努力は必ず報われるのか/軽率な努力と効果的な努力

努力のイメージ

・自主的な努力というのは、何かしらの目的や理想があって、そこに向かって進んでいるイメージが有る。理想を叶えるため。

目標を立て、プランを考えて、それをこなすような。長期的な視野であることが多い。

 外的動機の努力、例えば早く仕事に慣れようと練習する、覚えろと言われたことを必死に勉強するなども、目標を達成するために労力を注ぐという構図に違いはない。

・一方で思いつきの努力というものもある。その場限りで短期的であり、後ちょっと頑張ろうとか、これができるまで頑張ろうとか。

・最後に継続させる努力というものがある。日課や習慣にしたいものを続けている時だとか。

報われない努力

・的はずれな努力は報われないね。「目的があって、そこに向かって進む」というのが努力なのだとしたら、目的がない場合と進んでない場合の2つは報われようがないし、そもそも努力とは呼べない。別に努力に拠らずになんとかなったりはするかもしれないが。

走るのが早くなりたい奴が腕立てしかしてなかったら馬鹿だろう。これはわかりやすいが、一見それっぽくて実は的外れだったりした場合はかなり厄介なことになる。

例えば「腕の振り方で走る効率は変わる」という話自体は現実に存在する。ではそれを極めようとして、腕の振り方だけ練習してたらどうだろうか。一見それっぽい。目的には合致している。でもまぁ、それしかしないよりは安直に走りまくってたほうがよほどいいのではないか。

手段や過程だったはずのものが目的になるというのは、真面目な性格でもありえる話だ。「これができなければ次には進まない」と勝手に決めてしまったりだとか。報われないというほどではないにしろ、恐ろしく効率が悪いことである可能性もある。

・それ単品で考えれば、思いつきの突発的な努力が何らかの実を結ぶことは少ない。人間は残念ながら衰えたり鈍ったりする。継続性がないと形になるまで成長しない。

人は大抵、何かしらの命題を抱えており、その解決に貢献するようなものが必要となる。衝動的な努力は目の前のものに対してのアイデアや対処であり、将来報われるような形にはなりづらい。無駄にもならないが、「報われることを期待する」というのは間違いだろう。

ただ、その様な精神的なスタンスは自信には繋がる。自分はやればできると。自信のなさは問題だ。出来ることができなくなる。無駄に過剰な自信もまた害があるが。

・重要なこと。思うに一部の人は「我慢」とか「忍耐」とかを努力と混同しているのではないか。それらはやり過ごすために耐えるということであり、その効果はその場限定であることが多い。少なくとも努力とは違う。将来的に報われることがあったとしても、それは「選択」の結果であり、努力の賜物とは呼ばない。

同様に、苦難に耐え忍んだり何かしら辛い目にあったことに対しての「報い」を将来に期待する際に、「あれは努力だったのだ。だからそのうち報われるはずだ」と合理化しているケースも見受けられる。これらに限って言えば、「待っていても報酬は出ない」と気づかないと、時間を無駄にする。精力的な人間はこの見切りがかなり早い。というかせっかち。

努力は自分から成果をかっぱらいに行くようなものだ。待つのとは正反対だ。誰か何かからの「支払い」を期待するのなら、それは労働だ。であるなら、勝手に何かやって「働いたから金くれ」と言ってる奴に金払う人間がどれだけいるかを考えてみればいい。子供にお駄賃上げる親くらいだろう。

ここが厄介で、例えばいい仕事を得るために受験勉強を努力しました、としよう。で、合格しました、と。はいおめでとう。
この上でいい仕事にはありつけなかったとしよう。彼/彼女は思う。「あんなに頑張ったのに報われなかった」と。これは間違っている。

努力して得たのは学歴、さらに言えば入学の部分であり、いい仕事にありつける保証なんて元からない。努力の対価はすでに得ているのに気づいていない。加えて言えば自分のための自分の努力をしただけの話で、社会がそれに報いる義理もない。

ある意味で達成のシナリオが間違っていたとも言える。「いい仕事」に入るのが目標だった場合、他者の承認(採用)がゴールとなっている。他人には他人の価値観や都合があるし、タイミングの問題もある。元から「努力だけで届くゴールじゃない」ということになる。

努力は自己完結する。そこから先は他人の都合。だから他人の承認がゴールなら、努力だけ叶うものでは元からない。

企業研究を徹底して、どの様な人材が求められるか知り、それに対応すれば完全に「攻略」することも可能かもしれない。それを為すなら努力と呼べる。だがその場合、なおさらに「あの時勉強を頑張りました」だけじゃ全然足りてないということになる。



報われる努力

・暮らしや人生に対して「ほどほどでいい」というのは珍しくない意見だ。だが、そのために努力が不要かと言えば、そうでもない。

『赤の女王仮説』というものがある。「その場に留まるためには走り続けるしかない」というもので、これは生物間での食う側と食われる側の進化のいたちごっこを示している。片方が進化をやめれば、そちらは絶滅する。食いっぱぐれるか、食い尽くされるかで。

こういった「その場に留まるための努力」は、「現状での生存」と言う形で明確に報われてはいる。しかしこういった「維持」のための努力は、目的が現状にしがみつくことであり「達成」ではないため、報われた実感はほぼしない。なおかつ永続するため、モチベーション維持の観点から行くと結構しんどいものだ。

・こうして考えると、努力は殆どの場合は結果を出している。それが努力と本当に呼べるものであり、なおかつ「努力が報われない」という場合、その殆どが「やってることが間違っている/足りない」と言う形に落ち着くように見える。

要するに、結果は出ているが、その結果が当人の思惑通りではない時。この時に人は「努力が報われない」と感じる。結果が「見えていない」ため、時に望んだ結果が出ることを待つかもしれない。これは時間の無駄になる。報酬はすでに受け取ったのだから。それから先は待っていても何もない。

だからもっと数撃った方がいいかもしれんな。馬鹿の方が成功することがあるのもここらへんだろう。一手が軽率だから。フットワークが軽い。そのうち大事故起こしたりもするけど。

効果的な努力

・別にこれは言うまでもないだろう。その行動により目標に近づくなら、それは努力と言えるものだ。

・問題は、「なんかそれっぽい行動」が果たして本当に努力になっているのか、なんかそれっぽいだけなのかという点で。

後から「アレは努力だった」というのは少々怪しくなる。その通りかもしれないが、後付の言い訳かもしれない。

進捗にこじつけられるならまだいいが、それもできずに「アレは努力だったはずだ」からの「だからこのままでも報われるはずだ」というクソコンボだけは避けたい。

軽率な努力

・そんな「努力じゃない努力」の一つが、「とりあえず動いとく」というもので。これ自体はそれほど悪くもない。単品で見れば。「手を止めるな」というのは往々にして正しい。

ただ努力はいくらかルーチンワークの属性がある。つまり「繰り返す」ような内容になる傾向。加えて人が自分で「よろしいこと」と認識している場合、止まる理由がない。自分からそれを繰り返す。些細なズレがものすごいことになりかねない。

PDCAやOODA、D-OODAなど、実行のサイクルに於いて「確認/再考」のフェイズを置いているフレームワークは多い。つまり達成のために軌道修正は必要ということ。

一方で「報われるはずだ」という信念は、前に進む力にはなるかもしれないが、立ち止まり考えることを思いっきり邪魔する力ともなる。

・努力は行動のイメージが大きい。このため「何がこの目標に対して努力となるか」と考えること自体を努力とは認めることができず、「とにかく何かしらやっていないと」となりやすい。焦りの感情。

当然ながら焦りは人を軽率な行動に促す。「何かしないと」と。逆にたとえ無駄でも何かやってりゃ気が紛れてしまう。これじゃ焦りに価値がない。

・一方で、勉強してると部屋の掃除めっちゃしたくなるみたいな明らかな脱線の欲求がある。が、個人的な考えではアレは現実逃避やセルフハンディキャッピングではないこともあるのではないか。手応えへの飢えや焦りから生まれる行動欲求の解消に思える(完了バイアス)。

つまり努力とは、「すぐに成果がほしい」「すぐに動きたい」という欲求とはかなり相性が悪い。これらの欲求は単品で見れば衝動性に近く、計画性、自律心、忍耐力の集合体みたいな「努力」なる概念とは別物だ。

軽率な努力の対処について

・私が知りたい。

今回何より恐れるべきは、軽率な努力の習慣化により膨大な時間と労力を自らドブに捨ててしまうことだ。「脱線」という言葉で片付くような数分の話ではなくなる。

焦点は「リソースと目標に対しての成果が釣り合っているか否か」となる。否ならさっさと辞めるべきで、釣り合ってるなら別にそのままでもいいわけだ。むしろ正道を歩んでいると言える。

ただし元から芽が出るのが遅い内容もある。このまま継続すればその内に芽が出るのか、それとも土の中で腐っているのかがわからない。

・予防としては、ひらめきに対しては「それが本当に目的に通じるのか」を自らに問うことだろう。つまり根拠が必要だが、手探りの分野の場合には根拠なんて元からない。決まった道を歩く努力とは別の努力となる。

この場合は「道を探している」という自覚を持つ必要がある。「ただひたすらそれをやる努力」ではなく、それが本当に正しいのか、手応えはあるのか、経過観察やフィードバック、修正などを行う「調べる/探す努力」をしている自覚を。試してみることも必要だが、あくまでも試しているのだということは忘れないよう。

これのダークサイドとして、「いつまでも『いい方法』を探し続けて行動しない」という所謂ノウハウコレクターがあることには注意が必要となる。「やって損じゃない限りは、やってもいい」くらいのゆるい基準の方が良い。基本的に思考は行動を抑制する。その分計画的効果的な行動ができるが、考えすぎると「何もしないのが一番安全」となる傾向がある。

「時間を有効に使わないといけない」という強迫観念は人を衝動的にさせることもあるが、反面「損するかもしれないからやらない」という結論を下させることもある。ここでは軽率な努力ならぬ軽率な判断の可能性も出てくる。それは本当に損するかもしれないのか、わからんだけなのかと。

まぁわからんからやらんというのもアリだろう。ただ、その「わからん」というのが「確信が持てない」「保証がない」というレベルだと、もったいないかもしれない。安全に対して高望みしすぎと言うか。ハードル高い基準だといつまで経っても自分に行動許可が降りなくなる。

・前述の通り、手応えへの飢えや焦燥による行動欲求の解消として「なんかやる」というのはありえる。これによる「軽率な努力」の発生を仕方のないことだとすると、後から気づき、習慣化する前に修正する必要がある。

単純に自分の行動とその成果の見直しをするしかない。物事は進んでいるか、懸念点はないか。

努力信仰のせいで懸念があるのにひたすらやり続けるケースはある。だがそれに意味がないのなら、もはやお百度参りや水垢離のようなオカルトに近い。あれらが「じっとしていられない」という心理からくるものだとしたら、まさしく今回の軽率な努力そのものだ。「気休め」としては効果があるが。

・願掛けは願掛けで精神衛生に関して有効ではある。プラシーボ効果とかも実際にあるし、菅原道真のお守りやら緊張しないオマジナイやらを否定はしない。

だがそれらはサイドメニューだな。メインじゃない。山盛りのパセリやポテトを「ハンバーグだ」って言い張ったら頭おかしい。それよりは空っぽの皿の方が問題意識が生まれるだけマシだ。

軽率な努力により本質的な「何やったら良いかわからない」「このままで良いのかわからない」という不安をごまかしている可能性はある。

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