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TED:仕事のやりがいとは何か?2

投稿日:2019年1月9日 更新日:

続き。

・ダン・アリエリー曰く「良いモチベーションの与え方について」。

手間の価値と充実感/

・「タダだとありがたみがわからない」という話は珍しくない。まぁ方便で言われることもあるけどね。買ってきた家具と、簡易とはいえ部品から組み立てた家具では後者に愛着が湧くのは不思議とは感じないだろう。

・ケーキミックス。手間がある程度ないと「自分の成果」と認識できない。トーク中では「十分な努力」と呼ばれたそれ。「実感」と言った方が早いか。成果と自分との繋がりは、ある程度の手間を通して作られる。実利である物質的な世界ではなく、認知能力により描かれた脳内世界での価値観。

正直な所、現代では卵と牛乳も元から入ってる奴もそこそこ売れる気がする。

・動画内で IKEA effect と出ているが、実際この「イケア効果」はダン・アリエリー、マイケル・ノートン、ダニエル・モションの計3名が2011年に論文で発表している。認知バイアスの一種とされた。

「自分の行動が実りあるものであった」時にこの効果は強く出るとされる。反対にそれほど関わっていない、或いは関わったが失敗した場合には薄い。

その論文内で、後述される折り紙の実験も扱われている。

・また、タスクに対して予期する苦労/手間が多すぎた場合に見られる「ゴールした実感がない」あの感覚。

ゴールしたのに自分が達成したことに対しての拍子抜けするようなあの感覚。予期が、予測した労力が高すぎて、「これで完成」というのが受け入れられない。頭では完成とわかるのに、感情がそれを理解しない、行き場をなくしたやる気が燻っているあの感覚。

何度も見直し、「何も問題がないこと」から逆算してようやく終わったことを渋々認めて納得するあの手間。

フラットに見れば「得」しかしてないのに、何か喪失感と言うか、取り残された気がするあの感覚。

・・・余ったやる気は害になるのかもな。

・ちょっと毛色が違うが、コタツで面白い話がある。今でもコタツの加熱部は赤色の光を発するが、結構な昔に白色の光のコタツは作られていた。売られてもいたのだが、ただの白い光は「暖かそうじゃない」から売れなかったそうな。

要は人は、計算ではなく、事実でもなく、「なんかそれっぽい」という理由で物を選ぶことがある。イメージと合致するかどうかを、「直感」はかなり気にしているような気がする。

人間は、自分で思っているよりも即物的でも論理的でもなく、めんどくさいほどに感情的、直感的なのかもしれない。この感覚的且つ発言力がそこそこある頭の中の「もうひとり」の価値基準が分かれば楽なのだが。セルフ2、コリン・ウィルソンの言う所の右脳意識、首から下の自分、或いは無意識、潜在意識。呼び名は色々だが、どうも価値基準ははっきりしない。

努力の過大評価

・折り紙初心者に折り紙を折らせる。それを買うならいくらか、という質問。値段を付ける者は、製作者グループと見ているだけの観察者グループに分けられた。

・案の定というか、製作者グループは、観察者グループより高い値段をつけた。5倍の額。

前半のレゴの実験でもこのような差は「違いはあるが大きくはないだろう」と1個程度の誤差と予測され、実際には11:7だった。

成果物に対して縁もゆかりもない観察者グループの評価を「客観的」と捉えて構わないだろう。即ち、「イケア効果」により、自分の作ったものには五倍の値段をつけたと言える。

・最も注目するべきは、この高い値段をつけた製作者グループは、自分が作ったから、その苦労を加味した値段だからこの値段、とは思っていないことだ。自分の評価が客観的であると感じている。

これは例えば、頑張ったのに評価されないとか、自分の努力が報われなかったと言っている人が、それほど評価されない、報われない程度であった可能性も示唆する。

言ってしまうが、普段不真面目な奴が出来心で張り切って、それで当たり前だとスルーされて、その後拗ねる、というのは私は何度も見たことがあるぞ。

また、自分は昔苦労したから報われたのだ、的な老人の自慢話もただの年功序列かも知れない。まぁどの道「苦労」は副産物であり、目的とするものじゃないのだが。

・折り紙の話に戻る。製作の難易度を上げ、結果成果物はより不格好になった際にこれはより顕著に現れる。よりヘボいので観察者の評価は当然ながら前より下がるが、製作者はより高額な値段をつけた。

端的に言えば見える部分(よりヘボい見た目)よりも見えない部分(より努力したこと)に対する評価を優先している。客観性はより損なわれる。

・さて、これはバイアスなわけだが、製作者が感じた感覚、価値は間違っているだろうか。私はそうでもないと思う。苦労したものに愛着を持つのは割と健全な自己肯定だろうし。

バイアスとされるのは、これを「客観的評価」だと思っている事が大きいだろう。私はこれを頑張ったから、「私にとっては」これは大事だ、とするなら別に何も問題はないと思う。ただこれはとてもとても「個人的」な価値であり、基本的には他者と共有できない感覚だ。わかってもらうには、相手の共感能力を当てにする他ない。

尤も、物分りの良いおとなしい子よりキチガイな問題児のほうが可愛がられておかしいだろとかそういう話もあるわけで。主観で片付けて良いのかという場面もあるのだが。特に自分に評価者の役回りがある時。

・対象に対して感じる「価値」が、その対象の物質的・客観的価値だけではなく、自分との繋がりや記憶・経験を含んだ価値であること。

端的に「思い入れがあるもの」と言ってしまえば、他人には伝わらないこともまたすぐわかるだろう。それは個人的なものであり、他人はそんなもの知らんからだ。大切なものはちゃんとしまっておかないと、おかんに捨てられてしまうものだ。また、情報と経験は似て非なるものであり、言ったからって伝わるとも限らない。

この上で、個人にとっては非常に大切なものでもある。なんというか、おかんに限らず他人に壊されないためにもこのことは心得ておいたほうが良いだろう。

・よく思い出の品が捨てられないって話があるし、それに対して写真にでも撮って実物は捨てろというアドバイスもあったりするが、意外とそんなんで本当に大丈夫かもしれない。何せ実態よりも思い出優先なのだし、それを思い出すシンボルとして機能させるには画像で十分かもな。

メモ

・もちろんこの心理だけが人間に働くわけではない。抑制するような要素や、バイアスに気づくメタ認知もあるだろう。一部は自分の子供が世界で何より尊重されるべきだと社会に要求するようなのとか確かにいるわけだが、まぁそういったのはレアケースの頭がおかしい奴だ。普通は何らかの修正能力を用い、そこまで酷くないレベルには修正する。

・これがたまにツイッターとかで湧いてる値切り目的の原価厨へのエサになりそうなことを危惧していたが、あれは逆に他者の労力を過小評価して物理的な原価しか見てない時点で論外だった。大体「作業料」の一言で論破されてるしなアレ。







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