ノリで書いたので結論はないです。
断れない性格の問題と課題
・断れない人は、義理人情に厚いからだ、優しい人だからだ、なんて言われることもある。まぁそんな自分が好きで、うまくやっていけてるのなら別にそのままで問題はないのだろう。
ただし当人が「断れない性格」を自認している場合は、「意思表明ができない」「自己主張ができない」といった自己嫌悪感となっている事が多い。
・いわゆる「お人好し」が幸せな人生となるかどうかは、周囲の人間の質次第だという。裏を返せばこれは断れない人は、人間関係が自分の人生に多大な影響を与えるということだ。
(これはギバーがテイカーの食い物になるか、それ以外とWIN-WINの関係を築けるかの話に近い)
逆説的に、自分の人間関係をよくする必要性は、断れない人は並よりも高い。
『人間失格』と断れない人
・始めに言っておくと、別に私は太宰のファンじゃないし(作品全体に対しては)書いてないものまで汲み取ろうともしていない。
そういった人々の意見とは異なる形になるだろう。人間失格よりも駈込み訴えとかメロスの方が好きかな。
こちらは作品の解釈や解説じゃなくて、断れない人の心理と照らし合わせてるだけ。
引用を使うが、作品に出てくる順番とは限らない。
・この主人公、なんかまぁすごいことにはなるのだが、それでも一般的な人間の「普通」とされる特性しか持っていないようにも思える。それが並より強い。
どこかアドルフ・アイヒマンを彷彿とさせる。
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「拒否の能力の無い者の不幸」
「いや、もう要らない」
実に、珍らしい事でした。すすめられて、それを拒否したのは、自分のそれまでの生涯に於いて、その時ただ一度、といっても過言でないくらいなのです。
自分の不幸は、拒否の能力の無い者の不幸でした。すすめられて拒否すると、相手の心にも自分の心にも、永遠に修繕し得ない白々しいひび割れが出来るような恐怖におびやかされているのでした。
・断ることが個人の意思表明ではなく、相手との関係性を壊し、後に響く「取り返しがつかないこと」だと思っているような認識。
・ただ、厳密に言えば拒否の能力ではなく、意思表示や主体性の能力の話ではないだろうか。
stranger
- 自分は1人の「よそもの」
- 社会は1個の「集団」
- だから自分を出さずに合わせなくてはならない
そんな世界観。
・この主人公は一見すれば主体性がない。言い換えれば断るだけの/表明するだけの自分がない。作中を通して大体流されていることが多い。そもそも断ろうとしていない。葛藤がない。気づいたら流されているような。
一般には感情がその役割を果たすことがある。なんか気に食わねぇからヤダ、お前が嫌いだからやだ、嫌だけどお前のことは嫌いじゃないからいいよ、みたいな。そういうのが、あんまりない。
・断れない人はどうもこう、アイデンティティも主体性も初めから弱い印象を受ける。しっかり持ってるのもそれはそれで珍しいんだが(そして時に悪い結果を齎すのだが)。
いや、弱いというより自己不信だろうか。自分がないというよりは、あるのに自分でそれを否定する。
社会/世間/周囲に合わせるのが正道であり、それに反する感情を持った/湧いた自分は不適応である、みたいな。
自分が感じたものに対しての評価(これもメタ認知と呼ばれる)が、自己否定の方向に傾いているような。
・何者でもないというよりもよくわからないから周りの言うことを聞いてただけな気がしなくもない。
道化
そこで考え出したのは、道化でした。
それは、自分の、人間に対する最後の求愛でした。自分は、人間を極度に恐れていながら、それでいて、人間を、どうしても思い切れなかったらしいのです。そうして自分は、この道化の一線でわずかに人間につながる事が出来たのでした。おもてでは、絶えず笑顔をつくりながらも、内心は必死の、それこそ千番に一番の兼ね合いとでもいうべき危機一髪の、油汗流してのサーヴィスでした。
・アダルトチルドレンのクラウン(道化)はかなり似ている。「おどけた仮面をかぶって不安を隠してきたタイプ」と言われる。
こちらも一見いい人であり、みんなが嫌がる仕事も引き受ける。ただし目立つのは嫌いで、称賛が得られるようなことは「他人に花を持たせる」という形で回避するとされる。
こちらの動機は「自分が何かやらないとみんながどんどん不機嫌になっていく」との考えからだが。
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世間とは何か
・断れない人は感情がないのかと言えばそうでもない。ぼーっとしているわけでもない。むしろ内面は激しいか、深いことは多い。
・人間失格の主人公は、友人との会話の中では、
(それは世間が、ゆるさない)
(世間じゃない。あなたが、ゆるさないのでしょう?)
(そんな事をすると、世間からひどいめに逢うぞ)
(世間じゃない。あなたでしょう?)
(いまに世間から葬られる)
(世間じゃない。葬むるのは、あなたでしょう?)
汝は、汝個人のおそろしさ、怪奇、悪辣、古狸性、妖婆性を知れ! などと、さまざまの言葉が胸中に去来したのですが、自分は、ただ顔の汗をハンケチで拭いて、
「冷汗、冷汗」
と言って笑っただけでした。
意思表明はやはりできなかったが、感情を強く持っている。
その時以来、自分は、(世間とは個人じゃないか)という、思想めいたものを持つようになったのです。
そうして、世間というものは、個人ではなかろうかと思いはじめてから、自分は、いままでよりは多少、自分の意志で動く事が出来るようになりました。シヅ子の言葉を借りて言えば、自分は少しわがままになり、おどおどしなくなりました。また、堀木の言葉を借りて言えば、へんにケチになりました。
「世間は個人」との認識を獲得した後は多少自分の意志で動くことができるようになった。逆を言えば、「世間は群れ」との認識の間は、自分の意志で多少すら動けなかったとも考えられる。
・一種の人間不信や社会不信、断れない人もそうだし、愛想よくしすぎてしまう人、他人に合わせすぎてしまう人たちは、このような「世間は群れ」であり、だからこそ「機嫌を損ねたら大変だ」という、「自分VS世間」の構造の世界観を持っているように思えることが多い。
自分が異邦者であり、世間に潜伏しているかのような。
相対的に自分は「自分を含まない世間」に対して不適応な部分があると思っている。だがそれこそが「自分」だと思うが。
・裏を返せば「自分」という概念の取り扱いが特殊だと言える。それは社会に対しては確かに時には隠すものであるのだが、根本から否定、思ってもいけない、そうじゃない自分は不適応だ、という論法に見える。
目前の相手に怯えているわけではない。その後ろに自分を監視する服着た猿の集団を幻視している。そのように思える。
・基本的に幸福な人間見ると疎外感を感じるような描写がいくらかある。自分もその一因/一員であったとしてもよそ者(stranger)であるかのように感じている。
・余談だが夏目漱石は世間についてこう述べている。
人の世を作ったものは神でもなければ鬼でもない。やはり向う三軒両隣にちらちらするただの人である。
草枕
・反対に、「世間」は大抵の人にとっては警戒対象であることもまた事実だ。
井上(1977)では親密な他者と赤の他人の中間としてセケン(世間)を定義した。少なくとも羞恥心、つまり「恥」に於いてはセケン相手が一番感じやすい。
人間失格の『第一の手記』は、「恥の多い生涯を送ってきました」から始まる。これは生涯を通してセケンを気にしていたからではないのか。誰から見た恥だったのか。
「それは、だましているからだ」
・「断れない人は優しい人」というのは、当人にとってはなんら励ましにも肯定にもなっていないことは多く見かける。
当人の動機は大抵「嫌われるのが怖い」という系統であり、ともすれば無難に振る舞うことは「仮面を被って周囲の人間を騙している感覚」ともなる(人は対人関係の数だけ仮面/人格がある説は昔からある)。
そして仮面を被ってしまうことに対して自己嫌悪をする人は、まぁ結構いる。
それは、だましているからだ、このアパートの人たち皆に、自分が好意を示されているのは、自分も知っている、しかし、自分は、どれほど皆を恐怖しているか、恐怖すればするほど好かれ、そうして、こちらは好かれると好かれるほど恐怖し、皆から離れて行かねばならぬ、この不幸な病癖を、シゲ子に説明して聞かせるのは、至難の事でした。
「恐怖すればするほど好かれ」は、ある意味自然なことだろう。恐怖すればするほど相手に配慮し、尽くし、気に入られる。
繰り返すがこれらが「人に好かれよう」ではなくて「ついやってしまう」という形で出る。
(アダルトチルドレンでよくある話だ)
・「好かれると好かれるほど恐怖し」は、その好かれた自分は仮面だから、というのはあるだろう。
割と現代でも見る。例えば仲良くなるとめんどくさくなるとか、人間関係をリセットしたいなど、距離感が近くなると困るというか、鬱陶しいという感情で。
・興味深いことにこの主人公は、この相手には「仮面を付けてない自分」をわかってもらいたいフシがある。じゃなければ「この不幸な病癖」を説明する必要がない。ここで嫌われるリスクがあるのに自己開示している。道化も演じていない。気を許した相手、あるいは等身大の自分を受け入れてもらいたい相手だと見ることができる。
ネガティブなアイデンティティの喪失
・さて「世間は個人」との気づきを得て、自分の意志で動けるようになって、それで終わりなのかと言えば、
(それが、自分だ。世間がゆるすも、ゆるさぬもない。葬むるも、葬むらぬもない。自分は、犬よりも猫よりも劣等な動物なのだ。蟾蜍。のそのそ動いているだけだ)
蟾蜍はヒキガエル。これ以降呑んだくれる。
今度は世間ではなく、自己価値に悩む。
思うに「世間は群れ」であれば、少なくとも評価される価値があった。自分が道化を演じ、仮面をかぶり、好かれるだけの価値がそれでもあった(あるいは期待できた)のかもしれない。
・「世間は個人」との悟りは、自分に迷子のような感覚をもたらしたのかも知れない。
「世間が個人」と悟ってしまった後、言い方は悪いが媚びる相手を見失った。自分の方向性がなくなった。冗談抜きで生きていく術だったかもしれない。
言い方を変えればここは主体性の出番である。だが、「彼」の主体性はどうだったか。
良くも悪くも、他人のために動くのが自然体な人というのはいるもので。
自由や主体性は多くの人にとって不足を感じているのも確かだが、無闇矢鱈と求めるものでもないのかもしれない。内容次第だな。
・この上で、一部では「呪い」と呼ばれるお馴染みの考えがある。
自分は何かをやり遂げられるはずだ、何者かになれるはずだ、そうでなくてはならない。
でも道が見つからない、方向性はわからない。憧れるものなりたいものを見つけても自分はあそこまでにはなれない。
漠然とした状態で理想が高く、元からどうしていいかよくわからないような概念だ。この上で今の(自分でも良くないと思っている)方針や世界観を手放せるか、といえば一部はできない。
これは交流分析の方で散見される(特に『ゲーム』)が、自分の「クソのような世界観」、あるいは「クソみたいな自分」を再確認することで安心を得るという心理はある。人は「途方に暮れるよりはその方がマシだ」と思いやすいのかもしれない。
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