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主観 客観 俯瞰

投稿日:2019年1月24日 更新日:

モノの見方について。

例えば普段は主観的にものを見て、自分の行動が正しいのか客観的に自分を見たりして、歴史の授業なんかは俯瞰的に、の様な形でこれらの言葉は使われる。

別に異論はないんだが、言葉として通る分、実際にやっていることが間違っていてもそれは気づかれない。

「見る」

視点だの「見る」だの言ってるが、これらの言葉は視覚的なものではなく、感情、判断、認知などのカテゴリで使われる。言葉通りに視覚的な「見る」だったら視点変えたって角度と距離の問題に過ぎないだろう。

「視点」によるとされる問題、即ち対応バイアスなどの自分と相手のズレや、性格が悪いと言われる人間特有の「自分しか見えていない」などは、明らかに認知の方面の話だ。逆にあなたは自分のことばかりとか言う奴にしたって「自分をもっと見るべきだ」的な認知を抱えているわけで、それが正当か妥当かは別の話だ。

視点と言えば視点なのだが、認知の結果として視点に出るというか。

ここで言われる「視点」とは、「立場」とそこからの判断・思考に近い。協力が必要な場面でソロプレイヤー気取りならエゴイストと評されるだろう。

同様に「視野」もそうだ。視野を広げたって「見え方」がおかしい場合は意味がない。
うつ病や被害妄想、ネガティブな思考にとらわれて周りが見えない状態を「精神的/心理的な視野狭窄」と呼ぶこともあるが、実際の所あれは「」の問題だと思う。

総じて、視点・視野とされる問題は、発生源はそこではない可能性。


・主観とは己の視点で物事を見ることだ。ある意味これは常に正しい。「自分にとってはどうであるか」を判断するのだから。

・素直な、正直な感想、感情、欲望でもある。交流分析のPACモデルではC、その人の「子供の部分」に該当するだろう。つまりはこれにそのまま従うなら幼稚な人格だと評される。感情的、わがまま、自分勝手、どれも幼稚とされるだろう。つまりはそのまま実行するわけには大抵の場合は行かない。

その上で正しい。自分に依る、自分のための判断。まぁ正しいと言ってもクオリアが「誤認不可能」とされるのと同じ理由での正しさだが。要はケチつけるやつがいねぇってだけの。無人島で「俺が法律だ!」ってイキってるのと変わらん。

だからこの「正しさ」に従うと、まぁ大体社会的にはアウト。でも従いたくてしょうがない、そのようなもの。客観的に正しくても、主観的には満足しない場合にはそれは「不満」になる。

簡単に言えば、自信のないテスト前日に勉強するかゲームするかって話。主観的価値としてはゲームやりたいとする。でも頑張って勉強したとする。やり遂げた際には満足するだろうし、テストに結果として出れば嬉しいだろうが、勉強している最中には苦難に感じられること。

正しいと言うより物事の「評価基準」となっているのかもしれない。実際この喩えの場合は主観は当人にとっても邪魔であり、そして勉強の価値を苦行に決定づけている要素である。まぁ折り合いをつけるしかない。

・これは勝手に湧くと捉えたほうが良いと考えられる。脳的には好き嫌いは思考より先に判断されるとされるし(扁桃核)、野生に於いては必要なものだったらしい。好き嫌いは一瞬で過去の記憶を参照しての判断だそうな。好きだから近づく、嫌いだから避ける、は生き延びるシステムだった。

これを変えられるって話もあるんだが、まぁちょっと危険だから止めておこう。

・ともかく、一瞬で勝手に湧くからこれが判断のベースになる。逆を言えばこれだけで行動決定をするなら大抵「軽率」となるだろう。簡単に言ってしまえばスタート地点がバイアスまみれ。合ってることもあるにはあるのだが。

・この上で、つまり方針が既に決まった上でのそれを実行する/しない、或いは実行後にどうなるかのシミュレートなどの思考も主観に含める。


客観とは、一般的には第三者目線として扱われることが多い。

実際には複数の意味で使われる。相手の主観の視点の想定、主観を極力排除した視点、第三者の主観の視点の想定。

客観は、字面に従うならば「相手(或いは第三者)にとってこれはどうであるか」としたほうが良いと思う。赤の他人や世間様、顔のない隣人たちではなく、ある程度具体性のある相手を想定した立ち位置と思考・判断。

今の君が人にどう見らてれるかを想像してみろ、と言われて模範的市民な赤の他人を想像する、ってことはあまりないだろう。大抵具体的とはいかないまでも「モデル」はいるはずだ。他人の視点のシミュレートというか、エミュレートというか。

・相手の視点といっても、「人の気持ち」なんてわかることはない。脳は別に他人とつながっちゃいない。確信を持てたとしても「想像」に過ぎない。客観は、所詮は「自分が想像した他人の主観」に過ぎない。あいつが見たらこう思うだろう、赤の他人が見たらこう思うだろう、というシミュレート。

これはセンスだ。磨かなければ役に立たない。調整も必要だろう。思考もだ。この上でも「想像」に過ぎない。「視点」と呼ぶせいで、「その位置に立てばわかる」と甘く見てはいないか。

この他人の視点(想像)に感情移入するならば、それは「共感」と言えるだろう。即ち、共感がすげぇハズレてることはありえる。

自称共感能力たっぷりな自称優しい人が余計なことしたりうざかったりで避けられるのは、共感能力に変な自信を持ったせいで「」の刷新が止まったからだと思うね。結果、決めつけによる相手の状況(想像)と、それに対しての的はずれな対応、という形になる。


、或いは鳥瞰は、高いところから広域を見渡す意味とされている。
客観と混同され(代用?)、あまり使われない印象。

・それこそ「客観性」はこの視点が最も高いと言えるだろう。心理的にはその場に「参加していない」視点。だからこそフラットな視点、クレバーな決断が可能になる。まぁその分人間味がないというか、冷血呼ばわりだったりもするかもね。

・主観の排除(先入観、バイアスの排除)を目的とする際もこの視点に結果的にはなるだろう。状況をデータ的に見る分には最適だろう。

・主観と客観はある意味勝手に湧く視点だ。社会的動物である我々は、主観と同様に「他人の目」も自然とイメージしている。ここで言う「」は、実際に全く関係なく興味もない物事に対してか、或いは意識して物事から距離を取ろうとしない限りは持てないだろう。

メモ

・「」と呼ばれる概念から俯瞰を外す必要があった。ここを混同している限り気づけない要素がある。今回主観はそんなに重要じゃない。

・俯瞰も含めた3つ全てにバイアスの余地はある。所詮想定が違うだけで、どれも個人の頭の中の話だからだ。実際に「自分」から抜け出した視点を持つことは不可能だろう。

例えば無私の姿勢と言っても「自分が想像した相手の都合」で動きますってだけだからな。だから時に、親切、優しさ、自己犠牲すらエゴになり、相手を苦しめることすらある。共感が的外れだった場合は「自己満足」かつ「人形遊び」に過ぎないからだ。

試みることは立派だと思うけれどね。下手なことに気付けないんなら、やらないほうがマシなことにもなるだろう。







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