人を見る目がある人、人を見る目がない人。

人を見る目とはなにか

・まぁ大抵の人間は眼球付いてるんだから物理的にはクリアしているが。

・人を見る目とは、相手がどの様な人間なのかという「見立て」や「推論」の精度だと言える。大体合ってれば人を見る目がある、ハズレてるなら人を見る目がない。

言い方を変えれば、人を見る目がある人は「相手がどの様な人間か」という推論の精度が高い。
人を見る目がない人は、精度が低いことになる。

人を見る目がある人と、人を見る目がない人の比較。

行動を見るか、言葉を信じるか。

・人を見る目がある人は、その者の行動を見る。言行不一致はアウト。

・人を見る目がない人は、言葉を信じる。
言葉とは、所詮ただの「音」だ。発声機関を持っていれば言える。馬鹿でもクズでも、なんならインコでもオウムでも九官鳥でもカラスでも綺麗事は言える。

「言ったこと」と「その者の本質」には、なんの関連性もない。

犯罪者が、その犯罪を「けしからん」と主張する団体のトップだったことはある。社会に対して自分は「逆」の存在だと見せかけようとするため、この様な例は珍しくない。

人を観察するか、人を信じようとしているか。

・人を見る目がある人は、その者を観察し、一定の目処を立てる。

・人を見る目がない人は、その者を信じようとする。お人好し=騙されるみたいなイメージは割とあるだろう。

ただまぁ、この場合はそれ程ひどいことにもあんまりならないかもしれない。限度は有るが。

人には返報性が有る。恩には恩を、信頼には信頼を返そうとする心理。

このためその信頼が相手に伝わるなら、相手もそれに応えようとするのはそれほど珍しくはない。意外な人間が結構律儀だったりもする。

ただし共感能力が働かないタイプにはこれは効果がない。オキシトシンの研究者であるポール・ザックによれば、20人に1人は恩を恩と思わない人間がいるとのこと。

この様な、人を信じて有形無形の何かを他者に与える「ギバー」と、それをただ持ち去るだけの「テイカー」という考え方があるが、ギバーが幸福になれるかどうかは、「周りの人間の質次第」だそうだ。周りが恩を感じ、恩を返そうとする人間達ならば与える者は幸福に、そうじゃないなら不幸になる。

総じて、例えお人好しでも信じちゃいけないタイプの人間がいることになる。

人を部分の集合体として見るか、一つの単体として見るか

・極論を言えば、人を見る目がある人は他人に全幅の信頼をしない。仕事は信頼できるが人間性はクソ、などの評価を下せる。

相手の「どこは信用できるか」「どこが信用できないか」を知っている。他者のパーソナリティとは、複数の要素の集合体である。

これは相手に対して「どこに注意すればいいか」の理解に繋がる。このためその者との接し方、扱い方などに転用できる。

・人を見る目がない人は、「信じられる人」を探している傾向が確実にある。

だから「人」単位で信じようとし、これはほぼ確実に失敗する。一面的な要素で全体を知ったつもりになりやすい。

先程は人を信じる傾向がある、としたが、厳密に言えばこの様な「推論の飛躍」による見切り発車とその盲信。

せっかく見つけた懸念要素/注意点を「本当はいい人」「根はいい人」という結論を下して見なかったことにする。
あるいはその反対で、嫌うと決めた人間の肯定できる部分を「人の目を意識している」「計算だ」と否定する。

これをやると、見えてる地雷をわざわざ埋め直した挙げ句に自分で踏むことになる。

どの様な人かを知ろうとするか、好きか嫌いか。

・前述の通り、人を見る目がある人は相手を観察し、知ろうとする。

好き嫌いではなく、理解と扱い方に重点を置く。
なおここで言う「理解」はロジカルな分析の意味であり、「相手を受け入れる」ことではないので注意。

・人を見る目がない人は、好きか嫌いかで人を選ぶ。印象重視。

第一印象としての好き嫌いは「総評」ではなく、感情と記憶を参照した「概算」に近い。最終結論としての好き嫌いとは違う。

案外人見知りの方が惚れっぽく、人を見る目がなかったりする。対人面で消極的だから派手な人間関係とはならないだけで。

まぁアレだ、惚れた方の負け。

人を見る目があると思ってる人を見る目がない人

・フィードバックの問題となる。

・簡単に言えば、「あいつは嫌なやつだ」と見立てたとする。当然にその者を嫌って避ける傾向は強まる。

これで見立てが間違っていた場合でも、それに気付ける機会が激減する。訂正の機会が得られない。

基本的に「避ける」という行為は何も起こらないことで「成功」判定が下される。

このため好き嫌いで決める上で「嫌い」となりやすいタイプは、自分の人を見る目のなさを特に問題視していないことが多い。それどころか自分は人を見る目が有ると思いこんでいる例もある。自分を見る目すら無い。

決めつけないか、決めつけるか。

・人を見る目がある人は、そもそも結論を出さない。見立ては見立て、推論は推論。自分のイメージは「仮説」として心得て、必要ならばその仮説は刷新される。

相手へのイメージが柔軟な状態で維持されている。

このため理解度が付き合う時間に比例して上がっていく。解析が進む、とした方が適切か。
結論として「こいつは駄目だ」とはなる余地はあるが。

・人を見る目がない人はここまで述べてきた通り、決めつける傾向がかなり高い。信じるつもりでいるだとか、第一印象が全てとか。

つまりこちらは、仮説でなくて「結論」を出している。見切り発車。曲がれないし止まらない。その後の全ての出来事は消化試合となる。

事故を起こす=「そんな人だとは思わなかった」となるまで。

ステレオタイプ信者であることが多い。男とはこういうものだ、女とはこういうものだ、最近の若いものは、などの決めつけ。

・総じて研究者と狂信者くらいには態度に違いが有る。冗談抜きで自分の直感/感情の信者か、ステレオタイプの信者であることは多い。

人を見る目がない人の問題

人を見ていない

・人を見るつもりがない。自分のイメージを見ている。信じるつもりでいる。決めつけるつもりでいる。わかるつもりがない。知るつもりがない。

この上で知ったつもりになるか、博打として人を信じる。まともな結末になるわけがない。

人を「見る目がない」とは言い得て妙だ。「見る目」そのものがない。

・結局の所は、「思ってたのと違う面がその人にあった」ということだろう。逆を言えば、思い込んでいたってことになる。

人を見る評価基準を持っていない

・人の何を見たら良いかわからんというケース。

「評価」って言葉も印象悪いところあるけれど。

・仕事での「人を見る目」なら、採用担当が「こいつは使えるかどうか」みたいに「どこを見るか」がはっきりしている。学歴、職歴、資格、性格を見るにしても「仕事に向いている性格かどうか」という指針が有る。

一方で、プライベートだと比較的指針がない。自分の「人の好み」というか、「付き合う人間に求めるもの」が自分でよくわからないという人もいる。なんとなくで気づいたら始まってる人付き合いもある。

・まぁ自分の目的が果たせりゃそれでいいわけだが(=基準はそれぞれだが)、いくつか個人的な要点を上げるとしたら、自他境界をしっかり区別できるか、 相手の「普通」がどのようなものか、この2点くらいだろうか。

・自他境界の問題は2タイプある。

  1. 自分の領域を他者にまで広げる
  2. 他者の領域を自分にまで広げる

1は自分の「普通」はグローバルスタンダードだみたいな態度のヤベー奴。

2は自分がないような言動になる。1の犠牲者になりやすい。

当然1は避けたほうがいい。2は「重い」ことが予測されるし、ハッキリ言えば流されて裏切る余地も有る。

・相手の「普通」は、こちらとの相性に致命的に影響がある。善悪とかじゃない。ここも結構ポイントで、人によっては「問題ないけど相性悪い人」というのが認識できないケースが有る。

ただまぁ、人の言動はよく見てみるとなかなか不安定なもんで、「許容できるレベルかどうか」で見ないと「いい人間は死んだ人間だけだ」みたいな全員アウトってことになりやすいが。潔癖よくない。自他境界もストレスなどで乱れたりする。

・「相性」は二者間の問題であり、相手以前に自分のことも分かっている必要がある。これが分かってないと、相手の「どこを見たら判断できるか」がわからない。「相手が自分のどこを嫌いそうか」もわからない。

大抵の人間が、「優しそう」あるいは「弱そう」な相手にナメた、もとい警戒心を緩める。これは、相対的に「自分がどんなんでも問題なさそう」と思いやすいということだ。

人を見る目がないというよりも別の問題の人

傷つきやすい人

・人が「人を見る目がない」と言われたり思ったりするのは、騙されたり、裏切られたりした時が多い。つまり安全じゃない奴に対して、今まで安全判定出してたってことになる。

裏を返せば、自分が何らかの「脆さ」「傷つきやすさ」を持っている場合、他人は自分を傷つけるものとなりやすい。

加害者判定、裏切り者判定が過剰な状態。
時にはこの様な精神状態になることも有る。

これは人の善悪ではなく「相性」の問題も大きい。内向型から見ると外向型はデリカシーないわけで。HSPから見れば内向型もまたデリカシーないかも知れんしで。

自己主張ができない人

・ノーと言えない。自己主張ができない。断れない/拒絶できない/縁を切れない。

自分の意見が言えないから、厚かましい輩にたかられやすい。沈黙は肯定、とする者の人間性はどうかと思うが。

・他人と同時に自分も尊重するコミュニケーションを意識した「アサーティブ」という概念が有る。

その中でいうところの「自分を尊重しないタイプ」に該当する。

・この場合、拒絶できない、断れないため「信じるしか無い」状況に陥りやすい。信じたくて信じるのではなく。
しかし拒絶したい、断りたいと思う相手に対してそれなので、だいたいハズレとなる。この場合「推論」は当たっているので、人を見る目がないわけではない。

過剰適応

・病的なまでの心の読みすぎ+主体性がない人がいる。
相手が「騙そう」としていることを察知し、「騙されてあげようとする」人。

これは過剰適応や自己破壊的同調、あるいはアダルトチルドレン系の問題となる。

多くを求めないか、多くを求めるか。

・人を見る目が有る、と言われるような人は大抵独立心が高く、元から人に依存しない。
共倒れや騙される心配も少ないため「人を見る目」自体がそれほど必要ではない。

・全てに当てはまるわけではないが、「自称」人を見る目がない人は依存心、依頼心が高い傾向がやっぱりある。

自分で人を見る目がないって言うのは、相手が期待通りじゃなかったというカミングアウトだからな。だから「当てこすり」で言う奴もいる。

この「期待」が分不相応だったり、夢を見ていたりと度が過ぎていることもある。期待の量は妥当だったが相手が裏切った、ということも現実には有るが。

・また「期待」をしている自覚がない事が結構ある。これくらいは自分にしてくれるのが常識や普通、当たり前だという形で持っている事が多い。

これは言い方を変えれば相手の気配りが無料サービスだと言ってるようなもんで、だいぶ性格は悪い。

人を見る目がある人

 相対的に、人を見る目がある人というのも結構わかってくる。

このサイトでは人を見る目がある人の特徴を、

(1)言行不一致によく気づく
(2)相手の見た目をあまり気にしない
(3)いろいろな方面の知識がある
(4)多くの人に会っている
(5)相手の細かい動きを自然にチェックしている

としている。1,2,3,5は相手の表面に騙されない、振り回されないこと。4は経験、ある種の人間のパターンを知っているということ。

 これらを見れば「他人が嘘つきである」という前提で、そのシグナルをいかに素早く察知できるかということになる。

重要なことだが、実際人間は嘘つきで、その自覚がない。まぁある意味では。

単純に自己イメージと実態とはかけ離れていることが多く、自信がある無能、自信がない有能、フレンドリーなコミュ障から人が好きな対人恐怖症までいるという話。

 反対に人を見る目がない人は人を見るつもりがないか、上っ面だけで判断する。これは警戒心を捨てることであり、これが自ら人を見る目を捨てる動機にもなる。単純に不安から開放されたいためさっさと信じてしまいたいということを時に人はやる。

といっても、こんな目で人を見ていたら全員アウトになるのも時間の問題である。「人を見る目がある」というのも、一部は決めつけに加えて成果確認ができないことからの錯覚も多々あるわけで。

人を見る目を養うには

無理に人を信じようとするのをまずやめる

・人を見る目がある人は、他人を「信じられるから信じる」。
人を見る目がない人は、他人を「信じたいから信じる」。
この点に致命的な違いが有る。

これは独立心と依存心の違いだ。裏を返せば、「人を信じたい人は騙される」ということでもある。信じられる人を探しているとかね。

・また、初対面の相手に対して緊張するのは自然なことだ。どんな人間かわからないからな。

この緊張に耐えられず、いち早く抜け出したいという気持ちは、人を無理に信じる/決めつけるエンジンとなり得る。

脳は割と平気で自分を騙そうとする。
時には安全よりも「安心感」を優先する。

決めつけない。というか自分は相手のことを「知らない」と知ること。

・推論してる時点でわかってねーから。わかんねーから推論するわけで。

これを「わかった」としているのが、全ての問題の始まりだ。

「人を見る目の基本は、いかに相手に対する思い込みを持たずに耐えられるかどうかである」とのことでした。「先入観を持たずに人を見られる人」が「人を見る目がある人」なのです。

https://www.otsuka-shokai.co.jp/erpnavi/topics/column/human-resources/kansatsu-omoikomi.html

前述の通り、これに耐えられない=決めつけが始まる。

結論を急がないこと

・結論を急げば決めつけが起きる。

決めつけのベースとなるのは「箸の使い方で教養がわかる」的な「木を見て森を見ず」。

ステレオタイプの押し付けも相手の1属性という「木」から個人という「森」を決めつけている。

つまり人を見る目がない人は、元から雑なことをやっている。肯定でも否定でも。

・「暫定」、つまりとりあえずは、しばらくはこの方針で、程度とした方がいい。後から修正できるので。

正直、人を見る目とか言ったところで、人の本質を見抜く必要は別にない。趣味なら別に止めないが、少なくとも義務じゃないし、必須技能でもない。

ただ単に、決めつけた挙げ句裏切られたーとか騒ぐのはアホだというだけの話。なので決めつけなければほとんど問題は起きない。例え推論の精度が甘くても、他のシグナルには気付ける。

どうせやらかすので、いち早くそれに気づくようにすること。

・現実的な話。

脳の作りからして思考よりもまず感情がわく。その感情を元に推論=好き嫌いによる決めつけ、というのはかなり発生しやすい。

・逆を言えば、人を見る目がない人はこの状態から突っ走る。人を見る目がある人は再検討ができている。

認知の修正、訂正が出来るかどうかという話。ただのベースや叩き台として扱うならばステレオタイプも直感も別に悪さはしない。

自分が相手に持っている印象が、根拠があるのか、それとも思い込みか、時には問うことも必要となる。

・この認識を改めることは、人を見る目があろうがなかろうが必要となる。

単純に、その時あたってても後から相手が変わる(良くなる/悪くなる)ことはある。推論の期限切れ。

思い込み続けることは「変化に気づけない」ことであることは間違いない。

このため、推論が当たってても人を見る目がない、ということはある。最初はあったのに、失われたということ。

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