になる)
・簡単に言えば意識が「いまここ」にある状態であり、注意力の操作、気付きなどを含める心理的なモード。意図的に反応できる状態。
・客観的な状態。問題に対して「気づき」を得るために注意を向ける。現実に対しての情報収集モードであり、方向性は持たない。
心の中の出来事に対しても「観察」で済ませる。反応はしない。これらを「出来事」としてだけ捉え、判断も解決もしない。
・することモードと違って目的・ゴールを持たない。持ったらゴールと現実との距離が測られ、その距離を縮めるために「することモード」になってしまう。
・あることモードはマインドフルネス瞑想で得られる状態なわけだが、これを行う際にはあることモードになるという目的自体が邪魔になる。
ただひたすらに観察/集中であり、特定の状態になるという「ゴール/目的」を持っては邪魔になる。というか何もかも邪魔扱いされていることが多い。
・禅や瞑想などの教書でも、悪魔が出てこようが神が出てこようが邪魔だから無視しろなどと書かれていたりする。
別のものでは神仏が出てきたらツバ吐いてぶん殴れって書かれていたが、まぁ多分比喩的な表現だろう。
心は時には「ニセのいまここ」まで演出することがあるとされる。一度瞑想により体験した「いまここ」の状態を「再現」しようとするという話。これまた「ゴールの設定」をしたせいで心が余計なことをするからだ、とされている。
このため皮肉なことに、マインドフルネスに別に期待していない人のほうが捗ったりする。必要性を感じてから手を出すと、問題の解決などの「ゴール」がある状態だから、順調にはなりづらい。
既に判別がつくほど慣れてるなら別に良いのだが。
2つのモード
・2つのモードのスムーズな入れ替えが重要だとされる。優劣はなく、ただ向き不向きがある。
・することモードは基本形であり、また有事の際には自然となりやすい。人間は基本的には物事を判断し、その中には「問題」として捉えられるものがあり、解決をしようとするのが自然体だろう。単純にこれがうまくいかない時には「あることモード」に切り替えて状況確認から始めようって話で。
・このような時のあることモードの利点としては、「現実」から選択肢を多く抽出でき、これを意識しながらの行動が可能であることが挙げられている。また、することモードの反芻思考、あるいは単純に予期や想像などをしている時、人はそれを追体験・再体験に近い状態で味わっており、意識が現実から頭の中にある意味「誘拐」されている。これへの対処として。
これらに能動的に切り替えることが可能となるマインドフルネスは効果的だとされる。
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