認知心理学の「望ましい困難」

認知負荷

勉強も練習も、簡単すぎてもいけないし、難しすぎてもこれまたよろしくないとされる。

難しすぎると良くない理由は、「認知負荷」が原因。
簡単に言えば難しすぎると、元から容量が少ないワーキングメモリ(脳内の短期記憶や情報処理を行う部分)がパンクした状態になる。そのまま勉強・練習を続けても「わけがわからんままなんとかなった」ということになり、勉強にならない。

厄介なことにワーキングメモリは短期的な記憶だけではなく、脳の「作業場」でもある。このためパンクすると萎縮や短絡的な判断をしかねない。要はテンパる。

今の自分から見てゴールが遠い、難しいことを身につけたい場合。脳に長期保存したものを足がかりに、少しずつ切り崩していくことになる。

望ましい困難とそれを消すもの

認知心理学で言う「望ましい困難」とは、認知負荷を起こさず、簡単すぎもしない、「丁度いい負荷」を指す。これについては筋トレ畑の人の方が理解が早いかもしれないな。


認知的な負荷の量の話である。タスクの難易度ではない。ここに注目したい。認知不可とは正反対に、「身についていないのに、認知としては負荷にならない」というアホな事態になる可能性があると思うのだ。

認知的処理としてはもう簡単になってしまった(=わかった気がする、見慣れた)状態。
「慣れ」。物事に対して気楽にさせてくれるが、楽しさや実感を奪い、退屈にさせるもの。学習対象を真に理解する、身につける「前に」、慣れてしまう可能性。

できないのに慣れてしまう可能性

最も身近で説得力があるだろう例は、「読めるけど書けない漢字」だろうか。
薔薇とか檸檬とか曼珠沙華とか沙羅曼蛇とか塵地螺鈿飾剣とかは、読めるけど書けない人の方が多いと思われる。

難易度として見てみれば、画数は多いがパーツ自体は珍しいものではないだろう。覚えようとすれば覚えられるはずだし、覚えれば書けると思える程度の難易度だ。
なぜ書けないのか。「読めるだけで十分だから」だろう。

恐らくは動物としてはこれでいい。判断さえできればいい。「再現」の必要はない。ただし人間が言う学習とは、ほとんどが再現に属する「実行」ができなければならない。
要はアウトプットできなきゃ話にならん。

つまるところ、人間としての都合と動物としての都合との不一致が起こる。
勉強や練習に対して、人間としては「できる」のがゴール。一方動物としては「知ってる」とさえ思えればいい。

この温度差により、「できないけど頭働かない」状態は起こり得る。先に動物の部分が「もう十分だ」となる。結果、認知負荷と逆に、脳的には「知っているから覚えない」という態度を取る。

もう一度言うが、難易度の話ではなく、認知的処理の話である。そのタスクが「知っているが、できない」という状態。ここで止まる。勉強が苦痛になる一端ではなかろうか。この状態でそれを学ぼうとすることはおそらく、退屈な上に苦痛というわりとひどい状態だと思われる。

慣れずに学習するためには

この上で、認知は割とせっかちで、当て推量をする。時には狙って嘘をつく。捏造もする。自分をコントロールしたり、恐怖や不安から逃れる目的で。

対策としては、知っていることを自分の言葉で表現する、違う形で練習してみるとかの一手間かける工夫がある。バリエーションを増やしたり、切り口を変える感じ。
意図的に負荷を増やす、あるいは「慣れ」が効かない手段をとることで、脳に再び注目度を上げさせる。

一つの分野を長期間勉強するのと、複数を交互に勉強するのとで、後者が効率が良かったという研究もある。そのくらい「慣れ」は学習効率を下げる。

後はまぁ余談だが、「覚えたきゃ思い出す練習をしろ」っていうのもある。テキストの再読も大した効果はないんだと。

学習や練習の効果が見られないと感じ始めたら、対象を変えず、接し方を変えてみるのは良いかもしれない。

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