自己評価が低い人と自信のなさについて

「自己評価」について

正直「自己評価が低い」よりももっと適切な言い方があることも多いが。

なお、「正当に自己評価が低い」というシチュエーションは有ることに注意。この際は無駄に自己評価上げても自分を唆す以外の効果はなく、失敗する。

自己評価の2つ

・自己評価が気になる場面は大体2つ。

1.社会的/相対的な自己評価。比較することで生じる。他人の優れた面を見た時に凹む。
2.効力予期の自己評価。萎縮。行動や変化のタイミングで生じる。何かやろうとした時に不安で仕方がない。これは特定の状況や環境に身を投じることを含める。

1は常に自分を並以下だと思っている場合、他人を見たらだいたい発動するので相当しんどいことになる。
また、自分が目指している道において、遙か先を行っている者を見た時にもなる。

2は自己効力感(セルフ・エフィカシー)が該当する。

本来一点に対しての評価が、どちらも言葉通り「自己」の評価となっている点は変わらない。

自己評価と自信

自己評価が低いと気にする場合、実際には「自信」が欲しいとか、自信がないとかの辺りを問題としていることが多い。自分が消極的であり、積極性が欲しいという感じ。あるいは直接に恐怖や不安を感じており、それを払拭したいために自信を求める。

確かに自己評価が高いと自信がある振る舞いになる。
自己評価が低いと慎重で用心深い振る舞いになるが、これは良く言えば慎重で謙虚でもある。

自己評価が高すぎれば傲慢となる。
自己評価が低すぎれば卑屈で臆病となる。

これらは自己評価という言葉を自信と入れ替えても成立する。

・「自信」も単体と全体とで分けておこう。
能力やスキルに対しての自信は、影響はそれだけに限られる。勉強に自信はないが運動には自信があるなど、対象や範囲それぞれに自信のあるなしが決まる。

一方で「自己評価」というのは「自分全体の自信について」として言われることが多く、ほとんど「自分が認識する自分の価値」みたいな意味を込められていることが多い。「自分に対しての根本的な信頼感」という意味を持つことも有る。

このため自己評価の有無は、すべての物事に対しての態度に出る。仕事、勉強、人間関係。一人で何もせず部屋にいることですら、自分を怠け者だと思うか、くつろいでいると思うかを変えるだろう。

自分が「嫌い」との違い


自分が嫌いなのとは、微妙に違う。両方ってことはあるが。

・自己評価が低いのは「自分が自分の期待に適わない」という心理であり、何かしら目標とか、目的とか、そう言ったものはある。理想や夢かもしれないし、義務だと自分が思っているものかも知れない。何かをやろうとしているか、何かであるべきとしているか。

それほど御大層な目標でもなく、テストでは少なくとも赤点くらいは免れることを、人前では無難に振る舞うことを、そこはかとなく意識はするものだろう。このレベルの「期待」がメインの話。

総じてこの感情は「能力不足」という自己認識に近い。自分にはできない、無理だ、失敗するかも知れない、と。

ただし、その自己認識が正確か不正確かはほとんど関係がない。多分まぁ信じないだろうけど「そういう思い込み」であることがかなり多い。逆のベクトルでヤベー奴もいる。

・ここまでは何らかのタスク(作業)との「対象対自分」の話なのだが、一般的に「自己評価」というのは漠然としたアイデンティティを指し、対象が指定されていない。

この上で「自信」として機能するため、一般で口にされる自己評価は「自己採点」のようなものではなく(多分自己採点も辛口だろうけど)、「自己効力感」という物事に対して自分がそれを成し遂げられるかどうかの認知に近い。少なくとも発生源は。

自己評価が低い人の特徴


色々有るけどね。

木を見て森を見ず

・「自分」の全てへの評価であるから、その結論は統計的な、総合的なものなのか、と言えばそうでもなく。

仕事ができるから俺偉い、ってのもいるし、顔が駄目だから全部ダメ、って自己評価なのもいる。

ともかくこのようにコンプレックスや一つの物事への自信が、そのまま自己評価のベースになっていることも見受けられる。

・自己評価とは言うものの、評価しているのは他人から見た自分、他人目線が由来の「恥」の概念に近い場合もある。恥ずかしいか、堂々としていられるか。自分が人目を避けるべきか、でていってOKか。

評価されているのが自己であり、自分がする自分の評価には思えない。

・実際の所、長所で短所を補うにも限度がある。Aが良ければBがヘボくても許されるってのも必ずじゃない。仕事ができても性格が悪いから定年離婚、顔は駄目だが性格は良いから好き、なんてコースもあるわけで。

これも他者が「どこを見るか」という話だが、同様に「自分がどこを見るか」でも自己評価は変わる。

・今は下手だが絵が上手くなりたい者が、走るのが早かった所で、関係ないだろう。走るのが早いからと自己評価が上がるだろうか。絵がヘタだからと自己評価を下げる可能性の方が高い。

これらは「自己評価」として見るなら論理的にはおかしい。正確な認知を考えるならば自己評価は「走ることに対しては高い、絵に対しては低い」が妥当だ。「能力単体」の評価を「自分全体」に帰属させている時点で根本的にズレがある。

よって「自分に対しての信頼感」という広範囲な一括評価は、包括的な自信ではなく、一種の認知、思い込みに近い。

単に自分が「なりたい自分」になれそうかどうか、「あるべき自分」として安定して振る舞えるかどうかについてという、大きな括りでの自分の能力への信頼感だと推察する。

・構造は認知バイアスの一部とかなり似ているし、認知の歪みで言えば自己評価とは行き過ぎた一般化、つまり「木を見て森を見ず」にも見える。

しかし「目的」に適うか適わないかという点で言えば、龍の瞳を描きそこねていれば、やはりそれは「足りない」という評価は正しいともなる。

予言の自己成就

・自己評価の有無が、その者の行動や評価にも影響があるのは、「自信」があるから積極的=行動する、その様な振る舞いになるという点に他ならない。
自信があるからやってみよう、自信がないからやめておこう、と。

これは予言の自己成就(予言を意識した行動をすることにより後から自分で自分が言ったとおりになってること)に近い。
フィードバックとして やってよかった やらなくてよかった となりやすく、更にその自己評価は強化される余地がある。

・この時問題となるのは、「やらない」ことで「やらなくてよかった」と思いやすい点だ。これは短期的には「ほぼ失敗しない」。改める機会が非常に少なく、「やらないほうが良いという自信」がやたらと育ちやすい。

やらないことによる「収穫」は、基本的に「何も(悪いことが)起きない」という形で獲得する。つまり何もしないから何も起きなかったというのは、「成功」としてフィードバックされてしまう。脳はこれを「正解」だと認識し、次もそうしようとするだろう。これは見方次第では「消極性が悪化する」と言える。

・もちろん実力がなければ自信も評価も安定しないが、自信にまつわる研究では殆どの場合能力的には同レベルなのに(まず同レベルの者を集める)、自信/自己評価は裏表の如く二極化する。

普通に生きてるだけで結構偏るのかも知れない。加えてここからも、やっぱり自己評価と実力は独立している感じがする。

・自己評価の低い人の問題とは、結局の所「自信のなさによる消極性」が大きい。必要だと思ったことすら「どうせ無理だ、やめておこう」と思う。もう一つはシンプルに「自分が苦しい」こと。

ある意味での誠実さ 責任感の強さ

・行動力と消極性、加えて実力や能力の話であり、自己評価や自信は最終的には「態度」「行動」「成果」に結びつく。「実力と離れすぎた高い自己評価」だった場合には、この段階で馬脚を現すことになる。

・このため、恥をかかないため、嘘にならないため、失望されないために、自分から過剰な自信を持たぬため自己評価を低くしている人もいる。
つまりは「自惚れないため」。「自信家」は決して褒め言葉ではないのが良い証拠だろう。
それはストイックな動機かもしれないし、社会恐怖に近いかもしれない。

・繰り返しになるが、「やらない」ことで「何も起きない」という収穫を得ると、この当たりが強化される余地がある。
これ自体は危険に対しての判断なら問題ないが、初手でそう思うならその者は消極的となるだろう。

アピールをしないという消極性の問題

・アピールをしない、できれば目立ちたくないため、他人に機会も成果もかっさらわれる。

アピールとは、自分を売り込むようなものだ。「商品」に自信がないのなら、及び腰にはなる。「評価」の目にさらされたくない、というのは自己評価云々に限らず、多くが感じていることではあるが。

・状況から見て「蚊帳の外」になりがちで、相手にされない分、更に自己評価を下げる。

・消極性が原因なのか、自己評価が低い人の内いくらかは「他者に自身の価値を発見されること」を待っているフシが有る。
ただそれ以上にアピールうざいアクティブな奴らが多いので、発見されることの期待値は低い。評価者はパッシヴ(受け身)になりがちになる。

マイナス思考/ネガティブ思考

・失敗するかも、やらない方がいい、など。
ただしこれは防衛的ペシミズムとして活かせる。ペシミズム=悲観主義。

というか日本人はこうだからこそ「しっかりやる」傾向があるともされる。「用心」「慎重さ」として昇華できるということ。
なおさら自分の不安感の分析などが必要となるが。

・朝に思う今日一日のストレスの予測量が現実と比べて甘い程、日中で混乱し、夜のストレス度が高い傾向がある。

反対に朝のストレス予測量が高く、なおかつ自分でそれを乗り越えられると考えている場合、夜のストレス度は低い。

ペシミズムはむしろ「予想外」が起こるに対しての有効な心の構えであり、これ自体は問題もない。

・ただしこれらは見積もりが正確な事が前提で、それより多めに用心しよう、という話。
外に出たら車に轢かれて死ぬに違いないとかそういうレベルで悲観主義だと、防衛的ペシミズムを通り越して「真の悲観主義」と呼ばれる状態となる。

・一部の「ポジティブであるべし」と言わんばかりの風潮により(そう言ってるのが悲観主義者の場合もある)、そうじゃない/向いてない自分を悲観的だ、自己評価が低いとそれこそ「評価」することもある。

が、上記の通り予測が楽観的だとそうじゃなかった時のストレス度がむしろ高いという説もあるし、防衛的悲観主義は「性格」と言って差し支えない程度のものであり、侵害されてやる筋合いはないだろう。

ネガティブな言葉をよく言う

「自分がこれから何かをやらなきゃいけない」という状況下で多い。人が何かやろうとしているところにネガティブワード投げつけるのはこれとは関係なく問題なので除外。ただし「他人の失敗の巻き添え」を予期して自分事として嘆く、というのはありえる。

いちいち「もうダメだ」みたいな事を言うのは主張的セルフ・ハンディキャッピングに該当する。失敗時の保険とか、周囲に期待されないことで自分の気を楽にしようとする試みとか、その当たり。単純に「失敗のリハーサル」のつもりもあるかも知れない。

これは失敗前提だから、自己評価が低いのは確かと言える。不安を和らげる精神安定的な効果があるため「中毒」や「クセ」になっている場合もある。

後は普通に嫌がられるね。ポジティブを押し付けるハラスメントも社会的に問題だが、かと言っていちいち辛気臭いのが歓迎されるわけもないから。また、人間は同調や共感が有るため、「気分が感染する」のを嫌がるという理由もある。

脳内反省会

・内省的なのは内向型の特徴でもある。これは自己改善や自己啓発にはなるが、直接的には自己評価は上がらない。

自分なりの「正しさ」や「自分らしさ」みたいなのを重視していることも多く、そのための脳内反省会である場合は、元からそんなに自己肯定感を必要としていないだろう。

・「後悔」である場合は、今度は内向型も外向型も関係ない。生きてりゃある。

自分の至らなかった所がやたらと目につくというのは、大抵の場合「コントロールを失っていた状態から正気に戻った」という戦慄と後悔に近い。ちょうど泥酔している自分の動画を、素面の状態で見せられたかのような。

この上で「他人がアレをどう思っているか」を気にしていると、まぁ初めからやらなきゃよかったとは思ってもおかしくない。

・他とも共通するが、自分がそれをやり遂げられる、という認識が、自信/自己効力感/自己評価の高さの本質だと考えられるとして。
この上で、「アレやらなきゃよかった」とか考えるのは、「自分は 舞い上がって 緊張して 本番でやらかす」という逆方向に行っている。

・ただし、マジの失敗だったらこれは「自分の行動に対しての正常な自浄作用」でもある。妥当な反省とフィードバック。これを誤魔化して自分を励ますのも、それはそれで怖い面がある。

もっともスポットライト効果と言って、現実以上に「自分は他人に見られている」と思いやすい面もあり、取り越し苦労の可能性も高いのだが。

自分が過度に気にしているのか、それともマジでやらかしたのか、「自分にとってどうだったのか」で言えば、自分にしかわからない。ただまぁ、「課題発見」程度に捉えておくのが精神衛生上よろしかろう。

理由は簡単で、「もうおしまいだ」って思ってるのと「次からこうしよう」って思ってるのとどっちがストレスないか、どっちが建設的か、どっちが前向きか、どっちが得するかって話。

まぁ「反省に対して」ならこれでいいが、悩みのタネは「掻いた恥をどうしよう」とかだったりの方が多いし、そっちは知らん。まぁどの道周囲の認識も、自分の適応的/妥当な言動で上書きするのがベターだと思うが。

高い目標を持っている 理想が高い

・自己評価が低い人の「自分が何者でもない」という認識は、「何者かになろうとしている」からそう思うとも考えられる。何者かにならなきゃいかんのかという話は今回関係ないから置いとこう。

「何者かになろうとしている」から自己評価が低い場合。すなわち既に何かを目指していて、それに届かず、自分がそこに「足りない」「届かない」から自己評価が低い場合。

・見ている所が高すぎる、というのはある。眼高手低、つまり批評はご立派だが自分がやるとヘボいという「眼」を、自分自身に向けている。

有名所だと葛飾北斎のエピソードがあるな。
北斎の娘の応為(おうい)が語るには、北斎は80過ぎて「猫一匹すら描けねぇ」と泣いたそうな。
もちろん衰えたわけではなく、「自分の目に適う物が描けない」という意味であろう。

眼高手低は揶揄するような意味合いがあるが、求道者はまず先に今を上回る理想があり、実力はその後に、それを目指して、その方向に育つ。そう言った意味ではこうなることは至極当然のことだ。

時には理想が形を為さず、目指すべき場所がわからず、ただひたすらに現状に対して違和感を感じさせる。この場合何をして良いのかが分からず、非常に苦しくもなる。常に自分が至らない気持ちになってもおかしくはない。

・注意点としては、完璧主義に近い思考である点が挙げられる。「目標に届くか届かないか」を気にするのも結構だが、できること、できたこと、やったこと、これらにも意識的に目を向けたほうが、精神衛生上よろしいだろう。

中にはハングリー精神求めてこういうこと一切やらないタイプもいるが、その動機としては結構かも知れんが、先鋭化というか、方向性間違うリスクが有る。また自分の理想が、自分にとっていつまでも正しいとは限らない。

「理想」それ自体への推敲やアップデートは必要だと個人的には思うんだが、世の中「決めたからにはやるべき」みたいな頭固い信念の方が主流だね。あるいは達成するまでそれやっちゃいけないみたいなノリ。

・理想が高いことそのものはそれほど悪いことじゃない。完璧主義もこの傾向があるが、「高目標設定」は必ずしも精神を病む要因とはならないとされている。

どちらかと言えば高い理想を持て余すというか、「できない自分を責める」ことが、完璧主義が不適応的完璧主義(ネガティブな完璧主義)になる要因だとされる。

今回も同様に、高い理想自体は良いが、「今、そうじゃない自分」に対して攻撃性を向けている(許せない)面がある。

画龍点睛を欠く

・画龍点睛(がりょうてんせい)という言葉がある。立派な龍の絵を書いて、最後に瞳を書き入れたら本物になって天に登っていったという中国の故事から。転じて重要な最後の仕上げのような意味を持つ。

・一方で「画竜点睛を欠く」とも言う。画龍点睛の、まだ瞳を書いていない状態。転じて出来は良いが肝心な所が欠けていることを指す。
瞳を描き入れることを忘れて台無しだ、みたいな意味としても使われる。総じて「肝心な所が足りずに全部ダメ」みたいな意味になる。

・何かしらの高い理想を持った者にとっては、自分がそれに届くか届かないかが全てという気持ちになりやすい。ちょうど画龍点睛のように、「それができてないから全部ダメ」と。

人が目的を持つとき、目的中心の視点、一時的にそれが全てとなりやすい。

高目標により合格基準が高い・失敗判定が多い

・肯定否定、行動の成否の評価基準の問題。
完璧主義に似ていて、「思ったとおりじゃなかった」ことは「失敗」として捕らえる。

失敗にカウントされる条件がかなり広範囲なので、その分自己評価が下がる。
これは理想が高いというよりも、「理想しか見てない」タイプの視界になっている。

・盲点になりがちな一つは、計画性や予測能力が悪い場合にも、「それができなかった自分が悪い」と実行能力の問題になったり、反対に実行能力が悪い場合に「予測・計画能力がない」となったり、原因の所在が怪しい面があること。

もちろん、「これが出来なかったから自分はだめだ」という木を見て森を見ずな自己評価も。やっぱりこの場合でも、それに全てをかけているような心境の者にとっては、その評価はある意味正しくは有るのだが。

・ある意味当たり前の話で、例えば資格試験を受験した、不合格だった。後一問正解していれば合格だった、という場合。
これに対して「あと一歩までは正解したのはすごい」と言った所で、当人的にはあんま慰めにはなってないだろう。「失敗した」と認識する方が多い。目的だけ見ている状態。

これが模擬テストだったら、結構やれるじゃないか、となっても不自然じゃない。つまりはシチュエーションにより、同じ能力同じ結果でも評価は変る。自己評価と言うが、100%自分だけから来ているわけではない。外的要因があるということ。

ただここからが結構分かれて、この状況で「試験に失敗した」ことから、「自分はだめだ」となったらまぁおかしい。「後ちょっとだった」ことが見えておらず、「やろうとしたことに失敗した」ということしか頭にない。これで自己評価は下がる。

・まぁ大体自己評価が「高いか低いか」しかないのがだいぶおかしいんだけどな。このケースで言うなら、悪くても「自分はツメが甘いのかも知れない」とか、良ければ「後ちょっとで合格できる実力がある」とか、そのくらいの精度はほしい所なんだが。

「これは何が原因か」の直感的推論を心理学では「帰属」と呼ぶが、これは所詮直感かつ推論であり、すごい勢いで間違ってることも割とある。合ってるか間違ってるか自体をまず疑ったほうがいいだろう。
ついでに言えば規模や範囲がだいぶおかしいことが多々ある。

自己評価を高い低いで言い終えるなら、相当に雑だと言える。裏を返せば、そこを掘り下げれば道は見つかるかも知れない。

自己評価が高い

・珍説かつ説得力が有るものとしては、「自己評価が低い人は、むしろ自己評価が高い」という逆説的なものが有る。

内心では自分を高評価しており、そして「現実にはそうじゃない」という形で自己評価を下げると。

つまりプライドが高い。現実にはそうじゃない自分を受け入れられないくらいに。

・これも構造的には不適応的完璧主義に入るだろう。完璧じゃない自分を許せない完璧主義者。

自信のなさからくる言動

よく否定された経験・褒められることが少ない

原因として、駄目だしされたりケチをつけられることが多かった、あるいは現在進行系でその様な輩が周囲にいる、という可能性は挙げられる。

相対的に「褒められた経験が少ない」というのも原因となる。これが微妙に厄介で、どう言い繕った所で人は自分と他人を比べることが多い。「褒められてる者」を見て、相対的に「自分はそうじゃない」だけで原因となり得る。ちょうど「理想が高い」というのと同じ構図となる。

・SNSなどが「毒」だと言われるのもこの辺りで、理想や目標のために他人をフォローしてると、元から自分より上だと認めた人の、さらに「自信がある所」「見せたい部分」だけが流れるような環境に自然となりやすい。

この上で他者の部分的、表面的なものを「その者の全体、あるいは多くを占める部分」と誤認識すると、自分の頭の天辺からつま先までの「等身大の自分」を比べりゃそりゃだいたい負けてることになるだろう、という話。

まぁ時に眩しいものが目の毒ってことはあるわけで。

・ ケチを付けられたり褒められたり比較したりで上下する自己評価は、外的なアイデンティティであり、元から不安定なものだとされている。

「他者を参照した自己評価」であり、「自分が自分を評価した」のとはちょっと違う。これはある意味自己評価が「まだない」と言える。他者評価だけで自分を評価している。

言い方を変えれば、他人のものさしで自分を測って凹んでいる上で、自分のものさしは持っていない。自分のものさしがないから、他人のものさしで自分を測っているのかも知れない。

・ 虐待被害者などの極端な例では、例えば人の怒りや軽蔑などの「ネガティブな表情」への脳の反応感度が高かったりする。反対も同様に差がある。
「自分に向けられたポジティブシグナルへの感度」は、人によって様々な理由で差があるかもしれない。気分にもよるだろう。いつも安定しているとは限らない。

都合のいい勘違いの果てに自己肯定感高いのとかがいるってことになるんだが。まぁ……幸せ脳みそならそりゃ幸福感は高いだろうな。行動面で適応的なら別にこちらは文句はない。

褒められても素直に受け止められない

・というか、疑う。「自分が肯定された」ことが珍しすぎて知覚するのにワンテンポ遅れる。相手の下心を疑ったりもある。

・まぁ実際に狙いがあって褒めることも多い。素直な賛辞か疑うべき場面も有るし、褒め方が上手いか下手かってのもるし、褒める側に問題があることもあるし、褒めること自体があまりいいことではないという説すらあるため、これはあまり基準にはならないだろう。

・ただ自覚症状として、褒められて「全く心当たりがない」みたいな感じがするなら、まぁ相手の褒め方がヘタな可能性もあるが、あまり自分の価値をわかってない可能性もある。 なんかイラッとするなら相手の下心が見えてるだけかもしれないし、単にひねくれてるのかも知れない。

・結構自分の良さってのは元から盲点になりがちなので、やっぱりこれを元に自己評価が低いと確定するには無理がある。

ジョハリの窓で言えば、自分が認知できないのは盲点の窓(他人にわかっていて自分に分かっていない)と未知の窓(自分にも他人にもわかっていない)の2つある。この2つはやらかしてる可能性も、認められる可能性も両方含んでいる。

・どの道、「褒める」と「認める」は区別したほうが良いだろう。「良いと認められた」のに、相手にはそう見えるのかとすら思わず「否定の感情」が浮かぶなら、これは自己評価が低いと言うか、自己否定感があるというか、そういう状態の可能性が出てくる。

・高い目標を持っているから、その「途中」で褒められても邪魔なだけだ、というケースもある。これも相対的に、今の自分は至らないという認知であり、自己評価低いって言ってもあってるっちゃあってる。この場合は気にしなくていいが。

・自己評価の高い低いを語るなら、何かしら基準があるわけだ。それが(脳内の)世間の相場だったり、具体的に他人と比較したり、理想の自分と今の自分とを比べてのことだったりする。
だいたいこの3つあたりになるか。高低という相対的な概念を持ち出す限り必ず「比較」になる。自覚はないことがあるが。
比較じゃないなら自分が「嫌い」となるだろう。

自分以外の人や物事を自分のことのように自慢する

・今回の中で珍しくアッパー系。

・自慢話が多い人。ただし自分のことではなく、妻や夫や恋人や子供、車やバッグなどの「他人」や「モノ」を「自分の価値」として自慢するタイプ。

・誇りに思うのと自慢するのとは違う。前者は認知。後者は他人と比べて優れているという誇示。

この「誇示」をする必要があるのは、内心で負けを感じていることをごまかすため、とかそんな理屈で、元々これらは自信のなさの現れだとよく言われているものだ。

これ自体が「自分自身に自慢するところがない」のと「でも自慢はしたい」のが出てるので、まぁ、性格が良さそうには見えない。

・もっと深堀りすれば、攻撃的で、自分と他人をすぐ比べる性格が見えてくる。自信のなさは、自分と他人を勝手に比べて、勝手に負けてるから。自慢するのは勝ちたいから。あるいは劣等感を払拭したいから。「借り物」で勝ち誇るのは、安易とは言えその感情の解決ではあるが。

他方、勝手に存在意義を賭けた勝負を挑まれる側から見れば迷惑甚だしいのだが。

・これもやはり「他者評価でしか自分を測れない」、比較の上でしか自己評価を決められないことを指す。つまり、自己評価が外部依存であり、不安定になる。

更に掘り下げれば多くの人はこんなものだろう。学歴や経歴なんかもこれに近いしな。つまりは誰にでもいくらかある心理。人一倍それが強ければ、まぁ目立つ。
普通は内心で勝ち誇る程度なので。それはそれで性格がアレだが。

・マウンティングはわかりやすい例だ。あれをやるのは自己評価が低い人間に他ならない。だから勝てる相手を選んでの「比較」で補おうとする。尤も過度に「マウンティングされた」と感じるものもまた、わかりやすく劣等感が有る人間なのだが。すぐ「自慢してる!」とか騒ぐのとかな。まぁどっちもどっち。パッシヴな方が静かな分マシか。

人目を極度に意識する

・人からの評価を気にする傾向が高い。質がどうだろうが、「評価されること」を常に気にしているのは、相対的に「評価される自分」で居続けることになる。

「見られている自分」を強く意識することになり、これは「過剰な自己注目」と呼ばれる状態になる。これが精神衛生上よろしくない。

・他者評価が自分の価値を決める、というのは社会的な自己価値を気にしているということになる。元から自分で自分を認めようとする理由はなく、他人に自分を認めてもらうことが目的となる。

そういった願望も珍しかないし、別に不健全でもないだろう。程度の問題だが、極度に気にするなら程度の問題を間違ってるとは言える。

・まぁ、本当の意味での「自己価値観」を育むべきではなかろうかと。このタイプは結構、自分に関心がないように見えることが多い。自分は「他人に見せるもの」って感じで。

自分が何ができるかとか、何が苦手かとか、何が好きかとか、どうしたいとか、そういうのよりも、他人の目を優先している感じが。

自己評価を上げるには

というか、自分を認めるには。
どの道「思い込み」によって自己評価を上げたり、自信を持ったりした所で、ハッタリ以外に使いみちがないのでいらないだろう。

漠然とした(故に全体的に感じる)自信のなさの場合、どうやったら自分が自分のお気に召すのか分かってないのが問題ともなる。

他方、視野狭窄や「勘違い」によって自己評価が低いのならば、観察や気付きによって回復することは可能だろう。

どの道自分が成長するか、自分を理解するか辺りの話になる。

ともすれば自己評価が低いというのは、「自分の道」に迷っているのかも知れないな。

自分ができることを増やす

・周囲からの自立度が上がると、自己評価はそれに比例して増すかもしれない。

https://gigazine.net/news/20210607-humans-learn-echolocation-10-weeks/

この記事では、エコーロケーション、つまりコウモリとかイルカみたいに音で周囲を知覚することが人間にもできる、ということが書かれている。視覚を失った人が習得するものだ。

12人の視覚障害を持つ被験者の内10人が、エコーロケーションの習得が「自立性と幸福感の向上」に役立ったと報告している。
つまりその分人を当てにしなくて済むから自立性が増した、その分心の自由が増えるから幸福感も増した、ということではないだろうか。

・他にもセルフ・エフィカシー(自己効力感。自分は「それ」をできるだろう、という認知)と幸福度の関連は示唆されている。
自由は自己効力感でもあるだろう。前よりは歩き回れるようになっているはずだし、能力が増えたことで事実として自分の「効力」は上がっている。

簡単に「成長したから自信がついた」「自信がついて幸福感が上がった」と言えばしっくりくるのではないだろうか。

・反対に、自分は人に頼らなければいけない、自分ではどうすることもできない、というまさしく「自己評価」は、慢性的な苦痛をもたらすだろう。

過干渉な親を持つと消極的になる場合のほうが多い。これは「親」が全てやってしまうため(気にすることや悩むことすら)、自立心=自己効力感が育たず、自己評価も低くなるということではないだろうか。別のベクトルでやばいのもいるが。
冗談抜きで「甘やかすことは虐待」なんて言われたりもする。まぁ上にも下にも限度は有るということ。

・また、自己評価の低さと似ている「学習性無力感」は、うつ病との関連も考えられている。これも「自分がやっても物事は変えられない、よくならない」という認知。

こちらも本来失敗経験のあるその対象に対しての認知であるのが妥当だと思うが、「自分」に帰属し、「自分は駄目だ」となりやすい。つまり苦手意識(=タスクに対しての認知)となるのが自然だが、自己評価を下げている(=自分全体に対しての認知)。

・総じて自立度が低いと幸福感と自己評価は低く、自立度が高ければ幸福感と自己評価も高い。

ダークサイドとしては「他人を利用することが自分の能力だと思っている奴」もまた自己評価高くなるため、悪性自己愛みたいなのが常人より自信を持ってたりすることか。

自分が成長することを確かめる


・自分の成長は気にしていなければ気づけない面が多々ある。

・対策として、自分の成長を記録するというのがある。将来的に凹んだ時に見返したり、定期的に成長を確認したり。

・「自分は成長する」というのは、根本的な部分での自分への信頼となる。
とりあえず現状を記録してみると良い。

「自分の肌感覚」はだいぶ当てにならない。「今」を基準としてしまうため、過去から見て成長していても「昔がひどかっただけ」となりやすい。
スピードにしても、体感時間は容易に歪む。

つまるところ「実感できない成長」の方が多い。逆を言えば、自己評価が低いことは不当である、というケースも別に珍しくはない。

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