俯瞰と客観の違い

モノの見方について。

例えば普段は主観的にものを見て、自分の行動が正しいのか客観的に自分を見たりして、歴史の授業なんかは俯瞰的に、の様な形でこれらの言葉は使われる。

別に異論はないんだが、言葉として通る分、実際にやっていることが間違っていてもそれは気づかれない。

「見る」

視点だの「見る」だのと表現されるが、視覚的なものではなく、感情、思考、判断、認知などのカテゴリで使われる。

「視点」によるとされる問題、即ち対応バイアスなどの自分と相手のズレや、性格が悪いと言われる人間特有の「自分しか見えていない」などは、明らかに認知の方面の話だ。逆に「あなたは自分のことしか見えていない」とか言う奴にしたって「私に気を使うべきだ」的な認知を抱えているわけで、それが正当か妥当かは別の話だ。

視点と言えば視点なのだが、認知の結果として視点に出るというか。

ここで言われる「視点」とは、「立場」とそこからの判断・思考に近い。

同様に「視野」もそうだ。視野を広げたって「見え方」がおかしい場合は意味がない。
うつ病や被害妄想、ネガティブな思考にとらわれて周りが見えない状態を「精神的/心理的な視野狭窄」と呼ぶこともあるが、実際の所あれは「認知」の問題だと思う。

俯瞰


・俯瞰、或いは鳥瞰は、高いところから広域を見渡す意味とされている。
客観と混同されているケースも見かける。

客観と違い、「誰の立場にも立たない」。物事を、感情を外して見る。遠く離れた所から「眺めている」ような視点でもある。

視野も客観と違い「人の視点」から離れている。言葉の意味としては広域を見渡すことだが、「俯瞰的視点」という意味では「その物事全体を見渡す」という意味に近い。

・それこそ「客観性」はこの視点が最も高いと言えるだろう。心理的にはその場に「参加していない」上で、広く、全体を見渡す視点。だからこそフラットな視点、クレバーな決断が可能になる。まぁその分人間味がないというか、冷血呼ばわりだったりもするかもね。

・主観の排除(先入観、バイアスの排除)を目的とする際もこの視点に近くなる。合理的判断のために状況を見る分には最適だろう。

・主観と客観はある意味勝手に湧く視点だ。社会的動物である我々は、主観と同様に「他人の目」も自然とイメージしている。ここで言う「俯瞰」は、実際に全く関係なく興味もない物事に対してか、或いは意識して物事から距離を取ろうとしない限りは持てないだろう。

客観

客観とは、一般的には第三者目線として扱われることが多い。

実際には複数の意味で使われる。相手の主観の視点の想定、主観を極力排除した視点、第三者の主観の視点の想定。多角的に物を見るという意味でも使われる。この場合は視点が複数あることが前提になっている。
何れにせよ、「自分以外の誰か」の視点を想定すること。

・相手の視点といっても、「人の気持ち」なんてわかることはない。脳は別に他人とつながっちゃいない。確信を持てたとしても「想像」に過ぎない。客観は、所詮は「自分が想像した他人の主観」に過ぎない。あいつが見たらこう思うだろう、赤の他人が見たらこう思うだろう、というシミュレート。

これはセンスだ。磨かなければ役に立たない。調整も必要だろう。思考もだ。この上でも「想像」に過ぎない。「視点」と呼ぶせいで、「その位置に立てばわかる」と甘く見てはいないか。

この他人の視点(想像)に感情移入するならば、それは「共感」と言えるだろう。即ち、共感の相手は想像の産物である。

自称共感能力たっぷりな自称優しい人が余計なことしたりうざかったりで避けられるのは、共感能力に変な自信を持ったせいで「客観」の刷新が止まったからだと思うね。結果、「人とはこういうものだ」「この人はこう思っているに違いない」と決めつけによる相手の状況(想像)と、それに対しての的はずれな対応、という形になる。


「世間の目」がベーシックな第三者のモデルになるか。

例えばイカレた校則を厳守させる教師などは、この視点を意識していないと言える。閉鎖的な組織では客観的視点が失われている場合がそこそこあり(相対的な関係しかない)、世間にバレて騒ぎになったりはある。
結果、自分達がやっていたことや価値観、判断が世間から見たらどのようなザマかを理解し(ここで初めて自分たちを客観視し)、萎縮するなど。

世間の目(つまり第三者の目)を意識することには、このような修正力・抑止力がある。懲罰的な要素もある。メディアが勝手に代表者を名乗ったりもするが。

この上で、世間が間違ってることも普通にある。フェイクニュースに踊らされるとか。

やっぱり俯瞰とは違い、合理的な正しさというよりも「特定の属性の群にはどの様に見えるか、どのような反応をするだろうか」を計算するシミュレートのニュアンスが強い。

なので理性的に(他者の)感情的な結論を導く、なんてこともある。
例えば炎上芸で食っている奴とかは一見するとただの馬鹿だが、毎度それだけの反応を引き起こせるあたり「視聴者(というか熱心なアンチというか)」という属性の客観的視点はできている。それも割と高精度で。
この時「奴らは発狂して拡散してくれるだろう」と客観的に自分の行いを見ているわけだ。


哲学者カントによれば、客観とは複数の主観の重複した部分だとされる、なんて話も見かけたが。この場合客観とは、民主主義的、多数決的なものということになる。

(ただしカントが言う「客観」は主観を排除することを含めるため、今回でいう俯瞰に近い。)

例えば私が「青はきれいな色だ」と言ったとして、大多数が賛同すればこれは「客観性が有る意見」と言えるわけだ。

一方で青が「怖い」という印象を持つ人がいる。これに賛同する人が少なければ、それはそう言ってる人の「主観」として扱われる、と。

言い方を変えれば客観性とは「それは大多数の共感を得られるか」「それは大多数と共有できる主観であるか」という話になってくる。

ここから考えると客観的視点とは、「みんな同じことを思うだろう主観」という視点となる。「統一見解」とも呼べるか。

ただし、当人の頭の中だけの話だ。「みんな」の内訳は各々で違う。実際には当人が「みんなだと思っている範囲」に過ぎないので。

関連:


主観

・主観とは己の視点で物事を見ることだ。ある意味これは常に正しい。「自分にとってはどうであるか」を判断するのだから。

・素直な、正直な感想、感情、欲望でもある。交流分析のPACモデルではC、その人の「子供の部分」に該当するだろう。つまりはこれにそのまま従うなら幼稚な人格だと評される。感情的、わがまま、自分勝手、どれも幼稚とされるだろう。つまりはそのまま実行するわけには大抵の場合は行かない。

その上で正しい。自分に依る、自分のための判断。まぁ正しいと言ってもクオリアが「誤認不可能」とされるのと同じ理由での正しさだが。要はケチつけるやつがいねぇってだけの。無人島で「俺が法律だ!」ってイキってるのと変わらん。

だからこの「正しさ」に従うと、まぁ大体社会的にはアウト。でも従いたくてしょうがない、そのようなもの。客観的に正しくても、主観的には満足しない場合にはそれは「不満」になる。

簡単に言えば、自信のないテスト前日に勉強するかゲームするかって話。主観的価値としてはゲームやりたいとする。でも頑張って勉強したとする。やり遂げた際には満足するだろうし、テストに結果として出れば嬉しいだろうが、勉強している最中には苦難に感じられること。

正しいと言うより物事の「評価基準」となっているのかもしれない。実際この喩えの場合は主観は当人にとっても邪魔であり、そして勉強の価値を苦行に決定づけている要素である。まぁ折り合いをつけるしかない。

・これは勝手に湧くと捉えたほうが良いと考えられる。脳的には好き嫌いは思考より先に判断されるとされるし(扁桃核)、野生に於いては必要なものだったらしい。好き嫌いは一瞬で過去の記憶を参照しての判断だそうな。好きだから近づく、嫌いだから避ける、は生き延びるシステムだった。

これを変えられるって話もあるんだが、まぁちょっと危険だから止めておこう。

・ともかく、一瞬で勝手に湧くからこれが判断のベースになる。逆を言えばこれだけで行動決定をするなら大抵「軽率」となるだろう。簡単に言ってしまえばスタート地点がバイアスまみれ。合ってることもあるにはあるのだが。

・この上で、つまり方針が既に決まった上でのそれを実行する/しない、或いは実行後にどうなるかのシミュレートなどの思考も主観に含める。

メモ

・「客観」と呼ばれる概念から俯瞰を外す必要があった。ここを混同している限り気づけない要素がある。今回主観はそんなに重要じゃない。

・俯瞰も含めた3つ全てにバイアスの余地はある。所詮想定が違うだけで、どれも個人の頭の中の話だからだ。実際に「自分」から抜け出した視点を持つことは不可能だろう。

例えば無私の姿勢と言っても「自分が想像した相手の都合」で動きますってだけだからな。だから時に、親切、優しさ、自己犠牲すらエゴになり、相手を苦しめることすらある。

共感が的外れだった場合は「自己満足」かつ「人形遊び」に過ぎない。

試みることは立派だと思うけれどね。下手なことに気付けないんなら、やらないほうがマシなことにもなるだろう。

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