「自己評価」について
・正直「自己評価が低い」よりも適切な言い方がある場合も多い。本当に悩みの中心は「自分の評価」なのかは振り返ったほうが良いだろう。
特に「自尊心が低い」と言うべきケースがだいぶ混ざり込んでいる。
・なお、「正当に自己評価が低い」というシチュエーションは有ることに注意。この際は無駄に自己評価上げても自分を唆す以外の効果はない。後悔するかもしれない。
低いのは自己評価なのか自尊心なのか
・「自己評価が低い」という言葉のイメージは、ほとんど自己認識や性格を指している。「ダメな奴は何やってもダメでありそして自分はダメな奴である」みたいな感じであり、全てにおいて自信がないことが多い。
「自己評価」が「自分の存在価値」のような扱いであり、これが低い。まぁそりゃ暗くなる。
・これは言葉としてはおかしい。評価をするには評価基準が必要になる。その評価は評価基準に基づいたものであり、かなり限定的だ。例えば体重を体重計で測ってわかるのは体重だけだ。キログラムの定義で測れるのはキログラムだけである。
まぁ要するに何を評価した所で「全部ダメ」にはならない。全部ダメだと評価するには、ありとあらゆるものを評価しなくてはならない。
だが体重が多い=デブ=自制できない=生きてる価値ない、みたいなところまで連想する人はする。一つダメなら全部ダメ。
・何か一つが自分のすべて、というわけではないのだが、当人的には確かにそれが全てだったり、全てを賭けていたりということはある。そういった対象がダメだったりすると、気分的にはやっぱり「全部ダメ」とはなりやすい。
このため極度のコンプレクスを抱いている者もそうだが、何かを目指している者もぶつかりやすい壁である。
自己評価の2つ
・自己の評価が気になる場面は大体2つ。他人と自分を比べるか、課題と自分を比べるか。
- 社会的/相対的な自己評価。比較することで生じる。他人の優れた面を見た時に凹む。
- 効力予期の自己評価。萎縮。何かやろうとした時に、対象の難易度と自分への能力の評価との差で生じる。
1は自分が目指している道において、遙か先を行っている者を見た時にもなる。大抵は本人が「何か」に拘りがある。何らかの能力であることが多い。それと他人とを比べる。
2は自己効力感(セルフ・エフィカシー)が該当する。これがある状態では「自分にはそれができる」という認知になる。
ない場合は何かやろうとした時に不安で仕方がない。他人を見て羨んだり、ヘコんだりはあるだろうが、それは二次的なもの。
・本来は「この点で自分は負けている」「この課題に対して自分は不向きだ」などの一点に対しての評価が、どちらも言葉通り「自己」の評価に拡大解釈されている点は変わらない。
・また、「自己評価」との言葉を使う者の意図としては2通りの意味で使われていることが多い。
- 自分が下した「自分の何か」の評価である
- 「自分」が対象の評価である
1は自分の英語力の評価とか、そんな感じで対象が自分の一部分。自己評価としてはそこそこ、とか。効力予期の方。
2も自分で自分にする評価ではあるが、対象が「自分」という存在の評価である。自己イメージに近い。他人が自分に向ける言動はその材料となり得る。
2の場合、他人にゴミのように扱われたから自己評価が下がる、なんてことがあり得る。つまりある程度社会的な要素があり、100%自分自身から出たものであることは疑わしい。
自己評価と自信
・自己評価が低いと気にする場合、実際には「自信」が欲しいとか、自信がないとかの辺りを問題としていることが多い。今の自分が自信がなくて消極的であり、その対応として積極性が欲しいという感じ。あるいは直接に恐怖や不安を感じており、それを払拭したいために自信を求める。
・確かに自己評価が高いと自信がある振る舞いになる。
自己評価が低いと消極的で臆病な振る舞いになるが、これは良く言えば慎重で謙虚でもある。
- 自己評価が高すぎれば傲慢となる。
- 自己評価が低すぎれば卑屈で臆病となる。
これらは「自己評価」を「自信」と入れ替えても成立する。
・「自信」も単体と全体とで分けておこう。
能力やスキルに対しての自信は、影響はそれだけに限られる。勉強に自信はないが運動には自信があるなど、対象や範囲それぞれに自信のあるなしが決まる。
・一方で「自己評価」というのは「自分全体の自信について」として言われることが多く、ほとんど「自分が認識する自分の価値」みたいな意味を込められていることが多い。「自分に対しての根本的な信頼感」という意味を持つことも有る。つまり「自尊心」と混同あるいは同一視されている。
このため自己評価の高低は、すべての物事に対しての態度に出る。仕事、勉強、人間関係。
加えてさらなる自己評価にも影響を与える。一人で何もせず部屋にいることですら、自分を怠け者だと思うか、くつろいでいると思うかを変えるだろう。
自分が「嫌い」との違い
・自分が嫌いなのとは、微妙に違う。両方ってことはあるが。
・自己評価が低いのは「自分が自分の期待に適わない」という心理であり、何かしらの目標、目的、果たすべき義務、つまり「基準」がある。
理想や夢かもしれないし、「自分はこれくらいできなきゃいけない」と思っているものかも知れない。何かをやろうとしているか、何かであるべきとしているか。
それほど御大層な目標でもなく、テストでは少なくとも赤点くらいは免れることを、人前では無難に振る舞うことを、そこはかとなく意識はするものだろう。このレベルの「普通じゃないと」みたいな考えを含める。
・この場合の自己評価の低さは「能力不足」の認知に近い。だから自分が嫌いだとはなり得る。
ただし、その自己認識が「そういう思い込み」であることがかなり多い。信じられないだろうが。
またプロでも、
- 今でも自信なんて無い
- 毎度毎度四苦八苦している
- 楽になることなんて無い
なんて答える人もいる。裏を返せば実力が上がってもまだ残ることもある。むしろ「練習や勉強」で解決する実力の問題であるはずのことを「気持ちの問題」が邪魔しているケースも多い。
自己評価が低い人の特徴
色々有るけどね。
木を見て森を見ず
・一つダメだから全部ダメって思考。「過度の一般化」とも呼ばれる認知。
何か一つダメだから全部ダメってのもいるが、多くは「中心」として拘る対象がある。それがダメだからダメ、それがもしも良いなら自分は良いと認知する。弱点にもなり得るね。
まぁどっち道、視野狭いのは確かだが。人間は目標を持ってるとそんな感じになるとは言われている。
・「自分」の全てへの評価であるから、その結論は統計的な、総合的なものなのか、と言えばそうでもなく。
仕事ができるから俺偉い、ってのもいるし、顔が駄目だから全部ダメ、って自己評価なのもいる。
ともかくこのようにコンプレックスや一つの物事への自信の高低が、そのまま自己評価のベースになっていることも見受けられる。
自分の取り柄に執着する者もいれば、自分の理想に執着する者もいる。前者の方が折れやすいかな。後者は勉強熱心なこともある。
・実際の所、長所で短所を補うにも限度がある。Aが良ければBがヘボくても許される、ってのも必ずじゃない。仕事ができても性格が悪いから定年と同時に離婚、顔は駄目だが性格は良いから好き、なんてコースもあるわけで。
これも他者が「どこを見るか」という話だが、同様に「自分がどこを見るか」でも自己評価は変わる。
・「絵が下手で上手くなりたい者」が走るのが早かった所で、関係ないだろう。走るのが早いからと自己評価が上がるだろうか。絵がヘタだからと自己評価を下げる可能性の方が高い。
これらは「自己評価」として見るなら論理的にはおかしい。客観的な評価を考えるなら「走ることに対しては並より高い、絵に対しては並より低い」が妥当だ。「能力単体」の評価を「自分全体」に帰属させている時点で根本的にズレがある。
・よって「自分に対しての信頼感」という広範囲な一括評価は、包括的な自信ではなく、一種の認知、思い込みに近い。
単に自分が「なりたい自分」になれそうかどうか、「あるべき自分」として安定して振る舞えるかどうかについてという、大きな括りでの自分の能力への信頼感だと推察する。
つまりこの場合の自己評価は「自己都合による評価」である。他で良くても関係ない、自分の都合(理想や義務)に対して自分が適わないのならば、やっぱり自己評価はその文脈では低くなる。「足りない」「未熟」という自己評価は正しいのだろう。全部ダメってのは行き過ぎだが。
予言の自己成就
・自己評価の有無がその者の行動や評価にも影響があるのは、やるかやらないかにほとんど直結するからなのが大きい。
自信があるからやってみよう、自信がないからやめておこう、と。
これは予言の自己成就(予言を意識した行動をすることにより後から自分で自分が言ったとおりになってること)に近い。
反対側を確認できないため「やってよかった/やらなくてよかった」となりやすく、更にその自己評価は強化される余地がある。
・この時問題となるのは、「やらない」ことで「やらなくてよかった」と思いやすい点だ。これは短期的には「ほぼ失敗しない」。改める機会が非常に少なく、「やらないほうが良いという確信」がやたらと育ちやすい。
やらないことによる「成果」は、基本的に「何も(悪いことが)起きない」という形になる。つまり何もしないから何も起きなかったというのは、「成功」としてフィードバックされてしまう。脳はこれを「正解」だと認識し、次もそうしようとするだろう。これは「消極性が悪化する」と言える。
・もちろん実力がなければ自信も評価も安定しないが、行動するほうが成長が早い。
ある意味での誠実さ 責任感の強さ
・行動力と消極性、加えて実力や能力の話であり、自己評価や自信は最終的には「態度」「行動」「成果」に結びつく。「実力と離れすぎた高い自己評価」だった場合には、この段階で馬脚を現すことになる。
・このため、恥をかかないため、嘘にならないため、失望されないために、自分から過剰な自信を持たぬため自己評価を低くしている人もいる。
つまりは「自惚れないため」。「自信家」は決して褒め言葉ではないのが良い証拠だろう。
・繰り返しになるが、「やらない」ことで「何も起きない」という収穫を得ると、慎重さが強化される余地がある。
これ自体は危険に対しての判断なら問題ないが、何に対してもそう思うなら問題だろう。
アピールをしないという消極性の問題
・アピールをしない。できれば人目に触れたくないため、他人に機会も成果もかっさらわれる。
アピールとは、自分を売り込むようなものだ。「商品」に自信がないのなら、及び腰にはなる。「評価」の目にさらされたくない、というのは自己評価云々に限らず、多くが感じていることではあるが。
・状況から見て「蚊帳の外」になりがちで、相手にされない分、更に自己評価を下げる。
・消極性が原因なのか、自己評価が低い人の内いくらかは「他者に自身の価値を発見されること」を待っているフシが有る。
ただそれ以上にアピールうざいアクティブな奴らが多いので目にとまることは少なく、発見されることの期待値は低い。
・また露骨に他人の成果を盗む者ってのはいる。これには分かっててやってるクズや、他人が目に入ってないから全部自分の成果に思えるバカまで色々いる。どの道、居ない方がいい奴の養分にはなってもらいたくない。
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マイナス思考/ネガティブ思考
・失敗するかも、やらない方がいい、などの考えはお馴染みのものだろう。
このネガティブな感情は利点がある。防衛的ペシミズム(悲観主義)と呼ばれ、用心するための否定的に見て、緊張を伴ってことに当たる方略。
日本人はだいたい悲観的であるとされる。悲観的だからこそ「しっかりやる」傾向があるともされる。ネガティブな感情は「用心」「慎重さ」なる行動として昇華できるということ。
このためには自分の不安感の分析などが必要となる。懸念点はあるのか、わからないから不安なのか、癖でとりあえず不安がってるだけなのか。特になんとなくの苦手意識は、「よくわかってない部分があるから」であることが多い。
・朝に予測する一日のストレスが現実と比べて甘い程、日中で混乱し夜にはストレス度が高い傾向がある。
反対に朝のストレス予測量が高く、なおかつ自分でそれを乗り越えられると考えている場合、夜のストレス度は低い。
このように悲観主義はむしろ「予想外」が起こることに対しての有効な心の構えであり、これ自体は問題もない。
・ただしこれらは「現実的な悲観主義」であることが前提。
外に出たら車に轢かれて死ぬに違いないとかそういうレベルで悲観主義だと、防衛的ペシミズムを通り越して「真の悲観主義」と呼ばれる状態となる。それ以上の用心なんてやりようがない。引きこもるしかなくなる。一部の自称自己評価が低い人は、このレベルが見受けられる。
・一部の「ポジティブであるべし」と言わんばかりの風潮により(そう言ってるのが悲観主義者の場合もある)、そうじゃない/向いてない自分を悲観的だ、自己評価が低いとそれこそ「評価」することもある。
が、上記の通り予測が楽観的だとそうじゃなかった時のストレス度がむしろ高いという説もあるし、防衛的悲観主義は「性格」と言って差し支えない程度のもの、理想としては方略として自身で意図して使うようなものだ。悲観主義が楽観主義の真似事するとスペックが落ちるという研究もある。侵害されてやる筋合いはないだろう。
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ネガティブな言葉をよく言う
・「自分がこれから何かをやらなきゃいけない」という状況下で多い。人が何かやろうとしているところにネガティブワード投げつけるのはこれとは関係なく問題なので除外。ただし「他人の失敗の巻き添え」を予期して自分事として嘆く、というのはありえる。
いちいち「もうダメだ」みたいな事を言うのは主張的セルフ・ハンディキャッピングに該当する。失敗する前の言い訳。失敗時の保険とか、周囲に期待されないことで自分の気を楽にしようとする試みとか、その当たり。単純に「失敗のリハーサル」のつもりもあるかも知れない。
これは失敗前提だから、自己評価が低いのは確かと言える。不安を和らげる精神安定的な効果があるため「中毒」や「クセ」になっている場合もある。
・後は普通に嫌がられるね。ポジティブを押し付けるハラスメントも社会的に問題だが、かと言っていちいち辛気臭いのが歓迎されることもない。人間は同調や共感が有るため、「気分が感染する」のを嫌がるという理由もある。
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脳内反省会
・内省的なのは内向型の特徴でもある。これは自己改善や自己啓発にはなるが、直接的には自己評価は上がらない。
自分なりの「正しさ」や「自分らしさ」みたいなのが評価基準であることも多い。この場合はストイックなだけだ。自己評価は低いとは言えるがそれは理想が高いことに由来する。胃に穴が空かない限りは別にそのままでいいだろう。空くことはある。
・「後悔」である場合は、今度は内向型も外向型も関係ない。生きてりゃある。
自分の至らなかった所が後からやたらと目につくというのは、大抵の場合「コントロールを失っていた状態から正気に戻った」という戦慄と後悔に近い。ちょうど泥酔している自分の動画を、素面の状態で見せられたかのような。
この上で「他人が自分がやったあの事をどう思っているか」を気にしていると、まぁ初めからやらなきゃよかったとは思ってもおかしくない。これも「その事」に限った話なんだが、なんか怖くなってとりあえず全部やめとこう、ってなっちゃう人はいる。
・本来は「自分の行動に対しての正常な学習/自浄作用」でもある。妥当な反省とフィードバック。これを誤魔化して自分をただ励ますのも、それはそれで怖い面がある。
もっともスポットライト効果と言って、現実以上に「自分は他人に見られている」と思いやすい面もあるし、トンネリングと呼ばれる「それしか頭にない状態」で自分のやらかしを気にするなど、取り越し苦労の可能性も高いのだが。
自分が過度に気にしているのか、それともマジでやらかしたのか、「自分にとってどうだったのか」で言えば、自分にしかわからない。「課題発見」程度に捉えておくのが精神衛生上よろしかろう。
理由は簡単で、「もうおしまいだ」って思ってるのと「次からこうしよう」って思ってるのとどっちがストレスないか、どっちが建設的か、どっちが前向きか、どっちが得するか、実際にやらかしだったとしてもどっちが汚名返上できるかって話。
高い目標を持っている 理想が高い
・自己評価が低い人の「自分が何者でもない」という認識は、「何者かになろうとしている」からそう思うとも考えられる。何者かにならなきゃいかんのかという話は今回関係ないから置いとこう。
「何者かになろうとしている」から自己評価が低い場合。すなわち既に何かを目指していて、それに届かず、自分がそこに「足りない」「届かない」から自己評価が低い場合。
・見ている所が高すぎる、というのはある。眼高手低、つまり批評はご立派だが自分がやるとヘボいという「眼」を、自分自身に向けている。
有名所だと葛飾北斎のエピソードがあるな。
北斎の娘の応為(おうい)が語るには、北斎は80過ぎて「猫一匹すら描けねぇ」と泣いたそうな。
衰えたわけではなく、「自分の目に適う物が描けない」という意味であろう。
眼高手低は揶揄するような意味合いがあるが、求道者はまず先に今を上回る理想があり、実力はそれを目指して育つ。そう言った意味ではこうなることは至極当然のことだ。どこまでも進もうとするのなら、常に理想が現実より上回る。
時には理想が形を為さず、目指すべき場所がわからず、ただひたすらに現状に対して違和感を感じさせる。この場合何をして良いのかが分からず、非常に苦しくもなる。常に自分が至らない気持ちになってもおかしくはない。
・注意点としては、完璧主義に近い思考である点が挙げられる。「目標に届くか届かないか」を気にするのも結構だが、できること、できたこと、やったこと、これらにも意識的に目を向けたほうが、精神衛生上よろしいだろう。
中にはハングリー精神求めてこういうこと一切やらないタイプもいるが、先鋭化というか、方向性を間違うリスクが有る。また自分の理想が、自分にとっていつまでも正しいとは限らない。
「理想」それ自体への推敲やアップデートは必要だと個人的には思うんだが、世の中「決めたからにはやるべき」みたいな頭固い信念の方が主流だね。薄々違うと思いながらも達成するまで変えちゃいけないみたいなノリ。それで得るものはあるかもしれないが、時間とか失うことも忘れないほうがいいだろう。
・理想が高いことそのものはそれほど悪いことじゃない。完璧主義の研究でも「高目標設定」自体は必ずしも精神を病む要因とはならないとされている。「できない自分を責める」ことが、完璧主義が不適応的完璧主義(ネガティブな完璧主義)になる要因だとされる。
今回も同様に、高い理想自体は良いが、「今、そうじゃない自分」に対して攻撃性を向けている(許せない)面がある。
画龍点睛を欠く
・画龍点睛(がりょうてんせい)という言葉がある。立派な龍の絵を書いて、最後に瞳を書き入れたら本物になって天に登っていったという中国の故事から。転じて重要な最後の仕上げのような意味を持つ。
・一方で「画竜点睛を欠く」とも言う。画龍点睛の、まだ瞳を書いていない状態。転じて出来は良いが肝心な所が欠けていることを指す。
瞳を描き入れることを忘れて台無しだ、みたいな意味としても使われる。総じて「肝心な所が足りずに全部ダメ」みたいな意味になる。
・何かしらの高い理想を持った者にとっては、自分がそれに届くか届かないかが全てという気持ちになりやすい。ちょうど画龍点睛のように、「それができてないから全部ダメ」と。
人が目的を持つとき、目的中心の視点、一時的にそれが全てとなりやすい。
高目標により合格基準が高い・失敗判定が多い
・肯定否定、行動の成否の評価基準の問題。
完璧主義に似ていて、「思ったとおりじゃなかった」ことは「失敗」として捕らえる。
失敗にカウントされる条件がかなり広範囲なので、その分自己評価が下がる。
これは理想が高いというよりも、「理想しか見てない」タイプの視界になっている。
・盲点になりがちな一つは、計画性や予測能力が悪い場合にも、「それができなかった自分が悪い」と実行能力の問題になったり、反対に実行能力が悪い場合に「予測・計画能力がない」となったり、原因の所在が怪しい面があること。
もちろん、「これが出来なかったから自分はだめだ」という木を見て森を見ずな自己評価も。やっぱりこの場合でも、それに全てをかけているような心境の者にとっては、その評価はある意味正しくは有るのだが。
・ある意味当たり前の話で、例えば資格試験を受験した、不合格だった。後一問正解していれば合格だった、という場合。
これに対して「あと一歩までは正解したのはすごい」と言った所で、当人的にはあんま慰めにはなってないだろう。「失敗した」と認識する方が多い。目的だけ見ている状態。
これが模擬テストだったら、結構やれるじゃないか、となっても不自然じゃない。つまりはシチュエーションにより、同じ能力同じ結果でも評価は変る。自己評価と言うが、100%自分だけから来ているわけではない。外的要因があるということ。
ただここからが結構分かれて、この状況で「試験に失敗した」ことから、「自分はだめだ」となったらまぁおかしい。「後ちょっとだった」ことが見えておらず、「やろうとしたことに失敗した」ということしか頭にない。これで自己評価は下がる。
・まぁ大体自己評価が「高いか低いか」しかないのがだいぶおかしいんだけどな。このケースで言うなら、悪くても「自分はツメが甘いのかも知れない」とか、良ければ「後ちょっとで合格できる実力がある」とか、そのくらいの精度はほしい所なんだが。
「これは何が原因か」の直感的推論を心理学では「帰属」と呼ぶが、これは所詮直感かつ推論であり、すごい勢いで間違ってることも割とある。合ってるか間違ってるか自体をまず疑ったほうがいいだろう。
ついでに言えば規模や範囲がだいぶおかしいことが多々ある。
自己評価を高い低いで言い終えるなら、相当に雑だと言える。裏を返せば、そこを掘り下げれば道は見つかるかも知れない。
自己評価が高い
・珍説かつ説得力が有るものとしては、「自己評価が低い人は、むしろ自己評価が高い」という逆説的なものが有る。
内心では自分を高評価しており、そして「現実にはそうじゃない」という形で自己評価を下げると。
つまりプライドが高い。現実にはそうじゃない自分を受け入れられないくらいに。
・これも構造的には不適応的完璧主義に入るだろう。完璧じゃない自分を許せない完璧主義者。
実は他者評価
・自己評価とは言うものの、評価しているのは他人から見た自分、他人目線が由来の「恥」の概念に近い場合もある。
恥ずかしいか、堂々としていられるか。自分が人目を避けるべきか、人前に出られるか。
・「世間はきっと、自分をこう見るのだろう」という「評価されているのが自己」であり、その想像。他人がする自分への評価の想像であり、自分がする自分の評価ではない。
・いくらかの心理的な実験を見てみると、「人の目」に対しての警戒心が見て取れる。人は「世間」を仮想的かなんかに思っている側面はある。少なくとも信頼のできる相手ではない、用心するべき、時には攻撃をしてくる対象として見ている。
まぁ反対側の心理とかもあって、なんやかんや釣り合ってるものですが。他人の目を気にしている場合にどちらが優位な状態かっていうと、お察し。
自信のなさからくる言動
よく否定された経験がある・褒められることが少ない
・原因として、駄目だしされたりケチをつけられることが多かった、あるいは現在進行系でその様な輩が周囲にいる、という可能性は挙げられる。
相対的に「褒められた経験が少ない」というのも原因となる。これが微妙に厄介で、どう言い繕った所で人は自分と他人を比べることが多い。「褒められてる者」を見て、相対的に「自分はそうじゃない」だけで原因となり得る。ちょうど「理想が高い」というのと同じ構図となる。
・SNSなどが「毒」だと言われるのもこの辺りで、理想や目標のために他人をフォローしてると、元から自分より上だと認めた人の、さらに「自信がある所」「見せたい部分」だけが流れるような環境に自然となりやすい。
この上で他者の部分的、表面的なものを「その者の全体、あるいは多くを占める部分」と誤認識すると、自分の頭の天辺からつま先までの「等身大の自分」を比べりゃそりゃだいたい負けてることになるだろう、という話。
まぁ時に眩しいものが目の毒ってことはあるわけで。
・ ケチを付けられたり褒められたり比較したりで上下する自己評価は、外的なアイデンティティであり、元から不安定なものだとされている。
「他者を参照した自己評価」であり、「自分が自分を評価した」のとはちょっと違う。これはある意味自己評価が「まだない」と言える。他者評価だけで自分を評価している。
言い方を変えれば、他人のものさしで自分を測って凹んでいる上で、自分のものさしは持っていない。自分のものさしがないから、他人のものさしで自分を測っているのかも知れない。
・ 虐待被害者などの極端な例では、例えば人の怒りや軽蔑などの「ネガティブな表情」への脳の反応感度が高かったりする。反対も同様に差がある。
「自分に向けられたポジティブシグナルへの感度」は、人によって様々な理由で差があるかもしれない。気分にもよるだろう。いつも安定しているとは限らない。
都合のいい勘違いの果てに自己肯定感高いのとかがいるってことになるんだが。まぁ、幸せ脳みそならそりゃ幸福感は高いだろうな。行動面で適応的なら別にこちらは文句はない。
褒められても素直に受け止められない
・というか、疑う。「自分が肯定された」ことが珍しすぎて知覚するのにワンテンポ遅れる。相手の下心を疑ったりもある。
・まぁ実際に狙いがあって褒めることも多い。素直な賛辞か疑うべき場面も有るし、褒め方が上手いか下手かってのもるし、褒める側に問題があることもあるし、褒めること自体があまりいいことではないという説すらあるため、これはあまり基準にはならないだろう。
・ただ自覚症状として、褒められて「全く心当たりがない」みたいな感じがするなら、まぁ相手の褒め方がヘタな可能性もあるが、あまり自分の価値をわかってない可能性もある。 なんかイラッとするなら相手の下心が見えてるだけかもしれないし、単にひねくれてるのかも知れない。
・結構自分の良さってのは元から盲点になりがちなので、やっぱりこれを元に自己評価が低いと確定するには無理がある。
ジョハリの窓で言えば、自分が認知できないのは盲点の窓(他人にわかっていて自分に分かっていない)と未知の窓(自分にも他人にもわかっていない)の2つある。この2つはやらかしてる可能性も、認められる可能性も両方含んでいる。
・どの道、「褒める」と「認める」は区別したほうが良いだろう。「良いと認められた」のに、相手にはそう見えるのかとすら思わず「否定の感情」が浮かぶなら、これは自己評価が低いと言うか、自己否定感があるというか、そういう状態の可能性が出てくる。
・高い目標を持っているから、その「途中」で褒められても邪魔なだけだ、というケースもある。これも相対的に、今の自分は至らないという認知であり、自己評価低いって言ってもあってるっちゃあってる。この場合は気にしなくていいが。
・自己評価の高い低いを語るなら、何かしら基準があるわけだ。それが(脳内の)世間の相場だったり、具体的に他人と比較したり、理想の自分と今の自分とを比べてのことだったりする。
だいたいこの3つあたりになるか。高低という相対的な概念を持ち出す限り必ず「比較」になる。自覚はないことがあるが。
比較じゃないなら自分が「嫌い」となるだろう。
自分以外の人や物事を自分のことのように自慢する
・今回の中で珍しくアッパー系。
・自慢話が多い人。ただし自分のことではなく、妻や夫や恋人や子供、車やバッグなどの「他人」や「モノ」を「自分の価値」として自慢するタイプ。
・誇りに思うのと自慢するのとは違う。前者は認知。後者は他人と比べて優れているという誇示。
この「誇示」をする必要があるのは、内心で負けを感じていることをごまかすため、とかそんな理屈で、元々これらは自信のなさの現れだとよく言われているものだ。
これ自体が「自分自身に自慢するところがない」のと「でも自慢はしたい」のが出てるので、まぁ、性格が良さそうには見えない。
・もっと深堀りすれば、攻撃的で、自分と他人をすぐ比べる性格が見えてくる。自信のなさは、自分と他人を勝手に比べて、勝手に負けてるから。自慢するのは勝ちたいから。あるいは劣等感を払拭したいから。「借り物」で勝ち誇るのは、安易とは言えその感情の解決ではあるが。
他方、勝手に存在意義を賭けた勝負を挑まれる側から見れば迷惑甚だしいのだが。
・これもやはり「他者評価でしか自分を測れない」、比較の上でしか自己評価を決められないことを指す。つまり、自己評価が外部依存であり、不安定になる。
更に掘り下げれば多くの人はこんなものだろう。学歴や経歴なんかもこれに近いしな。つまりは誰にでもいくらかある心理。人一倍それが強ければ、まぁ目立つ。
普通は内心で勝ち誇る程度なので。それはそれで性格がアレだが。
・マウンティングはわかりやすい例だ。あれをやるのは自己評価が低い人間に他ならない。だから勝てる相手を選んでの「比較」で補おうとする。
尤も過度に「マウンティングされた」と感じるものもまた、わかりやすく劣等感が有る人間なのだが。すぐ「自慢してる!」とか騒ぐのとかな。まぁどっちもどっち。パッシヴな方が静かな分マシか。
人目を極度に意識する
・人からの評価を気にする傾向が高い。質がどうだろうが、「評価されること」を常に気にしているのは、相対的に「評価される自分」で居続けることになる。
「見られている自分」を強く意識することになり、これは「過剰な自己注目」と呼ばれる状態になる。これが精神衛生上よろしくない。
・他者評価が自分の価値を決める、というのは社会的な自己価値を気にしているということになる。元から自分で自分を認めようとする理由はなく、他人に自分を認めてもらうことが目的となる。
そういった願望も珍しかないし、別に不健全でもないだろう。程度の問題だが、極度に気にするなら程度の問題を間違ってるとは言える。
・まぁ、本当の意味での「自己価値観」を育むべきではなかろうかと。このタイプは結構、自分に関心がないように見えることが多い。自分は「他人に見せるもの」って感じで。
自分が何ができるかとか、何が苦手かとか、何が好きかとか、どうしたいとか、そういうのよりも、他人の目を優先している感じが。
自己評価を上げるには
というか、自分を認めるには。
どの道「思い込み」によって自己評価を上げたり、自信を持ったりした所で、ハッタリ以外に使いみちがないのでいらないだろう。
漠然とした(故に全体的に感じる)自信のなさの場合、どうやったら自分が自分のお気に召すのか分かってないのが問題ともなる。
他方、視野狭窄や「勘違い」によって自己評価が低いのならば、自分への観察や気付きによって回復することは可能だろう。
どの道自分が成長するか、自分を理解する辺りの話になる。
ともすれば自己評価が低いというのは、「自分の道」に迷っているのかも知れないな。
自分ができることを増やす
・周囲からの自立度が上がると、自己評価はそれに比例して増す余地がある。
https://gigazine.net/news/20210607-humans-learn-echolocation-10-weeks/
この記事では、エコーロケーション、つまりコウモリとかイルカみたいに音で周囲を知覚することが人間にもできる、ということが書かれている。視覚を失った人が習得するものだ。
12人の視覚障害を持つ被験者の内10人が、エコーロケーションの習得が「自立性と幸福感の向上」に役立ったと報告している。
つまりできることが増えた分だけ、人を当てにしなくて済むから自立性が増した。自立性が増した分だけ、自由が増えるから幸福感も増した。
・他にもセルフ・エフィカシー(自己効力感。自分は「それ」をできるだろう、という認知)と幸福度の関連は示唆されている。
自由は自己効力感でもあるだろう。前よりは歩き回れるようになっているはずだし、能力が増えたことで事実として自分の「効力」は上がっている。
簡単に「できることが増えたから幸福感が上がった」と言えばしっくりくるのではないだろうか。
・反対に、自分は人に頼らなければいけない、自分ではどうすることもできないとの「自己評価」は、慢性的な苦痛をもたらすだろう。
過干渉な親を持つと消極的になる場合のほうが多い。これは「親」が全てやってしまうため(気にすることや悩むことすら)、自立心=自己効力感が育たず、自己評価も低くなるということではないだろうか。別のベクトルでやばいのもいるが。
冗談抜きで「甘やかすことは虐待」なんて言われたりもする。まぁ上にも下にも限度は有るということ。
・また、自己評価の低さと似ている「学習性無力感」は、うつ病との関連も考えられている。これも「自分は現状を打破できない」という認知。
こちらも本来は限定された一つの失敗に対しての認知であるのが妥当だと思うが、「自分」に帰属し、「自分は駄目だ」となりやすい。つまり苦手意識(=タスクに対しての認知)となるのが自然だが、自己評価を下げている(=自分全体に対しての認知)。
・総じて自立度が低いと幸福感と自己評価は低く、自立度が高ければ幸福感と自己評価も高い。
ダークサイドとしては「他人を利用することが自分の能力だと思っている奴」もまた自己評価高くなるため、悪性自己愛みたいなのが常人より自信を持ってたりすることか。
自分が成長することを確かめる
・自分の成長は気にしていなければ気づけない面が多々ある。直感レベルだと「今の自分」が自己評価の基準になりやすいため、1年前と比べて倍は成長していても「なんも進歩しとらん」との自己評価はやりかねない。
つまるところ「実感できない成長」の方が多い。逆を言えば、自己評価が不当に低いケースは別に珍しくはない。
・対策として、記録するのが有効になる。将来的に凹んだ時に見返したり、定期的に成長を確認したり。
「自分は学習/成長する」という事実を知るのは、根本的な部分での自分への信頼となる。これは青臭い希望ではなく、中立的な概念だ。悪癖が付くのも「学習」だからな。性格が悪くなるのもある種の「成長」と言えるし。希望どころか厄介事ですらある。
望んだ方向に自分が伸びているかどうか。悪い方向には伸びていない、というのも評価対象としてもいいんじゃないのか。とりあえず現状を記録してみると良い。