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客観のバグ

投稿日:2019年1月25日 更新日:

主観と客観

・人によっては主観が客観になっている。「自分の視点が持てない」、「自分がない」、そのような状態。

あらゆる場面で自分の都合で動けない、自分の都合で決定できない。「自分の都合」がわからない。

PACモデルでも「侵蝕/汚染」の概念があったはずだ。A(=自分を客観視できる人格面)の基準がP(親)やC(子供)の価値観に影響を受けている状態。

・ただ、流石に主観が「ない」ことはまず無いだろう。どちらかと言えば比率の問題で、客観がでかすぎるんじゃないか。あるいは主観より先に客観が思いつき、採用されている。

上記のような異常な他者優先は、ヒステリーが身近にいる環境で育つとなりやすいし。他にはアダルトチルドレン。どれも「意識せざるを得ない他人」が近場にいる状況。

ガン化した客観

・よく使われる客観の「モデル」が非常に攻撃的、批判的、悪意を持っている人物像、或いはそのような視点/評価基準になっている状態。まるで頭の中に「他人」がいて、自分を責めるかのような。

具体的な「モデル=犯人」がいるとも限らず、ニュースで見たりそこら辺の人間のクソみたいな要素だけかき集めた化物の場合もある。ご丁寧にも「二次受傷/代理トラウマ」なんて現象もあるしな。多くの人間の世間様恐怖症はこのせいだろう。

・まぁ所詮はハリボテなんだが。頭の中には自分しかいない。

アバター

・俗に言われる程度のトラウマやフラッシュバックに於いて、まるで「犯人」が頭の中に居るかのような誤解を生む原因が、この「客観」はアバターを持っていることだ。

ただ、それは記憶をもとに作られた「それを言いそうな奴」に過ぎない。また、自身に対して何かしらの批判的思考をすること自体は別におかしくない。人は元からそうやって「普通」からはみ出さないようにしている。

「理性」というのも大半は「抑止」の要素を含む外的要因に拠ってだ。法律、罰則、世間の目。自主的な行動すら、それくらい社会的な要素は加味されて実行の有無を判断される。自分で「やってはいけない」と思った際、「否定・阻止する者」のイメージを自分で作った所で別に不思議じゃない。

超自我然り、PACモデルのP然り。超自我は特に、自分を見張るシステムそのものとして在る。やはり極端化し、自分を罰するために「恥をかかせる行動を取らせる」というケースも有る。

 めんどくさいことに、アバターが育つ場合がある。アバター、つまり人物像を核として、前述の通りに「要素」が追加される。この時もあの時もその時も「そいつ」が批判し、軽蔑し、怒鳴りつける、という可能性はまぁある。

個々に扱うべき発想が群体となり「人格化」していると言える。よろしくはない。

ただ、これも上っ面だけの話で、根本は自制のために自分を緊張させる際に、それだけの「強さ」を持ったイメージをいちいち使う「クセ」に過ぎない。

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