・前回やったOK牧場の話。とりあえず名前でもにょる。仕方ないね。
OK牧場
・交流分析では基本的立場/基本的構えと呼ばれる、人生の態度がある。OK牧場はそれをフランクリン・アーンストが図にしたもの。
自分と他人、肯定と否定の要素で4つに分けられる。
名前がアレだが、一部のサイトa)【http://www.koryubunseki.com/ok%e7%89%a7%e5%a0%b4%e3%80%80ok-corral/】では「OK corral」になってるので、和訳ではコラルが牧場とされた、とかそんなんかもしれない。
You are OK | I am OK | |
I am OK | 【1】一緒にやっていくI am OK ,You are OK (健康な立場) |
【2】排除するI am OK , You are not OK (偏執的・被害妄想的な立場) |
You are OK | 【3】***からの逃避I am not OK , You are OK (憂鬱な立場) |
【4】行き止まりI am not OK , You are not OK (不毛な立場) |
Wikipediaより
I am OK ,You are OK
・自他肯定。交流分析が目指す人生態度とされる。
一緒にいると安心感を与えるような人。
また、成長に伴い自然と到達するわけではない。当人が意識的な決断の下、訓練によって体得するものとされる。
I am OK ,You are not OK
・自己肯定、他者否定。
私は良いけどあなたはダメ。
支配的で疑い深い。攻撃性が目立つ。
・自分の肌に合わぬものを排除しようとする傾向が、“著しく高い”とされている。
相手をダメとみなすので“押し付けがましい援助の手”を差し出すケースもあるとされる。
自己愛やメサイアコンプレックス、ヒーローシンドロームなどを連想させる。
・「投射(投影)」が特徴。都合が悪いことが起きると、自分の心を守るため(自己肯定の維持のため)に帰属先を他の人間にする。
簡単に言えば人のせいにするとか、他人に原因があるとするなど。
例えば、自分の攻撃性を「あいつが悪い」とすり替える(攻撃の理由が他人にあるのだとする)などがある。
投影自体は誰でも日常的に行う。逆を言えば、人は結構、人のせいにしたり、自分の気持ちを他人のせいにしたりはする。
それを織り込んでなお、それ以上に、この立場は他者を悪者に仕立てることが多いとされる。
I am not OK , You are OK
・自己否定、他者肯定。
簡単に言えば不安や劣等感を抱えている状態。ここでの「他者肯定」は自分より他人が正しく/良く見えるといった感じでいいだろう。
消極的であり、自己肯定の人々と共にいることに苦痛を感じ、逃避するとされる。
まぁ自己肯定+他者否定なのと一緒にいるのは誰だって苦痛だろと思うが。特にこのタイプから見たら正反対だし。
・ベースがこれの人は、この人生観を確認するとされている。
相手にわざと自分のだめなところを見せるなどして嫌われたり、怒られたり、否定されることで「I am not OK」であることを確認する。この点は別の言い方をすれば、下位承認欲求(自分を保護の対象だと見てもらいたいなど)とも取れる。
ただし当人は「なぜ私はいつも、こんな目に遭うのだろう」と感じる。
・自我状態のP(親)の側面が強い人間を求める生き方をするケースがあるとされる。
例えば「叱ってくれる人」、「導いてくれる人」が欲しい、だとか。
I am not OK , You are not OK
・自他否定。
どっちもだめ。みんなだめ。この世は生きるに値しない。
虚無感や絶望感を抱え、病みやすいとされる。
・まぁそんな気持になることもあろうが、「ベースがこれ」というのは珍しい。
その場合は、幼少期の経験やら元からそうだったやらがあるとはされる。
各タイプについて
・まぁ誰だってそんな気持ちになる時もあらぁな。
・基本的態度は、幼少期、親との間でやり取りしたストローク(交流)により培われるとされる。
これだけだと、幼少期に人生確定な話になってしまうわけだが、後述するが変更はできる。
ただ、ベースとしてはどれか基準点があるとは思ったほうがいいだろう。怒りが長引きやすい、落ち込みやすい、何もかも嫌になることがよくある、など自分にとっての“馴染みの状態”で何となく分かると思われる。
・交流分析では、人はこれを(変えれるのに)固定し、その態度が正しいと確認したがる傾向があるとされている。
わかりやすいのが自己否定+他者肯定の自分はだめであるという「確認」。これは『キック・ミー』と命名されている。このような不快な感情を残すやり取りを繰り返すことを『ゲーム』と呼ぶ。
2,3,4で態度が固定され、「この生き方/世界観は正しい」と“証明し続ける”生き方をする場合は、自他を不快にし続ける人生ということになる。まぁ極端な例だが。
・半分は環境の影響あるんじゃないのかと思うが。
そもそもこれは“交流”分析の概念だし、個人で完結するのもおかしいだろう。
逆を言えば2,3,4が正しい、あるいは“そうするしかない”ような環境もあるかもしれない。
ただ往々にして、環境が変わったのに昔の生き方の癖が出る、という形にはなりがちだ。
OKグラム
https://www.sinritest.com/okgram.html
診断できるよ。
・結果がどうあれ、「今の状態がそれ」として受け止めるべきだろう。気分によって変わりそうな質問も多いしな。
自他への肯定/否定とはそもそも何か
・ここでいう肯定否定が何を示すのか。
“OK”なんていう便利な言葉は意味が広すぎる。
・「OK」と「完璧」とは別物だ、と心得る必要はあるだろう。つまり自他をOKとすることは「何も問題はない一生そのままでいい」ということとイコールではない、と心がける必要はあるのではないだろうか。
・ここでの“OK”ってアクセプタンス(受容)じゃないかと思う。
こう考えるとスッキリしてくる。
自分を受け入れられる、受け入れられない。
他人を受け入れられる、受け入れられない。
言い方を変えればこれは「許す」ということになる。
これだとOKどうかは「許容範囲かどうか」になる。結構現実的な話になってくる。
自尊心のために自分も他人もご立派な理想なんて叶える必要もなく、「まぁアリじゃね」程度の認識が持てればいいわけだ。
・まぁどのみち、受け入れちゃいけないようなアレなのとかそんな場面とかもあるため、1が絶対に正しく、2~4が絶対に間違いということはないだろう。
一時的に、必要な態度として2~4へ移動する必要はある。そのあと1へ戻る/移動する必要がある。
1以外は単純にストレスが溜まりやすい。2は敵を探す。3は驚異を探す。4は絶望の状態だからだ。
必要なものは何か
・4つの領域を、人は行ったり来たりするものだとされている。どれか一つに留まり、人生単位でずっとそのまま、ということはない。一日のうちでも結構移動すると言われているため、“気分”の話に近い。
反対に何もなければ1だとしても、何かあれば速攻で2~4になりやすい、ってこともあり得るだろう。
・自我状態のA(自分の合理的な大人の面)を駆使して自分が望む交流様式を選ぶことができる、とされている。
ちょっと別の話になってしまうが、これはPACモデルなどと呼ばれる交流分析の概念。P(親)、A(大人)、C(子供)の3つに大きく分かれる。一人の人間がすべて持っている。
大人と親が別扱いなことに注目するべきだろう。大人の部分は前述の通り合理的だが、親の部分はそうでもない。
自分がどの面で相手と接するかで、相手の特定の面を引き出しやすくなる。
例えば威圧的な命令口調=CP(批判的な親)で接すれば、相手はAC(従順な子供)として萎縮するか、FC(自由な子供)として反発するかは容易に想像できる。
先程も述べたが、個人で終わる話ではない。環境的にどの面が引き出され続ることが多いかは、人生の態度に影響を与えると考えたほうが自然だろう。
・養育的な親であるNPは(あなたは一人じゃだめだから)気にかけてあげる、CPは(あなたは一人じゃだめだから)言うことを聞け、という態度だ。
どちらもyou are not OK つまり、Pの態度を取る時点で相手を下に見てる。まぁC扱いだから当然だ。それが不当ならディスカウントしていることになる。
裏を返せばyou are OK とは、相手を一人前だと認めることに等しいのではないか。
と言っても称賛や尊敬などとは限らず。まともな老人が若いのを見て「まぁどうかとは思うんだけど、アレももう一人前だから」とするような、割と諦めが勝っているような受容だとかも。
これを「見捨てられた」と解釈してしまう人もいるが、この場合は自己否定+他者肯定の状態だろう。
・まぁ何にせよ、いついかなる時でも常にどっちもOK状態でいろ、ってのは恐らく無理だし、それを目指すこと自体が不健全だとは思う。
距離感
・割と本気で「君の生き方は否定しないが、こっちくんな」というのはアリではなかろうか。
自己肯定+他者肯定を維持するためには、適切な距離感というものは必要なのではないのか。
例えばカレーうどんを汁を飛ばしながら豪快に食ってても構わないが、隣でそれをやられたら私は席を移動する。
これはつまり、距離が近いことにより実害が予測され、
自己肯定+他者否定の状態になっており、
距離を取ることで実害が消え、
自己肯定+他者肯定(というか勝手にやってろ私は知らん的なもの)を取り戻したと言える。
ただしこれ、わざわざとなりに来てやったらもう殴るし、他に席がなかったらその食い方をやめろと言うしかないわけだが。
距離感は大事なんだが、距離を取れる余地があることが前提だな。それがなければ居場所を守るための戦争だ。カレーうどんのせいで。
メモ
・ちょっと面白いのが、自己肯定のライン。
外界に対して積極性を持つのが自己肯定を持つ2つ、消極性を持つのが自己否定の2つであること。
これも自信/自尊心がある者が積極性を持つことを示している。
過度な失敗恐怖により消極的になるのも頷けるだろう。
自分の失敗する余地に目が向いている、つまり自分を疑っているわけで、自己否定のラインにこの時点で立つ。
成否判定が他者(または客観的な評価)だった場合には、ある種の他者肯定の状態になる。他人の評価/視点が正しいとしているのだから。
つまり、ほぼ3になる。憂鬱な立場。まぁ割と重要なテスト当日とかこんな心境だろう。
・裏を返せば、結果に拘らない/どのような結果でも受け止めるつもりである方が実力を発揮できることになる。「実力を出すことに専念する」というのがそうだ。
だが、結果を出すために人は何かに挑戦するわけで。ここらへんほんと融通が効かねぇな人間の仕様は。