悩むのは無駄か

・「悩み」そのものに対してのアドバイスとして多いのは、「無駄だから考えんな」系のもの。まぁそうかもしれないが、ここを掘り下げてみる。

進まない思考

・悩みは思考に属する、のが一般のイメージだろう。だが現実には反芻思考で自動的な現象に近いと思う。

思考ならば、本来は解決には至らなくても結論には至る。ああ無理だ、おしまいだ、となっても結論ではある。或いは自分の頭じゃわからん、というのも一つの結論だ。この場合は足りないものが少なくとも「何か」があるとの収穫がある。

即ち、「次」へ必ず移行する。それが解決への行動でも、思考のための行動でも、諦めでも。

つまり「同じことを悩み続ける」というのはおかしい。これは思考がループしているが、思考はループするものではない。暫定的とは言え答えを出し、そこで終わる。

即ち、悩んでいるとは「気にしている」状態或いは「思いついた/思い出した」状態で、その気にしていることに付随するあれやこれやを頭の中に広げているだけで、それだけでは思考とは言えないのではないか。

つまりはいつまでも悩んでいる一つの理由は「解決しようとしての思考」ではないからだ、とも言える。受動的な、「ついあのことを考えてしまう」タイプの思考。

要は「気になるから気にしている」わけで、じゃあ気にするなよと返されてもまぁおかしくはないな。

このケースでなら「悩んでいるだけでは解決しない」という月並みなセリフは真だと言える。

結論に至れない

・悩みの規模がでかい時。

単純に紙に書き出すなりして全体像の把握から努める。自分が何を気にしているのか。具体的な問題はなにか。その対応はなにもないのか。別にレポート書くわけじゃない、箇条書きでいい。マインドマップとか良いかもね。

或いは考察の材料が足りない時。

悩んでいる人の内結構な数が具体的な思考をほぼしていない。思い出す、不安だと感じる、こんなループを「悩み」と呼んでいて、思考として手はつけていないことは多い。

或いは同じ視点、同じ前提で同じことを考えるなどの、結論が約束された思考の繰り返しはやっぱり見られる。

ある程度悩んだ上で解決しようとすると、現実のシンプルさに面くらい、他にも悩んでいた理由や問題を探し始めることすらある。

ループ

・ああ無理だ、おしまいだ、という結論では困るわけだ。或いは自分の頭じゃこれ以上わからん、となってもなんとかしたいから気にしているわけで、これもやはり困る。

困るから、また同じことを考える。同じことを考えて、違う結論が出ることを期待する。だが同じ材料で、同じ調理をするのなら、できるのは同じ料理だろう。能動的な反芻思考。

つまりは「答えが気に入らない」。或いは受け入れられない、割り切れない。だからまた頭の中に広げてやり直し。

諦める必要はないのだろうが、だったら尚更違う結論や可能性の発見を試みる必要はあるだろう。

反芻の価値と疑似体験

・悩むことへの習慣性というか、依存性というか。油断してる所への「不意打ち」は誰だって望まない。悩みは今後訪れる(かも知れない)災難への用心となる部分もある。要は「今よりもっと悪くなる可能性への警戒」が大体はある。どん底だったらそれは悩みではなく後悔か絶望だ。

この目的に於いては、解決せずとも、次に進まずとも「忘れない」ことそのものは一定の価値がある。ただし塩梅を知る必要はあるだろう。精神的負担ではなく「気構え」となるべきだ。

・また、悩んでいる限り、考えている限り、「解決に近づいている」錯覚は感じることができる。精神安定のために悩んでいるケース。後述するがこの行為は悩みの「強化」に当たる可能性がある。止めたほうがいいだろう。

悩むことを「切り上げる」タイミングについて

・例えば幼少期に大体の人間が「死」の概念を初めて知り、タナトフォビア(死恐怖症)のような恐れを抱くという。自分はいつか死ぬと知ってしまった。親もいつか死ぬと知ってしまった。友達もいつか死ぬと知ってしまった。この世に「死」があり、それが万人にやがて訪れる恐怖。

死は解決しない。現状、死を克服している前例はないし、寿命は伸びているが、自分がいつまでも死なない保証は得られない。他人にも死んでほしくないと思うなら尚更だ。この問題は解決しない。

では幼少期からずっとタナトフォビアを引きずるのが普通となるはずだが、実際には滅多にいないだろう。何故か。

個人的には、「それは今じゃないこと」を時間を掛けて十分に知ったからだと思う。死を知った。が、昨日も今日も別に誰も死んでいない。人間は元々死を忌避し、遠ざける。子供の目にはあまり入らないし。

これは悪く言えば「先送り」だ。数十年規模の。

「たしかにそのような問題がある。だが今気にすることじゃない」というひとまずの結論。「自分が今どうあるか」の結論。死を受け入れたわけじゃない。死を克服したわけじゃない。即ち問題に対しての結論じゃない。

だがこれで、それまで気にせずにいられる。悩みとは個人的なものだ。別に哲学や科学をやってるわけじゃない。「自分が今どうあるか」の結論で十分とするのは、一つの答えだろう。

この答えに至れなくなる理由の一つは考えるからだ、とも言えるかも知れない。思考は論理的な属性を持つ。「感情的な解決」が望まれるタイミングでこれは裏目に出る可能性はある。男性脳と女性脳の伝わらなさ、或いはすることモードとあることモード

思うに悩みとは、元から理屈の上でのものではなく、感情的な要素が大部分を占めるのではないか。不安、恐怖、懸念、疑惑。これを思考により解決しようというのは、かなり相性が悪い。

何かを知り、納得して、それで悩みが氷解したこともあるだろうが、それは「納得」あるいは「共感」という名の感情を手に入れたからだとも取れる。

実際、はっきり言ってしまえば、どこかで誰かにとっくに言われたようなこと、或いは自分がとっくに考えてたことが書いてあるだけのものを見て、人は感動し、勇気を持つだろう。逆を言えばそれらには価値があることにもなる。

月並みな、陳腐な言葉が伝わるときと伝わらない時がある。或いは強く反発されることもあり、大半は流される。この違いは受け手の心理状況に依らないか?

・考えるべきことと考えるべきでないことをどのようにして区別をつけるか。これは解決すべきか放置すべきか、とは別だ。今考えて何か進展はあるか否か。

・ケンブリッジでは5分以上悩むのは思考がループしてて無駄、という話がある。意識して考えることができるのは5分が限界で、それ以上はループしているか、違うことを考えている状態だと。マインドフルネスや瞑想で言われるマインドワンダリングとか精神の放浪という状態だろう。

本当に5分なのかどうかはともかく。少なくとも、全く同じことを、全く同じ手順で考えて、全く同じ結論を、何度も出しているのなら、それを本当に解決したいなら何か「現実」の方を変えるしかないだろう。それは行動かもしれないし、新たな知見を得ることかも知れない。

時間を測ってみるのは良いかも知れないね。あまり効率だの生産性だのと言いたくはないが、時間はカネと同じかそれ以上に価値があり、思考のループはそれを浪費させる。

何十分も何時間も全く「無駄」にしているというのなら、悩むことへの未練も断ち切れるかも知れない。「割に合わない」と。

メモ

・後は、暇すぎると脳は余計なこと考えるって話は結構ある。根拠としては何もしてないときのほうがDMN(デフォルト・モード・ネットワーク:脳のアイドリング状態)が活発になり、これにより雑念が発生するからだろう。できれば、自分のことで一生懸命になれるよう努めたほうが良いとは思う。休息も必要だが。

・これは一つの警告だが、記憶について「思い出すたびに書き換えられている」という説が出てきている。思い出すタイミングで書き換え可能な「柔らかい状態」になるらしい。何度も思い浮かべ、そのたびに不安になるというのはその強化に繋がる可能性が指摘されている。

うまい方法を探している暇は、人によってはないかも知れない。ぶつ切りにしてでも中断するべきかも知れない。

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