ラスボス前症候群/ゲームクリアしたくない病

ラスボス前症候群/ゲームクリアしたくない病

 ラスボス前でゲーム止める症状。別に病気ではない。

アクションやシューティングではなく、ストーリー性のあるもの、特にRPGによく見られるとされる。

論文であったりする

 この症状は、遠藤雅伸氏の論文で「温存」と呼ばれている。

この論文自体は「ゲームを途中でやめる理由」の調査。 ラスボス前とは限らない点に注意。
統計の中の目立った特徴としてコメントされている。

(9)温存:2要素

・未完/クリアするとゲームが終わってしまうためゲーム世界に居続けるためにプレイを凍結

・他目的/クリアする前に他のクエストをやり終えるつもりでプレイしない、他にできることをやり込む予定でプレイしない

http://endohlab.org/paper/whydoplayersdrop.pdf

「他目的」の場合でも、エンディングを迎えたら終わりだから先に他のことを済ませる、という心理だろう。この場合でも「ゲームを終わらせたくない/やり尽くしたい」念はあると思われる。

本調査で特に新たな要素として浮かび上がったのが「温存」という離脱理由である。これは離脱というより実質プレイしていないにも関わらず「プレイ中」であるという意識に他ならない。

しかし温存という行動自体が、数人の外国人からヒアリングした範囲では理解されず、日本ゲーム文化に特徴的な行動である可能性は否定できない。

http://endohlab.org/paper/whydoplayersdrop.pdf

以前やった「眠れない」じゃなくて「寝たくない」という気持ちの話とも通じるかも知れない。どの道プレイヤーはもっとその世界に浸りたいと思っているわけで、クリエイターの勝利ではあるだろう。

ゲームに対して人は正直だ。「好き嫌い」の領分だから。このため当人の素と共に国民性は出るのかも知れない。

バートルテスト

日本語訳バートルテスト:http://aladaka.blogspot.com/2016/05/bartle-test-jp.html

・バートルテストと呼ばれるゲームの楽しみ方の性格分析では、アチーバー(達成者)、キラー(殺人者。PVPや競争)、エクスプローラー(探検家)、ソーシャライザー(社交家)の4つのプレイヤータイプがある。要は何を楽しみを感じるかは人によって分かれる。

ゲームを終わらせる、というのは「達成」だろう。では終わらせたくないと思うゲームには達成を求めていないことになる。

この時点でアチーバーではないし、キラーだったらラスボスと戦いたいはずだ。ソーシャライザーはゲームを元に他者との交流を好むものであり、エンディングは話のネタとして見ておきたいところじゃないのか。

「温存」は体験というか、没頭というか、そういったものの維持に努めているわけで、エクスプローラー寄りだとは思うが、一致ではない。エクスプローラーにしたって物語の終りに興味はあるはずだし。

 バートルテストはバートルさんが考えたわけで、日本人ではないし。外国人は理解を示さなかったこの「温存」という気持ちは、この4つには入らないのかも知れない。

予測だが、海外はゲームクリアという「達成」がゲームに対しての目的であるのに対し、日本人の場合「その世界に入り浸ること」を求める傾向は比較的強いのかも知れない。世界観が良いとか、雰囲気ゲーとかは一定の人気があるものだし。

クリアとゴール

 ゲームクリアは一般には「達成」、エンディングは「報酬」に属するものだと認知されるだろう。感動のエンディングで大団円でスタッフロールでなんやかんや。

一方で「終わり」でもある。感動のエンディングで大団円でスタッフロールでなんやかんやした後で、ロードしたらボス倒す前だったりしたらなんかアレである。良いシナリオで有れば有るほどメタなものは歓迎されない。「もう一回やればいい」は通用しない。

ゲームに対しての最高峰の褒め言葉だと個人的に思うのが、「記憶を消してもう一度やりたい」というものだ。それだけ、記憶は体験を薄味にする。

 いわゆる「積みゲーの消化」をしている時は、ラスボス前症候群の症状はほぼ出ない。これはタスクであり、言葉通りに消化作業であり、クリアがゴールだからだ。

同じく「クリア後が本番」と言われるようなゲームではこれはほぼ起こらない。ポケモンとかそうらしいな。クリアが通過点の例。

後はスカイリムみたいに初めからMOD突っ込んで遊ぶつもりなら、プレイ時間が数十時間経ってるのに一度もクリアしたこと無いなんて話もある。初めからクリアに用がない例。

このようにゲームクリアに対して思う所は、結構それぞれだ。

 さて気に入ったゲームが有ったとして。一周目は自力で、二週目は攻略記事を見ながら、と思いつつ、一回クリアしたらやる気なくなったという話も多い。

それだけ未知への探求というか、好奇心が原動力なのは間違いない。もちろん自分がそれを明かすこと、体験することが。ネタバレサイト読んで満足するヒトもいるが、ラスボス前症候群とは無縁だろう。

一周目でそこら辺が大体消化されたのなら、二週目はやる気はなくなる。そうなったら困るから温存、は有るだろう。

好きなことの終わり方

 そもそも好きなことって、時間切れ以外に自分から終わるようなことあるのかと。子供とか動物を見てみれば、夢中になっていることには、飽きるか邪魔が入るまでやってるよなと。元からそんなもんじゃないだろうか。時には寝食を忘れて。

そのゲーム、というか世界観が好きだという前提だと、エンディングがゴール=出口だとすれば、自分からは向かわないのが普通にも思えてくるが。
これは子供がまだ寝たくないだとか、遊園地から帰りたくないだとか、そういった心境に近いのかも知れない。

どストレートに「クリアしたらその世界から自分だけ追い出されるから」との意見を見かけたが、これは大きいかもな。ロードすればゲームは始まるが、自分だけは結末を知っているわけで。

キャラクターとの連帯感でも湧くのだろうか。確かに自分だけ結末を知っているわけで、感情移入しづらくなるかも知れない。

その前にやれることを

 「多目的」の話。ラスボス前症候群の症状としてたまに書かれているのが、そろそろラスボスだと悟ったので、他にやれることをやるというものなのだが。

 これなぁ。私にとっては普通だからなぁ。前述の通りクリアが「出口」なんだったら、そこに行く前に心残り消化するだろう。やり残したことが有るのに「お帰りはこちら」って書いてあるゲートくぐるかね。 

あと普通に、ラスダン入ったらサブイベントのフラグへし折れるとかあるんよ。たまに。困るの。それどころか街に入れなくなるFF8っていう(以下略)

この辺りを経験則として学んだとしたら、終わる前に身支度をしても不思議ではあるまい。

世界を終わらせないために

 壮大だね。

 「温存」の手段としてはツァイガルニク効果が使われている。未完のものに対して人はいつまでもそれを覚えていやすい傾向。連載漫画やドラマがいい所で終わっても、次の週に忘れずすんなり続きから入れるのはこのためだ。

「ゲームの世界を終わらせない」のが目的である場合、未完で止めることは理に適っている。

 日光東照宮の陽明門には12本の柱があるが、一本だけ逆さまになっている。「満つれば欠ける」、完成すれば後は廃れるだけだから、あえて完成させない、という願掛けだそうな。

ラスボス前症候群も「クリアすれば忘れてしまうかも知れないから、クリアしない」という願掛けなのかもしれない。

先が見えたから

 上記論文内ではもう一つ、先の展開が読めたからゲーム止めた、というのがあった。「わかったからもういい」なのか、「わかっちゃったから終わらせたくない」なのかは知らないが。

シナリオの先が読めたかどうかとは別に、RPGだったらなんぞ盛り上がってラスダンとか始まるわけだ。城が飛んだり塔が建ったり別次元の穴が空いたりとかするだろう。「もうすぐ終わりだ」とは悟りやすい(そこからまだまだ先長いこともあるんだが)。

 また、これとは別にスポーツなどで「もうすぐゴールだ」と思った瞬間にスペックが落ちるという話がある。脳のモードが切り替わってしまうらしい。

これがゲームにも当てはまるなら、「もうすぐ終わりか」と思ったらやる気を無くすのは自然なことだと言える。そうなると後は消化作業だし、そのままフェードアウトも不思議ではないかも知れない。

 これはネタバレの害にも通じるだろう。ちょっと前にニュースで南極基地だったかな? そこにいる二人の内、一人がもう一人を刺した。死んじゃいないが。

3年位通して、ことごとく本のネタバレしてきたから我慢の限界だった。で、結構同情的な意見も見かけたんだよね。ネタバレされた側に対しての。楽しみもあまりないような所でそんな事されたら気持ちはわかる、と。

この二人は日本人ではなかったはずだ。ネタバレされたらぶっ殺してやりたくなる気持ちは世界共通かも知れない。「失速」現象を強制的に誘発されてもおかしくない。

知らない状態から、自分の意思で知っていく、というのは思いの外重要なのだろう。そしてそれに楽しみを見出しやすい。

この見方で行くと、物語の結末は「体験の終わり」ではある。二周目はメタな感じになる。同じではない。終わった時感じるのは達成感ではなく、寂寥感。ではプランB。楽しさをこれ以上求めるのを止めて、世界への「期待感」を保持しよう、となるのかも。

 個人的に思うが、「もうすぐ終わり」と思ってやる気が出るのって、嫌なことやってる時だよなと。じゃあ逆になるのって好きだからじゃないのかと。

関連ページ:
_ゴール直前での失速

リソースが足りない

 時間とか体力とか気力とか。

例えば、尊敬する著名人でも想像してみてもらいたい。はい、会えることになりました。おめでとう。
おめでたいが、絶対緊張するよねと。気楽で安らげる時間ではないだろう。好きすぎて緊張するというのはあるわけだ。

同様に、注力しよう、集中しよう、熱心になろうというのは「緊張」に属するものである。既に他で疲れてるなら、あんまり自分からはやりたくない。

ゲームのコストは購入代金だけではないという話。少なくとも必ず「時間」は追加で払うことになる。支払う準備が必要だ。

 さて、エンディングはぶつ切りバッドエンドでもない限り絶対長い。大抵はその間「操作」もほぼ受け付けない。
言い方を変えれば、その点はゲームではなく映像作品に近い。しかも全体の時間は未知数。

再生時間が不明な、最後まで見たいDVDがここにあったとして、じゃあ「いつ見るか」だ。それが好きなこと前提なら、それを「受け止める」だけの時間と気力と体力がある時を選ぶだろう。
多分ラスボス前症候群になる人は、一度流し見して後で余裕があるときにでももう一回、という考えはあまり持たないだろうし。

あと一時停止とかの中断も基本できないよな。ゲーム本編ならスキマ時間でやってこれたかも知れないが、ここはそうもいかないだろう。まとまった時間が必要だ。



対処する必要があるのか?

・方方でラスボス前症候群の対処法とかやってるが、治す必要あるのか。

個人的には対処する必要性を感じない。クリアは「義務」じゃないからだ。これに対しての対処することは、ゲームを「タスク」にしている様に思える。

某フリーゲームのRPGでRTA(Real Time Attack)している動画を見たことがあるが、「このゲームを好きでいたいならRTAなんてやらないほうが良い」とか言っていた。割とキツイ攻略法やってたので気持ちはわかる。

 「効率化」は物事を楽にはするが、つまらなくさせる。全て予定調和に落とし/貶し、刺激が減る分、飽きやすくなる。時には苦行にさせる。
終わるのが目的だから道中は辛い。もしも「世界観を楽しみたい」のが目的なら、クリアに義務を感じないほうがいいだろう。なにせ既に楽しんでいる可能性が高いのだから。

「好きだから終わりたくない」とでも言うようなものに対して、その上で終わらせなきゃいけないと思っていることの方がおかしく思える。

ただ、そうしてる間にネタバレ食らいそうで怖いね。

メモ

 そのゲームがつまらないから、との可能性は恐らく低い。それならラスボス直前までやらずにさっさと止めるか、逆にさっさと「区切りのいい」クリアまで行ってしまう可能性のほうが高いだろう。積みゲー消化みたいな。

私はクソゲー認定したのも「供養」とか言ってクリアまでやってた時期あるが、一切惜しさは無かったね。常軌を逸した悪い意味での時間泥棒ゲーに出会ってこの習慣やめたけど。

要するに、面白いからクリアする、つまらないからクリアしない、という図式は絶対ではない。

 私はゲームではこれはないけど、本でならやたらあったな。子供の頃。いい所で読むの止める感じ。

 最近はクリアして終わり、はむしろ珍しい気もするけれど。二週目があったり、二週目から選べる選択肢とかエンディングがあったり、エンディングAがエンディングBのフラグだったりと、結構周回することを織り込んだ作りになっていると思うのだが。

wiki見ないとクリア前に知る術はないだろうし、楽しみたい人はwiki見ないようにするし難しいな。

逆に作者サイドが、プレイヤーがどこまでやることを想定しているのか気になる。「ゲームからの離れ方」、ヒト対ゲームでの終わりまで考えるのだろうか。

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