やる気があると計画的実行に失敗するのではないか?

やる気があることによる失敗について。

「無能な働き者は撃ち殺すしか無い」なんてネットミームがあるわけだが、能力以上にやる気を出したら、相対的に誰でも「無能な働き者」になりえるだろう。

やる気というのは単なる行動欲求であり、行動の質を保証するものではないのだから。

計画段階でのやる気による失敗

ただでさえ計画を立てる時は調子に乗りやすい。これは計画とは名ばかりの「ゴールまでの夢想」の場合は特に。当然後で嫌になってくることは多い。重荷に感じるとかね。

予定自体がストレスであることもある。これは人間の「仕様」と言っても良いが、そういった物を織り込まないで計画を立てやすい。

元からこんなんなのに、プラス、やる気という名の行動欲求だ。つまりすぐに動きたい。頑張りたい。活躍したい。計画は雑になり、やることがよくわからんままの力押しのアクションをするしかなくなる。

実行段階でのやる気による失敗

決めつけ、思い込みが激しくなる。「行動欲求」だからね。口や体を動かすつもりはあるけど注意力や思考力使うつもりはその分減るよ。

やる気がある者は去れ、やる気がある者は視野が狭い、とタモリも言っているわけで。これも「気づき」がないからだそうな。

これに連なり林修も、

うちの業界(塾)と一緒で、たまに若い先生なんかで、「僕は教えることが天職なんです!」と、やる気がある先生に限って、本当に授業がひどいんですよ。
見えてないんですよ。
生徒を見て、生徒に応じて変化させて授業ができないんですよ。
「俺はこうなんだ、すごいだろ、付いてこい!」っていう暑苦しい授業をやるんですよ。
https://www.haruharu-career.com/entry/tamori/motivation/leave

と述べている。要するに、よく嫌われてるジョックや体育会系のキャラクターそのまんまとなる。ダメなリーダーシップ(本当にこれとは違うよろしいリーダーシップというものはある)。

フィードバックをしない。立ち止まって考えることを一切しない、とにかく動こうという「悪いやる気」があるとこうなる。最悪、明後日の方向へ飛んでいく。周りをなぎ倒しながら。

結局のところ、自称「やる気があります」ってのの中には、ただ単に「立ち止まって考えることができないだけ」なのが紛れ込んでいる。これは衝動性が高いと呼ぶのであって、やる気があるのではない。

そして何よりも、やる気がありすぎるのなら、誰でもこの様になるということ。


やる気がある時だけ頑張り、やる気がない時頑張らない。むしろやる気に頼って動いているから、やる気が無い時に全く無力になる。

まぁ、日常的な話で言えば、やる気がないからやる気が出る方法ググるとかな。勉強にはなるけれど。
実際この場面で、「やる気がなくても出来る方法」って考えるだろうか? 大抵は考えない。

一方で「やる気がなくても出来る方法」を考えた人々もいる。私が知っている話の一人はうつ病だが、その状態で動けるような工夫をした。
もう一人は躁うつだったか? いつ気分が沈み、今日できることが明日できなくなるかもしれないと懸念している状況で、「それでも出来ること」をリストアップして備えた。


燃え尽き症候群への懸念。やりすぎ、オーバーワーク。燃え尽きる前は割とこのような「やる気がある人」だった話がある。


そもそも「やる気」自体が短期的なものが対象でないと有効に働かないのでは?

やる気は感情である。脳内物質が出ている状態。
脳内物質は何ヶ月も出っぱなしなわけじゃない。アンガーマネジメントでは(多方で意見が出ているが)6秒で怒りの物質は収まるとしている。
オキシトシンも体温により3分半で壊れる

特定の物を見て、特定の感情が常に湧くなら話は別だが、慣れによってこれは減る。これらの観点から見れば、長期的であるほどに、やる気が無くなっていくのは道理だろう。

むしろ計画だけしてそれで終わり、の方が自然ですらある。やる気だけが原動力なら。


悲観主義者のように計画し、楽観主義者のように実行せよ。なんて言もあるが。じゃあ逆を考えてみよう。

一番ひどいケースを考えてみれば、やる気がある者は楽観主義者のように計画し…つか計画するくらいなら動く(ノープラン)だし。準備段階でだいぶあかんだろ。そのやる気が計画に向いたとしても、暴走しそうだし。

やる気が悪いと言うよりは、計画的実行に対してやる気でなんとかなると思っていることがカテゴリ錯誤なのではないのか。やる気を行動欲求として扱うなら、「やる気は1アクションに向けるもの」ではないのか。

モチベーション管理っていうとこれとはちょっと違ってくるんだけどね。あっちのほうが環境構築の面を含んでいる分、現実的なことが出来るだろう。

いちいちテンション上げなくても事は為せるのではないか

少なくともやる気というか、いちいちテンション上げなくてもすごいことを淡々と成し遂げた例はある。

例えばシャーロック・ホームズ全60作品を自発的に全部対訳した人。期間は26ヶ月、本業がITエンジニア。当人はこの26ヶ月を「懲役」と呼んでいる。

動機は敗北感。チェコのサイトでホームズの網羅的なサイトを見て、敗北感を感じ、「加えて翻訳をすればこのサイトを上回る」と思ったそうな。職業由来の視点だろうか。そのサイトは「美しかった」らしい。

ああ、ちょっとわかるかもな。なんつーか、自分の行きたい道に於いて、その道を自分より先を行っている奴を見ると、なんかムカつくんだよな。追い抜いてやろう、みたいなな。
この感情がアクションにつながらない場合に「嫉妬」になるのかもな。どちらにせよ面と向かって相手にその感情向けるべきではないけどね。

閑話休題。膨大な量を翻訳した上、完了時に特に達成感もなく(当人は期待していた)、「明日翻訳する分がない」と思ったとか。とても静的である。

使える時間は全て翻訳に使ったので、ムショ暮らし、空白の2年、というのが振り返っての感想です。昔の出来事を思い出すときに、あれは「懲役」前だったっけな? という感じで、自分の中で大きな区切りになってます。
https://nlab.itmedia.co.jp/nl/articles/1708/04/news104.html

ちなみにこの後で日本語だけの別サイト作ってる。

さらに、スタンフォード大学がホームズのヘボい本を出版したのにイラッと来て自分で本を出している。

ああ、なんというか、愛ですね。


さて、自主的な「ムショ暮らし」で大事を成し遂げた例がこのようにある。終わった時の感慨は、「明日翻訳する分がない」だ。

これも重要だろう。やる気があるとかないとか過度に気にする人は、「熱狂的に取り組み、達成時に歓喜に震えながらガッツポーズ取るのが『目的』」なのが割といる。
ただし性格には見えない。計画的実行とその達成に対して「そういうものだ」というイメージを持っているように見える。

だがこの例で見れば、熱狂することは不要だったし、ゴールしても歓喜はなかった。

そもそもやる気と発揮できるパフォーマンスが直結していると思っている人多いが、それは本当なのだろうか。阻害要因が消えればパフォーマンスが発揮できる、というのは確かにあるが。緊張や萎縮をやる気という畑違いのもので、力ずくな解決をしようとしている気がする。

何れにせよ、計画的実行は、1アクションと比べれば必ず長期的なものとなる。勢いによる力押しよりも、淡々と為せる様に組むべきではないのか。

タイトルとURLをコピーしました