アサーティブとは
日本ではアサーティブと言ったら、大体はアサーティブ・コミュニケーションのことを指す。 自他を尊重した「伝え方」の技術。一種のコミュニケーションスキル。
アサーティブ・コミュニケーションは相手を尊重しつつ自己主張すること。相手にも配慮した自己主張、と捉えるのが一番妥当だろう。
アメリカから日本にこの概念を広めた人によれば、「自分も相手も大切にする自己表現」とされる。
Assertiveは断言的、言い張ると言った意味を持つ。ただコミュニケーションとして考えると、このイメージは強すぎるだろう。自分の意見を「強く言う」とは違うので注意。
アサーション(assertion)と呼ばれることも。
アンドリュー・ソルターの条件反射療法(1949)がルーツだとされる。人間本来の活動性が、後天的な躾などで抑制されているというのが条件反射療法の前提。
活動性を取り戻すために必要だとして自己主張、つまりアサーティブネスが挙げられた。ただこの時点では、自己主張の内の攻撃的行動と今回のアサーティブとの区別ははっきりとされていない。
1960年代アメリカでの、人種差別や女性解放運動にまつわる活動において、「いかに自己主張をするか」を探るうちに発展したとされる。
3つのコミュニケーションスタイル
アメリカの心理学者ウォルピ(Alberti and Emmonsとも)による分類では、コミュニケーションでの自己主張のスタイルはアグレッシヴ、ノンアサーティブ、アサーティブの3つに分類される。これは、尊重している対象で分類できる。
ただ、相手や状況の影響を受けることも考えられる。性格ではなく「態度」と捉えるべきだろう。
アサーティブ
自他尊重。今回のゴール。結果がWin-Winか、三方一両損になるかは知らんが。
というかまともに「対話」になってるのがこの状態しか無い。
アグレッシヴタイプ
「不適切な自己主張」とされる攻撃的タイプ。自分のことしか考えてないとされる。短気、一方的、頑固。「感情のコントロールの仕方を学ぶ必要があるでしょう」とされる。
尊重しているのは自分のみ。故に自分勝手で強引な態度となる。
常に不機嫌そうにしていたり、早口でまくし立てて相手に喋らせないなど。声を荒げることや、酷いときには暴言や暴力もありえるとされている。
物事を勝ち負けで捉える。負けたくない。相手にノーと言わせない。間違いを指摘されたくない。過剰な自己防衛で相手を傷つけることも多い。
相手を見下すことで自分が優位であると「示そうとする」ともされる。
相手を黙らせれば勝ちみたいな所がある。この点は相手を尊重しないどころか、積極的に卑下する動機ともなる。
自己否定的な感情が根底にあるともされる。つまり自信のなさや間違いなどを隠すための攻撃性。
動機や振る舞いが誇大型の自己愛とかなり共通する。
関連ページ:
_2種類の自己愛 誇大型と過敏型
ノンアサーティブタイプ
自分の意見が言えない人。「自己主張が行えていない」とされる受け身タイプ。他人を優先し、自分のことを後回しにするとされる。
関連ページ:
自分の意見が思いつかない/言えない人
人に悪く思われたくないあまりに、消極的になる。「NO」と言えないタイプ。攻撃的タイプは天敵。
真面目で責任感が強い。また他の人に手伝いや助けを求められないともされる。
尊重しているのは相手であり、自分は尊重していない。だからノンアサーティブ。
嫌われたくないのではっきり言いたくもない。結果、優柔不断に見られたりもする。
自己評価が低く、婉曲的な表現を多用する傾向。要するにはっきり言えないから回りくどい言い方になる。
相手に不備がある場合、または相手から情けをかけられる以外には主張が通ることがないとされる。
一見すると「被害者」かなんかに見えるのだが、不満は持ち、自分の意図は伝わっていると思い込んでいたり、何より「相手も自分と同じ気遣いをするのが当たり前」と思っていたるところがあるとされる。
上司にありがちなのがアグレッシヴ、上司とうまく言ってない部下にありがちなのがノンアサーティブとされる。
作為的タイプ
一部では別の分け方をされる。アサーティブは取り除かれ、攻撃的(アグレッシヴと同じ)、受身的(ノンアサーティブと同じ)、作為的の3つで「問題のあるスタイル」として並べられる。
作為的タイプ。婉曲的。つまり回りくどい自己主張。
「自分の言葉以外」に頼る傾向が強い。態度や雰囲気、表情などのメタメッセージから、他人を伝って相手に届くように陰口をするなども。
相手に察してもらいたがる傾向が強い。表向き感情的にはならないが、顔や態度には出すタイプ。
相手に罪の意識を感じさせることで望むものを得ようとする、とされる。
例「傷ついた!謝れ!」「悔しくて涙が出てきた」
相手と直接向き合うことはせず、周りを巻き込む。外面はへりくだることが多く、内面的には攻撃的であったり、尊大であるとされる。
作為的タイプの行動は、ウォルピの分類でのノンアサーティブに含まれる。「言えない」ことから来る不満の現れ方として。
アサーティブの4つの柱
アサーティブの4つの柱。誠実、率直、対等、自己責任。
- 誠実。自他への誠実さ。自分自身にも素直になること。
- 率直。遠回しではなく率直に、相手に伝わるように。
- 対等。上から目線でなく、へりくだるでもなく。人として対等に。
- 自己責任。言った言葉に責任を持つ。言わなかったことに責任を持つ。
例えば主語がでかいってのは、「率直」に抵触する。結果として主語がでかいと同調圧力的なプレッシャーかけることになり婉曲的であるから。あと「対等」でもないし「誠実」でもない。そんなつもりはなかったというのは結構だが、予測できなかったのなら「自己責任」は果たせていない。とまぁ、こだわれば普段の言動はものすごい勢いで失点する。つまりは難しい。
関連ページ:
主語が大きい人
アサーティブの前提として、相手の自己表現の権利を侵害しない限りは、すべての人に自己表現の権利があるとしている。
その権利を行使するかどうかは自己決定により行われ、それ故に自己責任となる(行使した責任、しなかった責任)。
「言わなかったことの自己責任」のミスは、特にノンアサーティブの「分かってくれてると思ってたのに」とか「分かってて当然なのに」のような相手への不満として特に現れるだろう。
DESC法
DESC法。伝えたいことを整理する方法。
- Describe:
客観的な状況(客観的な表現 自他の意図や考えなどを含めない) - Explain:
主観的な気持ちの整理(正確かつ建設的に) - Specify:
提案(相手に望む行動や解決。具体的な現実的な小さな行動を明確に述べる) - Choose:
代案(相手がYesだったらNoだったらのそれぞれの選択肢の提示)
あるいは描写、表現や説明、特定の提案、選択肢。
少しめんどくさい話となるが、まず初手で主観(E)と客観(D)を分けていることに注目されたし。自他の意図や考えなどを含めないってところ。
普段はこれは主観が優先されるか、混同することが多い。待ち合わせに相手が遅刻したら「約束を重要だと思ってない」「自分を軽く見てる」なんて感想が浮かんだり。
結果、思い込みや勘違い、決めつけからのヒステリーみたいなことになり得る。別分野の言葉で言えば、認知の歪みとか認知フュージョンとか言う状態。
つまりはほとんどの、他人が相手の予定不調和は「悪意」に見えるってことだ。病気のような話だが、ぶっちゃけこの面では一般人は健康ではないのは事実だ。
通常これがそれほど問題にならないのは、「かもしれない」程度の強さで済んでるから、または「このくらいで怒るのはみっともない」などの別の補正の結果であり、初めの認識が常に正しいわけじゃない。
この辺りの認知活動は自動的に行われるので、意図して行うのは「分離」からとなる。
SとCは自己主張にまつわる。
SやCは「具体的に」と強調される。「もっとしっかりしてほしい」とかはナシ。「遅刻すると分かった時点で連絡を」はアリ。
抽象的=相手の解釈が必要な物言いとは、すなわち婉曲的であり、作為的となってしまう。
Cの際、Sに戻らないように、と注意されている。交換条件や罰ゲーム設定すんなってこと。
メモ
アサーティブの感想
コミュニケーションの大前提として、二者間で初めて成立するものだという点がある。つまり片方が片方の「権利」を認めない場合は、コミュニケーションとしてのアサーティブはその時点で成立しないことが確定する。自分がどうあるかは選べるけどね。
どっちかってーと、3つのタイプの対処法の方がアサーティブよりもよっぽど求められてる気がするけどな。アサーティブは自分がそういうことやってるからやめよう、って話であり、そういうのを相手にする方法とするにはちと弱い。
ルーツや歴史から考えると、アサーティブは「理解してもらうため」「知ってもらうため」なのが前提だと考えられる。
また、社会運動の対象は当然社会であり、聞く気がない奴よりは聞く気がある奴を相手にすることも、いくらかこの概念の遺伝子として存在しているかも知れない。
個人的な感想だが、これは「うまくいくためのコミュニケーション術」ではなくて、「キレイなコミュニケーション術」に近い。これでうまくいくとは限らない。相手がアレだったらアレな結果になる。
ただアサーティブを守って振る舞い、そのような結末なら、まぁ憂いなく味方はしてやれるな。実際に社会運動の作法としては良いのかも知れないな。昨今のは好戦的、脅迫的なのが多いから、なおさら美人に見えるだろう。
アグレッシヴタイプ
言動は自己愛性人格障害。特に自己愛の「送話器はあるが受話器はない」と言われる態度と一致する。内面に劣等感を抱えているのも同じ。
ノンアサーティブタイプ
メランコリー親和型性格と一致する。社会規定型の完璧主義にも似ている。
うつ病になりやすい性格として「メランコリー親和型」という性格がある。特徴は以下。
- 仕事熱心
- 規則を重んじる
- 他人に尽くす
- 真面目
- 几帳面
受動タイプ
ノンアサーティブは、相手が自分の話をちゃんと伝わるまで聞いてくれると思っていない。会話が成立するとはじめから思っていない。話が通じない理由が、自分にあるか相手にあるかはそれぞれだろうが。
作為タイプはこの上でアクションを起こすが、受動タイプでは耐えるしか無い。
ノンアサーティブは、会話や対話における人間不信にも見える。相手が攻撃タイプなら信じなくて正解でもあるが。
逆に会話が成立する相手に対してアサーティブに振る舞うのか、攻撃タイプなのか、作為タイプなのかはこれだけでは判別できない。つまり受動型は善良な弱者とは限らない。内弁慶な人間は明確に存在するわけで。
例えば部下には攻撃タイプの部長が、社長には受動タイプの態度を取ることはあり得るのだから。受動タイプが攻撃や作為をやることもあるだろう。
つまり、攻撃タイプと作為タイプが判明しているのは「要求する時の態度」だけで、受動タイプが判明しているのも「要求を受けた時の態度」だけだろう。逆の立場でどう振る舞うかは、これだけでは判明しない。
尊重
尊重という言葉の解釈もそれぞれだが、例えば「君の意見を尊重する」と言われた場合に(頭の出来か性格が)酷いのになると「我慢してわたしを優先してくれる」という意味に捉えるのも結構な数いる。
ヴォルテールの「私は君の意見に反対だ。だが君がそれを主張する権利は命をかけても守る」という言が理解できないタイプ。
後は「気持ちはわかる」という言が、全面的な賛成を表すと思い込んでいるだとか、そういうの。スプリッティングかも知れない。
これらは「他者が自分を尊重してくれるかどうか」しか気にしていないため、アグレッシヴタイプに分類できる。つまりは相手を尊重することは考えていない。不公平なので、なるべく相手にしないほうがいいだろう。
アイメッセージ
4つの柱を守りたいのなら、アイメッセージを心がけるのが手軽だろう。
大抵は普段はユー(you)メッセージになりやすい。あなたは○○だ、と。
アイ(I)メッセージは私は○○と思う、みたいな言い方。そして試される語彙力。
誠実について
4つの柱の「誠実」は、どちらかと言えば「態度」の話だと思ったほうがいいだろう。分かって当たり前だと思わない。伝えようと努力する姿勢。
逆を言えば、その「場」に世間様だの「みんな」だの常識だの引っ張り込んだりしてくるなら、それはもう不誠実なわけで。
逆に「言う事聞かす」のが目的の場合、そのような手が良く行われる。「自己愛上司」なんて言われてクソ上司扱いされるのが多いのは、あれは恐らく元からの性格じゃない。誠実さより「(短期的に)効率的な手」を優先するとほぼああなる。
で、まぁ、誠実さはあんま金にならん。嫌な世の中だな。
語彙力
人の自然なボキャブラリーや言い方ってのは、伝わってるはず、分かってるはず、みたいな前提でなのがわかる。
あるいは言いたいこと言ってるだけだとか。これは「伝えたいことを伝える」のとは全く違う。
語彙力がないせいで攻撃的、受動的、作為的な言動になる、というのは多分ある。国語力とコミュニケーション能力の関連は示唆されていることが多い。
今回の場合「はっきりと言葉で表現できない」ことからの歪んだ表出として。あるいは「この方が早い」という手抜きとしての手段。
冗談抜きで、自分が「言えてない」ことに気づいていない者は多い。これに気づかないと相手が「わからない奴」だからだという認識となるだろう。
OK牧場とアサーティブ
交流分析という心理学にOK牧場という分類がある。アサーティブのタイプ分類と結構似ている。立場、態度の分類。
わたしは/あなたは、OK/not OK 、という形。例えば I am OK ,You are OK は健康な立場とされる。ここでの「OK」をアサーティブで言う尊重と入れ替えるとほぼ同じになる。
I am OK ,You are not OK は「虚勢の自信」と言われ、偏執的、被害妄想的な立場とされる。アサーティブのアグレッシヴタイプ。また、パラノイア(偏執病)がこの状態ともされる。
I am not OK , You are OK は憂鬱な立場とされる。アサーティブで言えばノンアサーティブ=受動的タイプ。
I am not OK , You are not OK は不毛な立場とされる。みんなだめ。アサーティブでの該当は一見すると無い。ただ、作為的タイプが意図的にそのような態度というよりは、自分でも何したいかわからない状態だとしたら該当する。
関連ページ:
OK牧場から考える良い自信と悪い自信
権利と主張
一部は「自分の権利は他人の義務」と思ってるのがいるが、そういうのとは当然違う。というか普通に間違ってるな。
そういうのへの嫌悪感やアレルギーのせいで「権利」という言葉に拒絶反応が出る人すらいる。
裏を返せばこれは、自分がアサーティブの権利を主張することに対して「不快に思われる」「攻撃と取られる」という思い込みを、ノンアサーティブは持っている可能性を示す。
断言するが、そう捉えるのはアグレッシヴだけだ。この点は相手側に問題がある。「やり方/言い方」の問題なら別だけどね。そっちはスキルだから磨けばいい。
よく思い出してみると良い。まだ壁があるとか、もっと打ち解けてほしいとか、受動的タイプならそういう事言われたことがあるはずだ。
それはそれでうざいんだがまぁ置いといて、彼/彼女たちの言は統括すれば「もっと主張して欲しい」というニーズだ。ほら、全然逆だろう。気にする相手は間違えない方が良い。ついでに加減も考えたほうがいいとは言っておくが。
逆さの4つの柱
逆を盛ってみよう。
いちいち世間様や常識や正義を持ち出し回りくどく、
上から目線であるいは被害者ぶって操作しようとし、
挙げ句自分が何言ったか相手にどういう意味を持つのか覚えてないし分かってない、
この上で相手が分かってくれて当然、汲み取ってくれて当然だと思っているような態度でコミュニケーションされる。
うんまぁ、話しかけられたくないタイプの人類だな。というか人類として認知できない。
後天的な学習による抑制
条件反射療法の前提、「人間本来の活動性が、後天的な学習により抑制されている」というのは、アダルトチルドレンや学習性無力感に通じる。
ただ、何事とも無関係で生まれ育つことも無理な話で、ある程度織り込むべきだとは思うが。生まれてきたくなかったとかは置いといて。
子犬とか幼児とかである話だが、まず好奇心と警戒心がある。初めは好奇心が強く活動的、その後色々と学び、予測もできるように脳が発達し、好奇心より警戒心が勝るようになるという話がある。「落ち着きが出てきた」なんて言うね。
要するに、活動性は隠れやすい。で、それは自然なことだろう。ここまでは良いが、そのシステムが過剰に働けば、極度に消極的にもなるかも知れない。
関連ページ:
アダルトチルドレンの6つのタイプ
学習性無力感とは